大西つねき 3月11日 出典不明ですが、某所にアップされたもの今回の新型ウィルスの問題、命に関わる問題であるだけに、私も本当に色々考えた。政治家としてどうすべきか、人間としてどうあるべきか。その結果、今考えていること、これからやろうとすることについて書いておきたい。もちろん、私がこれから書くことに正しさがあるとは思っていない。今の日本を生きる、いやこの世界を生きる一人の人間として、自分がどう生きたいかを記しただけのものである。ただ、今、同じように悩んでいる多くの人の参考になるかもしれないと思ってシェアしたいと思う。皆さんもそれぞれ、自分の選択をしてくれると嬉しい。 まず、今の日本の状況について感じることを書いておきたい。私はかなり違和感を感じている。それは何かと言うと、我々が今どう考えれば良いのか、その指針となるようなものが全くないように見えることだ。それは一つには、これまでの政府の対応に一貫性や理念、合理性などが全くないように思えるからかもしれない。自分たちが今どんな状況で、何をして良いのか、いけないのかも、十分な説明と共に示されているとは言えない。 この点、例えばフランスの対応などは参考になるかもしれない。感染拡大のステージごとにやるべきこと、やってはいけないことが予め決められていて、国民には今どのステージかが知らされ、それに対応することが粛々と進められる。例えば今のステージ(3/9現在、感染拡大期)だと、感染地周辺の市町村単位などでの休校、市場の閉鎖、50人以上の集会の禁止、それ以外の地域では5000人以上の集会の禁止などが実施されているようだ。そして、すでに次の段階(蔓延期)に入ることも想定していて、その時にはひたすら重症化を抑えることに注力し、軽症者の検査もしなくなるという。 片や日本の場合、我々が今どこにいるのかも明確にされていない。唐突に全国一律に休校にしたかと思えば、次にどうなったら何をするかもわからない。今の状況で、どこの地域で何をどこまでして良いかの指針もないので、何でもかんでも自粛に走って経済は麻痺しかけている。しかも、何の根拠も示されないまま行き当たりばったりに進むので、国民の間に不安が広がり、その温度差が分断を生みだす要因となっている。このまま「新型インフルエンザ等対策特別措置法」に新型ウィルスを加える改正案が成立し、緊急事態宣言など出されようものなら、恐らく行き当たりばったりが加速する。宣言が最長2年、国会承認不要で、要請とは言え、外出の自粛など出そうものなら最悪の悪手となるだろう。恐らく経済は完全に麻痺する。いくら緊急事態とは言え、そんなことを我々は受け入れるのだろうか? 我々が考える指針を失っているように見えるもう一つの理由は、我々自身が自ら考え、自らの思想、哲学を持たなくなったせいではないかと思う。それは本来、それぞれが持っていて良いものだ。そして違っていても良い。それはそれぞれの生き方、あり方であるのだから。ところが、強い同調圧力が常に働き、人と違って叩かれることを多くの人が恐れ、自分の考えを持つこと自体が奨励されないような雰囲気がある。だから、それがあっても言いにくい、ましてやそれに従って生きるのが難しくなっているように見える。特に今回のような、人の生き死にに関わるようなことだからこそ、それぞれの生き方、死に方から考えて決めるのが本来なのに、その軸がないからぐらぐらと情報や雰囲気に左右されているのではないか。今こそその軸をもう一度しっかりと持って、それに従って行動した方が良いと思う。 私も今回、自分の生き方、死に方を改めてよく考えてみた。自分は何のために今ここにいるのか。何のために政治家をやろうとしているのか。そして出した結論は、私は改めて自由と自立のために闘うということだ。かねてより、私の最も大事な政治信条は「個人の心の自由」と公言している。その言葉通り、私ぐらい自由で勝手な人間は日本には少ない(世界標準で見ると、多分平均以下だ)。もちろん、本人は全く勝手だとは思っていない。人のことは考えているし、愛している。ただ、その人が感じることはその人の問題で、その人が処理すべきことと切り離しているだけだ。その人にとってみれば、言うなれば私は吹いている風と同程度の存在で、コントロール不能である。相手が人間だからコントロールできると思いがちだが、そうではない。自分以外は風も人間も一緒だ。まあ勿論、これはあくまでの私の考えで、理解されにくいかもしれないが、要するにそんな人間が、この同調圧力のやたら強い日本で政治家をやろうとすることの意味は何なのか、ということだ。 まず一つには、私が嫌いな人とっては朗報だ。当選する確率はとても低い(笑)。だってマイナーなのだから。しかし、それでも意味はある。もしかしたら、時代の大きな変わり目に、そのマイナーがメジャーに変わる瞬間が訪れるかもしれない。その時にそのマイナーが旗を掲げ続けていなければ、人は集まって来られない。そしてその時代の変わり目はもうすぐそこまで来ていると私は感じている。その中でのこのコロナ騒ぎ。私は我々一人一人の生き方、死に方が改めて問われているのだと思う。自由とは何か、生きることとは何か、何を大切にするか、など。それは正しい正しくないではなく、個々人の選択の問題だ。 今、我々、どんな選択をして生きているだろう?制度的には自由主義社会だ。つまり、基本的に何をしても自由ということ。ただ、考えの違う多数の人が仲良く共存するためには、最低限、やって良いことと悪いことの線を引く必要がある。それが法律であり、それ以外の線を引いてはならないとするのが法治主義だ。にも関わらず、我々は結構違う線を引いていたりする。それが、空気とか普通とか当たり前という、言わば数を背景にした常識の線。多くの人はそれを「当たり前」と思っているかも知れないが、マイナーな感覚や価値観の持ち主、常識におもねない人々は叩かれ、批判され、社会的に追い込まれて行く。これは社会的リンチに他ならない。芸能人のスキャンダルなどでよく見る光景だ。法律に違反しなければ何でもいいのに、違反したとしても法律で罰せばいいのに。 そんな中で、やはり私が政治家をやることの意味は、選ばれるために多数の意見におもねることではなく、恐らくマイナーな自分自身であり続けて、必要とされた時に存分に仕事をすることだろうと思う。だから、批判は気にしないし、政治生命も気にしない。必要とされなければ仕事にならないのが政治家だし、自分以外の誰かになってバッジをつけても仕事にならない。 今回のコロナによる自粛騒ぎでも、講演会を続ける私のところには批判も届いている。命に関わるから自粛が当たり前とか、金儲け重視とか、政治家としてあり得ないとか。心配してくれてありがとう。でも、政治家としてのあり方は自分で決める。金儲けと言われれば、敢えてその通りだと答えよう。その呪いの言葉がいかに、お金のために動いていない、でもお金が必要な多くの人を苦しめていることか。それに、私は決して命を軽視しているわけではない。これはバランスの問題だ。目の前の命ばかりに気を取られると、もっと多くの命を失う可能性がある。特に多くの人が綱渡りの自転車操業を強いられている中で、経済的な停滞が死を意味することもある。 また、経済の本質から考えても、この自粛ハラスメントは長期的にも我々の首を締める。私がいつも言っている通り、経済の本質は価値の生産と交換だ。自粛で人が動かなければ価値は作られない。極端な話、全く価値が作られなくなれば、人は生きられない。長期化すれば国力にも影響し、国家の存続にも関わる。つまり、この籠城作戦は長くは続けられない。いずれより多くの命を危険に晒すか、生き延びたとしても多くの命(人生)の質を下げる可能性がある。ハッキリ言おう。我々はどこかの時点で、このウィルスを受け入れて、救える命、救えない命の見切りをつけるしかない。フランスの例でもわかる通り、これは感染を防ぐ戦いではなく、ダメージコントロールの戦いなのだ。本来は、為政者がそのぐらいの冷徹さを持って経済(特に小さな経済)を極力止めない発信をすべきだと思うが、狼狽えて一斉休校などにしているようではそれも期待できない。後は我々が自分の頭で考えて自主的に行動するしかない。 もう一つ命に関して付け加えておくと、極論に聞こえるかもしれないが、我々の命は常に危険に晒されている。死が遠ざかり過ぎて意識しづらくなっているかもしれないが、死は常にそこにある。それを我々は9年前の今日、遠ざけたはずの死が一気に津波と共に押し寄せた日、強烈に意識したはずではなかったのか?あの時多くの人は、いつ終わるかわからない人生、今を大切に生きようと思ったはずだ。今後、我々を更に多くの困難が襲う可能性がある。もっと致死性や感染力の強いウィルスや、気候変動による災害や水不足、食糧不足など。その結果、もしかしたら我々の寿命は短期的なピークにあって、これから人類全体で死亡率が増すのかもしれない。その時に、もし我々がただ不安と恐怖にかられ、ひたすら命を延ばすことのために時間を使っていては、何のために生きているのかわからなくならないだろうか?勿論これは私の考え方であり、それぞれの考えがあって良い。それぞれの生き方、死に方の話だから。でもだからこそ、考えの違うそれぞれが、自分の思う生き方、死に方を全うできる社会が望ましい。それには当然、その自由がなければならない。 だが、今の政権与党は、自由に対して非常に抑制的だ。それは彼らの憲法改正案を見るとよくわかる。彼らは現行の憲法13条『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』を次のように変えようとしている。『全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。』。ポイントは「個人」が「人」に変わり、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変わることだ。「個人」なら、どんなに人と違っていても、その人自身が尊重されるが、「個」が取れて「人」と言うと、より一般的なニュアンスが加わる。場合によっては一般的ではない人の自由は制限される可能性がある。また、「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は全く違う概念だ。前者は他者の人権のことであり、相手はあくまでも他の個人だ。争う場合は同じ市民が相手だが、後者には顔がない。公益及び公の秩序に反するとお上が判断すれば、争う相手は公権力だ。「お上がならんと言ったらならん」、江戸時代に逆戻りだ。 そんな政権与党がいる中での今回のコロナウィルス騒ぎ、一斉休校、自粛要請、そして恐らく辻褄合わせの特措法改正。それがさらに自粛要請に法的根拠を与え、この先どうなるかは容易に想像できる。お決まりの強烈な同調圧力が日本中を覆い、多くの人たちが思考停止、または批判を恐れて縮こまり、自粛一色の灰色の世の中。私はやはり、その中で自分の選択をしようと思う。まずそうしても良いんだということを行動で示す。叩かれるだろうが、こんな状況だからこそ、誰も言い出さないことを言い、やらないことをやる「大穴」政治家が必要かもしれないと思っている。本当にそうかどうかは、皆さんが自分で考えて決めれば良いし、そうでなければ、私のようなちっぽけな存在はただ消えるだけ。全ては一人ひとりの選択なのだ。正しい正しくないではなく、多くの人の選択が時代を動かし、そこに良いも悪いもない。 私は、今起きつつある変化とは、そういうことなのかもしれないと思っている。あるべき方向性とか、正しい方向へ進むということではなく、状態が変わる。つまり、今まで一部の人が権力を握り、多くの人がそれに従っていた状態から、世界中の全ての人が自分で考え、自分で選択し、全ての人がそれを容認し合う自由と自立の状態へ。結局、今までのやり方では方向性がおかしくなったから新しい方向性を探っているのだが、もしかしたら我々はその方向性に囚われ過ぎ、それでまた他人を支配しようとして失敗していて、本当は方向を考えるのではなく、お互いの自由を尊重し合うことを考えるべきなのではないか、ということだ。そして本当にそうなった時は、全ての個々人が満たされ、調和し、平和に共存するという考え方。勿論それも個々人の考えで良いが、少なくとも私が伝えたいのは、「あなたが人をコントロールしようとしない限り、自ら何をしようが完全に自由」ということで、それを伝えに今後も全国を回り続けようと思う。
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