>3 ご返答どうも。わたしも出来た人間の部類ではないので上等なお返しこそ出来ませんが、まずは 「そもそも形骸化を憂うほどのものすらなかった」へと追加訂正をさせていただいてもよろしいか? ■>>貴花の不快感を隠そうともしない仏頂面 これはあなたの感情的主観に拠る。 わたしには「苦悩し憔悴し切ったこころを隠した表情」とも読み取れるが? ■>>。ヨはっきりさしてもらいたい」とは何のことだ
こじれている頭を指摘した。支離滅裂との印象であるとしたのは、何を憂いているのか漠然として特定しづらい上に、何もかも全て憂える材料として嘆かれているからである。 角界の根本に在るの角道なるものを常に念頭に掲げてあるのであれば、時代環境が如何に変わろうとも、合間にスマホ片手に街を歩こうが一向にかまわないはずである。 形式ばかりを追いかけて、本来的に追求していくはずの角道の教えの中身が変わってしまうなら大問題だろうが、角道なるものへの求道的姿勢が変わりさえしなければよいのである。
人の探究心とはそうそう変わらないはずのものである。わたしのようなものでもそのくらいのことは知っている。 したがって本来的に角界とは、その柱である角道精神の追求にこそ角界全体で取り組まねばならないとし、その姿勢を天下に示すことこそが本来的な役割なのであって、人を惹き付けるものとなるはずだ。 そうして人の余計な憂いを払拭するものとなるはずのものである。収益など二の次。演出もメークドラマも、無論、八百長など絶対あってはならない事だとなる。その意気込みが今の協会には欠けている。そのことはあなたも指摘できることだろう。 こうまでして格調高いものとした角道の追求。それが茶番だとなれば事件となる。ではどうすればいいか。それが角界を運営する側の苦悩だ。 しかしながら、それでもただただ余計なものに眼をくれず、相撲道を追求するのみでいいはずであるとした主張が貴乃花側に在るとわたしは読んでいる。 そうではなく、そういうことにならぬように、後ろ向きに日陰に隠れて、法の目をすり抜けるように国民の目を逸らして運営がなされて来たとするならどうだ。これは現行の政治にも当て嵌まる。 わたしは人の目を見る。すべて人の顔にその人間の考えている中身が現れる。 おどおどした目。何かを隠した目。暗さ。後ろめたさ。すべて顔に出る。言葉でわからないものはわたしは人の顔を見て直感で判断する。 そもそも国技とはいっても歴史も浅ければ、本来、庶民の娯楽興行でしかなかったものだ。 プロレスであれば、興行収益だけを考えていれば良いだろう。しかし格式ばった「国技」という位置づけがこの国の国籍を有す、とかく熱心でもないファンともども拗らせてしまうのである。 根本的な原因はそこに在ると見て居る。 しかしながらフォローすれば、角道なるものはきちんとしたものとしてあるとすれば、その真髄というものは古今東西の日本の武道全般の奥底に流れるものと同じ繋がりを持つものであるだろうと理解したく思う。現にわたしが敬意を払う力士の稽古全般は、人間の身体原理をよく理解したもので、人の健全な身体、及び姿勢を長持ちさせるためにはとても効果的な訓練方法であると理解する。鍛錬法については格別のものといえるのである。これは空手や他のスポーツ化した武道全般にも言えて、国民の宝、しいては人類の宝とすら言って言い過ぎないものだと理解している。 よってわたしは現在の角界など廃れても、少なくとも角道なるものを継承し伝える役職はしっかりと息衝いていく場所を得るだろうと理解している。 それが角道の精華なるものの体現を示さんとする教師的役割を自覚する貴乃花の抱える苦悩であるとわたしは考える。彼とわたしは同年だが、わたしは彼の、そして自分の思う所をねじ曲げない姿勢を評価する。ここにはわたしの主観が大部分混じっている。だが的を得ているだろうと自負するものだ。 彼の苦悩は彼自身のためのものだ。 もっとも余計なのは、そうした権威的格式に利権を求めて群がるインチキおじさんおばさんたちの登場である。そうした拗れ具合は社会全般どこにでもうんざりするほど見受けられるだろう。 この問題に関しては当事者たちが片付けるべき問題で、部外者は騒ぐ程のものではない。 しかしながら広義的にはこの問題の本質と変わらぬものはわれわれも現行の社会状況の中に味わっているのである。そうした意味に於いて、われわれもまた広義的に関与している。 よって関与するからには、きちんと事実を把握した上で関心をもつべきと理解する。 同じような問題は社会の至る所に遍在するのである。 つまり全国民が自覚なくともこの事件の当事者として巻き込まれているとはいえるのである。 あなたがわたしの指摘をどう捉えているかは知らない。 ただ、一日経って、まだあなたの気付かれてない部分があるなら、改めて再度問いたいと考える。 ■>>異議があるなら、かくかくしかじかで… 個別に異なった意見感想を持つことは自然なことであり、どちらかがどちらかの意見を潰そうとしているなどとは考えない方が良い。そんなことには意味がないし、やろうとしても不可能だ。 まずはこじれた頭を整理し、再度意見を述べるのは全然アリだ。 こじれにこじれて今回のような問題が至る所で表面化している。これは実に必然的だ。 社会全般皆そうだと言える。政治もそれに対する国民もみなこじれている。 その原因を突き止めることが先決ではないか? 自己の紡ぎ上げた感情に自分が振り回される結果となれば、そこに自分が在るなどとは到底言えない。 ブレーキの壊れた感情に支配されていながら、それでも自分は自分で在るなどと言うのは言い訳に等しい。自分と云う自覚が在ればその責任も自覚してなければなら無い。 自身の存在の曖昧なところで何かわめき立てても、そこにあるのは自分とは言えない。 まずは自分と繋がらなくては成らないのである。誰かのフリでは困る。 自分たちでつくったものに自分たちが振り回されることになっている。 社会システム、人間関係、全てに於いて自分たちで創り上げたものに振り回されている。 「こんな馬鹿げたことはない」という自覚が我々には必要なのである。 その理解が欠けていながら道の探求も何もないのである。。
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