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※日経新聞連載
[迫真]震度7 連鎖の衝撃
(1)気象庁の敗北宣言
4月16日午前1時半。中央省庁の危機管理担当者らが入居する東京都心の宿舎で休んでいた気象庁地震津波監視課長の青木元(51)は、緊急参集を告げる携帯電話のけたたましいアラーム音で跳び起きた。
「過去の経験則に当てはまらない地震」に、青木課長は「分からない」と繰り返した(4月16日未明、気象庁)
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14日夜、熊本県で最大震度7を観測したマグニチュード(M)6.5の地震に不眠不休で対応し、ようやく帰宅したばかりだった。
緊急参集の理由は、同じ熊本県で発生したM7.3の大地震だった。エネルギーは14日夜の地震の約16倍。「まさか……」。大急ぎで着替え、気象庁に急行した。
24時間体制で地震や火山を監視する2階の現業室には続々と職員が駆けつけ、分析や資料作成に取りかかった。その間にも、地震発生を告げる「地震処理、起動」という自動音声が頻繁に響く。
14日のM6.5の地震について気象庁は当初、最大規模の本震後に余震が続き、収束していく一般的な「本震―余震型」と考えていた。同庁が余震確率算出に使うマニュアルには「(最初の地震が)M6.4以上なら本震とみる」とある。過去の内陸直下型地震のデータでは、その規模の発生後にそれ以上の地震が起きたことはないからだ。
16日午前3時40分に気象庁1階で始まった記者会見。「本地震が本震、14日からの地震群は前震と考えられる」。紺色の防災服姿の青木が説明を始めた。地震活動は熊本地方だけでなく阿蘇地方、大分県にも広がっていた。これだけの広範囲で同時に地震が活発化するのも前例がない。
「本震を予測できなかったのか」「今後の見通しは」などの矢継ぎ早の質問に、ふだんは笑みを絶やさない青木も険しい表情で「予想はできない」「分からない」などと繰り返すしかなかった。
同じ頃、2度目の震度7に見舞われた熊本県益城町などでは多数の住民が倒壊家屋の下敷きになっていた。14日の揺れで半壊した同町内の自宅に戻っていた男性(84)も妻とともに下敷きに。妻は救出されたが、男性は帰らぬ人となった。
16日夕に避難先から同町に戻った理髪店経営の松岡和幸(57)は、無残に倒壊した自宅兼店舗に絶句した。自宅には父、作松(81)が1人で残っていた。「じいちゃん!」と叫ぶと、自力ではい出した父は放心した様子で近くに座っていた。
「最初より規模の大きい地震が来るなんて、誰も思っていなかった」と松岡は振り返る。地震による直接的な死者は14日の前震の9人に対し、本震では40人に上った。
「過去の経験則に当てはまらない地震」(青木)がはっきりした今、気象庁の口は重い。本震発生前、同庁は「震度6弱以上の余震が起こる可能性は今後3日で20%」と予測したが、その後、熊本地震を巡る余震発生確率は一切公表していない。
気象庁は東日本大震災で、津波の高さの予想が甘かったなどとして批判された。同庁地震予知情報課長の橋本徹夫(56)は「東日本大震災以来、『想定外』がないよう構えてきた。ただ、今の地震学は物理の法則で全て説明がつかず、過去のデータに頼らざるをえない。そこはジレンマでもある」と悔しげに話す。
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気象庁は過去100年以上の膨大な地震データを蓄積しているが、千年、万年単位で動く断層や地震活動に比べれば「たった100年。あまりに少ない」(地震情報企画官の中村浩二、50)。
政府の地震調査委員会委員長で東大地震研究所教授の平田直(61)も「現在の地震学では前震から本震を予測することはできない」と話す。阪神大震災後、地震のリスクを社会に知らせなかったとの批判を受けて発足した同委員会。大地震が起きる度に、その存在意義を問う声さえ上がる。
被災地では今なお1万2千人超が避難生活を続ける。5月6日、青木は取材に「本当は被災者が安心できるような情報を出せればいいが、慎重に考えざるを得ない。今の状態で『安心して帰れます』とは言えない」と無念さをにじませた。震度1以上の地震は1300回を超え、「活発な状態」という気象庁の説明に変わりはない。
(敬称略)
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東日本大震災を教訓に強化されたはずの日本の地震防災が、再び「想定外」の事態に直面した。防災を担う関係者の衝撃は大きい。その実相から今後の課題を探る。
[日経新聞5月10日朝刊P.2]
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(2)ここにも活断層が
「ひどいな……」。4月16日朝、研究の拠点である仙台から福岡へ飛び、レンタカーを走らせて現地に向かった東北大学教授の遠田晋次(49)は思わずうなった。視界に壊れた家々が続く。活断層の専門家として数多くの直下型地震の被災地に足を運んできたが、震度7を連発し、震源域が100キロメートル以上に及んだ今回の地震の被害は想像を超えていた。
17日、遠田は熊本県御船町に入った。自ら確かめたいことがあったからだ。「ここにも現れていたか」。目にしたのは畑を横切る不自然な亀裂。地震の規模が大きく、断層が地表に顔を出していた。日奈久(ひなぐ)断層帯と呼ぶ活断層がずれた痕跡だった。
「ずれが大きい。まだ危ないぞ」。背筋が冷たくなった。マグニチュード(M)7.3を記録した16日未明の「本震」は、布田川(ふたがわ)断層帯で起きた。だが御船町の痕跡は、南にあるもう一つの日奈久断層帯も連動した事実を物語っていた。余震域は南にも広がり、また大きな地震が来ることが気がかりだった。
活断層がずれ動くのは1000年から数万年に一度。いつ地震を発生させるかは誰にもわからない。それでも遠田は言う。「大地震を起こした断層が周辺にどう影響するのか。今後、何を警戒すべきか。きちんと知るために現場に入る」
4月19日、名古屋大学教授の鈴木康弘(55)は南阿蘇村で、阿蘇山噴火の堆積物に隠れていた活断層のずれが地上にむき出しになった様子を確認した。本震を起こした布田川断層帯が、従来の想定より北東に長く延びていた。東海大学の学生寮など、南阿蘇村は大きな被害に見舞われた。「活断層がないと安心していた住民がいたとしたら、反省しなければならない。もっと丁寧な説明が必要だった」
「耐震補強や家具の固定に取り組んできた人はどれほどいただろうか」。熊本大学教授の松田博貴(56)は後悔の念が消えない。防災の専門家として、減災をテーマに住民説明会を開いてきたが「伝わっていなかったのかもしれない」。震度7の揺れに襲われた益城町で目撃した被害に、衝撃を受けた。今も心に穴が空いたような感じだ。
「想定外」だった東日本大震災から5年。熊本・大分の地震は、地震学者に再び多くの問いを突きつけた。
(敬称略)
[日経新聞5月11日朝刊P.2]
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(3)防災拠点になるはずが
「防災対策はもっぱら南海トラフ地震への備えだった」。余震が収まらない熊本県庁の災害対策本部で4月下旬、熊本県危機管理防災課長の沼川敦彦(52)は苦渋の表情で振り返った。「備え」とは南海トラフ地震の際に物資を空路で運び、他県を救援すること。「防災拠点になるはずの熊本が2度も震度7の地震に遭うとは」と、被災地を空撮した映像モニターを前に沼川は言葉少なだった。
熊本は九州の中心に位置する。自衛隊の部隊があり、空港は内陸部といった条件から、2015年には国から南海トラフ地震発生時の現地対策本部候補に選ばれた。「九州の安全を守るモン!」。県のキャラクター、くまモンが地元自慢をする県のサイトには被災自治体を支援する熊本の姿が紹介されている。
南海トラフの発生確率は今後30年以内で最大70%。これに対し、熊本で最も確率が高い日奈久断層帯による直下型地震は同16%。沼川は「南海トラフは今後30年の間に起こると予測されていた。活断層による地震の可能性は認識していたが、情報が県民には十分周知されていなかった」と率直に認める。
実際、地元の人にとって記憶に残る大きな地震はない。熊本県益城町の自宅が全壊した兼業農家、河本貢(66)は「断層があるとは聞いていたが、地震が少ない地域だったはずなのに」と肩を落とす。庁舎の一部が損壊した宇土市は最初の地震があった4月14日、庁舎建て替えに関する市民アンケートを発送していた。企画部長の山本桂樹(59)は「直ちに震度7がくるとは思わなかった。特に、東日本大震災後は津波対策にシフトしていた」と悔やむ。
「熊本市の避難者が最大11万人に上ったのは、大地震の連鎖と同時に誤算だった」。熊本市長の大西一史(48)は5月上旬にかけ、記者会見で繰り返し説明した。想定外の出来事は何かと問われたが、市の防災計画では震度7の大地震が襲った場合の最大避難者は5万7千人。実際には最大11万人が避難し、指定避難所に入りきれない人が続出した。大西自身、自宅が損壊、賃貸物件を探す身で、5月初めには体調を崩し激しい咳(せき)に苦しめられた。
被災後、ガスが止まった知事公邸で冷水を浴びて汗を流した蒲島郁夫(69)は痛感する。「想定外を想定し、先手先手で復旧・復興にあたらなければならない」
(敬称略)
[日経新聞5月12日朝刊P.2]
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(4) 覆された経験則
阿蘇山の火口約7キロメートルの山麓に京都大学火山研究センターが建つ。噴火観測の最前線となる拠点を京都大学教授の大倉敬宏(52)が恨めしげに眺める。
4月16日未明、センターを熊本地震が襲った。当直勤務していた大倉はベッドから吹き飛び、地滑りでセンターは観測業務の停止に追い込まれた。
大倉は阿蘇山を監視する気象庁に助言する立場だが、救急隊員に諭されて撤退。「ほぼ100年、大噴火でも観測を続けたのに」と唇をかんだ。今は火口から20キロメートル離れた仮事務所で復旧を急ぐ。
阿蘇山は大丈夫か――。16日、防災科学技術研究所が公開する観測データにアクセスが集中。普段の10倍近い2万人に迫った。火山防災研究部門長、棚田俊収(57)は「これほど注目されるとは思わなかった」と驚く。
気象庁は「変化はない」というが、専門家も火山活動への影響が全くないとは言い切れない。「活断層が阿蘇山まで延びているのではないか」。17日、政府の地震調査委員会で報告を受けた九州大学教授の清水洋(59)は青ざめた。「1〜2年、阿蘇は注意がいる」と警戒する。
火山活動以外にも、熊本地震は東日本大震災後に人々が抱いた不安を呼び覚ました。
最初の震度7から一夜明けた15日朝、原子力規制庁の幹部に官邸から1本の電話が入った。幹部は原子力規制委員らへの連絡に走った。同日午前、官邸での会見で官房長官の菅義偉(67)は「九州の原発について情報が不十分。規制委には迅速に発信してもらう」と語った。
当初、規制庁は「原子力発電所がある市町村の震度が5弱以上で状況を公表」との基準にこだわった。全国で唯一稼働中の九州電力川内原発がある鹿児島県薩摩川内市の最大震度は4。「情報発信は不要」だった。
だが原発への注目の高さと菅の言葉に促され、方針転換を余儀なくされる。規制庁は18日午前、臨時に会合を開き、「地震がゼロでも九州、中国、四国地方の4原発は1日2回状況を伝える」と発表。規制委員長の田中俊一(71)は「率直に反省しなければならない」と陳謝した。
震度7の激震が数々の「経験則」を覆した今、いかに災害に備えるのか。一人一人の心構えが問われている。
(敬称略)
松沢巌、新井重徳、生川暁、伴正春、安倍大資、岩井淳哉、奥山美希が担当しました。
[日経新聞5月13日朝刊P.2]
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