01. 2013年10月03日 02:28:31
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「イスラム教徒と日本人は似ている」佐々木良昭・東京財団上席研究員に聞く 2013年10月3日(木) 上木 貴博 日本社会は、イスラム教に対する偏見が根強いとおっしゃられています。 1947年、岩手県生まれ。拓殖大学商学部卒業後、国立リビア大学神学部、埼玉大学大学院経済科学科終了。アルカバス紙(クウェート)東京特派員、在日リビア大使館渉外担当などを経て現職。著書に「『イスラム』を見れば、3年後の世界がわかる」「これから50年、世界はトルコを中心に回る」など (写真:都築 雅人) 佐々木:1970年代までは、イスラム教に対する偏見はなかったように思います。しかし、80年代以降、日本人の中で急速におごりが芽生えた。いわゆる第3世界に対する差別的な意識が出てきて、「イスラム圏は自分たちより下の未開の地である」と見なすようになりました。
さらに、90年代に入ってタリバンやアルカイダの存在が知られると、マスコミでもムスリムを暴力的な存在と捉える見方が強まりました。16億〜17億人と言われるムスリムのうち、強硬派や暴力的な連中などは実際には0.0001%もいないでしょう。 私自身は19歳の時にムスリムになりました。大学でアラビア語を学ぶクラブに入ったら、顧問の先生が東京ジャーミイ(東京都内のトルコ系モスク)に連れていってくれたのです。当時の日本は今以上にイスラムに対する理解なんてなかったですから、大学内で礼拝していたら変人扱いされましたよ。 禁忌については、アルコールは飲みませんが、ラマダンの断食は自分の体調次第です。今年は猛暑と重なったから日中に何も口にしなかったら年齢的に厳しい。それほど敬虔とは言えないかもしれません。 ムスリムとして日常生活で意識していることは何ですか。 佐々木:「嘘をつかない」「周囲に親切にする」。あとは「貧しき者に施しを与える」です。施しは、イスラムの「喜捨」の精神に通じます。若い研究者を食事に連れ出したり、毎年10万円ほどを慈善団体に寄付したりしています。 私は常々、ムスリムと古き良き日本人は似ていると思っていました。私が出会ったムスリムたちは勤勉で嘘をつかず、清潔好きです。中東を訪ねるたびに食事に連れていってくれたり、スーツを作ってくれたり、すごく歓待してくれたりします。「おもてなし」の精神は日本人独自のものではなくて、ムスリムにも共通していると思うのです。だからこそ、イスラム圏ではNHKのドラマ「おしん」が人気なのかもしれません。 おしんについては、こんな笑い話があります。エジプトの視聴者が「おしんはアラビア語が上手だね」と言っていたそうです。吹き替えと分からなかったんですね。しかもドラマが描いた時代が、現在の日本だと誤解していた人も多かったらしい。 イランでも、おしんは90年代にヒットしました。どん底から成長していくサクセスストーリーとして楽しめる。放映を許可する為政者にとっては「頑張ればお前らもそうなれるぞ」と国民を啓蒙することができるメリットがあったのでしょう。ほかの日本の作品では、アニメの「みつばちマーヤの冒険」「キャプテン翼」などが人気です。 マレーシアに注目 マレーシアは金融や食品のハラール認証などでイスラム圏をリードしようとしています。実際に同国は「ハラール・ハブ」になれるのでしょうか。 マレーシアのムスリム比率は決して高くありません(61.4%)。マレー系や華僑も多いから、一見すると世俗主義(政教分離主義)の国です。ただ、マレーシアのムスリムにはストイックな面もあります。 首都クアラルンプール郊外の国際イスラム大学は、イスラム圏の名門、エジプトのアル=アズハル大学に並び立つ存在になろうとしています。つまり、ハラール・ハブを目指すに当たって、イスラム法学的なバックグラウンドは十分に備えています。 マレーシアは、アラブの国々からも歴史あるイスラムの国と見られています。仮にマレーシアがイスラム債(スクーク)に関して新しいルールを打ち出してもクレームなど来ないでしょう。そもそも、湾岸諸国でも、イスラム債の運用ルールが統一されているわけではありませんから。 マレーシアには英連邦の一員という強みもあります。かつて英国の植民地だったイスラム圏の国々はマレーシアに親しみを感じるでしょう。 (写真:都築 雅人) 日本企業が手がけやすいイスラム圏向けの有望なビジネスはありますか。
佐々木:日本国内でハラールの食品や医薬品を作って輸出するのは難しい。それだったらマレーシアで生産した方が生産コストも低減できるし、認証も取りやすい。 意外な商売としては、女性向けのネット通販が面白いかもしれません。服装に厳しい制限がある国でも女性がおしゃれに関心を寄せるのは変わりません。店舗では扱いにくい服や化粧品をネットで紹介するのはどうでしょう。ただし、日本人女性が起業するためにイスラム圏に乗り込むのは難しいし危険ですよ。 このコラムについて イスラム・パワー 世界人口の4分の1を占め、16億人を数えると言われるムスリム(イスラム教徒)。北アフリカ、 中東、中央アジアから東南アジアに広がるイスラム国家は、その豊かな成長性や可能性とは裏腹に、その多くが私たちにとって馴染み深い存在とは言えない。 なぜか。 イスラム教という私たちには馴染みのない宗教が、彼らの文化や生活様式、政治、そして経済活動に至るまでを規定しているからだろう。 「アラブの春」以来、イスラム圏は揺れ動いている。 今こそ「イスラム」を知ろう。 本誌特集と連動して、インタビュー記事を中心に連載する
イラン人は「詩」を愛してる!
言葉が通じなくても、心が通じ得るでしょう 2013年10月3日(木) エッテハディー・サイードレザ イランの有名な詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーが12世紀にこんな詩を詠みました。「インド人とトルコ人は話が通じやすいかもしれない。トルコ人の2人は話しが一切通じないかもしれない。だから、親密の言語というものも存在するんだ。言語が通じるより、心が通じることの方が大事だ」と。今日の世界に多くの問題が起きているのは、人間が「心」を忘れたからではないでしょうか。 すべての生き物の中で、言葉で会話をするだけでなく、自分の意図を表す「文字」まで発明したのは人間だけです。この「文字」のおかげで、古代の人間の経験が後生に伝わり、文明や文化が生まれました。 世界各国の人々は文化の面で若干異なる面があっても、共通するところもたくさんあるのです。共通するものの中でも、「詩」は特に価値のあるものでしょう。詩は一般の文章に比べて覚えやすいので、宗教上の教えや伝説などを広げるために使われるようになりました。 イランは「詩の国」と呼ばれます。イランに今残っている最古の詩を書いたのは、紀元前13世紀にゾロアスター教を開祖した「ザラスシュトラ」だと言われます。ゾロアスター教の啓典、古代「アヴェスター」は数多くの戦争の中で失われてしまいましたが、幸いなことに、その一部である「ガーサー」は現在に残っています。「ガーサー」は、詩の形で詠まれました。ザラスシュトラ以降も、イラン人は詩を愛し続け、イラン文学はたくさんの詩で構成されています。 イラン人は詩と共に生き、詩と共に死にます。イラン人のお墓にも普通に詩を彫ります。(撮影:アフシン・ワリネジャッド) 多くのイラン人が詩を愛しています。家を持っている者は必ずコーランと詩集を置いている、と言われるほどです。時代の流れの中で詩の形は変わってきました。しかし、詩に対する愛情は変わりません。高齢者はクラシックな詩を読んで楽しむ。若者は新しいスタイルの詩を読んで楽しむ。さらに、今日のイランでは、「俳句」のスタイルを使ってペルシャ語の詩を詠む詩人が増えつつあります。
イランという国を「詩」が守った 8世紀末に成立した「サーマーン朝」が、ペルシャ語で詠まれる詩に繁栄のきっかけを与えました。7世紀にムスリム軍がイランを占領。生き残ったイラン王族がトランスオツアナ地域に移民しました。その後、彼らも仕方なくイスラム教を受け入れましたが、自分たちのアイデンティティであった「イラン民族」とペルシャ語は諦めませんでした。そして8世紀末にアラブ系による支配から独立し、サーマーン朝を開いたのです。 サーマーン朝時代の代表作はシャー・ナーメです。フェルドゥスィーが詠んだシャー・ナーメは、ペルシャ人にとって詩集以上の存在で、自身を証明するものだと言っても過言ではありません。 シャー・ナーメには2つの特徴があります。 まず、ほとんどペルシャ語しか使われていません。100年以上にわたってアラブ人に支配されたにもかかわらず、ペルシャ語を復活できたのはこの詩集があったからこそです。 そして、もっと大事なのは、この詩集が古代イランの伝説を綺麗な詩の形で記録していたことです。シャー・ナーメという言葉の意味は「王様の話」です。 エジプトは、言葉だけでなく民族のアイデンティティまでアラブ系に変わりました。しかしイランは、恐らくシャー・ナーメのような傑作があったおかげで、アラブ化を免れることができました。 昔は、「ナッカル」と呼ばれる人たちがイランの喫茶店やレストランで、国の英雄の話を公演していました。その内容は概ねシャー・ナーメの詩に基づくものでした。現在でもまだ「ナッカル」が公演するレストランがイランの全国にいくつか残っています。 フェルドゥスィー以外にも、国民に愛される詩人が何人もいます。サアディー、ウマル・ハイヤーム、ハーフェズ、そしてルーミーなどです。ハーフェズとルーミーは愛や神秘主義の要素を中心に取り上げました。サアディーは人の教育や社会の改善に伴う内容を詠いました。さらに、ハイヤームは有名な科学者でありながら、無常観を中心とする様々な詩を作りました。 イランの詩の特徴は、リズムと暗示にあります。さらに、近代の詩はリズムより内容を重視するので、暗示に重きを置いています。20世紀初に起こった「立憲革命」や1979年の「革命」の時代に、多くの詩人は自分の言いたいことを詩の形で表現し、独裁主義に反対しました。 最近は海外との交流が拡大した影響で、読者の好みが変化しました。詩人たちも海外の詩に触れて、影響を受けています。このため、伝統的な詩とは異なる新しいスタイルの詩を作るようになりました。同時に、神秘主義や愛情を新しい形で表現する詩人も現れています。 近代イランの詩人の代表として、ソフラブ・セペフリーが挙げられます。彼は世界各国を訪問し、日本にも滞在したことがあります。1955年に日本の俳句をペルシャ語に翻訳。恐らく彼が翻訳した俳句が影響して、新しいスタイルの詩がイランに誕生しました。 その後、日本の俳句はペルシャ語にどんどん翻訳されました。現在は、イラン人がペルシャ語で俳句を詠むようになっています。 日本の詩をペルシャ語に翻訳したテヘラン大学の日本語教授に、イランにおける日本の詩について詳しい話を聞きました。 イラン人は詩と共に生き、詩と共に死ぬ! ベフナム・ジャヘッドザデさんは1978年生まれ。2007〜2010年まで母校、テヘラン大学の講師を務める。2011年4月から2013年まで、京都大学博士後期課程に在学。『私と小鳥とすずと』と『影にある葉っぱ』をテヘラン大学日本語学科の授業で紹介しながらペルシャ語に翻訳した。 (提供:ベフナム・ジャヘッドザデ) 夏目漱石や三島由起夫といった日本の小説家もイランでよく知られています。なのに、なぜ小説より詩を選んだのですか。
ジャヘッドザデ:イラン人は詩が好きなんです。詩と共に生きて詩とともに死ぬのです。イランには古代から、言いたいことを詩にする習慣があります。恋も喜びも、悲しみも、権力に対する訴えもすべて詩に詠む。 これは詩がリズミカルで心に響き、また暗記しやすいからでしょう。メッセージを伝達するためのスマートな手段ですね。そういう意味で、小説より詩のほうがイラン人によく親しまれています。また、詩に含まれている日本人独特の思い、生きること、死ぬことの捉え方なども味わえるからいいと思いました。 日本の詩を代表する「俳句」はイランではどのぐらい知られていますか。 ジャヘッドザデ:俳句はかなり流行しています。いっぽう、俳句以外の作品はそれほど紹介されておらず、あまり知られていないと思います。俳句はイランでは「ハイクー」や「ハイコウ」と呼ばれていて、特に若い人たちの間で流行っています。 これは、もちろん季語も五七五調もなく、イラン式のハイクーです。気持ちを短い言葉で詠めばそれでOKです。東日本大震災の時に、義捐金を出したり、現地に駆けつけたりするイラン人がいた一方で、ハイクーを詠んで震災した方々に贈ったイラン人もいたと聞いています。 詩で文化交流 多くのイラン人は詩を国際言語だと思っています。それについてどう思いますか。 ジャヘッドザデ:そうではないかもしれませんね。国やその文化よって、詩の捉え方や重要性について温度差があるからです。イラン人は詩を好む人が多いけれど、日本人は漫画を読む人が多い。でも、伝えたいメッセージは同じかもしれません。メッセージを詩の形で伝えるのか、それとも漫画で伝えるのかは環境が決めるのだと思います。 イランの詩は日本人にとっても面白いと思いますか。 ジャヘッドザデ:面白いと思います。オマル・ハイヤームの作品「ルバーイヤート」の日本語訳がだいぶ前から出ています。詩の好きな日本人の間で好評です。同じ人間としてハイヤームの言葉に共感する人が多いからでしょう。時代や環境が変わったとしてもね。 また、ペルシャ語ができる日本人の間では、現代詩人、セペフリーの詩に惹かれる人も多いです。 他の詩人の詩も、紹介されればきっと興味を持つ日本人がいるでしょう。ただ、日本はメディアが幾つもあります−−漫画、映画、演劇、雑誌、新聞、テレビ、小説など。人気のある順に並べると、詩はあまり上位には入ってこないと思います。これはイランとは異なる状況ですね。イランでは詩のランキングがかなり高いと思います。 既に日本語に翻訳されたイランの詩もありますか。 ジャヘッドザデ:イランの詩を味わってみたいとお考えの方がいたら、やはりオマル・ハイヤームの「ルバーイヤート」ですね。もう少し読んでみたい方には『現代イラン詩集』(新・世界現代詩文庫、単行本)をお奨めします。 翻訳は諸国民の交流にどのような影響を与えると思いますか。 ジャヘッドザデ:翻訳は他の文化を知る上で重要な役割を果たします。元の言葉を習ってその作品を生で味わえるならそれに越したことはないですが、言葉の数は多く、我々にはそれらすべてを学ぶ余裕はないですからね。 イランの文化市場に進出しようとする日本人に勧めることはありますでしょうか。 ジャヘッドザデ:やはり金が物を言うので、勧めるだけでは難しいと思います。国が振興するのが一番良いでしょう。カルチャーコミュニケーションという形で。 日本とイラン両国の間の文化的な交流はまだまだ少ないと思います。今やビジュアルなアートが圧倒的な力を持っていますから、そこから始めた方がいいかもしれません。イランと日本の合作映画とか、合作アニメとか。翻訳者が詩集を訳すのも、もちろんよいことですが。 イランと日本の文化面での共通点を挙げると、何がありますか。 ジャヘッドザデ:これもビジュアルアートの映画ではないでしょうか。「イラン映画」というジャンルが多くの日本人に知られています。イランにも日本のアニメや映画のファンが多いです。 ジャヘッドザデさんの次の言葉は、日本に在住するイラン人がみな、同じように思っていることだと思います。「イランはブラジルより日本に近いですが、イメージ的には遥かに遠い存在だと思います。これは交流が少ないからです。中東から絶えず伝わる悪いニュースが影響しているのでしょう。日本人に、もっとイランに興味を持ってほしいですね。お互いから学ぶことが多いと思います」。 このコラムについて 100%イラン視点 イラン人コラムニスとのエッテハディー・サイードレザ氏が、日本ではほとんど知られていない「イラン・イスラム共和国」を生きる人々の暮らしや、日本に住むイラン人の視点で見た“日本”について、楽しく、分かりやすく紹介する。世界のメディアは「イランの脅威」を報道するばかりで、イランのユニークな自然や、世界に誇れる由緒ある文化や遺跡などをほとんど伝えていない。たとえイランに興味があっても、「イランは危ない」というイメージが渡航をためらわせる。そこでサイードレザ氏がビジネスやレジャーの対象国として再認識してもらえるよう、母国で実際に起きていることの真実を明らかにする。 |