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「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。(国際派日本人養成講座)
http://www.asyura2.com/13/senkyo149/msg/137.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 6 月 09 日 08:17:10: 8rnauVNerwl2s
 

「河村市長は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から8年しかたってないのに、南京の人は父に優しくしていただいた」と指摘した。「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。」
・・・・


共産主義者は嘘つきなのか、嘘つきは共産主義者なのか、どちらだろう。

韓国の共産主義者の集まり全教組が、北朝鮮を利するため、「韓国人の95%が狂牛病に感染しやすい遺伝子を持っている!」「10人中7人が狂牛病になる!」とまるで韓国が崩壊しかねないというデマを流がしたが、全くのデタラメだった。
(日本でも同様のデマが流されていることに注意)

個人的には日本の極左は戦後のドサクサで入国した北朝鮮系の工作員だと思っている。
(在日朝鮮人帰国事業の阻止に向け、密入国した韓国工作隊を想起せよ。)

柳条湖事件も中国共産党の工作であったことが判明している。

東京裁判史観からの脱却こそが、真の東アジアの友好の基礎となる。

国際派日本人養成講座から
http://blog.jog-net.jp/201203/article_1.html


「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。

■転送歓迎■ H24.03.04 ■ 39,935 Copies ■ 3,512,387Views■


■1.河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言

 名古屋市の河村たかし市長が2月20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったと思っている」と発言した。

 その根拠として、河村市長は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から8年しかたってないのに、南京の人は父に優しくしていただいた」と指摘した。「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。

 これに対し、中国南京市は「河村市長は南京大虐殺の史実を否定、南京人民の感情を著しく傷つけた」として、名古屋市との交流を当面中止すると発表した。

 両者の姿勢は対照的である。河村市長は父親の体験を根拠として、「南京事件」はなかった、と主張しているのに対し、南京市の方は根拠も示さずに「史実」と決めつけている。

 さらに河村市長は「互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とオープンな議論を前提とした友好を望んでいるのに対し、南京市の方は河村市長の主張自体が「感情を著しく傷つけた」として、議論そのものを拒否している。

 そもそも相手の主張に対して、自分の「感情が傷つけられた」などと非難するのは、単に議論を拒否して、自分の言うとおりにしろ、と言うのと同じである。中国の方が根拠も挙げずに「南京大虐殺」を主張して、日本国民の「感情を著しく傷つけた」ことはお構いなしだ。こういう姿勢から、真の友好が生まれるはずがない。


■2.中韓の自己正当化のための歴史

 近年、我が国は中国の「南京大虐殺」や韓国の「慰安婦問題」など、近隣諸国の歴史攻撃にさらされてきたが、「言いたいことがあっても我慢して、心から謝れば、許してくれる」という日本的な美徳が通用しない相手である事は、誰の目にも明らかになりつつある。

 やはり、相手の非難に対して、歴史事実がどうであったかを徹底的に反論する必要がある。その意味で、河村市長の「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」という発言は、国際常識に則った姿勢である。

 歴史のウソを政治宣伝に使うという手段は、古今東西を問わず、広く行われてきた。特に中国の歴代王朝は自らを正当化するために、前王朝の歴史を悪し様に書くことを伝統としてきた。

 現在の共産党政権も「日本軍の侵略から中国人民を解放した」ことを、正当性の根拠としており、そのためにも「南京大虐殺」のように日本軍の悪逆非道ぶりを言い立てる必要がある。

 中国文明の伝統を濃厚に受け継いでいる韓国も同様で、日本帝国主義から国民を解放したことを正当性の根拠としている以上、日本統治が立派であったなどとは、口が割けても言えない。政権末期になると、かならず「慰安婦問題」や「日帝(日本帝国主義)36年の搾取」を言い立てて、国民の不平不満を反日の方向にそらし、支持率を維持しようとする。

 中韓とも、歴史とは自政権の正当性を主張するためのカードであるから、彼らの歴史とは、史実を追究することを目指す近代的な歴史学などとは、似て否なるものである。[a]

 したがって、いくら学問的に論破しようとしても、相手が聞き入れるはずもない。しかし、まずは日本国民自身が彼らの主張の荒唐無稽さを十分に理解して、彼らの歴史攻撃をはねかえすだけの世論を持つ必要がある。本稿では、そのためのノウハウを二つ紹介したい。


■3.「脳裏再現性の原則」

 長浜浩明氏は『文系ウソ社会の研究』で、戦後左翼が語ってきた様々なウソを列挙し、そうしたウソの見破り方として、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』で説いた原則を紹介している。その第一が「脳裏再現性の原則」である。ベンダサンによれば、

__________
「事実」を述べる場合は、語られた言葉のどこかに「明確な写生的表現」が含まれているのが当然で、それがないのは異常だと言うことは確かに言えます。[1,p239]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 人間が外部から得る情報の80%以上は、視覚を通じてだという。したがって、本当に本人が見聞したことなら、それを視覚的な光景として表現できるはずである。逆に脳裏に再現できない光景というのは、ウソである可能性が高いということになる。

 長浜氏は、この原則を「南京大虐殺」で自らも悪逆の限りを尽くしたと主張する自称「元陸軍一等兵」東史郎が『わが南京プラトーン−一召集兵の体験した南京大虐殺』に記述した内容に適用している。それは次のような一節である。

__________
 日本軍の分隊長が支那人を郵便袋に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、冷やしてやると言って手榴弾を結わえて沼に放り込み爆死させた。[1,p236]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この分隊長・橋本光治氏が登場して、東を名誉毀損で訴えたことで裁判となり、この記述が法廷で吟味されることとなった。裁判の結果、「本に記載されている虐殺行為を裏づける客観的証拠も、描写を真実として信ずる理由もない」として、法廷は東らに罰金50万円の支払いを命じた。


■4.「彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った」

 東は裁判の途中でも、TVに登場して、こう語った。[b]

__________
(ナレーションが東の日記を読み上げる)
 どこからか、一人の支那人(放送ママ)が引っ張られてきた。彼を袋の中に入れ自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。

(東) ガソリンぶっかけて、ガソリンというのをね、たった一リッターかけても、ブワッと広がるんです。ボーッと飛び上がりおった。飛び上がって、転がるわけね。・・・

「おい、そんなに熱ければ、冷たくしてやろうか」と言うと、手りゅう弾を2発、袋の紐に結びつけて沼の中へほうりこんだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 東の証言で、その状況が脳裏に再現できるか、という観点から、長浜氏はこう述べる。

__________
 先ず郵便物を人に押込んでガソリンで火をつけた後、どの様にして手榴弾を結びつけたのか。結びつけてから安全装置を外したのか、燃えさかる中でそんなことができる筈がない。

 この郵便袋を池に投げ込んだというが、燃えさかり、手榴弾を結びつけられ、人の入った郵便袋を素手で投げ込んだのか、想像すらできない。[3,p241]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 長浜氏の主張をヒントに、もう少し想像してみよう。郵便袋にガソリンをかけて火をつけたら、炎が「ブワッと広が」って、近づくことすら危険だろう。その中の人間が「飛び上がって、転がる」。それを押さえ込み、手榴弾を結びつけるだけで、大やけどしてしまうはずだ。

 また人間なら少なくとも50キロはあろう。水中とは言え、手榴弾を爆発させるなら、危ないから少なくとも10メートルほどには遠くに投げなければならない。スーパーマンならいざ知らず、普通の人間がどうやったら、50キロもの人間入りの袋を、しかも燃えさかっている状態で、何メートルも投げることができるのか。

 そもそも、この分隊長は、自分が大やけどをしたり、手榴弾の爆発で大けがをする危険を冒してまで、なぜこんな手の込んだ遊びをしなければならないのか。

 どうにも脳裏で再現することが不可能な光景である。判決で「描写を真実として信ずる理由もない」というより、「描写をウソとして信ずる理由ばかり」と言うべきだろう。


■5.「機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し」

 もう一つの例を取り上げてみよう。東京裁判では「南京大虐殺」で26万人以上が虐殺されたと判決を下したが、その根拠の一つが次の証言だった。[c]

__________
 敵(日本)軍入城後、まさに退却せんとする国軍、および難民男女老若合計5万7048人を幕府山付近の四、五ヶ村に閉じ込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者すこぶる多し。

 1937年12月16日の夜間に至り、生き残れる者は鉄線をもって二人を一つに縛り四列に並ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。しかる後、機銃をもってことごとく掃射し、さらにまた、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて焼けり。焼却後の残屍はことごとく揚子江中に投入せり。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 機銃掃射し、銃剣で刺し、石油をかけて殺し、さらにその屍を揚子江に投入するなどという手間のかかることを、なぜ日本軍はしなければならないのか。

 そもそもこの証言者は、こういう虐殺シーンに立ち会いながら、どういう風に生き延びたのか? 日本兵に見えない透明人間として現場を見ていたというなら、分かるが。

 これも前節の例と同じで、脳裏に思い浮かべることのできない光景である。


■6.「数字補強の原則」

 もう一つのウソを見破る方法として、ベンダサンが挙げているのが「数字補強の原則」である。脳裏に情景が浮かばないのに、日時・時間・距離・金額その他の数字が異常に正確なものは、数字によって信憑性を補強しようとしており、その数字を子細に検討すれば、「必ず数字に矛盾が出てくる」とベンダサンは言う。[3,p240]

 この証言でも「5万7048人」という数字が出てくるが、「四、五ヶ村」もの広域に閉じ込められた人数を、しかも「凍餓し死亡する者すこぶる多し」という危機的な状況の中で、どうしてこんなに正確に数えられるのか? それも、村の数ですら「四、五ヶ村」としか、数えない人間が。

 この証言書は書面として提出されただけで、証言者に対して弁護
側が反対尋問する機会は与えられなかった。アメリカ人弁護士は、
「本人を出廷せしめて、直接反対尋問することは、(英語を話す国
民においては)常識である」と批判している。それが出来なければ
「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分から
ない人間の証言を使って審理することになる」という。

 東京裁判で26万余名の虐殺があったとする判決の根拠の一つが、この「見たこともない、聞いたこともない、またどこにいるかも分からない人間」の証言した「5万7048人」なのである。


■7.遺体埋葬数の不思議

 もう一つ、26万余の犠牲者があったとする根拠のうち、大きなものは、南京市崇善堂という慈善団体が犠牲者112,266体の埋葬を行ったという資料である。

 その詳細数値が期間毎に出ており、これを一日平均埋葬数として算出すると、以下のようになる。

・昭和12年 12月  506体/日
・昭和13年 1月  49
・     2月  87
・     3月  77
・     4月 8,060

 事件直後の1912年12月こそ、一日あたり506体もの遺体を埋葬しているが、その後、49体、87体、77体と減少している。3月までの記録では、埋葬場所も記録されており、合計で7,548体であり、ここまでは理解できる。ただ戦闘での死者もありうるから、当然のことながら、埋葬数=虐殺数ではない。

 それが事件後、5ヶ月目にして、一挙に日当たり8,060体と百倍にも急増している。場所は城外というだけで、記載がない。弁護側は、日本軍が清掃した後で、5ヶ月も経ってから、合計10万4718体もの死体が残っているはずがない、と主張している。

 この記録も、証人を喚問して、弁護側が反対尋問をかけたら、すぐにウソがばれたはずだ。「南京大虐殺30万人」とは、こんな数字から出てきているのである。


■8.中国に「南京大虐殺」カードを捨てさせるには

 中国の言う「南京大虐殺の犠牲者30万人」の根拠とは、この程度の子供騙しなのである。そして、中国政府はそれを知りつつも、今後も「南京大虐殺」という外交カードが有効である限り、それを使うことをやめないであろう。

 この外交カードを無効にするためには、まずは日本国民の中で、中国の言う「南京大虐殺」がどれほどいい加減で、根拠のないものであるかをよく認識する必要がある。そして河村市長のような発言が出た場合に、広範な国民的世論でしっかり支持をし、中国側が友好行事の中止などと揺さぶりをかけても、「どうぞご勝手に」と無視する姿勢が必要である。

 逆に、日本の政治家や外交官が、目先の「日中友好」を求めて、「南京大虐殺」を史実として認め、すぐに謝ってしまおうとしたら、それに対する轟々たる世論の非難を浴びせかけなければならない。政治家や官僚が、国家国民の名誉よりも、自己の保身や功業を優先すれば、当然、その報いを受けなければならない、というのが、民主政治の正道である。

 日本国民がこのような確固たる世論を確立して、中国が「南京大虐殺」は外交カードとして効力を失った、使っても損をするだけだ、と悟った時、彼らはその使用をあきらめるであろう。要は日本国民の自覚の問題なのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(445) 「反日」は中・朝・韓の屋台骨
 中国・北朝鮮・韓国が「反日」を必要とする3つの理由とは。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog445.html

b. JOG(587) TBSの懲りない面々
 なぜ偏向報道・捏造報道が繰り返されるのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h21/jog587.html

c. JOG(015) 先入観を打破する定量的検証を
 南京事件犠牲者数の定量データを分析すれば、中学生でも嘘が見破れる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog015.htm


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. msn産経ニュース、H24.2.20、「『南京事件なかった』と河村名古屋市長 中国共産党の市常務委員に『互いに言うべきこと言おう』http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120220/lcl12022011410001-n1.htm

2. msn産経ニュース、H24.2.24、「【主張】河村氏の南京発言 これで問題視されるとは」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120224/lcl12022403050000-n1.htm

3. 長浜浩明『文系ウソ社会の研究』★★、展転社、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886563228/japanontheg01-22/


 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年6月09日 08:20:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
南京30万人虐殺は事件直後に欧米人によって行われた一番信頼できる調査に基づいているので、否定するのは無理だよ:


【ロンドン21日共同】一九三七年十二月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から六十五年。当時、

「長江(揚子江)デルタで市民三十万人以上が虐殺された」

と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを二十一日までに共同通信が入手した。 
                
 犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで三十万人とするが、日本では数千人―二十万人など諸説ある。電報では、犠牲者「三十万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。  
  
 電報は三八年一月十六日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(五四年死去)。                   
 電報のコピーは同記者の他の電報記事や、検閲を英上海総領事に通報した一月二十一日付書簡のコピーなどとともに英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

「三十万人以上虐殺」情報の出所は「有能な外国人観察者の調査」と記されている。   

                    
 今年十月四日付のガーディアン紙が電報の一部を報道。当時、日本当局が国際非難に備えるよう警告するため、在外公館にティンパリー記者の電報内容を伝えた際に「長江デルタで」の部分が脱落、以後誤って引用され続けた、との見方を示していた。
      
 同記者は三八年夏、ロンドンで「戦争とはなにか」を出版。同書の邦訳「外国人の見た日本軍の暴行」(評伝社)では、この電報を下敷きにしたとみられる記述で、

長江デルタで「戦闘によって少なくとも三十万人の中国人が犠牲となった」と書かれている。 

12/21 18:03 英紙記者電報の要旨  外信65


 【ロンドン21日共同】英紙マンチェスター・ガーディアンのティンパリー記者が書いた一九三八年一月十六日付の電報記事の要旨は次の通り。                        
 一、日本軍が南京などで犯した残虐行為について、信頼できる目撃者の証言、信頼性に疑いのない人々からの手紙など説得力ある証拠の裏付けがある。                     
 一、有能な外国人観察者の調査によると、長江(揚子江)デルタで市民三十万人以上が虐殺された。
              
 一、上海でも逆上した日本軍兵士が続けざまに事件を起こすため、善良な日本人たちは深く恥じ入っている。十六日付のノースチャイナ・デーリーニュース紙(上海英字紙)は、女性と酒にありつけなかった日本人兵士が六十歳以上の中国人女性三人を射殺し、数人を負傷させたと報じた。                   
(了)  021221 1803              
[2002-12-21-18:03]
12/21 17:25 南京大虐殺とは  外信56

 南京大虐殺 日中戦争時に当時の中国国民政府の首都、南京を占領した際、旧日本軍が1937年11月から翌38年2月にかけ、中国軍兵士に加えて多くの民間人を巻き添えにして殺傷、女性暴行、略奪を行った事件。                    
 旧日本軍は長江(揚子江)沿岸一帯を占拠しながら包囲網を狭め、12月13日に南京を陥落させた。国民政府は重慶に首都を移し、抗戦した。                        
 犠牲者数については、なお国内外で論争が続いており、中国側は南京だけで30万人と主張、日本では数千人から20万人までさまざまな説がある。(共同)
http://www.asyura2.com/2003/bd22/msg/154.html


02. 中川隆 2013年6月09日 08:25:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日

ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html


03. 中川隆 2013年6月09日 08:29:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
南京での虐殺を知った広田弘毅は直ちに昭和天皇に虐殺中止を申し入れたが、昭和天皇に拒絶された。

なぜなら虐殺は昭和天皇直々の指示だったから:


南京大虐殺の真相


鬼頭久二(1916年8月生まれ)

第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)

第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。

つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)

南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。

するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre


キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。

その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた.

その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。

松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた.

突然に天皇が姿を現した。松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。
裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。

二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。

9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。

鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。

彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。

つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。

上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」

華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。
この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。

戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した
中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。
その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。
だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。
参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm


残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。

またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。

朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。
それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。

そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。

 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する

朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。

 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。

 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。


 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。

南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。

上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。

日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。

南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。

 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。

教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。
未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。


凱旋入城

 12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。

パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。

 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)

 その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」

彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。

上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝霞宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。

 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)


 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。

1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。

南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。
しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。

しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした

南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、

「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」

と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。

 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。

 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。

彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


04. 中川隆 2013年6月09日 08:41:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


05. 2013年6月09日 08:41:44 : LR76MZRBC6
投稿者も、ネットで初めて真実を知った、とかいうアホさんなんだろね。

06. 2013年6月09日 09:02:12 : NczT64tl2U
アホーはこの南京大虐殺をなかったとの話を信じてしまって土ツボにはまる。

河村の父親の話ごときで史実が否定できるなどとの思考方法自体がアホーだろう。
中国がいう30万人の虐殺が大げさで誇張された数字であることは確かだがだからと言ってこの虐殺が否定されたことには全くならない。

敵の首都を陥れて誰が敵か判らない街中で入って軍人だけを選別して殺すことなど不可能なことぐらいわかりそうなものだ。

ニュースを伝えられた日本では提灯行列をしてはしゃいでいた。冷静な思考力などあったものではない。


07. 2013年6月09日 09:20:12 : KDjRh8bpL2
確認した死体の数を明らかにしろよ。
死体なしで人数をカウントできるはずがない。
その死因の解剖所見もだが。

08. 2013年6月09日 09:29:56 : W18zBTaIM6
中国の農村ではどこに誰が居るかみんな知ってるから、居なくなった人の数を集計すればすぐに虐殺された人数がわから。

30万人虐殺というのはそういう聞き取り調査の結果だよ。


09. 2013年6月09日 09:53:10 : F5QucHJwps
>国際派日本人養成講座

阿呆ウヨ内弁慶派日本人養成講座でした
ちゃんちゃん


10. 2013年6月09日 09:55:25 : jxZFRv3P5c
自虐史観を正せ、東京裁判(極東軍事裁判)一方的に勝者が敗者を裁いたもの、インドのパール判事は日本無罪を主張した。

『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著より

  この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。

中川隆らに惑わされないようにね。


11. 2013年6月09日 09:59:07 : xi4uCq3zOo
中川隆 が何と◆へ理屈を述べても………南京滞在8年の経験から………「南京大虐殺」説は.ウソだろう。あったとしても5000人から50000人の間だろう。中国共産党のウソにだろう………日本だって中国共産党のような◆悪清和会〔検察支配〕が小沢氏失脚の陰謀をでっちあげている。ムサシで悪清和会〔検察支配〕は.不正選挙までしている。。。。中国共産党が「南京大虐殺」言うのは.蒋介石の無能を言うためだろう。

12. 2013年6月09日 10:03:31 : bR6HtcMLCU
金になるなら何でも掲載するクズ週刊誌の「週刊朝日芸能」などを根拠にしている事で、この話しはお終い!

13. 中川隆 2013年6月09日 10:27:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

悔しかったらまずこれを否定してね:

南京事件の真実

「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


14. 2013年6月09日 10:33:19 : ezXH3if93Y
>>08
消えても自動的に殺された事になるはずがない。
病死事故死単なる行方不明などを排除するには解剖所見なども必要。
確認した死体の数を明らかにしろよ。
死体なしで人数をカウントできるはずがない。
その死因の解剖所見もだが。
>>11
小沢でっち上げとか主張したい場合は根拠を論理的に証明できないものを全部推定無罪か無罪にしないと小沢の足引っ張るだけになりかねない。
不正選挙の論理的な証拠は何だよ。
小沢無罪を主張したいなら推定有罪は論理矛盾になる。

15. 2013年6月09日 10:39:25 : ezXH3if93Y
>>13
解剖所見や確認した死体の数を論理的に明らかにして証明しろ。

16. 2013年6月09日 10:41:09 : cIkmTyypTY

 愛です 10万でも 30万でもよい

 反論する意味がない 既に 史実としては 30万人と決定している

 ===

 既に 否定する事は出来なくなっている

 慰安婦でも 南京大逆説でも  世界の見方は 日本軍の非道で決まりだ


 1. 女を強姦して 殺した
 2. 敵の軍隊を 川に並べて 1万人位 1夜で殺した
 3. 略奪をして それを台湾に送って 隠した
 4. 民間人を手当たりしだい殺した

 ま〜〜 書けば いっぱいあるけど そういうことですな〜〜〜
 


17. 2013年6月09日 10:44:14 : ezXH3if93Y
>>16
解剖して確定させた数も含めて確定させた死体の数は何体なんだ?
死体なしでわかるはずがない。 確認した死体出せよ。

18. 2013年6月09日 10:55:10 : j7pjxYsVVI
>>01. 中川隆 2013年6月09日 08:20:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
> 南京30万人虐殺は事件直後に欧米人によって行われた一番信頼できる調査に基づいているので、否定するのは無理だよ:

ジョン・ラーベ著、エルビン・ヴィッケルト編、平野郷子訳「南京の真実」講談社(1997)
によると、
「中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか、我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。」p.317
しかし、この数値も多すぎるとの指摘がある[1]。

当時の中国は「十万人の民間人が殺された」と主張していたが、今は「南京30万人虐殺」へ増加している。

1997年にラーベの日記が公表されたとき、ニューヨーク・タイムズは、ラーベを「南京のオスカー・シンドラー」と称えた。p.276

ジョン・ラーベは日本軍占領下の南京で、南京国際安全区委員会の代表となって中国人を救おうと奔走し、当時の状況を詳細な日記に記した。[著者プロフイ−ル]

アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」でも虐殺数を30万人と書いて居るが、この本は大嘘の羅列であることは指摘されている[1]。

中川隆さん、南京30万人虐殺は事件直後に欧米人によって行われた一番信頼できる調査に基づいて否定されているよ[2,3,4}。
欧米人の記録を否定するのは無理だよ。

>>13. 中川隆 2013年6月09日 10:27:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
> 悔しかったらまずこれを否定してね:

アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のずさんさ
http://history.gr.jp/~nanking/chang.html
•「南京大虐殺」“証拠写真”を鑑定する・・・秦郁彦日大教授、1998(平成10)年「諸君!」4月号
•チャンの氏著作に“歴史の偽造・・・東中野修道亜細亜大学教授、1998年4月8日産経新聞より
•チャン、使用写真のウソ!(1)        松尾一郎
•チャン、使用写真のウソ!(2)        松尾一郎
•チャン、使用写真のウソ!(3)        松尾一郎
•偽造のプロだ!アイリス・チャン!       松尾一郎
•なぜ私は「レイプ・オブ・南京」を書いたか   アイリス・チャン「論座」98(平成10)年10月号より

[1] 「南京虐殺」"証拠写真"を鑑定する
http://history.gr.jp/~nanking/chang01.html
アイリス・チャン本の内容たるやグロテスクの極み。
加えて写真の誤用も数えきれず。岩波・笠原十九司本にも看過しえない写真が!
文藝春秋「諸君!」1998年4月号より
秦 郁彦(日本大学教授)

[2] やはり、南京大虐殺は、なかった線が強いですね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1381931448
参考2:否定説の一つは、1938年1月26日に開催された国際連盟理事会にて、中国政府代表の顧維均が日本を非難し、「日本が南京を攻略した際、2万人の民間人を虐殺した、これに対し国際連盟は行動をとるべきだ」と主張したが、連盟側は「そんな事実はあり得無い」として受け入れなかった事実があるとしている。

[3] ザ・レイプ・オブ・南京のアイリス・チャンはどうして自殺したのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311344318
また南京事件徹底検証の著者である、東中野修道 [ 亜細亜大学法学部教授 ] 氏が、チャンの描く史実の偽りや、南京戦の荒唐無稽[こうとうむげ]の作り話をなんと『 90箇所 』も指摘した!
 さらにチャンに対しては8項目にわたる『 公開質問状 』をぶっつけた。だがチャンはまったく反論さえもできず、挙句の果てに「ピストル自殺」し死んだのだ。
日本国の国家、国民に対してアイリス・チャンは死んで詫[わ]びたと言いってもいいだろう。我が国が争いを避けるため必死に黙っているのにつけ込む狂産[共産]中国人どもは一体何をやらかすか油断も隙もあったものではないのだ。

[4] 南京事件 (1937年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン(英語版)通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。
漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。
また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。
またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した[29]。


19. 中川隆 2013年6月09日 11:00:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
松井岩根が虐殺を認めてるんだから否定できる訳ないだろ。

人数については南京城内か周辺地域を含めるか、捕虜虐殺を含めるかで違ってくるだけさ。


20. 2013年6月09日 11:14:10 : VCWoEQhAHI
>>18-19
アイリス・チャンが死体30万確認した証拠出せ。

21. 2013年6月09日 13:26:50 : W18zBTaIM6
>私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし


南京市内では殺していない。

死体を処理し易い処刑場で効率的に殺したからね。

報道管制がきつかったから部外者は何も知らなかったしね。


22. 2013年6月09日 14:37:32 : Yzb8JXKJcE
18

キミの南京大虐殺の否定資料は毎月ウヨ雑誌にかいてあるわな。

あきもせずに何十年経っても、南京大虐殺否定、従軍慰安婦に軍の関与はなかった、東京裁判は間違っていた、それでインドのパール判事を持ち出す。

同じことばかり書いていてよくあきないもどだと感心している。一つの新興宗教と見ることも出来る。

名前は「南京大虐殺否定教」「日本軍は正しかった教」といったところ。


23. 2013年6月09日 15:10:34 : VCWoEQhAHI
>>21-22
解剖所見とその人数を確定させる証拠出せよ。
そしてその場所は何か所でどこにあるんだよ。
そしてそこに配置された人数予算大きさ建物の構造なども明らかにしろよ。

24. 2013年6月09日 16:06:54 : W18zBTaIM6
東京大空襲も証拠は無いだろ。 同じさ。

25. 2013年6月09日 16:53:44 : MoZbMQAfGU
>>24
解剖所見や建築物などの論理的な物体証拠を提示しろ。

26. 2013年6月09日 17:03:42 : f9WdyZuW9Q
>18

ウヨクゾンビ共に都合さえよければ、もう唯一パール判事如き、インドでも無名に近い人物の言のみを、後生大事に持ち上げては、鬼の首でも取ったようにほざきまわる!

ならばマヘトマ・ガンジーはどうなんだ!
ネルーはどうなんだ!

●「全ての日本人へ」(1942/7/26 「ハリジャン」紙に掲載)

マハトマ・ガンジーのメッセージの中で、日本軍国主義の堕落と中国侵略戦争を厳しく批判し、ネルー国民会議派議長は、ゲリラ戦での対日抵抗を断固主張!!

如何にインドが独立の悲願に燃えていようが、日本軍国主義の正体を知った主流は、大戦末期のビルマでも、マレーでもシンガポールでも英軍と一体化の英印軍として、日本軍と戦い駆逐していったのが、残念ながら厳しい史実だ!

お前らウヨクどもが、如何に侵略戦争を正当化しようが、'45/8の日本占領下のラングーンや、シンガポール解放で、驚喜する住民たちの偽りのない姿こそ、その何よりの証明だ!

いい加減、バカげた夜郎自大から目を覚ませ!!



27. 2013年6月09日 17:33:02 : OT4sYYQh4I
>>26
物体に基づいた証拠って言葉が理解できるなら解剖所見や建築物などを提示しろ。

28. 2013年6月09日 17:57:41 : vuQpagMXxI
今の中国では「南京大虐殺」を言い反日を示さないと職には就けないし処遇もされないわけです。仕事も上手く行かない。ですから、真実は何かなどということは、彼らにとってはもうどうでも良いことなのです。「南京大虐殺」に抗議すると上の覚えが良いのなら嘘でも何でも言う。これはもう共産ファシズムです。そういう国です。一度も民主主義が実現しなかった国です。中国が歴史の真実を重視するなどということは、たとえ今の政権が倒れてもあり得ない話です。

韓国も同じです。ソウル大学の教授が、ほんの少し親日的な歴史解釈をしただけで、会議場で殴られて首を絞められる国です。嘘とか本当とかもう関係ない国なのです。こういうのはコリアンファシズムとでも言うのでしょうか。もうこの国は死んでも治らないという国なのです。

わからないのは、日本人でネットで汚い言葉を使って反日的なコメントをしている人達です。彼らにはそうすることで政治的にも経済的にも思想的にも何にもメリットはないのにどうしてそういう行動をするのか理解に苦しみます。それとも何かメリットがあるのだろうか。あるいは日本人ではないのだろうか。


29. 2013年6月09日 18:58:23 : W18zBTaIM6
歴史学の常識を否定したら日本が孤立して未来が無くなるからさ。

30. 2013年6月09日 20:03:23 : plsk27d8TE
この問題もアサヒのお調子者売国狆聞が
片棒を担いでいる
上海陥落を報じた際
百人切りのがせねた報道で
ほらを吹いた2人の将校は処刑されたが
がせねた報じたアサヒ免罪
マンガ右翼にネウヨよ
敵は
隣国でも不治産経でもない
築地の朝日狆分を囲むべきだろう
所詮君らの愛国心は
アルバイト代程度のものと思っているが

31. 2013年6月09日 20:37:24 : W18zBTaIM6
百人斬りは誰も疑ってない。

農民を縛って座らせてから斬っただけだから簡単だったのさ。


32. 2013年6月09日 21:03:50 : FtvUWeBT3A
>>29 >>31
抽象的な証拠や観念はいらないから実証主義的な証拠出してくれないか。
死体は何体確認できたんだ?
常識といいたいなら解剖所見を明らかにしてくれないか常識なんだろ。

33. 2013年6月09日 21:24:24 : W18zBTaIM6

これ読んでまだ虐殺を否定できるアホはいないだろ:


南京事件資料集
http://www.geocities.jp/kk_nanking/


34. 2013年6月09日 21:26:02 : W18zBTaIM6

百 人斬りとはなにか

 1.テキスト解析                             2006/07/29
 2.報道された○○人斬り                       2006/07/29
 3.「ホラ」と「冗談」                         2008/06/30
 4.野田回想メモを検証する                     2003/11/03
 5.向井・野田証言vs記者 証言                  2003/11/05
 6.二少尉の主張の変遷                       2006/06/17
 7.グースの百人斬り否 定論を反駁する     2008/08/01
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

35. 2013年6月09日 23:14:37 : 9WSvSiiKKk
>>33-34
(30万人分の)解剖所見という日本語理解できないのか。
解剖所見を出してくれ。

36. 2013年6月09日 23:38:18 : W18zBTaIM6
日本軍が証拠隠滅したから残ってる訳ないだろ。

37. 2013年6月09日 23:40:57 : W18zBTaIM6
10万人以上はガソリンかけて焼いた後、長江に流してるよ。

海底を探せば破片が残ってるかもしれないけどね。


38. 2013年6月09日 23:48:41 : u5jyTEoN4E
南京虐殺の歴史的事実を否定する連中は、10万人が虐殺された3・10東京空襲や20万人が殺戮された広島・長崎の原爆も「嘘だった」と「証明」できるんだろうな。
敗戦直後、日本に進駐した米兵は、数か月後にはおおむね友好的に遇された。
南京虐殺の被害者数が30万人というのは確かに立証は難しいだろう。でも2、3万人なら大したことがないのか。そうじゃないだろう。
多くの日本側の証言でも、南京攻防戦に敗れた中国軍が便衣隊として、一般人の服に着替え逃走を図ったり、ゲリラ戦を続けたりした。これに対し、勝ちにおごった日本兵が、一般人を中国兵とごちゃ混ぜにして銃を乱射した。さらに、中国兵の逃走を助けたとして女性らも殺戮したという事実は動かない。日本と同盟を結んだドイツの宣教師も「女子供を含む数えきれない死体が街路や用水を埋めている」と本国に報告している。このおぞましい日本人の蛮行を全面的に否定することはできない。
残念だが、男らしくこの歴史的事実を認め深く反省し謝罪するしか、新しい日中関係は築けない。
だいたいが、なぜ日本軍が遥か遠い南京などにいたのか。これを自衛・自立のための戦争と言えるか。中国を侵略したことまで否定するのか。
私は日本人として、虐殺の事実をごまかそうとする破廉恥な日本人を恥ずかしいと思う。

39. 2013年6月09日 23:57:52 : 9WSvSiiKKk
>>36-37
証拠もないのに30万と言い切るなら解剖所見を出せよ。
日本軍が、証拠隠滅を、いつ、どこで、どのようにしたのかも示せよ。
そのガソリンはどうやって調達したんだよ。
そしてガソリンは何リットル使ったんだよ。
燃やした年月日も明らかにしろよ。
思いつきでないのならだか。

40. 2013年6月10日 00:02:03 : 9WSvSiiKKk
>>38
お前はまず自分自身が日本人である証拠を出せよ。
日本人と言っただけで日本人の証明になるはずがない。

41. 2013年6月10日 00:45:10 : W18zBTaIM6
>証拠もないのに30万と言い切るなら


虐殺直後に行われた唯一の信頼できる調査の結果が30万人虐殺だ。

その後、日本軍が証拠隠滅して再調査は不可能になった。

従って、30万人虐殺が一番信頼できる数字だというだけだ。


42. 2013年6月10日 01:11:01 : vuQpagMXxI
網野善彦が説くように、歴史的出来事には唯物史観的に必ず唯物論的必然性があるわけです。非干渉主義だったアメリカが第二次世界大戦に参戦したのは、デフレ克服のために市場を中国に求めようとしたことに由来しています。日本が満州の権益を守ろうとしたことには必然性が認められますが、上海から南京に進軍したことには何ら必然性がないように思えます。膨大な軍事費を費やして何を目的に進軍したのか説明できません。これが居留民とか何かの自衛のためなら理解出来ます。

「南京大虐殺」にしても、その必然性は何かと考えると日本側から見れば戦闘行為以上のものは何もないのです。そういう必然性が根底になければ、そういうことを主張することのほうが根拠のない虚言とみなされても致し方ないわけです。

ところが、中国とか先進国と言われる韓国までもが、そういう虚言を利用するようになったということは、これは国家としての品位を考えるとこれ以上ない恥ずべきことではあるのですが、軍事的経済的政治的に他国を曲がりなりにもコントロールできるようになったということを示しています。

では日本はどうだったかというと、第二次世界大戦で多くの若い命が失われました。その結果、大正から昭和一桁生まれの日本人が非常に少なくなったのです。昭和一桁生まれが少なくなったために、企業では一時、馬鹿でもちょんでも部長になれる年代と言われたことがあります。このような話を聞いたことがある人も多いと思います。大和証券の倒産がありましたが、卓越していると思っていた企業のトップがこの程度の人だったのかと誰もが驚いた、そういう企業倒産が続きました。これは第二次世界大戦の目に見えない敗戦だったわけです。その後の企業トップの能力というものは大体知れていると思って差し支えないでしょう。政治家も同じです。戦後賠償という名のもとに、ODAやら経済援助などをおためごかしに推進し、巨額のキックバックを得るような輩が日本の政治を牛耳ってきました。太平洋戦争、大東亜戦争と言ったほうが良いだろうか、その敗戦の最も大きな影響というのはこういうところに出てきているのです。


43. 2013年6月10日 04:26:40 : 19zZioW1Tg
「南京大虐殺」って見方を変えれば、大戦果なわけですよ。
我が大日本帝国は、敵と仲良しごっこをしにいってるわけでなく、
やっつけ、ぶっ殺しにいってるわけなんだから。敵の被害は味方の戦果でしょ。
アメリカだって原爆投下や大空襲になんの反省もない
なんでそれが気に入らないのよウヨは。
戦果が大きい方がいいわけで、なんで少なめに見積もるのかね。
それこそ反日じゃないか(笑)
まあ「大虐殺」はやりすぎだということ言いたいのかもしれないけけど、
戦争は相手に恐れられ怖がられてナンボでしょ。あいにく負けちまったから、色々
言われているだけでさ。


44. 2013年6月10日 05:05:31 : Kse53zYp5s
南京で日本軍が討伐した中国軍というのは、国共内戦で
共産党の軍勢が殺戮した同胞たちの人数と比べて、多かったのですか?

中国共産党の軍勢は、国民党の軍勢だけでなく、一般の人民も大量に殺戮しながら
強制的に人民の支持をとりつけてきたわけで、そうした過去は不問に付すのですか?

大日本帝国時代の日本が中国大陸で行なった行為について、現在の日本に
謝罪すべきことがあるとすれば、それは国民党政府に対してであり、共産党勢力に
対してではないでしょう。たしかに一時期は、国共合作によって中国では一丸と
なって日本軍と戦ったわけですが、それが終わると共産党勢力は国民党勢力を
大虐殺したわけで、それが現在の中共の建国の、公然たる歴史です。

さらに言えば、これは日本人が追及すべき罪悪ではないですが、共産党支配下の
中国では「大躍進」やら「文化大革命」やらで、数千万人が死んだと言われています。
そうした恐るべき犯罪に対して、なぜ中国の大多数の人々は沈黙しているのか?
中国共産党の独裁と大殺戮の罪を誤魔化すための煙幕として、日本叩きが
続けられている現実に、中国の人々も気づくべきでしょう。


45. 2013年6月10日 09:44:33 : 0SKMB96rgQ
>>それが終わると共産党勢力は国民党勢力を
大虐殺したわけで、それが現在の中共の建国の、公然たる歴史です。

>>さらに言えば、これは日本人が追及すべき罪悪ではないですが、共産党支配下の
中国では「大躍進」やら「文化大革命」やらで、数千万人が死んだと言われています。


・・・このかたがすべての真実を言ってくれている。

中川とか愛とかいう輩は戦後日本人に偽りの歴史を吹き込んだアメリカ中国のスパイに決まっているよ。これだけの長文をご丁寧に書き込むのが証拠だ。しかもくだらない内用でね。だれも日本人はそんなこといわれてももうそんな話は信じないよ。

動画でも中国人の市民がね、中国人どうしの人食いの事件とか南京事件にしたてて日本人を悪者にしていることをしゃべってくれたよ。


映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後)
http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU

貴方を洗脳から覚醒させるアメノウズメ塾L大東亜戦争 右翼
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=619EjCCX-BU&feature=endscreen

南京虐殺されたとされる南京市民。
http://www.youtube.com/watch?v=9gQYECnR4XY

南京大虐殺は蒋介石国民党宣伝部と欧米マスコミの捏造
http://www.youtube.com/watch?v=r4zo6EMB2xc

朝鮮人よ、歴史の真実を知れ!
http://www.youtube.com/watch?v=zrCVwQEuOvY

虐殺などしていないと証言する元日本兵の方々
http://www.youtube.com/watch?v=tU7NYLtqwe0


南京事件を声たかだかにいうやつは 日本で活動する中国のスパイか売国奴か
朝鮮人である。阿修羅から叩き出せ。


46. 2013年6月10日 10:15:50 : oIn1FwfqUE
映像は史料にはなり得ません。
文献や史料を提示して初めて根拠になる。

>南京事件を声たかだかにいうやつは 日本で活動する中国のスパイか売国奴か
朝鮮人である。阿修羅から叩き出せ。

 史学的思考力があるかどうか?に尽きる。


47. 2013年6月10日 11:57:48 : u5jyTEoN4E
>>40のエセ日本人へ
日本人とは、「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)であり、すがすがしく清らかな心映えの民族だ。
見っともなく過去の蛮行をごまかしたり、言い訳する汚らしい卑怯な人間を最も嫌う人種だ。
そして、相手の心をおもんばかる、気配り・心配りを大切にする人々だ。
考えてもみろ、米国が広島・長崎の原爆や東京大空襲について「子どもは無論、民間人は誰も殺していない。正当な戦闘行為だ」などバカなことを言ったら、日本人の心は傷つくだろう。「ふざけるな」と激昂するだろう。
中国側の膨大な証言を「嘘だ」と簡単に否定できるのか。中国人の心を傷つけ、まともに交流ができると思うのか。
お前のような、偽日本人に言ってもしょうがないけどな。
日本民族の品性を貶(おとし)めることは止めてくれ。お前らの言うことを聞いていると、日本人であることが恥ずかしくなる。

48. 2013年6月10日 12:24:03 : xYUHqhvOhg
>>47
疑問だね?あなたが言う日本人なら好んで民衆を大虐殺すると思うかね?
歴史的に日本にはない屠城文化。
夏王朝時代から中国、朝鮮には民衆を殲滅する文化がある。
日本降伏時、南京では5万人以上が中国人により中国人中心に大虐殺。
国共内戦、朝鮮戦争での自国民への大虐殺は日本軍とは明らかに違う。
漢妖という名においての中国国内が虐殺の嵐が吹き荒れた。
戦後この総括において中国国内での批判のはけ口に使われたのは明らかだね。
ようするに文化は変わらない。天安門、チベット、ウイグルで起きてることは
中国が主張する南京大虐殺と同じことが起きてる。これが中国文化、征服=虐殺、
手法は日本人が想像もできないが陰部に異物をいれたりとか伝統芸として4000年間中国民衆に受け継がれてる。これらのことは日本人歴史家は想像できないが中国歴史化には常識だよ。

49. 2013年6月10日 15:30:26 : f9WdyZuW9Q
「チャンコロのそっ首が、スッコンスッコンもう面白いように飛んでいく、あれは見ものでしたねー、何しろ我々はヤツラを絶対に甘やかしてはいかんと、厳命されてましたからなあ、引っ捕らえたヤツらは、まず手っ取り早く処分するのが原則でいたから・・・・・・・・
とにかく世間で云われている「南京事件」から、いろんな残虐行為なんかもう当たり前の、全部本当のことだったんですよ!
まあ、戦犯なんかに引っかかった連中は、よほどついてなかったんでしょうな・・・・・・・・」

これは当方がまだ、20代前半の1960年代前半頃、当家で使っていた、元中国派遣憲兵大尉と称する公認会計士の男から、しばしば聞かされたムカツキを通りこした、この男の戦争体験談の一つだが・・・・・・・・
我々世代は、戦地帰還兵らとの関係が濃厚で、何につけ彼らから、直にその体験談をイヤと言うほど聞かされているんだ!!

自分らは第二次大戦の実践体験はおろか、戦禍を浴び逃げ惑った経験すら一切何一つ知らぬ、ネトウヨどもが、ためにするウヨクゾンビどものに都合のいい、後付けプロパガンダのみの聞きかじりか、文書だけに飛びつき、鵜呑みにして恥じない、お前らが如何に否定しようが、我々は往年の彼らから極悪非道の行為が、紛れもない事実であったと告白されているんだ!!

さらに、かつて河野洋平議員も指摘する、敗戦が決まった'45/8/15の直後から、陸海軍省をはじめ、ほとんど全ての官庁で、戦犯追及を免れるため、膨大な重要ファイルの焼却という、組織的な証拠隠滅作業が数日以上にわたり続行され、恐らく「南京事件」を含む不都合な証拠物件が尽く、あらかた灰にされたことは、もはや周知の事実であり、それを厳しく問わずして、証拠を出せやら証明云々をほざくなど、まさに卑劣きわまるもってのほかの妄言である!!

どだい他国である、中国大陸に満州と称する傀儡植民地を設け、さらに兵を進め抵抗を口実に戦火をほぼ全土に拡大し、15年戦争というズルズル泥沼の戦場で蹂躙していった行為が、侵略でなくて一体何なのだ!!

現代中国が如何に問題がある国家だろうが、第二次大戦で一千万以上の被害を与えた、日本軍国主義の蛮行が、相殺されたり、不問にに付される理由には断じてならない!!

歴史認識=戦争被害認識+戦争加害(犯罪)認識から成り立ち、被害加害は車の両輪である!!



50. 2013年6月10日 15:53:01 : Un6heX4IUI
反日日本人は、戦っている相手が同じ日本人だと理解しているのかね?
同国民の国益を損なう活動して、自分だけが在日または韓国からの資金を得て
自己の資産を蓄える売国奴・国賊に成り下がる
昨今、日本人政治家・評論家・活動家・芸能人・マスコミの中で売国奴と傍目で理解できる人が表立ってきたね。
日本人から売国奴・国賊と言われた人が世界で信用される事はないよ
ただただ中国・韓国に利用されるだけ

51. 2013年6月10日 20:39:53 : xYUHqhvOhg
第2次上海事変が戦争のきっかけだよ。当時中国は5つの国に分かれてた。
日本は満州国、朝鮮、など徴税なんかできずに国内に重税をかけおかげで東北では身売りが続出した。第一次上海事変で日本を含む連合国と中華民国は非武装地帯を設けて衝突を回避してた。上海には2500名の日本軍守備隊がいた。中国はこの非武装地帯に密かに要塞を築き完成した途端に5万名を超えるドイツ製近代兵器で武装して日本租界になだれ込んできた。上海では漢妖で中国人が中国軍に毎日虐殺され逃げ遅れた日本人も処刑されて行った。運悪く上海で売春をした日本兵が処罰を恐れて脱走したりして一挙に緊張が高まった。2千500対5万での戦争が開始され米、ソ連応援空軍機が艦船、町に空爆が開始される。このとき守備隊が良く守った。もし突破されてたら日本人の民間人が総虐殺されてただろう。この中国軍の挑発は日本兵を要塞におびき寄せる陽動だった。日本から派遣された軍が到着してこの要塞で日本派遣軍5万人が戦死した。日本人は必ず正攻法で攻めてくる=203高地の再現 を作戦立案したのがドイツ将校。大きな被害を出した日本軍は後戻りできなくなった。

さらにこれらの無用の緊張を作り出したのが漁夫の利を狙った中国共産党、指示を出したのがスターリン。アメリカの日本外交もこれらの米共産党スパイによる。
戦後アメリカはキズキ遅まきながらレッドパージで中枢からこれらのスパイを排除した。ハルノートを書いたハルの補佐官も死刑になってるがスパイである事が最近の資料でも裏打ちされてる。 これが歴史的事実だね。アメリカの定義では侵略は中国のほうだね。ただし日米は日本だけどね。 


52. 2013年6月10日 20:54:25 : vuQpagMXxI
>>51

納得出来ます。


53. 2013年6月10日 23:59:39 : 5ShZaVGMnw
根拠証拠がない人数など主張しても何の証拠にもならない。
ナチスホロコーストの600万も全く同じ。
600万が正しいとするのならユダヤ人を数えるのに必要なユダヤ人の定義が絶対必要。
同じ様に600万の死体は見つかっていない。
ではナチスは旧ソ連の4分の1ユダヤ人をどの様に調べたんだ。
ちなみにナチスのユダヤ人の定義は4分の1で旧ソ連のユダヤ人の定義は自己申告制。
600万がユダヤ人の定義によって確定できるのなら30万も確定できるかもしれないだろう。
とりあえず旧ソ連の4分の1ユダヤ人だけでかまわない。
ユダヤ人の定義なしでどのように非ユダヤ人とユダヤ人を区別するのだ。

54. 2013年6月11日 00:24:38 : u5jyTEoN4E
>>51の虚言癖男へ
妄想もここまで来ると完全に病気だ。
歴史資料というものは、あんたには無関係なんだ。どうせでっち上げの小説を書き散らすのならもっと、それらしく書けよ。ただのき・ち・がいのたわごとだ。
>>48>>50のエセ愛国者へ。
アンタらは、日本が信じられないような蛮行を朝鮮半島、中国で行ったことを認めざるを得なくなったら、日本を愛することができなくなるんだろ。だから必死こいて「なかった」と否定するんだ。あんたらの愛国心はその程度の浅いものだ。
私は、直視しがたい日本軍の暴虐の事実を認めつつ、なお全体として日本民族を愛する。他国に侵略したマイナスの歴史をカバーして、なお輝く日本民族の文化を誇る。当時の日本兵も喜んで殺戮したわけではない。戦争という狂気がさせた暴虐だ。過りはごまかさず、きちんと認め謝罪するのが正しい行為だ。歴史を直視する勇気を日本人なら持っているはずだ。エセ愛国者よ、日本民族をなめるなよ。そんなやわではないぞ。

55. 2013年6月11日 19:34:15 : MPbx4UFUMo
阿呆の極みのような南京大虐殺否定論者がIDを変えてそのしつこいこと。

証拠がどうした、それが立証できるのかどうの。

阿呆もここに極まれりだな。48 50 53

キミの論理なら全ての事象は立証できないわな。キミが昨日せんずりをして屁をこいたことも当然立証できんわな。しかしやっただろう。


56. 2013年6月12日 00:00:15 : FoaMhkfIoM
>>54
ここで日本人かどうかどのように証明するんだよ。
>>55
お前は賢いんだろ、それならとりあえず30万の解剖所見と、
ナチスが旧ソ連の4分の1ユダヤ人をどの様に調べたのかだけでも証明しろよ。
賢いのなら証明すべきことを実証主義的に証明したらどうなんだ。

57. 2013年6月12日 16:46:56 : u5jyTEoN4E
>>56の低能へ
お前な、「証明」という意味を知って使っているのか。
日本人かどうか、国籍だけの問題なら、戸籍謄本を取り寄せればできる。
しかし、「真の日本人」かどうか、ということは、その人の言動でしか評価できない。「証明」は周囲の人が了解するか、しないかしかない。客観的証明などないのだ。
国籍はどうか知らないが、すくなくとも、お前はエセ日本人だと断定できる。余りに品性が下劣だ。
30万人の解剖所見とバカなことを言うが、人体実験で解剖した分の記録はあるだろうが、毒ガスで次々大量殺害した死体を解剖するはずが無いだろ。手間が大変すぎるし、意味もない。ナチは、ユダヤ人を家畜同様に扱った。殺したらすぐ、穴に放り込むだけだ。
ソ連は伝統的に反ユダヤ国だ。ユダヤ人は一般人とは明確に分かれていたんだ。ナチは、ユダヤ人狩りで、たいした苦労はしていない。実証的な証明は、アユシュビッツなど各ユダヤ人収容所周辺から掘り出された無数の人骨だ。下手な公文書などよりはるかに大量殺戮の実態を雄弁に語っている。バカには目の前の骨も、何も見えない。

58. 2013年6月12日 23:55:32 : FenmFFlAVo
>>57
神童かつ有能なら解り易く証明してくれよ?

>30万人の解剖所見と 以下略
それの証拠は?言い換えると証拠を隠滅した証拠は?
600万の遺体は見つかっていないはずだが?

>ソ連は伝統的に 以下略
シナゴーグに無縁の場合も少なくない旧ソ連の無神論者や不可知論者などのユダヤ人をどう識別するんだよ。
しかも大半が普通のロシア正教徒の可能性が高いかもしれない4ぶんの1だぞ?

結局ユダヤ人の定義によって600万を数えるしかない。
まず旧ソ連の4分の1ユダヤ人をどう調べたのかだけでも証明してくれないか。
旧ソ連のユダヤ人の定義は自己申告制でナチスは4分の1。


59. 2013年6月29日 13:18:34 : MUywgL6w4H
>日本人に残酷なことはできないについて
遺伝的に品性下劣な特亜の一種ですので大昔から殲滅が大好きでございます
ワタミや自民党のサイコパスを送れば北朝鮮でも一年でこの世から消滅します

>南京事件の写真について
ネトウヨがあれは中国兵だと言い張りますが
中国軍は筒帽で日本軍は三角帽ですので間違いなく日本兵でございます
少なくとも軍オタならわかりそうなものです


60. 2014年12月25日 15:28:21 : wyfbgw2zxo
アンジェリーナ・ジョリーの映画について(詳しいサイト)
http://blog.livedoor.jp/kiriritto/archives/1004072692.html


バイリンガルの反日日本人徳留絹枝(とくどめ)さんは
あの映画の原作の日本語の翻訳本がまだない頃
「早く日本語に訳されたらいいのに」と発言していたそうです。


こちらは、徳留さんと親しい元米国軍人捕虜の息子さんの手記全文です。(削除の可能性があるので)

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「バターン死の行進」 ― その原因の再考
(URLをつけると投稿できないのです)

ジム・ネルソン

フィリピンの失陥は、米国史上における米軍最大の敗北であり、バターン死の行進は、降伏した米兵・フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。ニューレンベルグ裁判の太平洋戦争版である極東軍事裁判は、日本軍による戦争犯罪の規模と内容に関して概要を確立したが、バターン死の行進を引き起こした全ての原因については、充分に究明しなかった。極東軍事裁判が因果関係に関する全ての要因を見つけられなかったことが、それほど責められるべきではなかった者が処刑され、最も責められるべき者が正義の裁きから逃れる、という状況を生んだのであった。

本稿の目的は、先ず手短にこれら残虐行為の規模と種類を描写した後、死の行進について種々の原因を詳細にわたって検証することである。本稿は、Stanley L. Falkの名著 『Bataan: The March of Death』 などで論じられた既存の分析から引用し、さらに、バターン死の行進の惨劇を引き起こした原因につき、今までに翻訳されていなかったために提供できなかった幾つかの顕著で新しい視点を日本側の資料からも引用する。読者が本稿を読み終えて、死の行進について、どのような文化的・能力的・陰謀的・人格的・政治的要因が渾然一体となって1942年4月9日、バターンにおいて第二次大戦史上最も衝撃的な戦争犯罪の一つを生み出したのか、よりよく理解されることを切望してやまない。

残虐行為の規模

軍事裁判の記録に加えて、これまで何人かの歴史家が残虐行為の規模を究明しようと試み、それなりに成果を上げてきた。私が“試み”と書いたのは、戦争につきものである不透明さと他の要因が、残虐行為の正確な規模を究明することを不可能にしているからである。死の行進は、エドワード・キング将軍が降伏した1942年4月9日から、ほとんど全ての捕虜が死の行進の最終目的地であるオドネル収容所に移動した1942年5月1日頃まで、3週間近くも続いた。

ルソン島にいた米軍とフィリピン軍の大半が、2万から3万人のフィリピン市民と一緒に、バターンに撤退したことは知られている。一般に用いられるフィリピン市民人数は、2万6千人である。何人のフィリピン兵と米兵が捕われたかに関しては、やはりいろいろな数字が論じられている。バターンで捕らえられた米兵は、9千人から1万5千人と言われ、死の行進中に殺された米兵は600人から1,500人とされている。フィリピン兵はさらに大きな打撃を受けた。降伏時に6万人から7万人のフィリピン兵がバターンにいた。そのうち、生きてオドネル収容所に到達しなかった者は、低い見積りでは5千人、高い見積もりでは2万5千人と推定されている。日本軍による最終攻撃が始まった時点で、バターン防衛にあたっていた将兵の総数として一般的に受け入れられているのは、約7万8千人である。一般的に受け入れられているオドネル収容所到着捕虜の数は約5万5千人であるから、行進の途中で死んだ捕虜の数として約2万人を導き出すことができる。しかし、何人の将兵が捕われ、何人がオドネル収容所に到達し、何人が死んだのかを推定するには、次のような理由で幅がある。

・バターンの住民の中に紛れ込んでしまったフィリピン兵の数は、不明である。

・バターンでは往々にして、飛行機を失った航空隊員や乗艦を失った水兵などを歩兵として臨時部隊が編成されたことがあり、それらを記録することが追いつかなかった。

・連隊の名簿は、バターンの深いジャングル、部隊の給与簿と信頼できる通信手段の欠如などの理由により、戦史や退役軍人の証言と照合しても、不正確であった。

・降伏前にどの位の割合の将兵が死亡し、あるいは負傷したのかを推測するために、既存の名簿を全て点検するという作業が、これまで一度も為されていない。

・降伏した部隊の組織は、バターン半島に撤退した時点で崩れ始めていた。降伏後は、日本軍により、またはその他の理由で将校が兵士から分離されたので、さらに崩れていった。それ以上に、各部隊が極度に混じり合ったため、サン・フェルナンドに向けて北上する行進で、捕虜同士が同じ列で行進するお互いを知らないということもあったであろう。

・捕虜は、捕虜収容所に到着するまでは、野戦軍指揮官の責任下にあるとされていた。その後、俘虜管理部の管理下に移されたが、俘虜管理部はその少ない人員を、捕虜名簿製作を任務とする俘虜情報局と共有していた。その結果、米将校はオドネル収容所に何人の捕虜がいるのか推測しようとしたが、日本側からは、行進の前にもその後かなり経ってからも、正確な捕虜の人数を入手できなかった。

・日本人収容所長は、彼の管理下にある捕虜の人数を集計しようとしたが、捕虜が3週間にわたって到着したこと、収容所内で多数が死亡したことなどが、その作業を困難にした。

・降伏を拒み、コレヒドール島、あるいは山岳地帯に逃れ、ゲリラになった米兵・フィリピン兵の人数は不明である。

以上のように、捕虜になった者とオドネル収容所に到達した者の正確な人数が掴めないことから、バターン死の行進による死者の総数は、永久に議論の対象となるであろう。

残虐行為の種類 

死の行進における死は、あらゆる形でやってきた。最初に“自然原因”が あった。バターンの兵士たちは4ヶ月間飢餓状態の食糧しか与えられず、またバターンにはマラリアや赤痢が蔓延していた。その結果、日本軍に捕われた兵士たち の健康状態は最悪であった。脱水状態や熱射病、病、過労や負傷などが、多くの男達を行進から脱落させたが、それは殆どの場合死刑の宣告に等しかった。少人数で監視にあたった日本兵の多くは、捕虜が脱走する可能性を残すよりは、倒れた捕虜をその場で刺殺するか銃殺したからだ。あるグループは全く水を持たず、脱水状態で死亡した。同じ道を南下する日本軍のトラックやタンクが、意識的に捕虜を轢くこともあった。ある者は、トラックに乗った日本兵から通り過ぎる際に頭を打たれ、殺されたり意識を失ったりした。日本兵は捕虜を銃剣で刺したが、将校は、捕虜の首を刎ねるのに軍刀を使った。ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された。

皮肉なことに、日本兵と戦った記念品を持っていることを見つけられた捕虜は、直ちに殺された。日本将校が、ミッキーマウスの時計欲しさに米兵を殺したこともあった。生き埋めにされた者もおり、監視兵から銃口を向けられ、仲間を殺すことを強要された者もいた。フィリピン軍第91師団の400人が、整列させられ煙草を与えられた後で、日本軍第65旅団の兵士により、大量殺害された事件もあった。これについては、後で触れる。疾病、そして行進後に起こった多くの死は、殴打、負傷者の放置、そして行進中に悪化した負傷によるものだった。休憩所の不潔さは、赤痢などの熱帯病をさらに蔓延させた。これが犯罪の種類であった。

過去においては

第二次大戦以前の日本は、捕虜を適切に扱うという評判を得ていた。1904−05年の日露戦争当時のロシア人捕虜と、第一次大戦当時のドイツ人捕虜は、概して日本人に厚遇されたと語っている。第一次大戦中、日本は約4,500人のドイツ人を捕虜にし、日本国内15箇所に収容した。たぶんその中で最も知られているのは、ドイツ人捕虜が地元の人々と交流したピクニックで、ビールを飲みソーセージを食べながら畜産や哲学などについて語り合ったり、日本とドイツ音楽のコンサートに一緒にでかけたりしという、囲いの無い鳴門の 坂東収容所だろう。確かに、全ての収容所がそのように牧歌的な環境だったわけではない。幾つかの収容所で、手荒に扱われた捕虜もいた。しかし、第二次大戦中の虐待に少しでも近づくような扱いがあったという証拠は、見当たらない。

明治維新を通じて、日本は鎖国から脱却し、技術・軍事力の面で欧州・米国に追いつくことを目指し、戦争のルールも含めて、積極的に世界市民になりつつあった。日本は、捕虜の取り扱い条文を含む1907年のハーグ協定に署名批准し、その実施国であった。日本は1929年の赤十字条約とジュネーブ条約に署名したが、軍部の反対に遭い枢密院は条約を批准しなかった。そうであっても、第二次大戦前までの日本はハーグ条約を真摯に遵守していたのだが、第二次大戦になってそれらを全く無視したのだった。

大谷啓次郎著『捕虜』によると、日本の陸・海軍がこれらの協定を遵守しないことには、幾つかの理論的根拠があった。

・捕虜になる前に死ぬことが求められている日本兵から捕虜が出ることはあり得ないから、この協定は、相手方だけを利する一方的なものと考えた。

・捕虜を訪問することが許されている赤十字の代表が、スパイであるかもしれないと恐れた。

・もし協定に従って捕虜を処遇すれば、米パイロットによる長距離の片道飛行が可能になり、日本本土が爆撃に曝されることを恐れた。

・最後に、もし協定に従って捕虜を処遇すれば、それが自国兵士の取り扱いよりもよい待遇となることを恐れた。これについては後で触れる。

しかし、何が捕虜に対する日本人の姿勢と行動を劇的に変えてしまったのだろうか。

二等世界市民

ある者は、米兵捕虜への処遇の変化の原因は、セオドア・ルーズベルト米大統領が仲裁した1905年のポーツマス条約、または1920年代に米国が成立させた人種差別的土地所有移民法、あるいは1922年のワシントン海軍軍縮会議で定められた“主力艦の比率5−5−3”、あるいはこれらの全てによって、日本人が侮辱を受けたことにあったと、理論立てた。これらの刺激的出来事は、米国への憎悪を煽るため、日本の軍国主義者によって宣伝されたから、捕虜に対する姿勢に少しは影響を与えたかもしれない。しかし、英国や他の国の捕虜から特別に切り離して米国人だけを厳しく扱った形跡はない。現実には、中国人捕虜の処遇はさらに劣悪であった。それ故、これらの出来事が直接及ぼした影響は、ごく限られたものであったと思われる。

成文化された降伏の恥

大谷啓次郎のより的を射た議論によれば、日本兵にとって、捕われの身となることは死にも劣る運命で、彼ばかりでなく、彼の一族郎党にも大きな恥辱の刻印が永久に刻まれるのだという。彼は、その概念が日本の歴史上どこから来たのかを辿り、それが徳川将軍の時代(1603−1868)まで遡ることを想起させる文献を見つけた。しかしそれらの伝統は日露戦争当時と第一次大戦の前も生きていたのだ。それでは一体何が変わったのか。大谷は指摘する。第一大戦と第二次大戦の間、日本の陸軍指導者は、全ての兵が死ぬまで戦うことに利点を見出し、捕われの身となることの恥を、1941年1月から日本兵に配布され始めた(1943年まで受け取らなかった兵士もいたが)手引き書『戦陣訓』 の中に成文化して挿入したのだと。

この手引書の表向きの理由は、日本軍が南京を占領した後、何十万人もの中国人を組織的に殺害し強姦した南京虐殺のような事件が再び起こるのを防ぐため、というものであった。しかし、生きて虜囚の辱めを受けるよりも、自らの生命を絶つ方が望ましいという訓令は、日本兵に、彼らが捕らえた敵兵は降伏したが故に恥ずべき人間以下の存在であり、手厳しい取り扱いを受けて当然だ、という問答無用の理論を与えた。その考えは、実際に捕らえた捕虜が当然予測される恥を全く感じていない様子を見た日本兵の立場から見れば、恐らく増幅したであろう。

残虐性がさらなる残虐性を生んで

虜囚の辱めは、日本陸軍による残虐行為を招いたいくつかの文化的側面の一つでしかなかった。日本陸軍の文化的側面の2番目は、自国の兵士に対する残虐な扱いであった。それは恐らく兵士をたびたび使い捨てにしたロシアと中国を除くあるゆる国の軍隊から、間違いなく糾弾されるようなものであった。陸軍は、かつて尊敬と君主の公正な扱いを侍に与えた武士道の規範を腐敗させ、その規範を自国の兵士を虐待する口実として悪用したのだった。陸軍首脳部は、欧米諸国の陸軍の装備・補給は一般的に、日本陸軍より優れていることを認識していた。これらの短所を補うため、陸軍はこの新しい武士道精神を大いに推進し、その精神によって、当時他国では当然とされたレベルの物質的支援ができないことを打開し、残忍性により反対者を押さえ込もうとした。その結果、体罰は公然と許されただけではなく、推奨されたのだった。

よく聞く話は、大尉から批判されて腹を立てた中尉が軍曹を引っ叩いて蹴り、軍曹が伍長を引っ叩いて蹴り、伍長が二等兵を引っ叩いて蹴り、二等兵は馬小屋に行って馬を引っ叩いて殴る、というものだ。米兵やフィリピン兵は、将校や下士官からでさえ、このような仕打ちを受けることはなかった。将校であれ誰であれ、規律を維持するために、自分より下の者を殴ることは、米軍の規則に反することであった。捕虜にとって、日本兵から引っ叩かれたり、蹴られたり、殴られたりすることは、不当な暴力であった。日本兵にとっては、それは軍隊生活の一部であり、 彼らは、捕虜が自分の言っていることや命令を理解できないことに苛立つほど、もっと乱暴になった。

捕虜はまた、軍隊内における階級制度の最も底辺で、馬の代わりになった。彼らは往々にして、日本人下士官兵の欲求不満のはけ口、あるいはかつて自分の中にあった問題や、軍隊内での不公平(事実であろうと幻想であろうと)に対する怒りや復讐心のはけ口となった。日本軍の二等兵は階級制度の中で、やっと彼が蹴ったり、引っ叩いたり、殴ったり、拷問したり、殺すことさえ許される者を得たのだった。かつては最下級だったこれらの兵士が、捕虜の取り扱いを任されたときの、優越感の昂ぶりが目の当たりに想像できる。

文化的要因の他の一面

閉鎖的環境の中にいて軍国主義の扇動に染まりやすかった一般市民や兵士とは異なり、陸軍では明治以来、日本が早急に近代国際社会に仲間入りするため、将校を欧米に派遣し、それらの国々の文化や軍事を学ばせるという伝統があった。その体験により、欧米は裕福だが弱腰で、現状に甘んじているという、極右的見方を益々固定させた将校がいた一方、本間雅晴中将のような偏見を持たない将校は、外国の文化を深く研究し、それへの理解と尊敬を持つようになっていった。本間のような将校の世界観は、陸軍部内の超軍国主義の統制派に属する上官たちの狭量さを、遥かに超えていたのだ。より洗練され進歩的な傾向を持つこれらの将校は、狂信的な同僚や指導者の行き過ぎを埋め合わせしようとした。不幸なことに彼らの努力は往々にして、本間や彼の多くの部下がそうであったように、敵に“甘すぎる”として、指揮官からの解任という結果をもたらした。捕虜にとって同様に不幸だったことは、管理下にある捕虜を守ろうとする彼らの努力が、狂信グループに圧倒されてしまったことだった。仲間の犯罪行為を埋め合わせしようとしたこれらの将校がいなければ、捕虜の運命は間違いなくもっと悲惨なものになっていただろう。

憎しみのプロパガンダ

このような陸軍の暴力の文化に加えて、憎しみのプロパガンダが組み込まれた軍隊教育を超保守的な将校から受けた平均的な日本兵は、一触即発で残虐行為に暴走する人間時限爆弾のようなものだった。鬼畜米英、白人将校の下に白人と共に(彼らの国のために)戦うアジア人への憎しみは、兵士だけでなく、子供から大人まで一般の日本人の心を毒した当時のお題目だったのだ。

戦時中、そして今でさえ、多くの米国人は、捕虜に対する残虐行為は、日本文化の欠陥と残虐な国民性によるものだったと考えている。これらの残虐行為を否定したり軽視したりしようとする日本政府高官・教育者・企業指導者の態度は、多くの欧米人やアジア諸国の人々が抱くこの考え方を引き続いて再確認させ、増幅させている。もちろん、日本人がみな残酷だと決め付けることは、全ての米国人が騒々しくて粗野、全てのフランス人がお高く留まっている、全てのドイツ人が冷たくて薄情だと、決め付けるのと同じくらい馬鹿げたことである。ある国の文化が残虐だったり、騒々しかったり、お高く留まったり、冷たかったりするのではなく、その文化の中に住む個人の特質であり、残虐で心無い狂信者が権力を手にしたとき、 ちょうど日本の軍国主義指導者がそうしたように、政府を乗っ取ったとき、彼らは、政治体制もそして彼ら自身の軍隊組織をも崩壊させてしまうのだ。

類が友を呼んで

人類の歴史の中で、戦争という異常事態によって崩壊した国は、日本だけではない。ナチスも、アーリア人の人種的純粋性を宣伝し、欧州全域に1千年続く帝国を築こうと目論んだとき、ドイツ国家に同じことをした。彼らは自分達の領土や国民が攻撃されたというまやかしによって他国への侵略を正当化し、その他の侵略は「生存のための空間確保」という一見穏やかで理に適った表現で正当化した。彼らの憎しみは主としてユダヤ人、身体不自由者、ジプシー、スラブ民族、その他の人間以下の存在、そして彼らに同意しない全ての者に向けられた。

日本では、東条英機将軍と統制派が(ナチス)同様、効果的に、穏健派・進歩派を徹底的に叩き潰して日本政府を乗っ取り、彼らの超保守的な計画を推し進めていった。彼らは大和民族の純粋さと、八紘一宇を実現する指導民族の概念を説いた。彼らは世界制覇への第一歩となる一見立派に聞こえる大東亜共栄圏を作り出すため、初期侵略の口実として満州事変・盧溝橋事件をでっちあげた。彼らの憤怒は主にアジア特に中国の人々、捕虜にした白人兵と民間人、そして自分たちに同調しない日本人に向けられた。右翼過激派は、人間の持つ低級な本能に訴え、日本国民はドイツ国民がそうであったように、常軌を逸した行動をするように操られ、彼らによって崩壊させられたのだった。当時蔓延していたこの憎しみの計画が、間接的ではあれ、捕虜に対して為された恐るべき残虐行為の大きな推進力となっていたのだ。友人が、家族が、そして社会全体が捕虜を痛めつけることを完全に支持しているとき、そうすることはいとも簡単なことであった。

本間雅晴中将

軍国主義文化が日本国民と陸軍に与えた影響の他に、日本軍がバターンの米兵・フィリピン兵が降伏した後に起こした残虐行為の大きな原因には、日本軍の佐官と将官クラスとの間にあった性格的・職業的な人間関係があった。前述したように、第14軍司令官本間中将は、進歩的で世界をよく見聞した高級将校の一人で、彼の指揮下での残虐行為には明らかに反対していた。しかし戦後、部下の日本軍がフィリピンにおいて犯した戦争犯罪の責任を問われて銃殺刑に処せらされたのは彼であり、本当の犯罪者はまんまと逃げおおせたのだった。本間の罪は主として、彼が第14軍司令官であったという事実に基づいていた。また本間は、バターンから捕虜を移動させる計画と、部下の将校が捕虜を人道的に取り扱うようにという彼自身の命令に従わず、むしろ部下に悪意ある残虐行為を働かせていたことを、詳細に把握していなかった責任も問われた。


本間は、佐渡の裕福な家の出身で、“文人将軍”として知られていた。彼は流暢な英語を話し、卓越した戦略家・組織家として評価されていた。彼はまた思慮深く読書家で、反社会主義者、英国崇拝者であり、日本は英国や米国と戦うべきではないと信じていた。彼のこの性格と、売春婦になった最初の妻との離婚を余儀なくされたことは、彼の軍人としてのキャリアに災いしたが、彼の知能と能力は、個人的諸問題や政治思想による影を払拭し、54歳にして第14軍司令官に就かせたのだった。それ故、その後世界を震撼させる残虐行為の数々を引き起こすことを彼が意図していたというのは、疑わしい。というのも、彼は、捕虜虐待などが起こらないよう、そしてコレヒドール攻略開始地点から捕虜を避難させるという主目的のために、妥当な処置をとったのだから。これについては後で触れる。


本間の天敵

本間が、捕虜を適切に取り扱う努力をするにあたって、幾つかの悪条件があった。第一に、彼の上官と、彼が避けようとした虐待を推進する陰謀を企てていた過激な部下たちとの人間関係があった。

伊藤正徳著 『帝国陸軍の最期:進攻編』 によると、問題は、彼が第14軍司令官を命じられたその日から始まったという。伊藤は、本間と陸軍参謀総長・杉山元大将との会見を詳細に描いている。杉山は1941年11月初め、来るべき米・英との戦争について議論し、新しい地位に任命するため、秘密裏に本間、山下奉文、今村均の各中将を召集した。本間は、これら両国と戦うことは間違いだと感じ、杉山に対しても特に遠慮はしなかった。彼は、他の将軍の面前で言った。“敵の兵力も装備も知らず、たった2個師団で、戦争開始後50日でマニラを占領しろというのは、無理な注文だと思いませんか。私は、両軍の兵力と戦闘準備状況を徹底して調べた後、軍司令官の意見を徴するのが、もっと適切かと思います”伊藤によれば、“杉山の顔は真っ青になり、両手は怒りで震え、通常は柔和な顔が苦々しい表情に変わった”という。彼は昂ぶった感情を剥き出しにして“これは、陸軍参謀本部の調査に基づく結果だ”と言った。

本間と杉山の間の悪感情は、作戦が開始されてからさらに深まった。当初本間はマニラ占領の任務だけを与えらており、杉山とそのスタッフは、その時点でフィリピン軍と米軍は降伏すると想定していた。本間は1941年12月22日にフィリピンに上陸し、1942年1月2日にはマニラ入りを果たして、この任務を2週間で達成した。岡田益吉著『日本陸軍英傑伝』 によると、本間の参謀長前田正実少将は、米兵・フィリピン兵がバターンに退却したならば、もはや日本軍への脅威とはならいので、彼らにオランダ領東インド諸島の資源獲得のための進攻を邪魔立てさせないという本間の戦略目的は達成された。それ故、当初の作戦計画に従うことを望んだという。

前田は、日本兵を無駄に投入するより、補給と援軍を絶たれた米兵・フィリピン兵を単にバターンに封鎖し、彼らが自発的に降伏するか飢えるかを待てばよいと論じ、本間もこれに同意した。皮肉なことに、この同じ策略は、その後 米軍が、ラバウルなどで包囲した日本軍守備隊を放置して自滅させたときに用いられ、多くの米兵の生命を無駄に失わずに済むことになったのだ。

しかし杉山は、全日本軍をもってしてもバターンに立て籠る一握りの果敢な米兵とフィリピン兵を制圧できない、といった内容のアメリカのプロパガンダに怒り狂った。それを日本陸軍への侮辱と受け取った杉山は、単にバターンを封鎖するという当初の計画を変更した。彼は前田を解任して転出させ、代わりに自分の子飼いの和知鷹二少将を据え、バターンを攻撃して米兵・フィリピン兵を打破するよう、本間に命じた。

興味深いことに、アメリカのプロパガンダに怒りを感じていたのは、杉山だけではなかった。バターンとコレヒドールに立て籠った兵士たちは、サンフランシスコ放送のKGEI局 で、ウイリアム・ウインターが “できるものならコレヒドールを爆撃してみろ” などと言って、日本軍を刺激し続けたことに、苦々しく抗議した。現実に爆弾や砲弾を受ける身の彼らは、本国にいて空威張りをしながら日本軍を挑発する人物を許せなかったのだ。

バターンを攻撃せよとの杉山の要求は、本間の作戦目的を著しく変更させることになった。敵が確固たる要塞を持たないルソン島の平坦地で、機動作戦によりフィリピン軍を打破する代わりに、今や彼は、自らの生存をかけて立て籠る敵を攻撃しなければならなくなったのだ。彼の問題をさらに複雑にしたのは、米国の航空軍に相当する第五航空隊がビルマに転出し、彼の最強の師団で戦闘経験豊かな第48師団が、ジャワ攻略作戦のために第16軍に移動したことだった。第48師団と入れ替わったのは、“守備隊”と呼ばれた訓練・装備不足の第65旅団であった。

また杉山は、マニラだけでなくフィリピン全土を50日で掌握するよう、本間に求めていた。第14軍がバターンの防衛軍を攻撃するにしても、本間は作戦を成功させるための兵力も火力もこと欠いていた。この状況下において、彼は平身低頭して援軍を懇願しなければならなかったが、杉山が援軍を与えたのは、何度かの防衛軍撃退作戦が失敗した後であった。この時点で本間は50日の期限をかなり過ぎていたから、著しく面目を失墜した。

杉山は、天皇の名で本間に公文書を書き送り、自害させようとさえした。それがもし本当に天皇からの文書であれば、本間がとるべき唯一の行動は自らの手で生命を絶つことだった。実際のところ、米兵・フィリピン兵の間では、本間がバターンの防衛軍を潰せないため切腹したという噂さえ流れた。本間にさらなる屈辱を与えるため、杉山と最高司令部の一行は、本間を陣中見舞いするべく、1942年4月3日に空路マニラ入りした。

マニラに到着した杉山と最高司令部一行

4月3日金曜日は、初代神武天皇が崩御した日であり、武器・弾薬・兵員の増援を受けた本間が、米兵の間では復活祭攻撃として知られるようになる、バターン攻略の最終攻撃を開始した日でもあった。本間は、攻撃には一ヶ月はかかると感じていたが、食糧も弾薬も欠乏したバターンの病める防衛軍は、キング将軍が降伏するまで、6日しか持続できなかった。

杉山はマニラに到着するやいなや、本間がフィリピン人に生ぬるいことを糾弾し、(日本軍の)シンガポール住民への残忍な扱いを褒め上げた。生出寿著の辻正信伝記『作戦参謀』によれば、彼はフィリピン人が“不従順で非協力的”だと考えていた。杉山は、辻や参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐などに、彼が望んだ(フィリピン人からの)卑屈な服従を得られないのは、全て本間が生ぬるいせいだと、苦々しく不満をぶちまけた。捕虜と民間人収容者に対しては、より厳しい取り扱いを徹底させるため、杉山は辻中佐をフィリピンに派遣した。

作戦の神様

辻の経歴を知らなければ、彼がマニラに送られたことの重大な意味はわからない。20世紀初頭に石川県のつましい炭焼きの息子として生まれた辻は、名古屋幼年学校でその非凡さを示し、東京の陸軍士官学校に進み、1921年に陸軍大学を卒業すると直ちに陸軍参謀本部に配置された。最初から過激な超右翼だった彼は、東条の統制派に加わり、他派の追い落としや杉山、牟田口廉也中将のような人物が権力を掌握する手助けをして、巧妙な陰謀者であることを示した。彼は、まさに過激な天才と形容されるにふさわしい人物であった。 

どれだけ過激だったのか。彼は1930年代、軍国主義者に国家を治めさせるという統制派の目的に自分の人生を全て捧げるため、妻と離婚し子供を捨てた。彼は、自分が不死身だと信じた。“地獄船”の予行演習として、彼は1941年6月のマラヤ進攻作戦の訓練中に、完全装備した何千人もの日本兵をうだるような船倉に畳1畳に3人の割で詰め込み、ほとんど水を与えず1週間入れておいたという。Tsuji at www.fortunecity.com で読めるインターネット版辻の伝記によれば、これは、閉じ込められた兵士のうち何人が船倉から出された時点で、まだ戦うことができるか、それを見るだけの理由で行われたのだという。    

Morrison & Susan Harris は彼らの共著 『Soldiers of the Sun』 で、辻を“作戦に関する素質に恵まれた類稀な参謀将校−但しその才能は、誇大妄想的野心、暴力的偏見、そして無慈悲なほどの人命軽視によって台無しにされた” と正確に表現した。彼らはまた、彼を東条や参謀本部で最も人気のあった“死と栄光の変人”の一人で、日本版暴れん坊ともいえる“下克上”(文字通り、下級の者が主人を倒すことを意味する)グループの最たる例である、と書いている。“下克上グループ”というのは、“性急かつ無節度で野心に溢れた” 30代の陸軍将校たちの集まりで、彼らは、陸軍と国家があるべき姿に関して自分たちの意見を通すため、 勝手な行動を起こす傾向があった。誰もが最も優秀な日本の将軍と認める今村大将は、John Tolland 著 『The Rising Sun』 によれば、辻の天才的才能に気付いていたが、同時に彼の中に狂気も見ていたという。   

満州の軍国主義者の精神的指導者であった禅僧 Gempoの伝記を著した高木そごうによると、辻は、日本人の中国人に対する憎しみを煽ろうと目論んで企てられた1932年に田中隆吉が関与した上海事件の扇動者だったという。辻のもう一つの癖は、以前の上官に敵意を示すことであり、間もなく田中に対しても攻撃を始めた。生出の田中に関する『日本軍閥争史』によれば、田中が偕行社(東京の将校クラブ)の雑誌に、日本は米国と戦っても負ける、と論じる記事を発表すると、辻は公然と彼を臆病者と呼んだという。

杉森久英著『辻政信』によると、辻はまた、開戦前の総理大臣近衛文麿が、日米間の懸案を平和裏に解決しようと考えたことに対して、“日本一の臆病者”と呼んだという。David Bergamini著 『Japan's Imperial Conspiracy』 は、辻はそれだけで満足せず、近衛が死ねばよいと願い、“列車爆弾”計画の一員になったと書いている。計画は、東京から横須賀まで予定されていた近衛の外出に使われる汽車に爆弾を仕掛けるというものだったが、近衛が退陣し、東条が総理職を引き継いだため、暗殺の必要がなくなったのだという。

もっと個人的なレベルでは、彼はナチス指導者と同様、禁欲主義者であった。彼は、快適な住まいやナイトクラブ、売春婦など、人生の唯一の目的と彼が信じる戦争遂行の邪魔になるあらゆる物に関心を持つ将校を嘲っていた。一度などは、将校が大挙して入り浸っていた芸者茶屋に、彼らの考え方を変えるために火を放ったという噂もあった。またあるときは、同僚の汚職を憲兵隊に密告し、その将校は自殺した。ある将校が辻を探していると、「ああ、あの気の狂った男なら、馬小屋の裏の不潔な部屋に住んでいるよ」と告げられたという。

辻は、“戦争渇望者”であり、戦争が近づくと、彼は開戦することと、国の内外で彼が敵とみなす者に容赦ない争いを挑むことに、自分の全生命を捧げた。戦争のための戦争は、彼の性挌に完全に合っており、彼は、最初ソ連との開戦を主張し、日本軍がノモンハン事件でジューコフ元帥に敗れると、今度は米・英との開戦に目を向け始めた。彼は、和平を願うような者は全員、罰として直ちに前線に送るべきだと信じていた。

辻は開戦直前、“南進”のマラヤ作戦部分の責任者だった。彼は、飛行機を飛ばし自ら現地を偵察までして諜報収集を行った。彼はその後、主任参謀として第25軍の山下将軍の 副作戦将校として配属され、そこで“作戦の神様”という異名をとった。もっとも同僚の将校の何人かは、彼の作戦能力よりも、シンガポール攻略に日本陸軍の選り抜きの部隊を投入できた彼のコネがものをいったのだと主張した。

シンガポールが陥落するや、辻は華僑掃討作戦を命じた担当将校として、戦争犯罪に何ら躊躇しないことを速やかに実証してみせた。中国系共産党ゲリラを討伐するという口実で、彼は、3千人から1万人の中国系シンガポール住民の殺害命令書を書いた。この事実は、彼には、目的に適っているとなれば、言葉では言い表せない程の残虐行動をとる傾向があり、またそれを実行できることを実証していた。殺戮は一ヶ月にわたって続いたが、第25軍は既にスマトラに移動しており、シンガポールに残されたのは占領部隊だけであったから、山下と彼のスタッフが辻の行動を知ったのは、ずっと後のことであった。

謀殺

辻がフィリピン派遣を命じられた頃までに、彼の名声は急速に上昇中であった。マラヤ作戦の計画によって、彼は日本の軍人にとって最高の栄誉である恩賜の軍刀を授けられていた。その間、本間の評判は急速に衰えていた。杉山は、フィリピン攻略が終結する前に本間を解任したかったのだが、1942年8月に解任し、本間は二度と指揮官の任を与えられることはなかった。

数多くの日米の資料によれば、“作戦の神様”が本間の司令部に到着するや、辻とその信奉者による風説作戦が始まった。それは本間の部下で辻の信奉者以外の将兵に、杉山が、米国人はアジア人を搾取した帝国主義者であり、フィリピン人は米国人を支援したことでアジアの同胞を裏切った者であるから、バターンの捕虜は全員処刑すべしと考えていることや、日本の意思に従わない者を、見せしめにする必要があると威嚇することだった。辻はさらに、捕虜が死んでしまえば、無駄な時間も労力も資源も使わずに済み、コレヒドールの防衛軍を海に追い落とすという本来の目的に専念できると、正当化した。

バターンが落ちるやいなや、辻はそれまでに使ってうまくいった策略を使い始めた。彼と彼の信奉者は、前線の将校に電話をかけ始め、杉山と参謀本部からの命令であるとして、彼らの指揮下にある捕虜を全員処刑するように命じたのだ。ほとんどの上級将校は、この“命令”を無視した。第141歩兵連隊の今井武夫大佐は、松永梅一中佐から電話で、参謀本部が辻を通じて出した命令は、彼の指揮下にある捕虜全員を銃殺することだと、告げられた。今井は書面による命令を要求し、もし現実に書面による命令が到着した場合に備え、彼の指揮下にあるフィリピン兵と米兵を武装解除し、バランガに向かう主要道路に釈放した。銃殺しなければならない捕虜を指揮下におかないためであった。辻の別の 信奉者であると都渡正義少佐は、藤田相吉大尉に、彼の第142歩兵連隊が捕虜を皆殺しにすべしと、電話した。藤田は即座に拒否し、軍法会議にかけることを要求した。捕虜を殺害しようとした辻の企みが暴露することを恐れた都渡は、一時間後に再び電話して、先の命令を取り消した。

不幸なことに、辻のにせの命令はいつも無視された訳ではなかった。第141と第142歩兵連隊はどちらも、第122連隊同様、第65旅団所属であった。にせの命令に従って、フィリピン第91師団の兵士約400人を縛り上げて整列させたのは、おそらく第65旅団の第122連隊の兵士であった。将校が列の一方の端から軍刀で首を刎ね、兵士は他の端から銃剣で刺殺し始めた。

辻はまた、フィリピンの政治指導者たちを暗殺するよう、せき立てた。フィリピン最高裁判事ホゼ・サントスは絞首刑に処せられ、辻の魔手から逃れたマニュエル・ロハズは終戦直後にフィリピン大統領となった。      

辻の捕虜殺害作戦は、一部の将官と佐官クラスには無視されたかもしれないが、辻が捕虜の取り扱いに関して指揮権をもっており、彼が杉山からの直接命令で行動しているという噂は、下士官兵の間に広まっていた。コレヒドール攻略のために南下していた部隊の下級将校や監視兵、そして他の日本兵ですでに捕虜に殺意を感じていた者は、その噂が、お咎めなしで残虐行為ができる許可証のようなものだと考えた。辻やその 信奉者の狂信的な考え方に与しない下級将校や兵士は、この“空言”を無視し、捕虜をまともに取り扱い、ある場合にはサン・フェルナンド駅までトラックに乗ることを許可し、水と食糧を与えるかそれらを求めることを許可したのだ。従って、捕虜と接触した全ての日本兵が残忍な人非人であったと見なすことは、公平でなくまた正確でもない。人非人であった大多数がバターン死の行進中に犯した残虐行為が、あまりにも大きく、かつ恐ろしい規模であったため、彼らの行動は、他の日本兵が捕虜に対して示したいかなる親切や礼節も、完全に覆い隠してしまったのだった。

辻の最期

辻は戦場においては恐れず敵に立ち向かっていくという、彼にふさわしい名声を博していたが、日本の降伏後、他の者には国の為に生命を捧げ、残虐行為をすることを説いていたにも拘わらず、自分は坊主の袈裟をまとい、英・米の戦争犯罪訴追者から身を隠したのだった。バターン死の行進の共謀者であった杉山は自ら頭部を撃ち抜き、また彼の妻は短刀で喉を突き刺し自害した。降伏の屈辱に耐えられなかったからだ。未だに筋金入りの右翼であった辻は、新しい主人蒋介石のもとに馳せ参じ、日本に帰るまで、彼の作戦立案能力を共産党中国人の殺戮に役立てたのだった。

1952年の日本で、辻は逃亡生活から姿を現し、逃亡に関する回想録 『潜行三千里』 を出版した。それがベストセラーとなり、新しく発見した人気に乗じた彼は、自由民主党という奇妙な名前の極右政党(今日に至るまで、この政党は、自由も民主主義をも推進してはいないのだが)の一員として、日本国会の衆議院議員、そしてその後は参議院議員の議席を得た。1959年に、あまりにも極右過ぎ、党首で元戦犯仲間であった岸信介に楯突いたという理由で、彼は自民党から破門された。それで彼は諜報活動に戻り、池田隼人総理のためにインドシナ半島に旅したと、言われている。1961年4月20日、ラオスのビエンチャンからハノイに向けて飛び立ったところで、辻の消息は途絶え、その後彼を見た者は誰もいない。彼の最期に関してはさまざまな憶測が飛び交い、極右グループはこの“作戦の神様”をますます神話化させたのだった。

殺戮の記憶

本間の第14軍を編成するために当初割り当てられた2個師団のうちの一つは、4万人と推測される中国人捕虜と24万人にものぼる民間人が殺戮された南京虐殺事件に参加した悪名高い第16師団であった。この事件は、下級将校がその指揮下にある兵士に民間人と捕虜に対して暴力の限りを尽くすことを許可した初めてのケースで、日本政府には、ヒトラーのドイツさえも含んだ世界中の政府から抗議が殺到した。総司令官の松井岩根将軍は、日本陸軍の兵士が野蛮人でないことを示すために加害者を処罰しようとしたが、処罰は戦後にいたるまで行われなかった。本間の場合と同様、残虐行為の責任を問われたのは、実際に兵士を監督する責任があった下級将校ではなく、松井であった。全く咎められることなく大規模な殺戮を行うことに慣れた兵士がバターン攻略に参加したことは、そこでの殺戮を減らすのに何の役にも立たなかった。 

激情に駆られた犯罪

どんな軍隊でも、戦闘が激化すると残虐行為に走るものである。多くの戦友や同僚が戦死した激しい戦闘に打ち勝った兵士は、制圧される寸前で降伏しようとする敵兵に、復讐したいと願う傾向がある。この種の殺戮は見逃されることが多く、既に捕われの身となった兵士に対して大規模な殺戮が行われることは、近代戦では稀なことである。しかし辻の督促の他に、おそらく激情に駆られたことが、日本第65旅団の兵士がフィリピン第91師団の400名を殺害した理由だったであろう。第65旅団は、フィリピン戦で日本軍の他のどの部隊より多くの戦死者を出したものと思われる。豊田千代美氏によると、彼が所属した第65旅団・第141歩兵連隊の彼の小隊が、4月3日のバターン攻撃開始以来、食糧が初めて補給されたのは、6日目の米兵・フィリッピン兵が降伏した4月9日で、連隊の70%は戦死し、彼が生き残った唯一人の小隊長だったという。

復活祭攻撃のさなか、フィリピン第41師団が昼寝をしていた第65旅団所属の数隊を奇襲し、撃退されるまでの間に大打撃を与えた時、第65旅団の被害は一気に増大した。それ故、日本軍の生存兵が同じ地域にいた第91師団に間違って怒りをぶつけ、復讐した可能性がある。しかし、この大量虐殺が計画的、かつ冷淡に行われた様子は、激情に駆られてというよりは、処刑命令によったことを暗示している。大量殺戮の他に、降伏しようとする個人や小人数のグループの兵士を射殺したという報告もあるが、これらは激情に駆られた犯罪の範疇に入るだろう。

無能と不運

米国人歴史家 Stan Falk 著 『Bataan: The March of Death』によると、本間は、彼の輸送担当官かわねよしたか少将、兵站担当官高津としみつ大佐、高津の補給担当補佐官和田もりや少佐、衛生隊の関口ひさし少佐、そして本間の作戦地域から捕虜を行進させるために充分な水を確保できる井戸掘り担当の中尉のメンバーで計画班を結成した。彼らは、バターンから65マイルの行進中、捕虜に食糧・水・医療を提供し、負傷者は車両輸送するという、一見実行可能な計画を本間に提出した。計画は本間の指示により、基本的にはジュネーブ条約の捕虜取扱規則に従っていた。しかし、不運、怠慢と本間の部下将校の若干名が無能だったことが重なり合って、計画は無残な失敗に終わった。

主目的

50日間の期限をつけたまま、杉山が本間の目的を変更したことは、本間と彼のスタッフに、戦闘を速やかに終結させなければならないという大きな圧力をかけることになった。バターンが陥落したとき、彼は既に122日を費やしており、さらにコレヒドールを攻略しなければならなかった。杉山が望んだ二倍以上の日数をかけても、本間は目的の一部しか達成していなかったのだ。杉山の日程から大幅に遅れただけでなく、本間は援軍と物資の追加も懇請しなければならず、それは他の部隊からの割愛と、アジアの他の地域への総合的な “怒涛の進攻” の遅延を意味した。それ故、彼の主目的はコレヒドールを一日も早く粉砕することだったが、援軍と彼の精一杯の努力をもってしても、ジョナサン・ウエインライト中将からフィリピン全軍の降伏を勝ち取るまで、さらに一ヶ月を要したのだった。本間の部下将校によるこの捕虜移動計画は、本来の任務に加えてなされたもので、その結果として、コレヒドール攻略という主目的より優先順位が落ちたことは理解できる。計画は書類の上ではよく見えたが、幾つかの重大な欠陥があったのだ。

何人の捕虜を何日かけて行進させるか

最初のそして最も重大な欠陥は、本間の情報担当将校であるはばひかる中佐によるものとされている。はばが推定した敵の兵力と将兵の健康状態を基に、本間はバターンを陥落させるには1箇月を要すると予期した。しかし、実際には援軍を加えた第14軍がキング将軍の戦線を突破するのに、6日しかかからなかった。1箇月の行程表に従い、計画班は4月の第3週までに適切な準備を整えて実行に移す時間は充分あると考えていたのだが、2週間遅すぎた。その結果、彼らは必要とした物資のごく僅かを確保しただけで、この計画を実施しようとしたのだった。

次にはばは、敵の兵力を2万5千人、どんなに多くても4万人を超えることはないと推定していた。実際にはその二倍近い7万8千人だったのだが、計画は、4万人の捕虜を想定したものだった。

第三に、本間によれば、はばが防衛軍将兵の健康状態を正確に評価していなかったか、あるいはそれを本間に報告することを怠っていたため、本間も計画班も、敵の将兵が衰弱しきっていることを知らなかった。防衛軍将兵は、既に1箇月以上にわたって通常の四分の一以下の食糧しか配給されておらず、バターン南部に蔓延する悪名高い各種の熱帯病に冒されていた。その結果、行進計画は食料を充分に与えられた健康な日本兵が一日に行進できるとされる距離、すなわち25マイルと、本間が遵守することを希望したジュネーブ条約によるそれを超えないようにと定めた基準の12マイルの双方を考慮に入れたものだった。食糧と水の供給場所は、だいたいこれらの間隔ごとに設置されるはずであった。

サイドショー

本間のフィリピンでの戦闘は、杉山と参謀本部から見れば、蘭領東インド諸島の石油とゴムを手に入れるという真の目的のサイドショーであったため、そして恐らく彼らの間の個人的な確執もあり、本間は兵站や医療品などで不当な扱いを受けていたので、余剰がなかった。したがって、彼の部隊はしばしば食料が欠乏し、医療も充分でなかった。食糧不足のため、本間の部隊の配給糧は一人一日1キロ弱に減らされ、一日600グラム弱の食糧で1箇月間かろうじて生きていた米兵より三分の一程度多いだけであった。それ故、捕虜に食糧を分け与えようとする日本兵は、ほとんどいなかった。実際のところ第14軍の食糧不足は、日本兵がフィリピン兵・米兵の食糧倉庫で見つけた食糧や、捕虜個人が持っていたわずかな食糧も取り上げようとした一因であった。計画によれば、捕虜はバランガまでの行進に充分な食糧を各自が残しているはずであった。捕虜が行進の開始前とその途中で、ほとんどの所有物を日本兵から組織的に盗まれて、食糧がある者は殆どいなく、水がある者も極めて少ないことは、計算に入っていなかったのだ。水筒と飯盒、そして摂氏40度の暑気から辛うじて身を護る靴と帽子をそのときまだ持っていた捕虜は、自分を幸運だと考えた。ほどなく日本軍は、投降した軍医から医療品や医療器具を取り上げてしまった。これは、彼らが行えた医療行為に直接影響することになった。後になって医療品や医療器具の不足は、行進中の死亡者を増やし、その後オドネル収容所到着後の3〜5週間の間に、1600人の米兵と2万人のフィリピン兵の死をもたらすことになった。

日本軍による捕虜撤退の指揮統制も、行進が始まると同時にほとんど崩壊した。捕虜の大移動を指揮する責任は、二人の将校の間で分担されていた。高津は、捕虜と監視兵を組織して、バランガに移動させる責任を負っていた。捕虜はバターン半島南端のマリベレスから出発してバランガまで30マイル近くも歩かねばならず、一方、ある者は10マイルだけを、食糧もときには水もなしで歩かなければならなかった。バランガではかわねが、その31マイル先にあるサン・フェルナンドまで捕虜を移動させる責任を引き継いだ。彼は、バランガからルート7沿いに8マイル北の地点にあるオラニと、そこからさらに15マイル北の地点にあるルバオで食事と水を与え、捕虜に必要な医療を施す施設を配備することになっていた。そして彼らはサン・フェルナンドの駅まで、最後の8マイルを行進するはずであった。バランガとサン・フェルナンドの2箇所には、千人の捕虜を収容できる病院も設置されるはずであった。(注:1マイルは約1.6キロメートル)

捕虜はサン・フェルナンドから、狭軌の定員40人乗りの貨物列車に100人ずつ詰め込まれ、オドネル収容所近くの側線まで運ばれた。しかし、この責任を負った二人の将校の間の連絡は、不十分だったか、あるいはほとんどなく、どちらも、相手が捕虜に何をしているのか、またはしていないのか、知らなかった。その間、コレヒドール攻略の準備に追われていた本間は、“日本兵は、捕虜を友愛の精神をもって取り扱うべし”と全軍将兵に命じた後、捕虜問題は彼の部下にまかせていた。伊藤によると、前線の取材に来ていた画家や写真家の報道班員が、行進で実際に起こっていることを目撃して本間に報告すると、彼は直ちに参謀長の和知に、捕虜を救済の手立てを講じるように命じたという。

結び

全ての他の惨事と同様、バターン死の行進は、結局、多くの誘引が重なり合い、破壊的な事件が惹起された結果であった。バターン死の行進について表面的知識しか持たないほとんどの米国人は、それがあらかじめ計画された捕虜殺戮であったと思い込んでいるようだが、辻が捕虜を全員殺害しようとしたことを除けば、本間が組織的に捕虜を虐待し、殺害しようと計画していたという主張を裏付ける証拠はない。宣伝に洗脳されたほとんどの日本兵の態度と、バターンから捕虜を移送するための適切な計画を実行に移せなかった第14軍最高司令部の失敗が、悪夢のような殺戮の混乱を惹起した主因であった。

ある日本将校は、捕虜をトラックで、何ら問題もなくサン・フェルナンドまで乗せていった。他の将校は、捕虜にほとんど食糧も水も与えないまま、マリベレスから北のバランガに向けて行進させ、そこで回れ右をしてマリベレスに戻り、さらにもう一度回れ右をして北に向けて行進させた。ある監視兵は、捕虜を定期的に止めて水を飲ませた。他の監視兵は捕虜に水を与えず、道路わきの井戸や湧き水を飲もうとした捕虜を銃撃 したり銃剣で刺殺したりした。ある者は、衰弱や病気のために行進できない捕虜をそのまま休ませ、北上する次のグループに合流させるか、トラックに乗せた。他の多くの者は、行進について行けなくなった者を殺害した。捕虜を軍刀術の稽古に使った将校もいたし、捕虜に煙草を与え、戦前訪れた米国での日々がどれほど楽しかったか、気軽に話す将校もいた。前述のように、ある将校は捕虜を単に武装解除し、バランガまで自分たちで好きなように行かせた。別の将校は捕虜を並ばせて謀殺した。

この分裂症気味の行動の最たる例は、バターンにあった2箇所のフィリピン・米軍野戦病院で起こったことである。中山もとお大佐が、第一病院で負傷した日本兵が手厚い治療を受けているのを見ると、病院の医師は、降伏から2箇月半の間、全く妨害されることなく医療行為を続けることを許可した。第二病院での体験は、正反対であった。興味深いことに、第二病院の責任者は、本間が捕虜の移動計画の作成を命じた衛生隊の関口であった。病院を防衛するはずの日本軍が、患者の食糧を奪い、医療品・医療器具や医師・患者の私物を盗み、病歴録を破棄することを許可したのだ。女性患者は強姦され、病院周辺に布陣した砲兵隊が、コレヒドールから砲撃の返礼を受けないように、患者は人間の盾として使われた。このような状態が3週間も続いたのだった。

バターン死の行進に参加した両軍の兵士の多くは既に亡くなっているか、その原因に関心を持つ年齢を過ぎている。しかし、日米両国の人々は、私たちの社会で、そして他の社会でこのような犯罪が再び起こらないようにするため、何が起こったのか、何故起こったのかを知る必要がある。そうすることにより、憎しみの唱道者が、無力で無実な人々に対して死の暴力行為を働くことに歯止めをかける手助けができるのだ。自らの歴史を無視する者は、きっとそれを繰り返すに違いない。

謝辞

2年前、私はコレヒドールで戦い、その後日本軍の捕虜になった父の体験を伝える本を書き始めました。連合軍捕虜に対する日本軍の残酷な取扱の原因について探索をつづけるうちに、徳留絹枝さんのウェブサイトhttp://www.us-japandialogueonpows.org と出合いました。日本政府と日本企業が、私の父親が受けた残虐行為は事実であったと認めることをいかに拒否してきたかを述べる多数の決まりきった記事はすでに読んでいましたので、太平洋戦争勃発当時において、日本軍が怒涛のような進撃をする中で、捕虜の身の上に実際に起きたことを、当の日本人が本当に理解しようとしているウェブサイトを見て驚きました。残虐行為があったことを認め、日本軍の捕虜になった連合国軍軍人の取扱はどうだったのか、ありのままの事実を一層理解しようと、私と同じ努力を続けている人が日本にもいると知り、私の心の中に人間同士の信頼感が甦りました。父が受けた取扱は、日本側の観点ではどう見えるのか、その点をさらに理解しようと、私はすぐに徳留さんと連絡をはじめました。

私の質問がより難解なものになってくると、徳留さんは私を菅原完氏に紹介してくれました。彼は多くのことに手腕を発揮する人で、戦時中は海軍兵学校に在学していました。優れた翻訳家兼編集者でもあり、日本海軍史の研究家です。私が訊きたかったことは、主として日本陸軍についてでしたので彼の専門分野ではなかったのですが、死の行進の原因に関する書籍や記録のうち、まだ英語に翻訳されていないものを探して、翻訳しましょうと丁重に提案してくれました。

菅原氏が翻訳した文書を読んで、次々と質問が生じました。以前に翻訳されたことのない日本側の文書から、彼が見つけてくれた多数の事実は、1941年から42年にわたるフィリッピン戦と、その直後の出来事について、一般に受け入れられている歴史の見解とはまったく違った新しい見解であると私が理解するまで、彼はいろいろの文書を翻訳してくれました。

菅原氏が見つけてくれたこの見解を、あの残虐行為を蒙った側の米国の歴史家や退役軍人と分かち合わなければ、死の行進のような恐るべき事件を引き起こした原動力について、彼らによりよく理解してもらう機会を与えないことになると思います。

菅原氏と徳留さんの手助けがなかったら、私はこの記事を決して書くことがなかったでしょう。また、日本語に堪能な人を除いては、この新しい見解は埋もれたままであったでしょう。

 

私の父 John Tillman Nelson (1923-2005)


ジム・ネルソン氏の日本訪問記もお読み下さい。
(父の足跡を辿ってhttp://www.us-japandialogueonpows.org/Nelson%20Hanawa%20trip-J.htm)

参考文献

日本側の資料

菅原 完氏の訳によるもの

   大谷啓次郎著『捕虜』図書出版 1978年

   杉森久英著『辻政信』文芸春秋社 1963年

   生出寿著『作戦参謀 辻正信:ある辣腕参謀の罪と罰』 光人社 2003年

   伊藤正徳『帝国陸軍の最後・進攻編』光人社 1998年

伊吹由歌子氏提供のもの

   豊田千代美氏インタビュー

 今井武夫 『夏友会戦史 元65旅団歩141連隊 』 偕行文庫蔵書 1977年

米国と英国の出版資料

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インターネット上の資料の説明
 

American Defenders of Bataan and Corregidor
The largest of the American POW organizations related to the Philippine Campaign
http://philippine-defenders.lib.wv.us/

American Ex- Prisoners of War
This site has general information on POW’s from several wars plus POW personal Statements
http://www.axpow.org/

Bataan Death March
http://www.bataanmarch.com/

Bataan Museum, Santa Fe, NM
http://reta.nmsu.edu/bataan/index2.html


Battle for Bataan 1942
Online historical article giving a synopsis of the fall of the Philippines with several well selected photographs.
http://reta.nmsu.edu/bataan/timeline/index.html


Center for Research: Allied POWS Under the Japanese 
http://www.mansell.com/pow-index.html


Fall of the Philippines
A site providing a complete web version of the official U.S. Army history of the Fall of the Philippine written by Louis Morton
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-PI/

Geneva Convention of 1927
http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/geneva02.htm

Hague Convention of 1907
http://www.yale.edu/lawweb/avalon/lawofwar/hague04.htm
 

Japan War Crimes
A site primarily listing books for sale on Japanese atrocities and war crimes during the WWII and the war with China. Includes the Rape of Nanking, comfort woman, slave labor, treatment of POW’s and Japanese death factories like unit 731 
http://www.vikingphoenix.com/public/JapanIncorporated/1895-1945/jpwcrmz.htm#powj

POW Research Network Japan
A fairly comprehensive site containing a Japanese produced listing of all POW camps in Japan and detailing those who died in those camps.
http://homepage3.nifty.com/pow-j/e/list/index.html


Tsuji, Masanobu

Brief online biographies of Tsuji in English
http://www.warbirdforum.com/tsuji.htm
http://encycl.opentopia.com/term/Tsuji_Masanobu
*************************************

(どういう訳かこの論文出て来ません。)

CiNii−論文  
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016198044

ジム・ネルソンさんとの思い出--元米国軍人捕虜の息子と戦犯となった元日本軍人の息子との出会い (特集 元捕虜は訴える--赦しと和解を求めて) 

駒井 修

*************************************

(ここにも徳留氏が登場します。駒井さんともお知り合いのようです)

軍縮問題資料  (宇都宮軍縮研究室 軍縮市民の会 平和 軍縮 宇都宮徳馬)

 2008年9月号 No.334 
http://www.heiwanet.org/backnum/200809.html


 特集 元捕虜は訴える ― 赦しと和解を求めて
 表紙絵  村田 佳代子   「夏嵐」

特集 元捕虜は訴える−赦しと和解を求めて


元日本軍捕虜米兵の歴史に名誉ある最終章を  ★徳留絹枝
 

ADBC会長レスター・テニー博士の来日 
バターン死の行進の生存者・三井三池炭坑  伊吹由歌子
 

父の足跡を辿って 
花輪収容所と尾去沢銅山への旅  ★ジェイムス・L・ネルソン
 

ジム・ネルソンさんとの思い出 
元米国軍人捕虜の息子と戦犯となった元日本軍人の息子との出会い ★駒井修 
〈「戦中・戦後を語りつぐ会・いわて」幹事〉


クラスター爆弾廃絶に向かって
被害者の立場から  寺澤敏行
 


連載 今月のニュースガイド

#6 サミット=主要国首脳会議  大貫康雄
 


連載 軍縮市民のための軍事入門連続講座

第12回 

憲法九条の重要性を考える(2)
そもそも九条とは何か  山田 朗
 


連 載

森口豁の沖縄ジャーナル 第7回  森口 豁
 


被爆体験記 あの日の広島を生きて  田戸サヨ子


連載特集 平和運動通信

「反戦議員」クシニッチ
「死の医師」の逮捕が迫る
 長沼節夫
 


明日をひらく市民力 39

「浮島丸」を語り継ぐ
追悼の碑建立から30年    芦澤礼子
 


 表紙の言葉/表紙絵作者の紹介/編集後記
*************************************

NHK盛岡放送局キャスター・アナウンサー通信
2009年08月12日 (水)
戦争を風化させないために
http://www.nhk.or.jp/morioka-blog/050/24942.htmlから駒井修氏に関する記事抜粋

(略)
追悼礼拝に参加していた駒井さん。
ラジオ深夜便では、この方にインタビューしました。


駒井修(こまい・おさむ)さんは、
71歳でいらっしゃいます。

戦時中、駒井さんの父親・光男さんは、
陸軍大尉として、
タイのカンチャナブリ捕虜収容所、
第一分所の副所長を務めていました。

そこで、イギリス人捕虜を殴り重傷を負わせ、
うち2人を死亡させたとの理由で、
戦後、連合国側に軍事裁判で
「BC級戦犯」とされ、
絞首刑に処せられたのです。

n090812_2.jpg

戦犯の子として生きることとなった駒井修さんは、戦後、差別を受けながらも、
父親の真実を追い求める活動を続け、父が傷つけた捕虜との対面を果たしたのです。

そして、去年の夏は、お孫さんとともに、
シンガポールのチャンギ刑務所へ慰霊の旅に行かれました。
現在は、岩手で「戦中・戦後を語りつぐ会」の幹事を務め、
自らの体験を伝える活動をしていらっしゃいます。

40分ほどのインタビューで、父親が戦犯とされたがゆえに、
どんな苦難を抱え生きてきたのかなどを伺っています。

n090812_3.jpg n090812_4.jpg n090812_5.jpg


それにしましても、よく言われますが、
最近、私も、当時を知る方々が、この日本から、どんどん少なくなっていることを非常に危惧しています。
と同時に、私たち放送する立場の者は、
   貴重な証言を探し、調べ、聞き、番組を通して、お伝えする役目がある
と思っています。


突然ですが私事で失礼します。
実は、私の祖父や祖母もまさに戦争の時代を生きました。

父方の祖父は、戦前、満鉄で働き、関東軍に召集された後、
シベリアに抑留され、その後、帰国し、綺麗だった手がゴツゴツになったと言います。
また、祖母は、幼かった私の父と伯母を連れ、
ソ連参戦後、中国東北部旧満州から男装をして引き揚げてきたそうです。

一方、母方の祖父は、ゴビ砂漠で戦車に乗り戦い、
その妻、母方の祖母は、周りから若い男性がどんどんといなくなるのを心配しつつ、
祖父の復員を持っていたそうです。

ただ、父方の祖母を除いて、すでに他界しています。
今は、もっともっと、いろいろと聞いておくべきだったと後悔もあります。

こうした思いを胸に、これからも良い番組を作り伝えていけるよう、頑張ります!!!

(転載終り)
*************************************

「レイルウェイ」原作者の妻が来日「過去にとらわれて生きるのはもったいない」

2014年3月27日 19:00
http://eiga.com/news/20140327/15/

(鳥越さんらと記念写真をとる駒井さんの画像)

*************************************


61. 2014年12月25日 16:58:29 : wyfbgw2zxo
上にある軍縮問題資料に出て来た「宇都宮徳馬」が気になって調べました。

**********************************************************************

反日はどこからくるの
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/tag/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC


2014年12月23日

タイでもやらかしてた吉田清治。そして宇都宮徳馬

朝日新聞第三者委員会の報告書が出た
→慰安婦報道検証 第三者委員会
http://www.asahi.com/shimbun/3rd/3rd.html

この中の
第三者委員会報告書・別紙資料1(取り消した記事)
http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122203.pdf

気になる名前が目に留まったので書き起こし

(…以下に続く)
***************************************************************************

宇都宮 徳馬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC

宇都宮 徳馬(うつのみや とくま、1906年(明治39年)9月24日 - 2000年(平成12年)7月1日)は、日本の政治家、実業家。ミノファーゲン製薬創設者。正三位勲一等。

参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長を務めた。

父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。

***************************************************************************

薔薇、または陽だまりの猫

消える『軍縮』月刊誌。宇都宮徳馬氏亡くなり4年半/東京新聞

2005-01-31 18:45:21 | 社会
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/84643027d67616468d26e319be468626

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晴耕雨読

2014/7/17
http://sun.ap.teacup.com/souun/14736.html

本澤二郎の「日本の風景」(1688) <宇都宮徳馬の目の覚めるような35年前の主張>投稿者 笑坊 日時 2014 年 7 月 17 日 から転載します。・・・・・

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軍縮問題資料

宇都宮軍縮研究室
  創設者 宇都宮徳馬について
http://www.heiwanet.org/office/tokuma_u.html

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平成中野学校

北朝鮮−ミノファーゲン−宇都宮徳馬 02006/11/29(水) 午前 8:14
http://blogs.yahoo.co.jp/koudookan/24526689.html

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杜父魚文庫ブログ

マルクス主義で金儲け 古沢襄
2007.03.23 Friday name : kajikablog
http://blog.kajika.net/?eid=514407&target=comment

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拉致 北朝鮮

総連本部捜索後の憶測を憶測する

2006年11月28日 | 朝鮮総連/民潭
http://blog.goo.ne.jp/jsdf1100411/e/1b6d1f8dbe26efaba5188168e240d6c9

iza:北で大量被ばく?密輸医薬品に「肝臓治療薬」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/29502(消失)

***************************************************************************

なんでこうなるかなー。


このコメント投稿は以前にコメント成功済み。

最近どこかにコメントした文章に酷似しています。信頼されたペンネームを使えばコメント可能です。


62. 2014年12月25日 17:12:25 : wyfbgw2zxo

上の平成中野学校の内容に注目して下さい。(URLと一緒に全文載せると邪魔が入ります)


明大軍縮平和研究所の名簿に西早稲田に連なる面々が登場します。
著名人や気になる人に★をつけました。


◆総連「科協」捜索 北への不正輸出の根絶を

朝鮮総連の関係団体幹部の親族が不正に入手した点滴薬を北朝鮮に大量輸出しようとした薬事法違反の疑いで、警視庁は総連東京都本部などを家宅捜索した。
北に絡む不正を見逃すまいとする警察の強い意志の表れである。

この点滴薬は北の高官や朝鮮人民軍の栄養補給などに使われていた。先の牛肉、キャビアの「ぜいたく品」禁輸に加え、今回の強制捜査が北の上層部にダメージを与えるのは確実だ。

また、点滴薬は生物兵器に必要な細菌培養にも転用可能だ。生物兵器開発との関連も追及してほしい。

総連の関係団体は「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)で、朝鮮労働党の工作機関「対外連絡部」の直轄下にある。会員は在日の研究者約1200人で、国立大の研究機関などに勤務し、幹部級は万景峰号で祖国訪問した際に北の研究者と接触している。

科協を介して核やミサイル開発に転用可能な日本の技術が北に流出した可能性を否定できない。薬事法違反にとどまらない徹底解明を期待したい。

現に、ミサイル開発に転用可能な機器のイランへの不正輸出事件では、科協幹部の仲介で同機器が北に送られていた。また今年1月、陸上自衛隊の最新型地対空ミサイルシステムに関する研究開発段階のデータが科協に流出していたことが明らかになっている。

今回の事件は新潟港の税関検査で発覚した。今年5月中旬、科協幹部の親族が上限額(30万円)を超えた点滴薬を万景峰号に持ち込もうとしたが、東京税関に許可されず、点滴薬を置いたまま乗船した。税関はこのことを厚生労働省と警察当局に連絡した。当然とはいえ、適切な措置だった。国の北に対する明確な意思が末端にまで行き渡っていることを示している。

朝鮮総連やその関係団体に対する捜査も以前は事実上、タブー視された。小泉内閣が発足した5年前の11月、朝銀事件で警視庁は総連元幹部を逮捕するとともに、初めて総連中央本部を家宅捜索した。今年3月には、拉致事件で総連傘下の在日本朝鮮大阪府商工会などが捜索を受けた。

安倍内閣は北に対し、さらに厳しい姿勢を示している。警察当局は日本の安全保障のためにも、北の工作への監視を一時も緩めてはならない。

【産経新聞・主張】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

◆薬物不正輸出と?

この記事にある「点滴薬」とは、強力モリアミンS(味の素)と強力ネオミノファーゲンC(ミノファーゲン製薬)。乳酸リンゲルや生理的食塩水の点滴薬ではない。

上記引用記事にある「科協幹部」とはL.H.Y。その妻であるP.S.Fが日本の薬品会社より上記薬品を不正に?入手した……らしいのだが、正直言って筆者は、これが本当に「軍事転用」の可能性があるのかと問われれば、否定せざるを得ないのではないかと思う。

捜査当局が「軍事転用の可能性」を主張するのなら、それはどちらかといえばこじつけに近いのではなかろうか。

日本や韓国からは援助物資としてこれまでも多くの薬品が北に送られてきた。
上記の薬はどちらも販売実績が長く、なおかつ安価である。もし軍事転用ならば、何もいまこの数年に急いでやらなくとも、いくらでも用意周到に持ち込めたはずではないだろうか。どうもそこが気になる。

それからもうひとつ。強力ネオミノファーゲンCの製薬会社である「ミノファーゲン製薬」の創業者が、かの親朝派政治家の故・宇都宮徳馬であることだ。

生物兵器に必要な薬品ならば、なぜ金日成・宇都宮の蜜月時代に強く維持していたであろうチャンネルを使わず、いまになってこそこそ不正輸出するのか。

余談だが強力ネオミノファーゲンCは、筆者が「北なんかとは比較にならないほど悪質で恐ろしい」と恐怖する、中国にも輸出されているはずだ。

【North Korea Today】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

◆宇都宮徳馬氏・西園寺公一氏生誕100年記念会開催

中日友好協会と日中友好協会は8日、中日友好に貢献した宇都宮徳馬氏と西園寺公一氏の生誕100周年記念会を北京で開いた。

国務院の唐家セン委員、中日友好協会の宋健会長、日本の野中広務・元内閣官房長官、日中友好協会の平山郁夫会長、日本各地の日中友好協会の会長代表団および宇都宮氏と西園寺氏の親族などが出席した。
唐国務委員はあいさつに立ち、宇都宮氏と西園寺氏が中日両国の国交正常化の促進と友好事業の発展のために残した偉大な功績を振り返り、また高く評価して、次のように述べた。

2人の業績と精神は永遠に中日両国人民の心に深く刻まれ、両国の歴史に残るだろう。
民間友好は中日関係の修復と発展にとって、何物にも代えられない大切な役割を果たしている。
われわれは今、チャンスを捉え、多種多様な交流活動を大いに展開し、友好の種を広くまくことによって、中日友好の旗印を代々受け継いでいく必要がある。

【人民網日本語版】2006年11月9日
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

◆明治大学軍縮平和研究所

明治大学軍縮平和研究所は、故宇都宮徳馬参議院議員のご長男である宇都宮恭三(株)ミノファーゲン製薬代表取締役社長より依頼された特定課題研究を受諾し、2004年10月に設立され、2005年4月から活動を開始しました。
本年4月から,季刊「軍縮地球市民」を発行し,5月28日には,井上ひさしさんをお呼びして設立記念講演会,記念パーテイーを開催しました。また数々の講演会,映画上映会,(株)ミノファーゲン製薬協賛の公開講座を開催しています。

[特集]日本国憲法の実力

グラビア:豊田直巳/フォトジャーナリスト

姜尚中/東京大学社会情報研究所教授 ★

辛淑玉/人材育成コンサルタント ★

笹川紀勝/明治大学法学部教授

桜井大子/女性と天皇制研究会

浦田一郎/一橋大学教授

前田朗/東京造形大学教授

大西一平/立川自衛隊監視テント村 ★

大久保史郎/立命館大学法科大学院教授

川崎哲/ピースボート共同代表 ★

稲垣秀樹/京都造形芸術大学非常勤講師

中里見博/福島大学助教授

市野川容孝/東京大学大学院総合文化研究科助教授

長谷川曾乃江/中央大学兼任講師

鄭香均/東京都職員 ★

佐々木弘通/成城大学法学部助教授

渡辺厚子/都立北養護学校教員

清水雅彦/明治大学法学部非常勤講師

海渡雄一/弁護士

辻子実/「小泉靖国参拝違憲訴訟の会・東京」

初見基/東京都立大学人文学部教員

笹沼弘志/静岡大学教育学部助教授

山浦康明/明治大学法学部兼任講師

高橋一行/明治大学教授

上脇博之/神戸学院大学大学院実務法学研究科教授

大久保賢一/弁護士

吉田栄司/関西大学教授

小沢隆一/静岡大学教授

高田昌幸/北海道新聞東京支社国際部編集委員

新倉修/青山学院大学大学院法務研究科教授・弁護士

上原公子/東京都国立市長

松井隆志/大学院生(社会学/社会運動研究)

岡田健一郎/一橋大学大学院法学研究科博士課程

権赫泰/聖公会大学日本学教授 ★

大田昌秀/参議院義委員

中村久司/英国リーズ大学セント・ジョン・カレッジ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

東京大学・京都大学にかかわらず、日本の大学は反日活動工作の拠点となり、利用されている。

産経新聞も「会員は在日の研究者約1200人で、国立大の研究機関などに勤務し」と述べている通り、今や日本の科学技術の先端が「公費」によって、敵対国の日本向け軍事技術に転用されている構図がある。

一方、私立大学では憲法改正問題などを通じた反日工作活動が活発化している。


63. 2015年4月16日 19:38:21 : RhRcXm222E
20万人しかいないのに30万人虐殺は無理。
中国お得意の白髪三千丈。
中国古典に自分の妻の肉を客人に供したというのがある。
これが美談とされるんだから、彼らがまともじゃない事は解る。
実際飢饉の時は人肉が売買された歴史もある。
さて、虐殺の真相だが蒋介石だよ。
黄河決壊事件をみても、人民の命などなんとも思わないのが良く分かる。
日本人ならそんな事はしない。
先に避難させて十分な補償を与える。

64. 2015年6月01日 17:03:10 : ZU3yl86zq2

>来日した南京の大屠城の主任研究員は「30万人というのは政治的な数字である」とはっきり言っていたという。


だそうです。↓

________________

布施温ブログ



南京大虐殺は中国では「南京大屠城」、「屠城」は城内住民皆殺しだ。30万はどう見ても多すぎる。
2015/04/29 09:42
http://s.webry.info/sp/20990738.at.webry.info/201504/article_29.html

● 中国は何か事ある度に「南京大虐殺」を言い出す。そして30万人が虐殺されたという。ところであの事件は日本語では「南京大虐殺だが、中国では「南京大屠城」だ。「屠城」の「屠」は「屠殺」の「屠」だ。

●  「屠城」の意味は何か。「都市の人民を皆殺しにする」ことだ。中国の都市はヨーロッパと同じく周囲を城壁で囲んである。外敵の侵入を防ぐためだ。大砲や飛行機のない時代は有効な防御法だ。兵士と言っても大部分は農村からかり出された者で、農繁期には故郷に帰ってしまう。それまで持ちこたえればよかったのだ。

●  この皆殺し作戦は中国では古来から頻繁に行われてきた。またチンギスハンのモンゴルも行った。自軍の兵士の数より攻め込んでいった都市の住民が多い場合、捕虜にすると食糧が真っ先に問題になる。その解決法は即皆殺しだ。死人には食糧はいらないからだ。

●  そこで「南京大屠城」だが、南京には外国人もいたし、住民は外に逃げたり、安全区に駆け込んだ。それらを除いた南京城内の住民を皆殺しにしたという意味になる。果たしてこの数字に信憑性はあるのか。

●  ここで素朴な疑問が湧く。30万人の死体の処理はどうしたのか。放置したままなら南京城内は死体が放つ腐臭にとても耐えられなかっただろう。しかし南京城内では日本軍が入って治安が落ち着くと住民は市内を自由に歩き回っていたのだ。

●  死体の処理は紅卍会という団体が主に行っていた。1日に処理できる数は200体だったという。それを基にすれば30万の死体処理にかかる日数は1500日で約4年だ。南京市民は4年もの間死臭をものともせずにいられたのだろうか。1日300体処理できるとしても約3年弱だ。崇善堂も死体処理に当たった、そしてその数は10万を超えると言うがこの組織はそのような仕事はしていなかった。

●  モンゴルが都市住民を皆殺しした場合、一旦その町を出て、死臭も和らいだ数ヶ月後に再入城したという。南京市民はよほど神経が太かったようだ。

●  ここから導かれる結論はただ一つだ。南京30万人虐殺はあり得ない。といっても戦争の事だから殺害はあったろう。悲惨な事例もあったかも知れない。しかし大虐殺といえる規模ではない。通常の戦闘範囲内での死亡数だろう。城外の死体の大半は兵士で戦闘員だし、国民党軍の督戦隊の射撃による死亡の可能性もある。

●  当時の南京の住民は20万だったから30万人虐殺はあり得ないということが言われている。それに対して虐殺肯定派は南京城内だけではなくその周辺の人口が80万とか100万とか言い出す。しかし中国が「屠城」と言っているのだから文字通りにとればそれは拡大解釈で間違っている。数字のことで日本国内で不毛な議論をする必要はない。

●  来日した南京の大屠城の主任研究員は「30万人というのは政治的な数字である」とはっきり言っていたという。

● そうなると江沢民の言った日中戦争時の中国人犠牲者3500万人という数字もすこぶる怪しい。これも政治的な数字だろう。本来何の色も付いていない数字に政治色を付けるのは中国のお家芸だ。
 


65. 2021年11月07日 19:34:19 : QaGzOmWeaE : WkdZWFFGcEtOVGc=[8] 報告
まず、大虐殺を証明する信用できる写真が一枚もないでしょう。三十万人も虐殺したら、その死体の処理だけでも大変だよね。川に流したら、川面や海面が死体でいっぱいになったはずで、その光景を撮影した写真が存在しないというのもおかしいよね。穴掘って埋めるといっても、三十万人じゃ、広大な穴を掘らなくちゃならないよね。それから、事件後に南京の人口は減っていなかったらしいね。これもおかしいよね。三十万人も虐殺した日本軍がいるところに戻ってくるというのは常識的におかしいよね。当然、中国側は日本軍に対して蛮行の再発防止を申し入れるはずだけどそのような話も聞いたことがない。白髪三千丈とはよくいったもんだ。

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