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(回答先: 「参院選の争点は、端的に言えば「優先順位は金なのか?命なのか?」「損得なのか?善悪なのか?」と集約可能」 (晴耕雨読) 投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 7 月 16 日 00:22:00)
気持ちはわからないではないが、「参院選の争点は、端的に言えば「優先順位は金なのか?命なのか?」「損得なのか?善悪なのか?」と集約可能」といったことを真顔で書かれたら、おいおい勘弁してくれよと言いたくなる。
「優先順位は金なのか?命なのか?」と真顔で問われれば、命がなければカネも使えないのだから、ほとんどの人が命と答えるだろう。ごくわずかだが、家族などにカネを残したいから命を捨てるという人もいるだろう。
だから政策や投票行動の選択基準にそのような考えを持ち込んでも、ほとんど意味がない。それどころか、何とかカネを稼ぎ家族共々命を繋いでいこうと必死に生きている人たちを別の陣営に追いやることにもなりかねない。
原発の再稼働を求める立地地域の人たちも、福島第一原発の事故を目の当たりにすることで原発の危険性を再認識しながら、政府や電力会社がまたも狂って歌い始めた「安全」にすがりつくことで、稼ぎの場や機会として原発の稼働を求めている。
このような判断を愚かと言うのは簡単だが、数十年といったこれまでの長い期間で作り上げられてきた生活基盤と財政構造を考えれば、ただ単に「命か?カネか?」と迫っても、貧乏に耐えろというのか、生活保護で生きていけということかと反駁されるだけであろう。
命は何より大事だが、それに劣らぬくらいカネも大事という思いで多くの人が生きているという認識を持ちながら様々な政策を考える必要がある。
デタラメな説明を盾にしながら国策で推し進められてきた原発を国策で廃絶するのなら、原発に関わることで命を繋いできた人たちの生活諸条件をどうするのかという問題を優先的に解決しなければならない。
先だっての土曜日夜にNHK教育テレビで放送された戦後史の証言シリーズ第2回「水俣」で、「命はおカネに代えられない」というナレーションが入ったが、“カネがなければ命をつないでいくことさえできない今の世の中”なのに、そんなありきたりの常套句を使ってどういう意味があるんだと哀しくなった。
「福島第一原発放射能汚染」も、認知当初の対応から補償問題のごたごたまで、「水俣病」の悲劇を踏襲するかたちで進んできたし、現状の統治構造が続く限り今後もそれが続くだろう。
「敗戦責任問題」まで持ち出す気はないが、国民の命と生活にかかわる重要問題(水俣病)が、行政と企業のデタラメな対応で深刻化させ、認知から60年経った今なお補償問題が決着されていないという悲惨な歴史を総括できていないことに日本が抱える病理の根っこが見える。
「水俣病」の責任問題をきちんと総括していれば、福島第一原発事故の初期対応から汚染地域の取り扱いや補償そして原発の存続問題も決定的に違っていたはずである。
「水俣病」がチッソの廃液に由来する有機水銀中毒であることは、患者が認知されてまもなく政府(厚労省)やチッソも認識していた。いや知らなかったという恥を忘れた反論もあるかもしれないが、それなら、統治機構や企業の幹部としては無能の烙印を押す。
ある時点までチッソが出している廃液の成分を知らなかったとしても、熊本大医学部でチッソ廃液有機水銀原因説が出た時点で、廃液の化学的成分を調査すれば有機水銀が含まれていることはわかる。
そして、それが人体に及ぼす影響は、猫に廃液を飲ませるような生体実験ではなく(その結果さえ隠匿)、湾内の魚介類を捕獲して有機水銀の濃度を調べれば推測できる。廃液以上に、食物連鎖のなかで魚介類体内に濃縮されていく生物濃縮の方が人体への影響を理解しやすいからだ。
直接の加害者であるチッソの罪がもっとも重いが、厚労省や通産省も、チッソの廃液が「水俣病」の原因と知りながら、チッソに廃液排出を止める命令を出したり、地域住民に水俣湾や不知火海で捕獲された魚介類を食さないよう公告することをしなかった。
官僚機構が、「金なのか?命なのか?」、「損得なのか?善悪なのか?」という問いに、カネと損得を選択したのである。
しかし、単純にカネと損得を選んだと言えば、失礼になるだろう。
官僚たちに言わせれば、日本国及び日本国民が持続的に豊かに向かうための判断であり、“私利私欲”ではないからである。
国家という概念的存在を尊重し、国民を生身の個として考えるのではなく抽象的量として考える統治者は、カネや損得の代わりに、国力や国家の繁栄を判断基準にする。
だからこそ、傷を負うだけでなく命さえ失う可能性がある戦場に国民を平気で駆り出すことができる。
それどころか、日本の統治者は、敗北必至の戦況にあっても、もしかしたらとあらぬ期待をかけ、負けだから和平をとはとても言えないとずるずる戦争を続けた。300万人の同胞犠牲者のうち200万人は敗北必至の状況下で死んでいったと言われている。沖縄も、まともな統治者であれば、あのような地上戦と占領支配を受けずにすんだ可能性がある。
「水俣病」に関し、当時の日本政府は、日本が「高度成長」を続ける代償として、水俣病患者を見殺しにしただけでなく、新たな水俣病患者が次々と生まれる状況を許容したのである。
そして、そのような政府だからこそ現在も、水俣病患者の認定も、代表的な4つの症状のなかの一つだけでは認定せず、複数の症状がある人のみを認定するという仕打ちを平気で行っている。
このような仕打ちは、悲しいことに、今後、福島第1原発事故絡みでも行われる可能性がある。重篤な病気が発生しても、県民健康調査などを盾に、「その病気と原発事故との因果関係は認められない」と“科学”を装ってはねつけるというものだ。
許容はしないが、原発再稼働に動く政府の気持ちもわからないではない。最大の理由付けは、電力供給方法の多様化維持であろう。核兵器開発はともかく、原発を残すことで、原油や天然ガスが思うように輸入できなくてもそこそこの電力供給ができる態勢にしておきたいというのは、国家統治者であればすぐに考える。
それならそうで、リスク低減策は講じるが、再び福島のような原発事故が起きる可能性はあると説明したうえで国民多数派の同意を得なければならない。
この投稿の表題との関係で言えば、NHKの番組で、チッソ城下町の様相を呈していた水俣の市民が、加害企業であるチッソではなく、被害者である水俣病患者に“怒りの矛先”を向けていた歴史が語られていた。
水俣病患者が騒ぐから水俣の評判が落ち観光客も水俣を避ける、水俣病患者が補償を求めるとチッソが倒産してしまうといった理由からである。
このような認識については、そうじゃないだろうとは言いたいが、統治者やチッソ経営者に対する思いとは違って、非難する気にはあまりならない。
なかには悪質な市民もいただろうが、生きることで精一杯の市民を分断対立させて、廃液排出をずるずると続けたり、水俣病問題の解決を遅らせたりしたチッソや政府のふざけた対応こそを糾弾すべきと考えるからだ。
「優先順位は金なのか?命なのか?」と二者択一を迫らずとも、命を何より優先しつつおカネ(=生活)も重要視した政策は可能である。
「損得なのか?善悪なのか?」も、損得勘定と善悪判断は別ものである。損を承知が善とは言えないし、得を考えるのが悪というわけでもない。法と個々人の価値観で決することである。
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