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(寄稿 2013参院選)「複雑な解釈」 神戸女学院大学名誉教授・内田樹
朝日新聞 2013年7月23日
http://digital.asahi.com/articles/TKY201307220692.html
参院選の結果をどう解釈するか、テレビで選挙速報を見ながらずっと考えていた。最近の選挙速報は午後8時ぴったりに、開票率0%ではやばやと当確が打たれてしまう。角を曲がったところで出合い頭に選挙結果と正面衝突したような感じで、一瞬面食らう。日曜の夜もそんな気分だった。
とりあえず私たちの前には二つの選択肢がある。「簡単な解釈」(これまで起きたことが今度もまた起きた)と「複雑な解釈」(前代未聞のことが起きた)の二つである。
メディアは「こうなることは想定内だった」「既知のことがまた繰り返された」という解釈を採りたがる。それを聴いて、人々はすこし安心する。「明日も『昨日の続き』なのだ」と思えるからである。「うんざりだ」とか「やれやれ」という言葉は表面上の不機嫌とは裏腹に、内心にひそやかな安心を蔵している。「何も新しいことは起きていない」という認知は生物にとっては十分に喜ばしいことだからだ。
だが、システマティックに「やれやれ」的対応を採り続けた場合、私たちは「安心」の代価として、「想定外の事態」に対応できないというリスクを抱え込むことになる。そういう場合に備えて、「私たちは今想定外の局面に突入しており、日本人は(政治家も学者もメディアも含めて)今何が起きつつあるのかをあまりよく理解していない」という仮説を立てる人間が少数ではあれ必要だろうと思う。別に全員が「複雑な解釈」にかまける必要はない。だが、リスクヘッジのためには、少人数でも「みんなが見張っていない方向」に歩哨に立てておく方がいい(それに、どうせボランティアだ)。
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今回の参院選の結果の際立った特徴は「自民党の大勝」と「共産党の躍進」である(それに「公明党の堅調」を加えてもいい)。この3党には共通点がある。いずれも「綱領的・組織的に統一性の高い政党」だということである。「あるべき国のかたち、とるべき政策」についての揺るがぬ信念(のようなもの)によって政治組織が統御されていて、党内での異論や分裂が抑制されている政党を今回有権者たちは選んだ。私はそう見る。それは民主党と維新の会を支持しがたい理由としてかつての支持者たちが挙げた言葉が「党内が分裂気味で、綱領的・組織的統一性がない」ことであったこととも平仄(ひょうそく)が合っている。つまり、今回の参院選について、有権者は「一枚岩」政党を選好したのである。
「当然ではないか」と言う人がいるかもしれないが、これは決して当然の話ではない。議会制民主主義というのは、さまざまな政党政治勢力がそれぞれ異なる主義主張を訴え合い、それをすり合わせて、「落としどころ」に収めるという調整システムのことである。「落としどころ」というのは、言い換えると、全員が同じように不満であるソリューション(結論)のことである。誰も満足しない解を得るためにながながと議論する政体、それが民主制である。
そのような非効率的な政体が歴史の風雪を経て、さしあたり「よりましなもの」とされるにはそれなりの理由がある。近代の歴史は「単一政党の政策を100%実現した政権」よりも「さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権」の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。知られる限りの粛清や強制収容所はすべて「ある政党の綱領が100%実現された」場合に現実化した。
チャーチルの「民主制は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば」という皮肉な言明を私は「民主制は国を滅ぼす場合でも効率が悪い(それゆえ、効率よく国を滅ぼすことができる他の政体より望ましい)」と控えめに解釈する。政治システムは「よいこと」をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ「悪いこと」が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる。だが、この意見に同意してくれる人は現代日本ではきわめて少数であろう。
現に、今回の参院選では「ねじれの解消」という言葉がメディアで執拗(しつよう)に繰り返された。それは「ねじれ」が異常事態であり、それはただちに「解消されるべきである」という予断なしでは成り立たない言葉である。だが、そもそもなぜ衆参二院が存在するかと言えば、それは一度の選挙で「風に乗って」多数派を形成した政党の「暴走」を抑制するためなのである。選挙制度の違う二院が併存し、それぞれが法律の適否について下す判断に「ずれ」があるようにわざわざ仕立てたのは、一党の一時的な決定で国のかたちが大きく変わらないようにするための備えである。言うならば、「ねじれ」は二院制の本質であり、ものごとが簡単に決まらないことこそが二院制の「手柄」なのである。
その法律が国民生活を守るために絶対に必要なものだと信じているなら、発議した政党は情理を尽くして野党を説き、できる限りの譲歩を行い、取引材料を駆使して、それを可決しようとするだろう。その冗長な合意形成プロセスの過程で、「ほんとうに必要な法律」と「それほどでもない法律」がふるいにかけられる。二院制はそのためのシステムである。だからもし二院間に「ねじれ」があるせいで、与党発議の法律の採決が効率よく進まないことを端的に「よくないことだ」と言う人は二院制そのものが不要だと言っているに等しい。「参院廃止」という、政体の根本にかかわる主張を「ねじれの解消」という価値中立的(に見える)言葉で言い換えるのは、あまり誠実な態度ではあるまい。
この「ねじれの解消」という文言もまた先の「綱領的・組織的に統一性の高い政党」への有権者の選好と同根のものだと私は思う。現在の自民党は派閥が弱体化し、長老の介入が制度的に阻止され、党内闘争が抑圧された「ねじれのない政党」になっている。公明党、共産党が鉄壁の「一枚岩」の政党であるのはご案内の通りである。おそらく日本人は今「そういうもの」を求めているのである。そして、「百家争鳴」型政党(かつての自民党や、しばらく前の民主党)から「均質的政党」へのこの選好の変化を私は「新しい傾向」だとみなすのである。
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では、なぜ日本人はそのような統一性の高い組織体に魅力を感じるようになったのか。それは人々が「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を政治に過剰に求めるようになったからだ、というのが私の仮説である。
採択された政策が適切であったかどうかはかなり時間が経たないとわからないが、法律が採決されるまでの時間は今ここで数値的に計測可能である。だから、人々は未来における国益の達成を待つよりも、今ここで可視化された「決断の速さ」の方に高い政治的価値を置くようになったのである。「決められる政治」とか「スピード感」とか「効率化」という、政策の内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのは私の知る限りこの数年のことである。そして、今回の参院選の結果は、このような有権者の時間意識の変化をはっきりと映し出している。
私はこの時間意識の変化を経済のグローバル化が政治過程に浸入してきたことの必然的帰結だと考えている。政治過程に企業経営と同じ感覚が持ち込まれたのである。
国民国家はおよそ孫子までの3代、「寿命百年」の生物を基準としておのれのふるまいの適否を判断する。「国家百年の計」とはそのことである。一方、株式会社の平均寿命ははるかに短い。今ある会社で20年後に存在するものがいくつあるかは、すでに私たちの想像の埒外(らちがい)である。だが、経営者はその短命生物の寿命を基準にして企業活動の適否を判断する。「短期的には持ち出しだが、長期的に見れば孫子の代に見返りがある」という政策は、国民国家にとっては十分な適切性を持っているが、株式会社にとってはそうではない。企業活動は今期赤字を出せば、株価が下がって、資金繰りに窮して、倒産のリスクに直面するという持ち時間制限のきびしいゲームである。「100年後には大きな利益をもたらす可能性があるが、それまでは持ち出し」というプロジェクトに投資するビジネスマンはどこにもいない。
学術研究でも話は変わらない。「すぐには結果を出せないが、長期的には『大化け』する可能性があるプロジェクト」には今は科学研究費補助金もおりないし、外部資金も手当てがつかない。研究への投資を回収するまでのデッドラインが民間企業並みに短くなったのである。
その「短期決戦」「短命生物」型の時間感覚が政治過程にも入り込んできたというのが私の見立てである。短期的には持ち出しだが100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない。
原発の放射性廃棄物の処理コストがどれくらいかかるか試算は不能だが、それを支払うのは「孫子の代」なので、それについては考えない。年金制度は遠からず破綻(はたん)するが、それで困るのは「孫子の代」なので、それについては考えない。TPPで農業が壊滅すると食糧調達と食文化の維持は困難になるが、それで苦しむのは「孫子の代」なので、それについては考えない。目先の金がなにより大事なのだ。「経済最優先」と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である。
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だが、日本人が未来の見通しについてここまでシニカルになったのは歴史上はじめてのことである。それがグローバル化して、過剰に流動的になった世界がその住人に求める適応の形態である以上、日本人だけが未来に対してシニカルになっているわけではないにしても、その「病識」があまりに足りないことに私は懸念を抱くのである。
古人はこのような未来を軽んじる時間意識のありようを「朝三暮四」と呼んだ。私たちは忘れてはならないのは、「朝三暮四」の決定に際して、猿たちは一斉に、即答した、ということである。政策決定プロセスがスピーディーで一枚岩であることは、それが正しい解を導くことと論理的につながりがないということを荘子は教えている。
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うちだたつる 50年生まれ。専門はフランス現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じる。合気道七段の武道家。著書多数。近著に「修業論」。
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