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(回答先: 言葉としての、絶対真理のひとつ、わかっちゃった!? 投稿者 お天道様はお見通し 日時 2016 年 7 月 31 日 21:34:39)
正直そうした風潮に安易に乗りたいとは、わたくしは思いません。
それもまた真実とするものとは異なり、歪曲された解釈を単純化した符号でしかないもののように思います。
反発心とするものをただくすぐることになるだけならば、それはそこに既にある対立の溝を深めるためのエネルギーしかないでしょう。
つまりその解釈もまた、あなたの一時の不満の捌け口により生まれた都合的解釈であり、同様の感情に揺れ動く人々へ対する煽りでしかないものです。これは何も感情的に対立した批判ではありません。冷静な客観的視点と理解してほしく思います。
私もまたそうした真理的理解に至らない者である癖に、口うるさい小言ばかりをいうようで大変失礼をしている気持ちもありますが、そうした考えはすでに大衆化されつつあって、それもまた人々の不満を煽り、煽られるがままにそこに乗じた人々が数をただ増やすようにして一般化されていくだけのものではと考えるのです。
そうして人々の感情に流されるようにして生まれた道理や道義的見解が必ずしも、望み期待された正しさにつながらないことは、冷静に見れば、ほとんどの人が理解できることであるはずです。
単純な符号が、眠れる大衆に対して功を奏するというなら、より本質的に目覚めを促す、その考えとは対照的な考えなり、価値観を提示することのほうが大事なのではないでしょうか。
人々が単純にも常にエネルギーの浪費行為、つまり有限とするエネルギーの消費行為にしか意識が向かないとするのは、意識的なエネルギーの捉え方に由来することだと思っています。
エネルギーは有限だとするわれわれに一般化された物理的見地による意識的な作用により、身体もまたその意識に準じた限定的な利用経路しか探り当てることしかできなていないのです。
あなたは幸運なことに、普通一般の価値観を飛び越えた感性をお持ちであると理解します。真剣に物事に正対しようとしておられる方だとお見受けします。ですが、ここでおっしゃるようなことはあなたの期待する深い理解にいたるものとしては見ることはできません。
単純に物事を掴みとることが真理に近づくことで大事というなら、私は希望を持って、
いまだ人はただ、「道具の使い方」がろくにできていないだけであると理解したいと思います。
人間の『心』もまた道具です。人の世の乱れは、そのあらゆる『道具の誤用』が目立っているということだと理解します。
つまり本来われわれの必要とする道具とは、破壊行為を主たる目的にしたものではなく、ただ健全と建設的な用途に向けてだけ存在するものだと考えています。知識とはその正しい道具の使い方と一体であり、そこにわれわれの心もまた育み、使われるものであるです。
新しいものが生まれれば、単に古いものはそこに姿を隠していくだけのことであるはずです。
これは、言行一致ならぬ『知行一致(陽明学)』、「知る」ことは「行い」と一体のものでなくてはならない、という考えです。
こうした考えはわたくしも独自的、または必然的に学ぶことになったもので、他人の受け売りをそのまま信じているということではありません。
そこに、心(意)とは人の建設的な意識の使い方によって輝きを見るものだということをただ知るだけです。
このことは、ただ耐えておとなしく我慢すればよいというような、昔ながらの押し付け的な説教を現代においてただ繰り返すといったものではありません。
人々は社会において、この『心』の使い方の本来の使い方、その重要さにいまこそ気づくべきです。
対面を気にする事で生まれる、差別視的要素が如何にして自分の中に広がりを持って生まれているのかを自ら問いたださなくてはなりません。
それらが期待と裏腹の、真逆の心の使い方、つまり『心の誤用』を生み出していることに気づき、そのことが如何にその人間の本質を覆い隠すものとなっていないのかどうかです。
人々は何か恐れを見るようにして、自分の本心から遠ざかろうとしています。
そこに対して、いまだ逃避を繰り返し、意識の眼が向いていない状況にあるのだと言えます。
その要因として、人々は過去に、自分たちが受け入れた価値観の前に挫折を繰り返し、そのことで起こる社会的な事象から自身の心が蹂躙されると感じることを何度も屈辱的に経験してきたということが挙げられます。
そこでは、恥の概念だけが大きく成長してきたということです。
われわれはそうした心の働きを自ら閉じ込めてしまうような、定められた人間的価値観というものに、みずから、がんじがらめに自身を縛り付けているのです。
それは自然な感性の発露を抑制し、敢えて不活性な怒りという溜め込んだ感情、または欲情のエネルギーの発散、解放の際にしか自らのエネルギーを感じ、活用できていないということです。しかもそうしたものは不自然であるために不活性で持続しない、石油のようなエネルギーの使い方しかできません。
つまり決まりきった価値観によってただ闇雲に感情の動きを不自然に制することは、自然で自由で活発な生命のエネルギーの働きを常に制限、抑制し、閉じ込めるものとして作用するだけなのです。
われわれの心の使い方とは、意識的エネルギーの使い方(現実とは自らの創造性を駆使して生まれているという真理を知ること)を理解するためにあるものだというのが私の理解するところです。
それは、本能の性質をただ縛るものでなく、その中で、人間として必要なことはそのまま生かし、建設的な望ましいエネルギーの取り出し方、洗練された使い方を理解することにあります。それが悟りといえるものであるような気がします。
対して自ら望まないこと、云わば不要なものと決別することができないのはなぜかも知ることとなります。
不要とするものと始終向き合って、対立して離れられないことほど、不要で無益で無駄なことはないはずです。それこそ不要なのです。
自己の意識を制限しないこととは、ただ自己の必要性に従うことだけであるのであり、それが抑圧されたエネルギーを溜め込まないことであるといえます。よって自己中心的といった言葉の誤解釈によって起こるような、懸念される犯罪心理など、当然不要で、そうした学びの中では、なんら不安な心理とはただただ不要なものでしかないのです。
何か正しいことがあるのだと信じたい、とする考えの歪さほど、不要なものをただいたずらに自身の心中に巻き起こします。
われわれはそれらこれまでの人間的態様、不自然な意識の有り様を踏まえて、本来の自然な感性にしたがって、新しい社会的要素を基盤、またその基礎から作り上げる必要があります。
われわれはこれまで、そうした人間的に普遍化するとみた価値観のもとで、頭に理解されるだけの『人間的な生き方』を生み出すことだけを余儀なくされてきました。そこに専念してきた人の一本気なあり方を単純に正しさとして理解の定着を見たことに、ひとつのわれわれに必要な学びも確かにあったと思っています。
しかし、そこには同時的に、本来生命に付随するはずの、本能に即した身体の健全さも失われてだけいったということになります。
当然、以降、人々は価値観というものに振りまわされ、限定されたエネルギーの使い方だけをそこに学ぶことにもなっていきました。
それは期せずして、自身が限定的なエネルギーの解釈それ自体に身動きが取れないように閉じ込められてしまうということになります。
そこでは当然、肉体より上位であるはずの意識(心)の使い方も必然的に不自然なものとなります。
そこからは終わりを見ることなく、坂道を転落していくように人の意識は同じ毎日をただ繰り返すように同じ精神的場所へ縛り付けられていくはずです。
ゆえに、われわれは過去から連綿と変わらず、いまだ本質的な部分で、苦しみもがきつづけているのです。
これは、その苦しみとするものをただ敵視し向かい合い、それでいて遠ざけることだけといった逃避の為に意識的なエネルギーを(不活性なものに転換して)費やしてきたということができます。
あらゆる「道具」がろくに使えないとする状況を招いているのは、この「心(意識)」の使い方の誤用にあると見ます。よってそれは改善することは可能です。
過去にはそのことをすでに理解していた人々がいたことを存じ上げておりますが、今日ではそれもついぞ途絶えて、人々はそこから再び、ただ古い認識から何か限られた糧だけを汲み上げるようにして、常に何かと対峙し、そしてまた逃れるようにだけして、この現代まで生き延びてきたことのように感じています。
そこでは、残念ながら、より簡単にそうした苦しみから逃れる方法、そのことだけを享楽と理解し疑うことなく、ただ癒しと救いを自身の意識の外側とする架空の隔離空間へと見出してきたというわけです。
そうした意識の遣い方による働きが世界中で起きつづけているということは間違いなく言えると思います。
そうした意識が、われわれの物理体系をどう維持し、支えているのか、意識的な影響とはゼロではないのです、というより、多大な影響を与えています。そしてそれはどちらが先ということではなしに、われわれ自身に対して同時に起こしている、ということが言えます。
敢えて理解されない事を前提に言うなら、制限され、閉鎖的なわれわれの物理体系とは、われわれの意識の参画によるものです。
われわれの意識はまた、それぞれ個人の人体内だけに留まり影響するものではなく、自由なエネルギーの流れの中に組み込まれています。
われわれの物理的見地によるところにて知る、閉鎖的な空間体系、物理的枠組みとは、そうした意識の成り立ち、発生的根拠を要因として作り出され、維持されているということと理解しています。
われわれ人間の存在とするもっとも中心に軸としてあるのは『心(意識)』で、人類にはいまだその存在意義すらよくつかめておらず、よってもちろん使い方などわかってはいないものです。つまりあらゆるものは使い方次第である、という言葉を頭で理解するには至っても、肝心なその働き、作用をどのように使うべきか、そこへ対する意識的飛躍が阻まれているのです。
すべては自身が生んでいることへの気づきだけが必要です。
よってわれわれは自己の感性を改めて感覚的に捉えなおす必要があると思っています。
われわれが馴染んだ人造的で機械的な価値観は、われわれをただ分解して成り立つものとしか認識することができません。
われわれはひとつのものなのです。すべては愛すべき存在の片割れであり、存在の大いなる働きの一部を担っています。
その意識が必要なのです。
私が何よりいま、大切なこととして思うのは、私たちは社会において、素直に良いものに感動し心を開く、という、心を育む環境を得ることです。
そうした根本的な気づきがまったく足りていないことにより、社会を自分たちの想いの力で生かすことができていない、ということと知るからです。
つまり人は人前で自分の本心を覆い隠すように、常に自身に働きかけているということです。
それは人々の脳裏に、”そうすることが自分の身を守ることに繋がる”といったような観念的な理解が常に優位性を保つように支配的な価値観が社会に蔓延しているからです。
本当の心の遣い方ができていなければ、人は外部の価値観にただ流されるだけになります。
道具の使い方を知るということは、道具を愛するということが基本です。
それができていなければ、体の使い方、意識、または感性の使い方、お金の使い方、すべてに「できていない」と言えます。
感情や想いとするものに人が引きずられやすいのは、それは、自分の心の置き方、つまり心意(意識)の遣い方によるものです。
そこに何より重きを置くということを通して、人の感性をただ開くという、そのための知恵が私たちには必要なのです。
これはわれわれの物理的知見であるところの科学的な論法や、理論的な考え方では解釈に至らない部分であると思いますが、ともかく、意識が先で物質(形)は後です。
意識あるものに形がのります。
われわれの手にした知見による解釈が正しかろうが間違っていようが、われわれがそこに理解し定めた運動法則に従うということは、意識的にわれわれはそこに乗ろうとすることなのです。
そのことによって、その物理的視野を手にし、なんらかの形で自分たちの生活、または経験、気づきを得るために役立てようとします。
そのこと自体なんら間違っているということではありませんが、気づいたならば、改善、または望ましいと理解する方向へと切り換えることが必要なはずです。
作られた出来合いの流れにただ乗るのではなく、より具体的に自己の性質に、自らの意識になじむように物事を作っていけばよいだけです。
われわれは意識そのものです。
何もないところに閉鎖的な物理体系による空間を作り上げて、それを維持しているのもわれわれです。
そこに限定された能力をもってわれわれが存在するのも、われわれが限定的な価値観にいまだ乗っているからです。
そうした場もまた、より自由なエネルギーの流れがその背景に広がりを持って存在します。
われわれの意識と連動した意識の永遠無限性は同じひとつの背景に存在できるものです。
私の方に至らないことがあるとお思いであれば、それもまた直に言葉にして返してくだされば結構です。それもまた私にとって何にも変えがたい価値を秘めるものとしてありがたくただ感じ取りたいと願っています。
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