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帯津先生には居酒屋でスカウトされた。帯津先生がいつも患者さんを大事にされている姿を、看護師たちは見ていた/山田幸子
第二章 看護師としての道のり
〔帯津先生には居酒屋でスカウトされた〕
帯津先生は、食道がんの患者さんを執刀した日は、必ず泊まることが日課になっていました。患者さんが急変したとき、すぐに対応できるようにということで、当直日以外でも泊まっていたのです。
そのため、手術後はいつも、患者さんの容態が安定したのを確認してから、夕食をとりに出かけていた…。
ICUの看護師はみな、それを知っていましたから、帯津先生が手術をした日は、そのベットをほかの先生は使えないように空けておいたものでした。帯津先生は、看護師の間で本当に好かれていたのです。とても尊敬されていました。
なぜかと言いますと、帯津先生がいつも患者さんを大事にされている姿を、看護師たちは見ていたからです。ベットで休んでいても、患者さんの様子を定期的に診に来ていましたし、何かあって看護師が先生を呼ぶと、すぐに飛んできて対応してくれる。朝もしっかり診て、それから病棟の回診へ行かれるのです。そんなふうに一晩中、手術後の患者さんをフォローする医師はまずいません。今思えば、その頃から帯津先生は、ホリスティック医学をふつうに実践されていたのですね。…今考えると大変だったと思います。
あるとき日勤を終えて帰る途中、病棟の廊下を歩いていると、帯津先生から、「ちょっと一杯飲みに行かない?」と声をかけられて…。
第三章 帯津三敬病院で奮闘した日々
〔帯津先生の医療を実践することの難しさ〕
帯津先生のホリスティック医学に憧れて、高い志をもって入職した医師であっても、自分の診療に対して、患者さん側が断固拒否し続けたり、否定的なことを言われたりすることが、日々繰り返されると、どうしても我慢の限界を迎えます。患者さんに怒鳴ってしまったり、あるいは優しくして怒れない医師は自分の中にストレスをたま込んでしまって、心身ともに疲弊していきます。
そして帯津先生の医療をやりぬけない自分が許せなくなり、3年ほどで挫折し、退職する先生方も多々ありました。真面目で志の高い先生ほど、理想と現実のギャップに耐えられなくなるのでしょう。
帯津先生は、辞めて行く先生方を無理に引き留めることはしません。…先生は何も言いません。
それでも不思議なことに、2〜3年で辞めた医師がそのあと、よその病院でしばらく勤務し、また戻ってくる場合があります。看護師の中にも、いったん辞めて戻ってきた人がいます。外の世界を見て、あらためて思うところがあり、戻ってくるのだと思います。
帯津先生は、そういう職員をいつも笑顔で迎え入れます。職員にたいしても患者さんに対しても、決して自分の意見を押しつけることなく、その人の考えを尊重する方なのです。…
あまりの寛容さに、私はときどき腹を立てたりしたこともありました。それでも、私自身、そうした帯津先生のやさしさの中で、自分のやりたい看護を続けることができたのだと、今は思っています。
山田幸子:1936年、東京(根岸)生まれ。帯津三敬病院の開院後、看護師長に。
【出所】山田幸子『つなぐ看護 生きる力』佼成出版社/H30年
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