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(回答先: 本も凄いし評論も凄い!『「アラブの春」の正体』重信メイ/松岡正剛の千夜千冊。ダイナモ氏の意見も聞きたい 投稿者 ヒゲ-戸田 日時 2013 年 5 月 05 日 04:20:56)
ここで書かれているほとんどのことは、これまでここ阿修羅でさんざんぱら投稿されてきた内容と同じです。何も目新しい主張はありません。松岡正剛さんのサイト「松岡正剛の千夜千冊」は私もちょくちょく読ませてもらっています。ですが、この書評内容は陳腐そのものです。鋭い切り込みがありません。
著者の重信メイという人。純真な正義心にあふれた人なんですね。感心しました。松岡正剛さんもこれに多いに感化されています。
「リビアでは教育費は大学まで無料である。医療費・電気代・水道代もことごとく無料だ。家やクルマを買うときのローンも、国が半分を援助する。メイは「私が知るかぎり、世界で最も豊富な福祉国家だったのではないかと思う」と書いている。スカンジナビア諸国のように高い税金によって得られる福祉サービスではなく、ふんだんに石油が採れることによって実現した福祉なので、国民の懐がまったく痛まない。驚くべき国家だったのである。」
リビア政府発表のデータをそのまま信じ込んでいる。ナィーブとしか言い様がありません。石油収入から得られる潤沢な利益の多くが、現実に広くあまねくリビア国民に平等に分配されていたならばよいでしょう。現実にはリビアは部族社会であり、カダフィは部族対立を解消させるのではなく、積極的に利用することを選択しました。各部族を分断支配することで自らの権力を維持していたのです。カダフィ自身は少数部族のカダファ族出身です。一方、王政時代の首都があったベンガルを含むリビア東部はリビア有数の大部族であるワルファラ族が占めています。カダフィはワルファラ族を冷遇し、油田地帯の多くが存在する実質的な首都であるベンガジ地方のインフラ整備をおざなりにしました。
同時に市民の間にスパイ網を張り巡らせた密告社会を作り上げ、市民の間に相互不信を巻き起こし、何も物が言えない社会を作り出していたのです。人々が自由を熱望していたのは当然のことです。カダフィは空軍の主要幹部をカダファ族出身者で固め、同時に財力にものを言わせてアフリカ各国から傭兵を集め親衛隊を組織しました。つまりカダフィは自国の軍隊すら信用できなかったのです。カダフィのリビア国内における支持基盤はもろいものでした。
「リビアに国会がなく、ダイレクト・デモクラシーが施行されていたことにも目を致す必要がある。リビアの国民は640万人で、国土からすれば少なく、財政規模も岐阜県くらいである。そこで「マジレス」(基礎人民会議)という会議体がつくられ、国民の声をそこで吸い上げるというしくみを継続してきた。選挙もそのマジレスが機能した。
これを「民主的ではない国だった」と誰が言えるだろうか。リビアはある意味ではアテネ以来の直接民主主義国家だったのである。」
これはブラックユーモアですか? 松岡正剛さんには冗談も程々にしてもらいたいものです。憲法も政党も存在しない国のどこに民主主義が存在し得るというのですか。カダフィ自身が独裁体制を敷いて頂点に君臨しているのに民主主義もへったくれもありはしません。そもそもリビアにおいて「直接民主主義」という非常にユニークな政治体制がまがりなりにでもリビア国民の自由意志を体現していたという傍証はどこにあるというのですか。
「カダフィは「緑の書」(グリーンブック)を発表して新国家の建設に邁進し、独裁者ではありながらも、世界の革命勢力や民衆運動を支援しながら国力を増強していくという、きわめて独自の方針を貫いた。とくに欧米に対しては頑として反抗するという態度を鮮明にした。」
この「緑の書」は当時、中国で激烈な反対派狩りを行なっていた紅衛兵運動で用いられた「毛沢東語録」をまねて、カダフィがリビア国民に強制した「政治制度・行動規範」を表したものです。ところで著者の重信メイも松岡正剛も「緑の書」を読んだ形跡がありません。
「緑の書」の内容について説明しているサイトがあるので読んで見て下さい。
カダフィの「緑の書」を入手
2011年2月にベンガジで発生した反カダフィデモはあっという間にリビアのほとんど全土に飛び火しました。それに対してカダフィは戦闘機を出動させて機銃掃射するという苛烈な弾圧で答えたのです。
以下に反カダフィ運動の発端から拡大していった理由を解説したサイトから引用します。
「2011年2月15日の夕刻、リビア第二の都市ベンガジの市民は集結した、要求は、弁護士フェトヒ・タルベルの釈放だ。1996年にトリポリのアブ・サリム監獄で起きた1000名を超える受刑者の集団虐殺事件(ダイナモ:訂正)で犠牲になった受刑者家族の代理人を務めてきたタルベルが、「監獄が炎上しているというテマを流した」という名目で逮捕されたからだ。彼は釈放されたが、事態は収まらず、2日後に「怒りの日」と銘打って集まろうという呼びかけが、ベンガジの街を駆けめぐった。17日当日には、アラブ各地で見られたのと同様、数千人のデモ参加者が街頭に溢れ出た。
参加者の逮捕も、実弾の発射も、空軍機による爆撃も、沈静化にはつながらなかった。カダフィ大佐は2月22日にテレビ出演し、事態が沈静化しなければ内戦になると脅したが、デモ参加者はますます決意を固くした。
運動が広がるにつれ、一部の兵士は反政府側に転じた。離反には二つの理由があった。部族による呼びかけ、それに軍隊内の外国人傭兵の存在だ。
ある情報提供者は(匿名を条件に)、軍人が民衆側に合流しているのは部族への忠誠心からであり、「自分の兄弟や子供が死ぬのを目撃した」ためだと語る。彼はさらにこう付け加えた。「同じ国民だという感情も働いている。外国人傭兵がリビア人を射殺するのを見て、部隊の指揮官たちはデモ隊を守ろうと決意したのだ」
リビアのカギ握る部族集団
日頃から鬱積していた反カダフィ感情がリビア全土で爆発したのです。さらにカダフィ自身が常軌を逸した過剰弾圧で対応してきたことが民衆の反カダフィ感情をさらに燃え上がらせる結果となりました。
「いったい何がおこったのか。リビアに民衆革命や民主化革命がおこらなかったとは言えない。言えないものの、しかし、カダフィ政権が覆った要因にはもっと政治的な問題も絡んでいたとも見るべきだったのである。」
カダフィ政権が覆った要因は、国民を抑圧するだけでカダフィ体制が非常に脆弱な支持基盤しか持ち得ていなかったということです。
「5月25日から翌日にかけて、シリア中部のホウラで少なくとも109人の犠牲者を出した虐殺事件がおきた。子供49人、女性34人が含まれていた。アメリカと国連はすぐにシリア政府を批判した。アサドは反政府テロによるものだと反論した。」
(中略)
「メイはこの事件が政府によるものとはどうしても思えない。ホウラは9割がスンニ派である。虐殺がおきたとき、この町は反政府勢力の支配下にあった。反政府勢力は犯行はアラウィ派のシャッビーハという暴力集団によるものだと断じている。しかし、反政府勢力が実効支配しているホウラにシャッビーハが入るのは難しい。そのほか不自然なことがいろいろある。
おそらくこれは、反政府勢力が親アサドともくされた連中を一挙に殺害したのであって、そのうえでその罪をアサド勢力になすりつけ、これをきっかけにNATOなどの軍事介入をよびこもうとしたものだったのではないか。メイはそのように推理した。」
この記述で重信メイはホウラ虐殺事件の事実経過を知らないことが分かります。事実経過は以下の通りです。
「ホウラ地区は政府軍の検問所によって4つに分断されている。虐殺事件が起きたのはそのうちの1つ、タルダウ村である。当日は金曜礼拝日で男性たちはモスクに行っていて不在だった。昼過ぎから始った砲撃の最中の午後3時過ぎにシャビハ(政府系民兵)が村に侵入したとの連絡が男性たちに届いた。男性たちは村に帰ろうとしたが、途中で激しい砲撃が続いていたため、普通なら10分で帰れるところを1時間もかかってしまった。現場ではシャビハが殺戮を行なっている最中で、男性たちはシャビハの殺戮行為を目撃したが手を出すことができなかった。約40分後にシャビハはようやく現場を立ち去った。
この証言は現地の住民が毎日新聞の記者に話したものである。
ヒューマン・ライツ・ウオッチへの被害者たちからの聞き取り調査で、目撃者らは全員、武装した男たちが政府支持派だったと話している。
国連停戦監視団は、この事件の犯行がシリア政府側勢力によって行なわれたと断定している。
国連安全保障理事会は緊急会合を開き、攻撃を非難する声明を承認した。声明は拘束力を持たないが、「この殺害を可能な限り強い調子で非難する」とし、「一連の政府側の砲撃や戦車による爆撃を含む攻撃」の中で起きたと、政府軍の関与を記した文言も含まれた。」
ロシアも中国もこの虐殺が「一連の政府側の砲撃や戦車による爆撃を含む攻撃」の中で起きたことに同意しています。犠牲者108人のうち20人は砲撃による死者です。「この町は反政府勢力の支配下にあった。反政府勢力が実効支配しているホウラにシャッビーハが入るのは難しい。」と言っていますが、当時、男達は金曜礼拝のためモスクに行っており不在だったのです。それに「反政府勢力が実効支配しているホウラ」とありますが、そもそもホウラ地区は政府軍の検問所によって4つに分断されていたのですよ。政府軍の検問所が地区内に4ヵ所もあるのに「反政府勢力が実効支配している」とはどういうことですか。つじつまが合いません。カダフィ派が実効支配していたというのなら判りますが。
「おそらくこれは、反政府勢力が親アサドともくされた連中を一挙に殺害したのであって、そのうえでその罪をアサド勢力になすりつけ、これをきっかけにNATOなどの軍事介入をよびこもうとしたものだったのではないか。メイはそのように推理した。」
そう「推理」したのなら、そう推理した根拠を明示してもらわなければなりません。この書評を読んだ限りでは根拠不明です。
「ぼくは知らなかったのだが、ユーチューブにはシャッビーハが暴力をふるっている映像が何度も流れたらしい。CNNもこれを紹介した。しかし、メイはこれもまた事実であるかどうかも疑わしいと言う。シリアではすでにインターネット上の“自作自演”まがいのものが、いくつも流れているというのだ。アラビア語やアラブ社会に通じていれば、そのおかしな点がいくつも見つかるはずだという。」
群衆の中から反政府スローガンを叫んだ人を、紛れ込んでいたシャビーハたちが棍棒で殴りつけながら引きずり出し、延々と十数分間に渡って何十人もぎゅうぎゅう詰めの車に押し込んでいる映像を私は見ました。ダマスカス市内での映像です。棍棒で何回も力一杯殴りつけているので、引きずられている人の中には完全に気絶している人もいました。ひどいものです。これが“自作自演”なら、殴られている当人たちにとっては「拷問」に近い扱いを受けていることになります。
「アラブの春」の正体という本を読んでみるのもいいでしょう。私はいいです。どれもこれもここ阿修羅で既出ですから。こ
ヒゲ-戸田さんへ。
「他人の文章を紹介する場合は、最初に「○○氏のブログにとても良い評論があったので、紹介します」、
とまず出典を明らかにして、そのブログ名とアドレスを明示してからブログ記事を表示するのが妥当ではないでしょうか。」
私はその必要性を認めません。私が投稿する記事にはかならずタイトルに引用元を併記しています(タイトルが長く引用元を併記すると60文字を超えてしまう場合は除きます)。そして私の主張がメインである投稿には当然ながら引用元はつけません。
「また、出来るだけ紹介投稿者の「立ち位置」=紹介記事へのご自分の評価も明らかにするのが望ましいとも思います。」
ケースバイケースでやらせてもらいます。
「ダイナモさんは「反帝・反シオニズムの私」と自認されているわけですが、第四インターを離れた理由や現在行なっている活動について、ざっくりとでも紹介していただきたいと、私としては希望します。」
アムネスティ・インターナショナルの賛助会員であることは公開済みです。それ以上の情報開示の必要性を私は認めません。
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