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4月14日の熊本県地震の被害の大きさに衝撃をうけています。なくなられた方を御悼みするとともに、被災地の皆さんのご無事を願っています。
〔地図〕(略)
歴史家としての情報提供の仕事ですが、この地震を考える上で、9世紀の東日本太平洋岸地震(奥州地震・大津波、869年)の前後の状況を知っておく必要があると思います。しばしばいわれるように、9世紀の列島の地震・噴火の様子は、現在に似ている部分があるからです。
869年の奥州大地震が2011年3月11日の東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源断層と津波の規模をもっていたことはよく知られています。869年の熊本県地震と昨日、2016年4月14日の熊本県地震は、もちろん同じような地殻の運動ということはできませんが、東北沖の太平洋プレートの沈み込みが起こした大地震・大津波ののちに起きた地震として共通性があるということはいえるでしょう。現在のところ、ジャーナリズムでは明瞭に報道されていないようですが、どのような地殻の動きの結果であるかということは明示できないとしても、列島の大地は3月11日の東日本太平洋岸地震に直接に続く地殻運動の中にあると考えるべきであると思います。
昨日の熊本地震は熊本を東北から西南に横切る布田川(ふたがわ)断層帯・日奈久(ひなぐ)断層帯において発生したものですが(地図は地震本部HPより)、869年の熊本県地震は地震学ではまだ震源断層もマグニチュードも確認されておらず、地震本部の熊本県の地震の一覧のなかでも、まだ明示されていません。ただ、下記の拙著で述べましたように文献史料からは、発生したことがほぼ明らかです。
そうだとすれば、この869年地震は徳川時代から何度も何度も発生してきた熊本の大地震のもっとも古い例として注目されるべきものと思います。研究を急ぎ、それに対応して地域の小学校では基礎知識として教材化するべきものであると思います。それによって、列島の国土についての常識を蓄積していくことはいざというときに力を発揮するものと思います。現状では、歴史教育において、これらの点への配慮がきわめて不十分です。
なお、問題は、この断層帯が中央構造線につらなるものであることです。原発の置かれた伊方が中央構造線上にのびる佐田岬にあることの危険性はよく知られていますが、鹿児島の川内原発も、ほぼこの布田川(ふたがわ)断層帯・日奈久(ひなぐ)断層帯の延長線上にあることは無視できません。
中央構造線については小学校から教えるべき事柄ですが、そのとき、同時に原発についても子どもたちに考えてもらうことも大事です。彼らの未来に関わる問題なのですから。
以下、 熊本地震を受け、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の熊本県関係の記述を部分的に下記に引用しました。地震の事態を考える上で、少しでもお役に立てれば幸いです(拙著の869年=貞観11年の東日本太平洋岸地震につづく部分の引用です)。
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(869年=貞観11年)の時期の国家は、旱魃・飢饉・疫病が拡大し、さらに地震が頻発するという不安定な情勢に対して深い恐れをいだいた。この年の年末一二月、清和が各地の神社に提出した「願文」は、それをよく示している。(中略)この清和の願文は、宣命体といって、神主があげる祝詞の文体で書かれている。そのため読みにくいこともあって、これまで見逃されてきたのであるが、この史料は地震史料としても重要なものである。
該当部分を引用すると、「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり」とある。現代語訳をしておけば、「肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。故老たちもこのような災害は聞いたことがないという。そして、陸奧国からも異常な地震災害について報告があり、さらにその他の国々からも地震災害の報告があった」ということになる。
これによって、この八六九年(貞観一一)、陸奥沖海溝地震のほかに、肥後国でも、また「自余の国々」(その他の国々)でも地震災害があったということがわかる。まず後者の「自余の国々」の地震が何カ国ほどで、どの程度の地震であったのかが問題であるが、これについては九世紀陸奥沖海溝地震の震源はむしろ遠く北にあったのではないかという前記の石橋克彦の想定、および地震学の平川一臣が同地震による津波の残した砂層が北海道十勝・根室の低湿地まで確認できるとしていることを考慮しなければならない。しかし、陸奥沖海溝地震が陸奥国のみでなく、関東地方でも被害をだした可能性は高いだろう。また三.一一東日本太平洋岸地震は関東から四国・九州まで多数の誘発地震を引き起こしているから、その規模は別として九世紀においても全国的な影響があったことは疑いないだろう。
そのうちで現在、文献史料をあげることができるのは、陸奥沖海溝地震の約一月半後、七月七日に発生し、京都でも感じられ、大和国南部で断層を露出させた誘発地震である。(中略)
より大きな誘発地震は、陸奥沖海溝地震の約二月後の七月一四日、肥後国で発生した地震と津波であった。その史料を下記にかかげる。
この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)
簡単に現代語訳しておくと、「この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡(玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北)が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」(数百里の「里」は条里制の里。六町四方の格子状の区画を意味する)ということになろうか。問題は、これまで、この史料には「大風雨」とのみあるため、宇佐美龍夫の『被害地震総覧』が地震であることを疑問とし、同書に依拠した『理科年表』でも被害地震としては数えていないことである。
しかし、この年の年末にだされた伊勢神宮などへの願文に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり」とあったことはすでに紹介した通りで、相当の規模の肥後地震があったことは確実である。津波も襲ったに違いない。これまでこの史料が地震学者の目から逃れていたため、マグニチュードはまだ推定されていないが、聖武天皇の時代の七四四年(天平一六)の肥後国地震と同規模とすると、七.〇ほどの大地震となる。ただ、この地震は巨大な台風と重なったもので、台風は海面にかかる気圧を変化させ、高潮をおこすから被害は大きくなる。それ故にこのマグニチュードはあくまでも試論の域をでないが、それにしても、一〇〇年の間をおいて二回も相当規模の地震にやられるというのは、この時代の肥後国はふんだりけったりであった。
清和は一〇月二三日に勅を発して、全力で徳政を施すことを命じ、国庫の稲穀四千石の緊急給付に支出し、「壊垣・毀屋の下、あるところの残屍、乱骸」などの埋葬を指示している。被害は相当のものであったに違いない。なおこの勅にも「昔、周郊の偃苗、已を罪せしに感じて患を弭め」とあることに注意しておきたい。周の地に偃した苗脈(地脈)の霊が、文王が自分の罪を認めたことに感じて災いをやめたということであって、その典拠は、聖武以来、つねに参照される『呂氏春秋』の一節である。それだけに、清和朝廷は、この勅の起草にあたって、聖武の時代の肥後地震の記録をふり返ったに違いない。そして、聖武の時代の肥後地震の翌年、七四五年(天平一七)に、紫香楽京にいた聖武を美濃地震が直撃したことにも気づいたのではないだろうか。そして、彼らは同じような事態の成り行きをなかば予知し、恐れたのではないかと思う。
そもそも、肥後国は阿蘇の聳える地域であり、富士山の大爆発の後に、小規模であれ、阿蘇も噴火している。そこを舞台として地震・津波が発生したというのは、火山の中で、阿蘇の動きをきわめて重視していた当時の人々にとって、真剣な顧慮の対象であったはずである。神話的な直観のようなものであったとしても、八・九世紀の人々が、経験を通じて、地震の全国的な連動を直観していたということはいえるのではないだろうか。なお、三・一一の東日本太平洋岸地震においても、そののち熊本県での地震が活発化している。もちろん、陸奥沖の地震と、熊本(肥後)の地震が直接に連動するわけではない。しかし、列島の地殻の全体が不安定性をます中で、肥後地震が誘発されたことは明らかである。
(以上引用終わり)
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一部では、3,11を忘れているかのような言動がありますが、地殻の運動は目に見えない場所で、厳しく続いていることを忘れることはできません。残念なことに、国家の内部にもそれを忘れたかのような動きがあります。3,11の被災地の窮状を放置したまま党利党略に走る様子には怒りがこみあげます。そのような国家や政府は無用の長物ですが、私は、それとは区別された民族、その大地と、そこに居住する人びとに対する祖国愛は歴史家にとって必須のものであると考えています。
11日から京都出張でしたが、11日には9世紀地震の痕跡の可能性のある遺跡を見学しました。そのしばらく後に地震が発生するというのは、研究を急ぐことが職能的な責務であるという気持ちを駆り立てます。
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