03. 2013年7月11日 08:04:46
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【第5回】 2013年7月11日 田岡俊次 [軍事ジャーナリスト] 「ペット」エジプト軍の暴走に 「飼い主」アメリカの大いなる困惑 エジプトでは軍がクーデターで政権を掌握した。エジプト軍の装備の主体は米国製で、毎年巨額の援助を受ける米国依存。米国はクーデターは容認できず、さりとてイスラム政権の復活も困る、という苦しい立場に立たされた。 日本のテレビや一部の新聞は7月3日に起きたエジプト軍による政権奪取を「事実上のクーデター」と奥歯にもののはさまった様な表現で伝えた。軍が大統領を拘束し、憲法を停止し、与党の自由公正党や支援団体の幹部300人の逮捕を開始し、テレビ局6局を閉鎖する、などの行為は、まごうかたなきクーデターだ。それを「事実上の」と言うなら、今後の犯罪報道でも「事実上の強盗事件」などとせねばなるまい。 オバマ大統領の微妙な言い回し この妙に遠慮した表現が生じたのは、米政府がエジプト軍の行動を非難しつつも「クーデター」という語を使用していないためで、日本メディアが米国に追従する傾向を如実に示した例だ。NSAによる世界的な盗聴、コンピュータ侵入などを内部告発した人物を日本のメディアが「スノーデン容疑者」とするのもその伝だ。それなら米国などへの亡命者も、本国で違法行為の疑いが出ていれば「容疑者」と書くべきだろう。米国の自己中心的な価値観や表現を、日本のメディアが金科玉条とするのは卑屈の感を免れない。 クーデターの発生直後、オバマ大統領は「ムルシ大統領を退陣させ、憲法を停止したエジプト軍の決定を深く懸念する」との声明を発表し、ムルシ氏や支持者を不法に拘束せず、民主的な選挙で選ばれた政府に早急に権限を移行すること、平和的な集会や自由で公正な裁判の権利を保障することをエジプト軍に求めた。 その一方で「クーデター」の単語を避け、選挙で選ばれたムルシ大統領側に政権を「戻せ」とは言わず、政権の「移行」を語っているところがミソだ。クーデターであることを認めればエジプト、特にその軍に対する援助は米国内法上停止せざるを得ず、きわめて親米的なエジプト軍は部品が来ないとほぼ行動不能となる。また、もしムルシ大統領やその出身母体のイスラム同胞団が政権を奪回すれば、軍人の多くが反乱罪で処刑されかねず、米国は30年余育ててきたペット、エジプト軍を失うことになりかねないためだ。 エジプト軍の装備はほとんど米国製 エジプト軍の装備を見ればその米国への依存が明らかだ。戦車2497輌のうち米陸軍が現在使用中の戦車と同じ新鋭のM1A1が1087輌、やや旧式の米国製M60A2、同A3が1150輌で、計2237輌が米国製だ。ドイツ陸軍の戦車数は322輌、イスラエルが480輌だからエジプト軍の保有車数は段違いに多い。旧ソ連製のT55、T54戦車をエジプトで改装、近代化した「ラムセス2世」戦車も260輌あるが訓練用にしか使えないだろう。ほかにも旧ソ連製戦車1300輌が保管状態で残っている。戦車部隊と共に砂漠を自由に走れるキャタピラー式の装甲兵員輸送車も、2000輌全てが米国製M113とその派生型だ。攻撃ヘリコプターも米国製のAH64(アパッチ)35機、大型輸送ヘリも米国製CH47(チヌーク)19機、など米国製が主力だ。 空軍は戦闘機392機中、米国製が226機(F-16A/Bが32機、F-16C/Dが165機、F4Eが29機)で、他にフランス製ミラージュ系が67機、旧ソ連と中国製のMiG-21が100機残っている。大型レーダーをつけ、敵機の侵入を発見する早期警戒機E2Cも8機が提供されており、強力な空軍に成長した。海軍はフリゲート艦10隻が主力で、そのうち4隻は米海軍も現在使っているO・Hペリー級(3638t)、2隻は旧式の米国製ノックス級(4260t)、他にも中国製2隻、スペイン製2隻がある。 ソ連依存から米国依存へ エジプトはナセル大統領の時代(1956〜70年)にスエズ運河の支配権を巡って英、仏と対立、ソ連の援助をえてアスワン・ハイダムを建設、軍の装備もほとんどがソ連製となった。だが、1970年ナセル大佐の急死で副大統領から昇格したサダト大統領は、73年の第4次中東戦争でイスラエル軍に対し善戦したのち、アメリカとイスラエルに接近し76年にはソ連との友好協力条約を破棄、78年にカーター米大統領の仲介でイスラエルのベギン首相と平和条約締結交渉開始で合意。サダト、ベギン両氏は1978年のノーベル平和賞を受け、79年に平和条約が調印された。 米国内の550万人のユダヤ人の政治的影響力を重視せざるをえない米国政府にとってはエジプトがソ連と手を切り、イスラエルの存在を認めて和解するのは願ってもない幸いだった。その見返りに、1980年6月の“Peace Vector Deal”(平和の方向への取引)で、米国は当時最新鋭の戦闘機(79年1月に米空軍で部隊配備が始まったばかり)のF16をまず40機エジプトに供与することを決めた。 81年成立したレーガン政権は、79年の革命で反米に回ったイランに代る「中東の憲兵」にエジプト軍に育てようとし、大規模な軍事援助団を派遣、大量の戦車、航空機、軍艦を惜しみなく供与、教官を送ってエジプト軍を訓練するとともに、多数のエジプト将校を米国の軍学校に留学させた。以来30年余にわたり米国が注ぎ込んだ軍事援助の結果、エジプト軍は上記のような米国製装備を揃える強大な親米軍に成長した。 サダト大統領のイスラエルとの和解、米国への急接近は、エジプトの平和と繁栄のために合理的で有効な政策だったろう。73年以来、40年間エジプトとイスラエルの戦争は起きていない。だがエジプトは他のアラブ諸国からは「裏切り者」と見なされて一時孤立し、エジプト国内にも反感を抱く人々は少くなく、81年10月、サダト大統領は軍のパレードを観閲中にイスラム過激派将校によるテロの犠牲となった。 既得権のはく奪に危機感を抱いた軍 この事件後、副大統領から大統領に就任したムバラク空軍元帥はサダト路線を継承、1967年の第3次中東戦争以来イスラエルが占領していたシナイ半島を返還させることに82年に成功した。91年の湾岸戦争では多国籍軍に加わって参戦、外資導入で経済も成長した。ところが、イスラエルでは右派の勢力が拡大してアラブ人への圧迫が強まり、米国はアフガニスタン、イラクを攻撃する事態になっては、ムバラク大統領の親米、親イスラエル路線は国内で不評とならざるをえなかった。 さらに米軍が2010年8月にイラクから戦闘部隊を撤退させ、イラク戦争の失敗が明らかになると、翌年1月のチュニジア政変を皮切りに中東の親米独裁政権は次々に崩壊した。リビアのカダフィ政権も後期には親米となっていた。ソ連軍が1988年5月にアフガニスタンから撤退を始め、ソ連の敗北が明白になると間もなくハンガリー、ポーランドで親ソ独裁政権が揺らぎ、他の東欧諸国に波及、89年11月にベルリンの壁が崩れたのと似た現象だった。 エジプトでムバラク退陣を求めるデモが拡大し民衆が内務省の治安部隊(警察軍)と衝突する中、軍は中立を表明して民衆の敬意を博し、2011年2月ムバラク辞任後、軍の最高評議会(将官18人)が暫定統治に当って民政移管を進めた。翌年5月に初の民主的な大統領選挙を実現させ、当選したイスラム同胞団出身のムルシ氏に政権を引き継いだ。ここまでの軍の行動は賢明だったが、軍はその後も立法権や予算管理権を握り続けようとし、憲法改正、再改正問題でムルシ政権と対立した。 民間人の大統領が軍の司令官たちを次々に更迭したシビリアン・コントロールに対する反感に加え、軍が経営する企業の問題がある。エジプト軍は製造業、農業、サービス業などを手広く営み、規模は「GDPの30%程度」とも言われる。収益は議会が認める予算とは別枠で、将軍たちの追加所得源や天下り先となっている。軍はムバラクが退陣した2011年初めから翌年6月までの間に「120億エジプトポンド(約2000億円)を政府に上納した」と誇っている。軍人はこうした特権がムルシ政権により徐々に奪われそうな形勢に焦りを強め、経済の低迷とインフレに悩む大衆や、イスラム色の濃い新憲法に不満なリベラル派の反ムルシ活動に便乗、煽動し、反ムルシ・デモの参加者数を誇大に発表するなどクーデターを正当化する環境を作り出した。 難しい対応迫られる米国 だが、クーデターの結果、もし米国からの軍事援助が停止されれば軍にとって致命的だ。エジプトの今年度の国防予算は263億エジプトポンド(約4100億円)だが、それに加えて米国から13億ドル(約1300億円)の軍事援助を例年得ている。その大半は航空機、戦車、艦艇などの部品で、特に戦闘機、攻撃ヘリなどの部品は高価なうえ、一定の飛行時間、着陸回数などにより部品交換が決められている。部品が入手できないと戦力は急速に低下する。米国にとってもエジプト軍を掌握する手綱である部品供給の停止は避けたいだろう。 他方、米国がクーデターを黙認して軍事援助を続けることは、米国内での批判を招く。さらにエジプトで軍事政権が復活するか、あるいは表面にリベラル派の政治家を立てて軍が実権を握るダミー政権が作られれば、反政府派はデモを展開して混乱は長期化し、テロ活動も起き、ついには内乱に発展するおそれもある。7月8日にカイロで、治安部隊がデモ隊に発砲、51人の死者が出た事件は内乱の危険を高めた。 イスラム同胞団(約100万人)は組織力が高く、福祉活動で民衆の信望を得ており、クーデター非難には正当性が十分ある。今回反ムルシ行動に加わったリベラル派も、軍がクーデターによって民主的選挙で選ばれた政権を倒し、軍事政権が復活することには批判的になる可能性が高いだろう。エジプト軍は総兵力43万8500人(うち陸軍31万人)だが、約30万人は徴兵(うちに陸軍に20万人)で、兵はおおむね一般民衆の心情を反映する。青年将校の中にも軍上層部の腐敗や、親イスラエル政策に不満を抱く者も少なくないようだ。内務省の治安部隊は32万人以上いて、これは警察軍だけに反政府活動の抑圧が主任務で、2011年の反ムバラク・デモも弾圧をはかったが、結局役に立たなかった。 米国はイラクから2011年12月に完全撤退し、アフガニスタンの治安任務も6月18日に地元に委ねてやっと足が抜ける目途が立ち、「財政再建、輸出倍増」の目標に向かおうとしていた。その矢先、エジプトでクーデターが起きたことは迷惑の極みだろう。親米軍事政権、あるいは軍のダミー政権、を支援して長期化しそうな混乱に巻き込まれては大変。だが折角30年以上育成したエジプト軍を見捨て、混迷の果てに比較的穏健だったイスラム同胞団以上にイスラエルに強硬な政府がエジプトに生まれるのも困る。軍のダミーでなく、イスラム同胞団と和解できるような政権の誕生を米国が期待するのは、その利害からして当然だろう。
JBpress>リーダーズライフ>映画の中の世界 [映画の中の世界] 「アラブの春」第2章なのか、それともクーデターか エジプト、チュニジア、アルジェリア、トルコの政変小史 2013年07月11日(Thu) 竹野 敏貴 世界中に民主主義への熱狂を発信した「アラブの春」でホスニー・ムバラク大統領をその地位から引きずりおろしてから2年半、エジプトの地は再び混沌たる世界と化している。初の民選大統領となったムハンマド・ムルシ大統領が就任からわずか1年で、反政府デモから発展した混乱が軍の介入を招き、大統領職を剥奪されたのである。
ジャスミン革命のチュニジアからは非難の声 エジプトの象徴ピラミッド。今観光客が少なく閑古鳥が鳴いているという 現行憲法は停止され、大統領の支持母体ムスリム同胞団の幹部も次々拘束されている。7月8日には、支持派デモ隊と治安部隊とが衝突、50人を超す死者を数える流血の惨事ともなった。
エジプト経済は停滞し、物価は上昇、電気はたびたび消え、ガソリンを買うためにいつまでも並ぶ。その一方で、ムルシ政権は、重要ポストに同胞団のメンバーを次々とあて、憲法をはじめ、イスラム化が進んでいた。 国際社会の反応はまちまちだ。同じイスラム世界でも、サウジアラビアなど湾岸諸国はおおむね歓迎の意を示している。しかし、エジプトに先立ち「ジャスミン革命」を成功させた同じ北アフリカの国チュニジア政府からは非難の声が上がっている。 そのチュニジアでも、エジプト同様、事実上独立後初の民主選挙で、ムスリム同胞団の影響下結成されていたイスラム主義運動組織「NAHDA(ナフダ)」(政党名はアンナハダ)が最多議席を獲得、かつて中東で最も西欧化の進んでいたこの国にもイスラム化の風が吹いている。 チュニジアの首都チュニス 今年2月、与党批判の最先鋒だった野党党首が自宅前で狙撃され死亡、イスラム勢力と世俗派との対立が一気に激化し、反政府デモが相次ぐなか、意図した内閣改造を果たせなかったジェバリ首相が辞任に追い込まれる、といった事態も経験している。
経済が停滞し、現状に不満を持つ若者が多いことも、エジプトと似ている。そんななかには、宗教的理由のみならず、現状への不満から宗教団体へとひき寄せられていく者も少なくない。 そこに待ち構える過激派という罠。その懸念が現実のものとなってしまったのが1月に隣国アルジェリアで発生し、日本人犠牲者も多数出してしまった人質拘束事件。その実行犯の3分の1はチュニジア人だった。 1991年、アルジェリアでは、初めて複数政党が参加した総選挙が行われた。そして、イスラム救国戦線(FIS)が大勝。どこも似たような経過をたどっている。欧州の植民地だった北アフリカだが、もともとイスラム教徒の多く住む地域。独裁の箍が外れれば、程度の差こそあれ、民意はイスラムへとシフトする。 しかし、アルジェリアでは、シャリヤに基づく統治を始めようとしたことが、国を混乱へと導いた。 欧州諸国のバックアップもあって、世俗主義の軍部がクーデターを起こし、選挙結果は無効。そして、抑圧されたイスラム主義者たちの中から、武装イスラム集団(GIA)が結成され、イスラム国家建設という大義のもと、政府ばかりか異教徒や外国人をも主たるターゲットに定め暴力行為を繰り返すようになるのである。 エジプトからの政治研修を受け入れていたトルコ アルジェリア。アルジェの街角 カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作『神々と男たち』(2010)は山間部の修道院でそんな暴力の犠牲となり誘拐・殺害された修道士たちの実話の映画化である(犯人には別の説もあるのだが)。
そんな武装組織は、今、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織(AQIM)に吸収され、「アラブの春」の副産物である内戦後のリビアから流入した武器の力もあいまって、北アフリカおよび西アフリカの大きな治安不安要因となっている。 それが宗教の先鋭化と力任せの行為が招いた1つの結果であることを、エジプトでの対立が深まる今、思い返す必要があるだろう。 こうしたことを思うとき、国家再建のモデルとしてまず思いつくのは世俗イスラム大国トルコだろう。実際、トルコは、ムルシ政権幹部などの派遣を受け入れ、「政治研修」を行っていたという。 とはいえ、そのトルコ自体、エルドアン首相率いるイスラム系与党・公正発展党(AKP)政権がイスラム色を強めていることに対し、国民の不満が高まっている現実がある。そして、5月末、イスタンブール中心部の再開発計画への抗議行動を強制排除したことに端を発し、大規模な反政府デモに揺れ続けているのだ。 トルコ・イスタンブール そんなトルコの現代史も政治暴力に彩られたものだった。そして、多くの人々が獄中生活を余儀なくされた。
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『路』(1982)で、トルコにおけるクルド人の苦難を世界中に発信したクルド人監督ユルマズ・ギュネイもそんな1人。 クルド問題にからんだ言論犯というだけでなく、判事殺しの嫌疑までかけられ、生涯で3度、投獄された経験のあるギュネイが、その長い獄中生活の中で脚本を書き上げ、代理演出者を介し完成させた作品の1つが『路』なのである。 時代の空気が読み取れるこの作品の主人公は囚人。そして、待ちわびた仮出所の日が1980年「9月12日のクーデター」により遅れている、というところから物語は始まる。イラン革命で中東最大のパートナーを失ったばかりの米国は、70年代末の政治的混乱を収束させようと起こされたこのクーデターを、早期の民政復帰を前提として黙認していた。 権力を我がものにせんとする者の歴史が多くを占める人類史をひもとけば、クーデターと呼ぶにふさわしい政変は数多くある。しかし、権益が複雑に絡み合う現代、特に先進国では、軍事力だけで全権を掌握することは難しくなってきている。 歴史学者エドワード・ルトワックの「クーデター入門 その攻防の技術」をベースとした『パワープレイ』(1978)はそんなクーデターがいかにして起こされていくかを丹念に描いた異色作である。 「クーデター」という言葉を使わない理由 パワー・プレイ もちろん、減少しているとはいえ、いまだブラックアフリカなどでは、クーデターは頻発している。その主役はたいていの場合には国軍だが、中には、フレデリック・フォーサイス原作の『戦争の犬たち』(1981)のように、傭兵たちが主導するものもある。
この映画自体、フィクションではあるのだが、ナイジェリアのビアフラ戦争で敗れ故郷を失ったイボ族たちへ赤道ギニアの地を与えようとフォーサイス自身が企図した経験がベースにあるのである。 ここまで、今回のエジプト軍によるムルシ大統領排除に対して、あえて「クーデター」という言葉を使ってこなかった。メディアも多くが「事実上の」という言葉を冠している。それぞれの立場から、その思惑もあって、言葉が慎重に選ばれているのである。 ムルシ(元)大統領の支持母体ムスリム同胞団はもちろん、民主的選挙で選ばれた大統領なのだから自らの権力は正統、だからこれは「クーデターだ」と非難している。 一方の反ムルシ勢力はこれは「民衆による大統領解任」であって、暫定政権には正統性があると主張する。その根拠として、人口8800万人の国で2200万人もの辞任要求署名を集めたことがある。 ちなみに、大統領選挙の投票総数は2500万票でギリギリ過半数の1300万票あまりを獲得してムルシ大統領は当選している。軍はあくまでも治安維持のためと言うが、もちろんそこには国民の声に乗った形で自らの権益確保という面も少なからずあるはずである。 それでは米国はと言うと、バラク・オバマ大統領は、早期の民政復帰を要求したものの、「クーデター」という言葉は使わなかった。 と言うのも、クーデターを起こした軍への支援が米国では禁じられているため、クーデターと認定してしまうと、年間13億ドルものエジプトへの軍事支援が凍結されることになってしまう。 そうなれば、結果的に、イスラエルとの関係構築に重要なこの国への影響力が低下してしまうことになる、との推論が成り立つ。 自らの権力保持のため、欧米の顔色を窺いながら国を治めてきた独裁者たちの権力欲が、結果的に宗教を政治から遠ざけることになっていた。 イスラム化への懸念とダブルスタンダード 戦争の犬たち しかし、その箍が外れた今、民衆レベルで「民主主義」をはやし立ててきた欧米諸国も、そんな過去は忘れ、事実上この政変を黙認する、というのがそのスタンスのようだ。
そこには、イスラム色の強い政治が浸透していくことへの懸念が見え隠れする。そして、いつもながらのダブルスタンダードがそこにある。 最後に、この「クーデター」という言葉の定義を再確認しておこう。 どの辞書を見ても、おおむね、「もともとは『国への一撃』というフランス語」で、「既存の支配勢力の一部が非合法的手段により政権を奪うこと」となっている。そして、「支配層内部の政権移動がクーデターで、体制の変革を意味する革命と区別する」とのただし書きが続く。 それぞれの立場から考えるクーデターの定義が何であるにせよ、今回の政変が単なるクーデターなのか、それとも革命の一過程を占めるものなのか、現状で判断することは早計かもしれない。 仮に、こうした形で今回立派な民主政権が作り上げられ「革命」が成功したとしても、また不満が出れば、民衆はデモに走り、軍部が登場、となりかねない。 しかし、そんなことでは、誰もそんな国のことを信用しなくなってしまう。1日も早い、成熟した民主主義システム、そして国民の意識の確立を望むばかりである。 (本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号) (351)(再)神々と男たち (127)(再)路 (748)パワープレイ (258)(再)戦争の犬たち (再)351.神々と男たち Des homes et des dieux 2010年フランス映画 神々と男たち (監督)グザヴィエ・ボーヴォワ (出演)ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデール
1996年、アルジェリアの山間にある修道院で修道士たちが誘拐され殺害された事件をもとに、信仰と地域住民への思いから危険を承知で修道院を去ろうとしなかった修道士たちの姿を描いている。2010年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。 アルジェリアの地中海寄り地域は、ローマ遺跡やアルジェのカスバといった観光資源に恵まれ、その陽光ともども平時であれば観光客が数多く訪れる地域である。 しかし、1991年の総選挙でイスラム主義勢力イスラム救国戦線が圧勝したにもかかわらず、翌年世俗主義の軍部によるクーデターが発生、ヨーロッパ諸国もそれを支持しイスラム色が薄められてからは、イスラム原理主義過激派によるテロが頻発する国となってしまった。 そんな中で標的となったのが外国人でありキリスト教徒で、本作が描いた事件も起こるべくして起こってしまった。 そして今、一部過激派がアルカイダと合流して結成された「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織」がより広域で活動しており、一層不安定な状況となっている。 (再)127.路 Yol 1982年トルコ・スイス映画 「路」 (監督)ユルマズ・ギュネイ (代理演出)シェリフ・ギュレン (出演)タールク・アカン
ギュネイは、生涯3度投獄されている。その多くはクルド問題にからんだ言論犯だったが、最後には判事殺しの嫌疑までかけられていた。 獄中生活の長い彼は、監獄内で脚本を書き上げ、仮出所時にロケハン、あとは監獄に面接にやって来るスタッフ、キャストと打ち合わせて代理演出の者を介して作品を完成させるという手法で本作以前にも『群れ』(78)、『敵』(79)といった作品を発表している。そのどれもがトルコ社会の厳しい現実を描いており、更なる活躍への期待も大きかったが、本作の完成から2年後、47歳で他界している。 748.パワープレイ Power play 1978年英国・カナダ映画 パワープレイ (監督)マーティン・バーク (出演)ピーター・オトゥール、デヴィッド・ヘミングス、ドナルド・プレザンス
ヨーロッパの架空の国での出来事。経済大臣がテロリストに誘拐され殺害された。軍隊や秘密警察を使いテロリスト狩りを進める政府。その手段は強硬なものだった。 現状を憂慮する陸軍大学教授は、教え子のナリマン大佐にクーデターを持ちかけるが、ナリマンは固辞する。 しかし、テロ容疑者として拘束された知人の少女が拷問死したことから、ナリマンは考えを変え、作戦を練り始める。 問題となったのは人選。戦車隊長には特に苦慮した。そして作戦実行。クーデターは見事に成功。しかし・・・。 その緻密なプロットの積み重ねで見せるクーデター劇。カナダ軍協力のもと製作されたアクションシーンも秀逸である。 (再)258.戦争の犬たち The dogs of war 1981年英国映画 戦争の犬たち (監督)ジョン・アーヴィン (出演)クリストファー・ウォーケン (原作)フレデリック・フォーサイス
傭兵の活躍する地と言えば、多くはアフリカか中米。本作も、中米から傭兵が脱出するシーンから始まり、後半のアフリカでのクーデターへと続く。 そんな舞台のロケはすべて中米ベリーズで行われたが、大陸部の中米諸国の中では、珍しく黒人人口の多い地域のため、違和感はあまりない。 撮影当時、既にアフリカには英国領はなくなっていたが、ベリーズはいまだ英国領のまま。撮影もしやすかったのだろう。 ビアフラ戦争は1967年から70年にかけて、ナイジェリア東部のイボ族が分離独立を主張して連邦軍と戦ったもので、ガボン、コートジボワールなど5カ国が国家承認していた。 しかし、戦闘のみならず飢餓や疾病で100万人以上が死亡する悲惨な闘いの末、独立の夢は潰えてしまった。 フォーサイスはこのビアフラ戦争を取材し、ビアフラ側に同情的なルポルタージュ「ビアフラ物語」を発表しており、それが、のちのイボ族のためのクーデター企図へとつながっていくのである。 |