http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/424.html
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http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/27/prince-mikasa_n_12667676.html
より抜粋
(19)43年1月からは中国への派遣軍の参謀として南京に赴任。お印にちなんだ「若杉参謀」の名を用いた。現地で軍紀の乱れや中国人の虐殺などを見聞し、現地の将校らを戒める激烈な講話をした。当時としては、命がけともいえる行動だった。
この講話は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられており、94年に国立国会図書館で発見された。
”三笠宮さまは、日中戦争の解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく軍部を批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と指摘している。
また、南京に樹立した国民政府についても、「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」としている。
さらに、日中戦争について「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」と、軍部の独走を指摘している。”
(朝日新聞1994年7月6日夕刊)
著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された自叙伝「わが思い出の記」の中でも、「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」と、戦時中の苦しい心境を吐露している。
三笠宮さまは終戦時には陸軍少佐だった。ご結婚70年に寄せた文書では「空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった」と当時を偲んでいる。
■「戦争放棄」を強く支持。しかし… 新憲法への揺れる思い
戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。その一方で、「本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」と賛否矛盾した態度をとった。こうした矛盾からは、当時置かれた困難な立場と率直な思いがうかがえる。
以下に発言の一部を紹介する。
”日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ。
”第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること。
■戦後はオリエント研究者に 歴史学者として「紀元節」復活に反対も
戦後は東京大学文学部の研究生として「古代オリエント史」を専攻。トルコなどで遺跡調査に携わった後、青山学院大学などで古代オリエント史の講師として教壇に立った。
戦後廃止された「紀元節」(神武天皇即位の日とされる2月11日)が、1950年代に「建国記念日」として復活させようという動きが高まると、歴史学上の確証がないことから歴史学者として反対の論陣を張った。デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」59年1月号)」の中で、以下のように記している。
”昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている”
(南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」 | デイリー新潮より 2015/12/3)
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http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102700177&g=soc
より抜粋
◇「菊のカーテン」
戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩み、「学者皇族」として活躍。テレビやラジオ、雑誌などにもたびたび登場した。憲法9条について「戦争放棄は大変いいと思いました」と述べ、紀元節復活の動きには「歴史学的、考古学的な裏付けがない」と反対。時に踏み込んだ見解を示し、保守派勢力から「赤い宮さま」とやゆされたこともあった。
太平洋戦争以前の皇室制度を「格子なき牢獄(ろうごく)」と著書で表現。皇室の閉鎖性を、東西冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえ、「菊のカーテン」と表現した。「皇室を尊厳の対象にしようとすると、また昔の状態に向かう恐れがあるのではないでしょうか」と雑誌の対談で述べたこともあった。
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抜粋転載ここまで。
皇族とそのとりまきを勤めたがる軍部との関わりは”神代の時代”から何も変わってはいないということができる。軍部とはどこからどこまでを指すのかをはっきり申せば、政財界そのものということができる。
皇室の自浄作用・三笠宮老中の軍部批判は今日もまだ生きているということができる。
まさに正気の象徴として記憶していくべきである。
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