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<戦没者230万人>6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く
毎日新聞 8月15日(金)10時33分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140815-00000000-maiall-soci
日本は15日、69回目の終戦記念日を迎えた。日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は、政府見解によると約230万人。その内訳は不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。兵站(へいたん)を軽視した無謀な作戦がこうした惨劇を招いたとして、昭和史の著作が多い作家の半藤一利氏(84)は「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と指弾している。
【半藤さんが語る】戦没者230万人の意味とは?
総務省、厚生労働省などによると、1937〜45年の戦没者230万人を戦死、病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していない。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、敗戦で記録を残すのが難しかったことなどが影響している。
歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。
個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、ガダルカナル島の戦い」(1942年8月〜43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。
そうした日本軍兵士の生死を左右したのは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる「戦陣訓」だった。太平洋戦争開戦前の1941年1月に東条英機陸相(当時、後に首相)が全軍に示達し、降伏は不名誉なこととされた。
勝利か、しからずんば死か−−。「皇軍」の兵士たちは文字通り、そうした状況に追い込まれた。戦死を免れても、補給を断たれてしまっては餓死するしかない。大本営参謀らのエリート軍人について、半藤氏は「緒戦の勝利におごり、自己の実力を省みず、攻勢の限界線をはるかに越えた」と戦略上の失敗を指摘したうえで、「人間をまるで、将棋の駒のように扱った」と批判している。【高橋昌紀/デジタル報道センター】
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<参照>
<人肉を求めて殺人を犯す狂気を描いた>大岡昇平「野火」の現実(有田芳生の『酔醒漫録』)
http://www.asyura2.com/07/war87/msg/791.html
『餓死した英霊たち』藤原彰著 「戦死者」の六割以上が餓死だった (かけはし2001.9.10)
http://www.asyura2.com/07/war87/msg/795.html
戦死よりも戦病死の方が多い。日本兵戦死者の60%が餓死。今も同じか?
http://www.asyura2.com/07/war87/msg/1221.html
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