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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140120-00010000-will-pol
WiLL 1月20日(月)9時13分配信
私は、靖国神社に一度祀られた人間です。最初の戦死公報は昭和二十年九月、二十五年に一度取り消されますが、二十九年に再び戦死とされ、四十九年に作戦命令解除の口達を受けて帰還するまでの二十五年間は、戸籍上死んでいたわけです。
十五年間、靖国神社に入っていたことになる。
最近は、年に三カ月はブラジル、九ヶ月は日本という生活ですが、日本に戻ったときは、八月十五日、必ず靖国神社にお参りをしています。
靖国神社の参拝について、今大きな問題になっていることについては、まったくばからしい、と思っている。
そもそも、おかしくなったのは、昭和六十一年、中曽根首相の参拝取り止め以後です。
小泉首相のやり方も拙劣でした。八月十五日に参拝すると言っておきながら、十三日にしてしまった。
首相になる前に、八月十五日に参拝する、と言い、それで首相に選ばれたのだから、これは国民との公約です、「自分の信条だ」と明言して、その通り参拝すればいい。中国などに対しても、「自分は参拝することを国民に約束して首相になったのだから、国民相手にウソは言えない。だから八月十五日に参拝する」と言えばよかったのです。
「私の参拝は日本国民の総意だ」と明言しておけば、中国は、日本国民全体を相手に文句を言わなくてはならないことになる。相手が首相個人、日本政府だと思うから、中国は文句を言い易い。日本国民全体を相手にして文句なんか言えるはずがありませんよ。
まあ、行かないよりはましではあるけれど、小泉首相は、やりかたがヘタすぎると思います。結局、腰がすわっていない。
中国に、弱味を見せるとろくなことはありません。中国人のやることは戦前から変わっていませんよ。「反日デモ」など、支那事変(日中戦争)前の、排日運動とまったく同じです。
抗日運動、日貨排斥運動(日本製品のボイコット運動)……結局あのときは戦争になったけれど、そもそもは幣原喜重郎外相の「軟弱外交」がいけなかったんです。(米英協調、中国内政不干渉、国際連盟中心主義などを柱とする国際協調外交)。中国に長く住んだ先輩からよく聞かされました。
中国に対する甘い対応が、抗日運動、排日運動に火をつける結果になったのです。今とまったく同じではないですか。日本は、昔も今も交渉ごとがヘタすぎる。
■処刑された人は「受難者」だ
A級戦犯を分祀すればいいとかいう話まであるが、そもそも「A級戦犯」なんて、戦勝国が勝手に決めただけでしょう。東京裁判なんか、まともな法律から言ったら、茶番劇です。
ラグビーの試合が終わってから、勝った方が負けた方に、「お前はボールを持って走ったからいけない」と文句を言うようなものです。自分たちだってボールを持って走ったのに、負けた相手に「サッカーのルールでは違反だ」と言い出すようなものですよ。
「平和に対する罪」なんて戦前にはなかった。それなのに、占領中に一方的に裁かれて処刑されてしまった。受難者ですよ。(処刑されたA級戦犯は七人、BC級戦犯では約千人)
戦争をしたのは「犯罪」ではない。「戦犯」といわれるが、犯罪者ではないんです。A級もBC級も関係ありません。
私は三十年間の作戦中に自分に不利な山小屋を焼き払い、戦闘では多くの敵を殺傷しました。戦争だからです。投降の時、銃殺刑を覚悟していましたが、フィリピンのマルコス大統領(当時)は、「軍人の模範だ、過去の行為をすべて許す」としてくれました。戦場で闘った者はみな犯罪者になるのでしょうか。
百歩譲って、戦争指導者たちが「戦犯」であったとしても、刑期を終えればすでに「犯罪者」ではありません。
日常起きるどんな犯罪であれ、刑期を終えた後まで犯罪者呼ばわりされることがないのは、当たり前のことです。
国のために死んだら靖国神社にお祀りするというのは、戦争で死んだものたちとの約束です。それを国が護持しない、別の施設を作る、などというのは、借金を返さないよりもっとたちが悪い。
死んだ人にウソはつけない、というのは、日本人の良心です。死んでしまったからもういいんだ、約束は流してしまっていいんだ、などというのはとんでもないことです。
中国人にはわからないかもしれないが、けっして死んだ人との約束をたがえてはならない、死者に鞭打つようなことはしてはいけない、というのは日本人の古来の感情ですよ。
■戦友への礼が軍国主義か
日本に帰還したときに、当時の田中内閣から百万円の「見舞金」をもらいました。全国からたくさんの見舞金もいただいた。私はこれを、靖国神社に奉納した。
国のために戦って死んだ戦友たちにせめて礼をつくそうと思ったからです。
しかし、このことは大きな批判を浴びました。記事にも書かれたし、投書も来た。「軍国主義に荷担する行為」と言い、「戦死者を慰める一番いい方法は二度と戦争をおこさないことで、寄付をするならそういうことのために使うべきだ」と言うんです。「自分で稼いだ金を寄付しろ」とも。
「寄付など貴様の気休めだ」という意見もあった。「気休め」の批判は甘んじて受けますが、これは個人の自由の問題でしょう。
しかし、私はルバング島の作戦で、多くの戦友が目の前で死んだのを見てきました。私の作った爆薬で二十数人の傷病兵が自決しました。昭和二十九年五月には一緒にいた島田庄一伍長が戦死、昭和四十七年十月、終戦から二十八年目に小塚金七一等兵もまた、私の目の前で撃ち殺されました。ふたりの戦友を、戦後になってから「戦死」させたのです。
ほかにも多くの戦友が死んだのです。
私は生き残った。
気休めにしかならないと言われても、せめて靖国に眠る戦友たちに詫びなければ、これから先、生きていけないと思いました。
私は、勝手に三十年間戦った訳ではありません。任務解除の命令が届かなかったからですが、政府から補償はもらえません。とにかく働いて生きていく糧を得なくてはならない。そのためには、どうしても、心のけじめのようなものが必要でした。「気休め」「自分勝手」と言われても、そうせずにはいられなかったのです。
それが、「軍国主義に荷担する行為」だそうです。国のために戦死したものたちは、死んだら神様なんです。
■「心ならずも」ではない
小泉総理が、若者たちは「心ならずも」戦争に行かされて、戦死したような言い方をしましたが、とんでもないことです。
既婚者は、家族を遺して死ぬことに心残りもあったかもしれないけれど、独身の若い者たちは、自分が先頭に立って戦わねば、とみな思っていた。年寄りを前に立たせたってしかたないのですから。これはどこの国だって同じでしょう。命がなくなることは覚悟していた。
私は陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けました。ここは南方戦線と本土における遊撃(ゲリラ)要員を養成する学校です。二年間かかる諜報、謀略技術を、語学を省き、必須事項のみを朝から晩まで、三カ月で詰め込まれました。
日々、国体、国家、社会などについても、徹底的に教官と意見をぶつけあうのです。なぜ命をかけてこの仕事をしなくてはならないか、を討論したものです。
漫然と「天皇陛下のために」だけでは死ねない。天皇とは国のことで天皇のためにではなく、日本のために死ぬのだ、ということを本当に理解するための議論の中では、天皇を批判することもありました。そうしなければ、成功しても発表さえされず、失敗すれば命がない、カネにもならなければ名誉にもならないことは、とてもできないからです。
自分たちをおいて、誰がこの任務を果たせるか、という気持ちで、私は同期の四十三名とともにフィリピン戦線に送られた。そして、昭和十九年、「ルバング島でゲリラ戦を指導せよ」という命令を受け、見習士官として赴任した私は、それから三十年間、終戦を信じず「残置諜者」として戦い続けることになった。
私たちだけはない。みな、若い人は覚悟を決めていました。「心ならずも」なんていう気持ちで、特攻機に乗れますか?
だから、彼らは死んで私達に恩恵を与えてくれる神様なんです。独身者は、親兄弟が死んだら、もうお祀りしてくれる人はいません。でも靖国神社がある。国のために戦死した人を国で祀ることは当たり前で、これは、日本だけのことではない。どこの国だって当たり前の感覚です。
日本人はそれさえわからなくなってしまったのか、と思います。
■カネ、カネの世の中
私は政府からもっとたくさんの補償をもらったのだろうとか、当時、そんなことも言われた。日本はカネ、カネの世の中になってしまっていた。
私が、帰国して一年ほどで、日本を離れブラジルに渡ったのは、靖国神社の一件が、一番大きなきっかけです。
寄付騒ぎのあと、外国人記者クラブに呼ばれたことがあります。どうせまたカネのことを聞かれるのだろうと思ったから、私は挨拶するときにこう言った。
「今日はお招きいただいてありがとうございます。私はルバング島から裸同然で帰ってきました。けれど今日は裸のまま来るわけにはいかないから、借金をして買った服を着てきました」と。
「でも印税があるでしょう。立派な資本家ではありませんか」とすぐに聞かれた。
日本に戻ってから、戦闘経過の報告書のつもりで書いた『わがルバン島の30年戦争』(七四年講談社、九九年日本図書センターより刊行)が六十万部売れたおかげで私は六千万円の印税をもらったのですが、三千万円は税金だった。
私の手元に残った三千万円のことを聞かれたわけです。
私はすぐさま、「女中さんをして働いても、三十年かかれば三千万円ぐらい貯まるでしょう」と切り返しました。そもそも、税金として納めた三千万円だって、私はこれ一冊書くのに三十年かかっているのだから、そのぶんの必要経費を認めてもらいたいぐらいのものです、とすぐ答えた。
外国人の記者たちは大笑いして、それ以上は聞きませんでした。外国人記者は、こちらに余裕がある、と見ると深追いをしてこないんですね。
私はもともと気が強いのか、親とも、学校ともケンカや議論ばかりしていたから、こういうことには慣れているんです。
ニューヨークに行ったときには、予想通り、原爆のことを聞かれました。私は「科学の進歩は本当にありがたい。ブラジルに渡ってからもブルドーザーやトラクターのおかげで本当に助かっている。その科学を人殺しに使っては困りますね」と皮肉を言いましたよ。
外国人記者クラブでのやりとりを、当時の『週刊朝日』は、「言葉の弾を巧みにかわした情報将校」と書いていた(笑)。
■「あやまち」はアメリカだ
「小野田は軍国主義の亡霊だ」「小野田は軍人精神の権化だ」マスコミの論調はみんなそれでした。私はせっかく戻ってきた祖国がますますイヤになっていきました。
広島の平和記念館に行ったときのことです。私は慰霊碑に書かれた言葉に驚きました。「安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませぬから」とある。これはいったい誰が作ったのか、私にはわからなかった。
原爆を落としたのはアメリカでしょう。アメリカは原爆を落とし、無差別に大量の国民を殺した。「あやまち」を犯したのはアメリカではないのですか。「日本が負けたのがあやまちで、二度と負ける戦争はしない」という意味なのか、本気で「あやまち」と書いたのなら、こんなもの爆破してしまうぞ、と案内した中野学校の仲間と笑いました。
いくらでもやり方はある。爆破などは簡単なこと。完全犯罪が可能です。私は情報や破壊や謀略の教育を受けたのですから(笑)。
「あやまちは繰り返しません」という……あれが、日本の「戦後」を表していますね。
日本は自らの歴史を歪曲してしまったのです。子供たちは、東郷元帥も、乃木大将も知らない。ヘタをすると、日本がアメリカと戦争をしていたことさえ知らない子供がいる。しかしこれは、子供たちの罪ではない。教えないのだから、知らないのが当たり前です。
「従軍慰安婦」の件もそうです。「従軍慰安婦」なんて言葉、私は聞いたことがありません。
十七歳のときに商社員として滞在した中国の漢口(現在の武漢)にも、二十歳で入隊して赴いた江西省南昌にも、「特殊慰安所」はありました。漢口では雑貨を納入したりしていたから、慰安所の経営者とも、女性たちとも話をしたことがあります。内地人も、朝鮮人も、中国人もいました。確かに、たちの悪い経営者に騙されて連れて来られた人も、本人は知らないが実は親に売られてきた人もあったでしょう。特に朝鮮半島には悪質な方法で、女性をかどかわす者がいると聞いています。悲劇もあったと思います。
しかし女性たちはみんな、お金稼ぎに熱心でした。当時は知事や少将の年俸が一万円、と言われていましたが、「それよりもずっと儲けた」と言う者もいた。一日に三十何人相手にしたとか。
実際に悲劇もあったけれど、作り話を「ウリ」にする強者もいました。「私は女学校に行っていたのに、従軍看護婦の仕事だとだまされて連れてこられた」などというウソにだまされる兵士もいました。
今とは違って、娼妓がいた時代で、当時慰安婦のしたことは、ただの商売です。それをなんで「軍が関与」とか言って問題にしているのか。もちろん、軍が病気の検査や、丸腰で客になる兵隊を警備していた。それだけのことです。
■誇りを失った日本人
なんでこんな日本になってしまったのか。仲間は「負けたのが悪いんだ」という。私は「オレのせいじゃないよ、オレは三十年戦ってたんだから」と答えた。
私は三十年間戦って、勝てなかった。けれども負けはしなかった。戦闘を中止せよ、と言われて降伏したが武装解除もされず捕虜の扱いも受けなかった。
日本は、戦争に負けたとき、誇りも失ってしまったのでしょう。
戦場でも、一度ケガをすると、それですっかり怖じ気づいて、使いものにならなくなる兵隊がいる。ケガをして、かえって「こん畜生!」と思い、「弾なんか当たるときは当たるさ」と開き直る人もいるが、飛んでくる弾の音に全部当たる気になってしまう人もいる。こうなると、まったくダメなんです。
日本は戦争に負けて、そうなってしまった。私がルバング島で戦っていた間、日本人は、大人たちは、なぜもっとしっかりしなかったのか。
経済の発展と、物質文明ばかりを追いかけ、あれがないからいやだ、あれがないからできない、そんなことばかりを言っている。「あれがないからできない」というのは、自らの無能を証明する言葉です。
そんな大人はどうにもならないでしょう。せめて、真っ白な気持ちと頭を持った子供たちに、日本をまともな国にしてもらうしかない。少しでもその手伝いをするのが、私の今のつとめでもあると思っています。(平成17年『WiLL』8月号より)
小野田寛郎
- 幻想の英雄・全文公開 (山田順プライベートサイト) AAA+ 2014/1/20 14:17:16
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