01. 2013年10月14日 12:00:41
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/econdays.net債務についてのスウェーデン中銀の勘違いー政策金利の上昇は家計の債務比率を上昇(減少ではなく)させる BY LARS SVENSSON 以下は、Lars Svensson”The Riksbank is wrong about the debt – a higher policy rate increases (not reduces) the household debt ratio“(August 26, 2013)の訳です。 ここ数年において、リクスバンク(訳注;スウェーデン国立銀行)は、目標インフレ率よりもかなり低いインフレ率と不必要に高い失業率を招く貨幣政策を実施してきた。リクスバンクはさらに最近になって、低い政策金利は家計の債務比率(可処分所得に対する債務の比率)、ひいては債務に関連するあらゆるリスクを上昇させるとして、自らの政策(訳注;高い政策金利)を正当化した。しかし、貨幣政策と政策金利がどのように家計の債務残高に影響を与えるかについて、リクスバンクはいかなる分析も提示してはいない。高い政策金利は、低い政策金利の時よりも低い債務比率をもたらすというのは単純に所与のものとされている。 しかし、政策金利の上昇は本当に債務比率の下落をもたらすのだろうか。「”Leaning against the wind” increases (not reduces) the household debt-to-GDP ratio」と題した最近の論文で、私はこの問題を検討した。この論文では、政策金利の上昇は債務比率を下落させるのではなく、上昇させるということを示している。この結果は、一部の人たち、少なくともリクスバンクの中の政策金利の引き上げは債務比率を低下させるとの前提で物を考えているリクスバンクの面々にとっては驚くべきものかもしれない。実のところ、政策金利の上昇が債務、GDP、インフレにどのように影響を与えるかを注意深く検討してみれば、この結果はとても簡単に理解できるものだ。 ある年一年間における政策金利の上昇は、一時的に向こう数年間のインフレ、実質GDP、実質住宅価格の低下をもたらす。3〜5年後もすると、インフレ、実質GDP、実質住宅価格は一時的な政策金利の上昇がなかった場合のレベルにまで回帰する。図1は0年目からスタートし、1年目に基準値よりも1だけ高い政策金利が実施された際、インフレ、実質GDP、実質住宅価格がどのように基準値から乖離するかを年単位で示している。政策金利とインフレはパーセンテージ、実質GDPと実質住宅価格は基準値から何パーセント乖離したかで表されている。 図1 一時的な低インフレは、永続的に低い物価水準と、基準値と比べて永続的に低い名目GDP、名目住宅価格をもたらす。住宅価格の低下は、新規の住宅ローンの額が低くなることを意味する。しかし、1年における新規の住宅ローンが、名目(住宅ローン)債務の全体に占める割合は、6〜7%程度の小さいものでしかない。住宅ローンストックの回転率が低い(訳注;年間6〜7%ずつしか新しいものに置き換わらない)ため、名目債務の全体の減少は非常にゆっくりとしたものになる。物価水準と名目GDPはそれよりもずっと速く、新たな低い基準値に落ち着くこととなる。このことは、物価水準、名目GDP、名目住宅価格、名目債務総額の基準値からの乖離を示した図2で表されている。 図2 名目債務が非常にゆっくりと下落し、物価水準と名目GDPはそれよりも遥かに速く下落するため、実質債務は物価水準の下落とほぼ同じ速さで上昇し、債務GDP比率も名目GDPとほぼ同じ速さで上昇する。数年後に物価水準と名目GDPが永続的な低い水準にまで到達すると、実質債務と債務GDP比率は基準値に向かってゆっくりと下落し始める。十年以上もした後、これら二つは基準値にまで戻り、一時的な政策金利の上昇がなかった場合の水準に落ち着く。これは図3に示されている。 図3 可処分所得はGDPと同じ方向に動くが、その大きさはそれほどまでではない。言い換えれば、可処分所得に対する債務の比率、つまり債務可処分所得比率も最初の数年間は、実質債務よりは大きく債務GDP比率よりは小さい割合で上昇するということだ。 結論として、政策金利の上昇は家計の実質債務と債務所得比率を上昇させることとなる。政策金利の上昇は確かに名目住宅価格と新規住宅ローンの額を押し下げるが、名目債務全体の減少は非常にゆっくりとしている。その一方で、名目GDPと名目可処分所得はそれよりも遥かに速く下落し、債務GDP比率と債務所得比率は上昇する。これは、リクスバンクがいくつもの貨幣政策レポートやそのアップデートで述べてきたこととは正反対だ。リクスバンクによるその政策の正当化は、全くもって間違っている! http://econdays.net/?p=8794
「遅れてやってくるハトっぽさ 〜マーク・カーニーの今後の振舞いを占う〜」 BY STEPHEN HANSEN AND MICHAEL MCMAHON
以下は、Stephen Hansen and Michael McMahon, “Mark Carney and first impressions in monetary policy”(VOX, August 11, 2013)の訳。 つい先頃マーク・カーニー氏がイングランド銀行の新総裁に就任するに至ったが、今後マーケットはカーニーの「タカ派度」はいかばかりかとヒントを求めて彼の一言一句を慎重に吟味することになるだろう。本論説では、金融政策委員会のメンバーは経験を積むにつれて(例えば、金融政策決定会合に18回以上参加した後)よりハト派的に振る舞う傾向にあり、特にその傾向はハト派的な選好の持ち主に顕著に表れることを示す証拠を提示する。 “ 現代の金融政策の多くの部分はインフレ期待の管理と関わり合いを持っている。独立した中央銀行の確立やインフレ目標体制への移行、そしてつい最近になっていくつかの中央銀行が採用するに至っているフォワード・ガイダンス[1] といった取り組みのいずれもインフレ期待を管理することの重要性を反映したものであると言える。中央銀行の上層部における人事の変更−例えば、新たな議長や総裁の任命−はインフレ期待の安定化を実現する上でしばしば特に重要な出来事となる。新たな議長・総裁(ないしは政策委員など)の選好がどのようなものかよくわからないために、彼/彼女がどのような政策スタンスを採るつもりであり、彼/彼女が採用する政策スタンスが(インフレ)期待に対してどのような影響を及ぼすと考えられるかを巡ってマーケットでは多くの憶測が飛び交わされることになるのである。例えば、Cottle(2012)は、「イングランド銀行の新総裁であるマーク・カーニーは「タカ派」(’hawk’)なのだろうか、それともハト派(’dove’)なのだろうか?」、と問い掛けている。 今やイングランド銀行ではカーニー新体制が始動したわけだが、今後のカーニーの振舞いに関してどのような予測を立てることができるだろうか? 彼が着任当初に見せる振舞いは今後5年間の任期中において彼が後々採用する政策を予測する上で適当な指針となるだろうか? カーニー新総裁の最初の数カ月における言動をもとにして「カーニーはハト派だ」「いや、彼はタカ派だ」との声がマーケットでささやかれ始めるだろうことは疑いないが、カーニー自身が望ましいと考える政策スタンス(訳注;カーニーの真の選好)が実際の政策行動を通じて明らかになるまでにはかなりの時間を要する可能性がある。なぜそのように考えられるのか? その理由は経済学の分野で「シグナリング」と呼ばれるアイデアを用いて説明することができる。 シグナリングのアイデアに依拠して、着任当初のセントラルバンカーがインフレ期待に影響を与えるためにどういった戦略的な振舞いを試みる可能性があるかを分析しているアカデミックな研究はかなりの数にのぼる(例えば、Backus and Driffill (1985a, 1985b), Barro (1986), Cukierman and Meltzer (1986), Vickers (1986), Faust and Svensson (2001), Sibert (2002, 2003, 2009) and King, Lu, and Pasten (2008) を参照)。その基本的なロジックはこうである;着任したばかりのセントラルバンカーは、正真正銘のインフレファイターであるとの評判を国民から勝ち取るために、自らの本能(以下では、政策に関する真の選好と呼ぶことにする)にそのまま従う場合よりもインフレに対して一層タフな態度で臨むことになる。しかしながら、着任当初に自らのタフさを誇示した後は次第に自らの真の選好に沿った政策の採用に向かうことになる。 金融政策委員会に関する最新の研究 上段で簡単に触れた先行研究では(政策に関する真の選好として)よりハト派的な選好の持ち主であるセントラルバンカーこそがインフレに対するタフさをシグナルするインセンティブに直面することになるとのアイデアに焦点が置かれているが、我々の最新の研究 (Hansen and McMahon 2013)では、国民がセントラルバンカーの(政策に関する真の)選好を知らない場合にセントラルバンカーがどのように振舞うことになると予測されるかを細かく検討している。その研究結果によると、セントラルバンカーの関心がインフレ期待の低位安定化にある(インフレ期待があまりにも高くなり過ぎないよう心掛けている)場合には、彼/彼女がタカ派的な選好の持ち主であろうがハト派的な選好の持ち主であろうが、着任当初はインフレに対して(自分の真の選好よりも)一層タフな態度で臨む(一層タカ派的に振舞う)インセンティブを持ち、その後しばらくするとよりハト派的な振舞いを見せるようになることが示されている。この結果を一言で表現すると、「遅れてやってくるハトっぽさ」(“delayed dovishness”)(「先んじてやってくるタカっぽさ」(“early hawkishness”)と表現することもできるが)と呼ぶことができるだろう。また、我々の研究結果によると、セントラルバンカーがどのような選好の持ち主であれ(ハト派であれタカ派であれ)シグナリングのためのインセンティブに直面することには変わりはないものの、その効果はよりハト派的な選好の持ち主−将来の産出ギャップに最大の関心を置く人物−に対して一層強く表れることが示されている。 シグナリングのアイデアに依拠して金融政策を分析する研究の歴史は何十年にも及ぶが、我々の最新の研究では、イングランド銀行に設置されている金融政策委員会(Monetary Policy Committee;MPC)−その議長を新たに務めることになるのがマーク・カーニーである−の参加メンバーの実際の振舞いがシグナリングモデルの予測と合致していることを示す実証的な証拠をこれまでではじめて提示している。具体的には、MPCのメンバーは経験を積むにつれて(我々の論文では、経験を積む=MPCの会合に18回以上参加する、と定義している)よりハト派的に振舞うようになるとともに、(政策に関する真の選好として)よりハト派的な選好の持ち主ほどシグナルを行う(インフレに対するタフさを示す)傾向にあることが明らかになったのである。 我々の研究結果に従えば次のことが示唆されるように思われる。仮にカーニーが(政策に関する真の選好として)ハト派的な選好の持ち主であり、かつ、タフなインフレファイターであるとの信頼性を確立したいと望んでいるとすれば、彼の当初の振舞いの中にはマーケットに対してタカっぽさをシグナルする試みが含まれることになろう。つまりは、イングランド銀行総裁着任当初のカーニーの行動には彼の真の選好と比べてタカ派度が強めに表れる可能性があるわけである。 ところで、シグナリングのアイデアに依拠した通常の議論では、インフレが過度の高まりを見せている状況に基づいて議論が展開されている。つまりは、過度なインフレを抑えてインフレ期待を安定化するためにセントラルバンカーはインフレに対してタフであることを示そうと望む、とのロジックになっているのである。確かにそのような状況は1997年にイギリスでMPCが設立されて以降の大半の期間を通じて妥当していたと考えられるだろう。しかしながら、経済が大きな落ち込みを見せていたり、経済が流動性の罠に陥っていたり、政策当局者が(過度のインフレを抑制するためにインフレ期待を低位安定化する代わりに)インフレ期待の上昇を望む、といった状況を想定することができるかもしれない。そのような状況においてはセントラルバンカーの振舞いに関する予測は先ほどとは正反対のものとなることだろう。つまり、そのような状況においてはMPCのメンバーは着任当初は(自分の真の選好よりも)よりハト派的に振舞い、その後経験を積むにつれて次第によりタカ派的に振舞うようになると考えられるのである。当初において(自分の真の選好よりも)よりハト派的に振舞うことになるのは、そうすることでインフレ期待が上昇し、その結果として(事前的な)実質金利(=期待実質金利)が低下することになるからであり、期待実質金利が低下することになれば(実物)投資−The Economist (2013)で論じられているように、イギリスでは特に投資が弱含みを見せている−や消費を増やすインセンティブになると考えられるからである。日本では黒田東彦氏が新たな日本銀行総裁に任命されたが、彼はかなりハト派的な人物であり、積極的な金融緩和に対するコミットメントを明らかにしている。黒田氏の日銀総裁任命[2] は(着任当初において)よりハト派的に振る舞うことに伴う上記の利点に基づいてうまく説明することができるのかもしれない。 現在イギリス経済が置かれている困難な状況とセントラルバンカーに本来備わるインフレファイターとして認知されたいと願う傾向とは、着任当初におけるイングランド銀行新総裁の振舞いに関してそれぞれ正反対の予測をもたらすことになる[3] 。そのため、カーニーがタカ派なのかそれともハト派なのかを判別することは一層困難な作業となり、彼の総裁としての真価を評価するためには通常よりもずっと長い時間が必要となることだろう。加えて、カーニーはインフレ目標の達成を求められているだけではなく、マクロプルーデンス政策や金融規制の面でかつてのイングランド銀行総裁よりも大きな権限を任されていることを考えると、カーニー新総裁の評価は過去の2代のイングランド銀行総裁の場合よりも困難なものとなることだろう。我々にとってカーニーの真の選好を見極めることはタフな作業になるだろうが、カーニーにはあちらこちらであがる数え切れないほどの火の手を鎮火するという(カーニーの真の選好を見極めるという我々が直面している作業よりも)ずっとタフな作業が待ち構えていることだろう。 【参考文献】 ○Backus, D and J Driffill (1985a): “Inflation and Reputation(JSTOR),” The American Economic Review, 75(3), 530-38○Backus, D and J Driffill (1985b), “Rational Expectations and Policy Credibility Following a Change in Regime(JSTOR),” Review of Economic Studies, 52(2), 211-21○Barro, R J (1986), “Reputation in a model of monetary policy with incomplete information(ScienceDirect),” Journal of Monetary Economics, 17(1), 3-20○Cottle, D (2012), “So, Mr. Carney, Hawk or Dove”, 27 November 2012, last accessed 04 April 2013○Cukierman, A and A H Meltzer (1986), “A Theory of Ambiguity, Credibility, and Inflation under Discretion and Asymmetric Information(JSTOR),”Econometrica, 54(5), 1099-1128○Faust, J and L E O Svensson (2001), “Transparency and Credibility: Monetary Policy with Unobservable Goals(JSTOR),” International Economic Review, 42(2), 369-97○Hansen, S and M McMahon (2013), “First Impressions Matter: Signalling as a source of policy dynamics(pdf)”, mimeograph○King, R G, Y K Lu and E S Pastén (2008), “Managing Expectations(Wiley online library),” Journal of Money, Credit and Banking, 40(8), 1625-1666○Sibert, A (2002), “Monetary policy with uncertain central bank preferences(ScienceDirect),” European Economic Review, 46(6), 1093-1109○Sibert, A (2003), “Monetary Policy Committees: Individual and Collective Reputations(JSTOR),” Review of Economic Studies, 70(3), 649-665○Sibert, A (2009), “Is Transparency about Central Bank Plans Desirable?(Wiley online library),” Journal of the European Economic Association, 7, 831-857○The Economist (2013), “On a wing and a credit card” July 6th 2013○Vickers, J (1986), “Signalling in a Model of Monetary Policy with Incomplete Information(JSTOR),” Oxford Economic Papers, 38(3), 443-55訳注;将来にわたって低金利政策を継続することへのコミットメント。「2015年半ばまで現状の低金利政策を継続する」といったように低金利政策を継続する期間が明示される場合もあれば、「失業率が6.5%を上回り続けているか、インフレ率が2.5%を下回り続けている限りは、現状の低金利政策を継続する」といったように低金利政策の継続が特定の経済変数の値と関連付けられる場合もある。 [↩] 訳注;あるいは、総裁着任当初における黒田氏の一連の言動か? [↩] 訳注;現在イギリス経済が置かれている困難な状況を前にしてカーニーがインフレ期待の上昇を目指すつもりであるとすれば、カーニーは着任当初は自分の真の選好よりもハト派的に振舞うことが予測される。一方で、カーニーがインフレ期待の低位安定化を実現するためにインフレファイターとしての評判を確立したいと考えているとすれば、カーニーは着任当初は自分の真の選好よりもタカ派的に振舞うことが予測される。 [↩]
「タフでマッチョなハト派? タカのようなハト?」 BY ANDY HARLESS 以下は、Andy Harless, “Why Doves Are Really Hawks”(Employment, Interest, and Money, February 13, 2013)の訳。 マッチョ(Machismo)はコミットメント・メカニズムの一種である。 仮にあなたが徹底的なまでに合理的なオタク(perfectly rational nerd)であるとしよう。その場合、周囲の人々はあなたが合理的な振る舞いをするはずだと常に予想することだろう。そのため、あなたは信じるに足る脅し(credible threats)を行うことはできないだろう。というのも、あなたの脅しが周囲の人々から信頼されるのはその脅しを実行することがあなたにとって合理的な場合に限られるが、脅しをそのまま実行に移すことが合理的であるケースなどほとんどないだろうからである。(「ケツを蹴っ飛ばしてやるぞ」と脅しておいて実際にも)他人のケツを蹴飛ばす(whoop someone’s ass)ことが合理的な状況が一体どのくらいあると言うのだろうか? 一方で、仮にあなたがタフでマッチョなごろつき(badass)であるとしよう。その場合、周囲の人々はあなたがタフでマッチョでたちの悪い振る舞いをするはずだと常に予想することだろう。そのため、あなたはいつでも信じるに足る脅しを行うことができることだろう。というのも、脅しをそのまま実行することは、タフでマッチョでたちの悪い行いに他ならないからである。こうしてあなたの脅しは周囲の人々から信じるに足るものと見なされることになるが、まさにそれがために脅しが実行に移される機会は滅多に訪れることはないだろう。 以上の議論は金融政策のよく知られた話題[1] に対しても応用することができる。仮にあなたの国のセントラルバンカーが徹底的なまでに合理的なオタクであるとしよう。その場合、あなたの国ではインフレが非常に高い水準に達することになるだろう。というのも、セントラルバンカーが「(インフレを抑制するために;訳者挿入)不況を起こすぞ」と脅したところでそれが信じるに足るものと見なされることはないだろうからである。大抵のケースにおいてそのような脅しを実行することは合理的ではなく、そのために人々はセントラルバンカーが脅しを実行するとは予想だにしないことだろう。不況を起こすことが合理的な状況が一体どのくらいあると言うのだろうか? 一方で、あなたの国のセントラルバンカーがタフでマッチョなごろつきであるとしよう。その場合、あなたの国ではインフレが高止まりすることはないだろう。というのも、セントラルバンカーが「不況を起こすぞ」と脅した場合それは信じるに足るものと見なされるだろうからである。不況を起こすことは(そのセントラルバンカーにとって)タフでマッチョでたちの悪い行いであり、そのために人々はセントラルバンカーがその脅しを実行するはずだと予想することだろう。セントラルバンカーの「不況を起こすぞ」との脅しが信じるに足るものであるために、人々は価格の設定に慎重になる(価格の抑制に向かう)だろうが、まさにそれがためにセントラルバンカーが脅しを実行する必要はないことになろう(確かに、実際のメカニズムはもう少し複雑だが、あらましとしてはこうなる)。 さて、そこで質問である。インフレの高止まりをどうしても避けたいと願う場合、どのようなタイプの人間がセントラルバンカーの座に就くことが望ましいだろうか? その答えは言うまでもなく明らかだろう。タフでマッチョなごろつきである。ディナー用の食材を獲得するために自らのかぎづめで喜び勇んで小動物を掴み上げるようなタイプの(タカのような;訳者挿入)セントラルバンカーである。反対に、こぎれいな見た目でくうくう鳴きながらそこら一帯を喜び勇んで飛び回るようなタイプの(ハトのような;訳者挿入)セントラルバンカーは御免被りたいことだろう。 このような理論は1980年代においてはかなり筋の通ったものであったが、それ以降現実の世界は変化を遂げることになった。過去20年間においてインフレ率はそれほど高い水準にはなく、今現在我々は穏やかな不況の真っただ中に置かれている。この穏やかな不況から抜け出すための手段の一つは、「インフレを起こすぞ」と脅すことにある。「機会さえあれば、現金の購買力を毀損させる(インフレを引き起こす)つもりだ」と脅しをかけることで、人々に対して手持ちの現金や金融資産を使って何か有益なことをはじめた方が得策だ、と思わせるわけである。確かにやがて時が来ようものなら[2] 、「インフレを起こすぞ」との脅しを実行することは合理的ではないことになろう。それゆえ、仮にセントラルバンカーが徹底的なまでに合理的なオタクであれば、その脅しは信じるには足らないものとなるだろう。 さて、そこで質問である。現在我々が直面している不況からどうしても抜け出したいと願う場合、どのようなタイプの人間がセントラルバンカーの座に就くことが望ましいだろうか? その答えは言うまでもなく明らかだろう。タフでマッチョなごろつきである。ディナー用の食材を獲得するために自らのかぎづめで喜び勇んで小動物を掴み上げるようなタイプのセントラルバンカーである。ところで、言うまでもなく私は鳥類学の専門家ではないが、このようなタイプのセントラルバンカーを「ハト(派)」(“dove”)と呼ぶのは適切ではないように思われるのである。 訳注;時間不整合性(time inconsistency)の問題 [↩] 訳注;実際にインフレが高まりを見せることになれば [↩]
「FOMC版(笑)指数」 BY TIMOTHY TAYLOR 以下は、Timothy Taylor, “The Fed Laughter Index”(Conversable Economist, August 2, 2013)の訳。 2007年から2009年にかけてアメリカ経済は非常に激しい金融・経済ショックに襲われたが、これまで本ブログでは折に触れてそのショックの深刻さを例示するために数々の図やデータを紹介してきた。例えば、こちらやこちらのエントリーで取り上げたように、金利スプレッドや金融部門による純貸出、住宅価格のバブル、海外からアメリカへの資本流入(国際的な資本移動の動向)などのデータを紹介してきたわけだが、今回はちょっと風変わりな指標を紹介してみようと思う。その指標というのはFOMC版(笑)指数とでも呼べるものであり、FOMC(連邦公開市場委員会)−アメリカにおける金融政策の最高意思決定機関−のトランスクリプト(会合の場で各参加者が行った発言を文字に起こしたもの)における(笑)([Laughter])の数−会合中に参加者の間で笑い声が漏れた回数−をカウントしたものである。 FOMC版(笑)指数をまとめた上の図によると、グリーンスパン議長時代の終わり頃には、各会合ごとの(笑)の数は概ね10〜30の範囲に収まっていることがわかる(FOMCの参加者の間で笑いの種となるユーモアというのは、一室に集った金融政策オタクたちだけがくすぐられる類のものだ、という点ははっきりさせておこう)。バーナンキがFRB議長に就任して以降は(笑)の数は増加傾向を示しており、ピーク時には各会合ごとの(笑)の数は70〜80の水準にまで達している。しかし、2007年後半にアメリカ経済が金融危機の第一波に襲われてからというもの、(笑)の数がゼロである会合もいくつか観察されるようになっている。 FOMCの議事録が公表されるまでには会合が終了してから5年間待たねばならないという事情もあって、上の図では2008年初頭のデータまでしか示されていない点には注意してほしい。最後にこの図の出所を明らかにしておこう。この図は、スタンフォード大学経済政策研究所(Stanford Institute for Economic Policy Research)が昨年春に開催した「サミット」の報告書から引用したものであり、Bianco Researchが収集したデータに依拠して作成されたものである。 http://econdays.net/?p=8715
「ケチャップ発言を巡るミステリー 〜あの発言の主は噂通りの人物? それとも・・・?〜」 BY NEIL IRWIN
以下は、Neil Irwin, “The mystery of Ben Bernanke and the Japanese ketchup is solved!”(Wonkblog, May 12, 2013)の訳。 つい先日私は中央銀行をテーマとした著書を上梓するに至ったが、その中でFRBの現議長とケチャップならびに日本銀行の三者を巡るちょっとしたミステリーについて言及している。しかし、今やそのミステリーは解かれた、と個人的には考えているところだ。 遡ること10年前の2000年代初頭、アメリカの政府高官ならびに経済学者らは日本政府、中でも日本銀行に対してひっきりなしに次のようなコメントを寄せていた。日本経済がデフレから脱却するために日本政府(中でも日本銀行)はもっと積極果敢に行動する必要がある、と。当時FRBの理事であったベン・バーナンキ(Ben Bernanke)もそのように発言していたうちの一人だった。 長年にわたり日本銀行の役員の間で流布し、またリチャード・クー(Richard Koo)が繰り返し自らの著書の中で取り上げている次のようなストーリーがある。それはバーナンキが2003年の5月に訪日した際のエピソードに関するものである。当時バーナンキは次のように語ったと言われている。「中央銀行はいつでもインフレの上昇をもたらすことができるはずだ。市中に貨幣を注入する上で金融資産を購入するだけでは十分ではないようなことがあっても、日本銀行はそれ以外に何でも−それこそトマトケチャップでも−買うことができるし、そうすることを通じて経済に流通する貨幣の量を増やし、物価の上昇をもたらすことは可能なのである。」 ケチャップとは何とも面白い例である。しかし、ここに問題が控えている。バーナンキ自身はケチャップを例に持ち出した覚えがないばかりか、果たして本当に自分がそのように発言したのか極めて懐疑的なのである。先にも触れた私自身の本では日本をテーマに1章を割いているが、その箇所を執筆している最中、このケチャップ発言を巡るエピソードに関して確信が持てないでいた。バーナンキの記憶違いなのだろうか、それとも日本銀行の役員の間で噂が広まるうちに話が事実とは違うかたちで伝わってしまったのだろうか、と。かつて東京に滞在していた際に日銀の元スタッフからこのエピソードを耳にしたことはあったものの、バーナンキのケチャップ発言を直接聞いたという人は誰一人としていなかった。そういう事情もあって、拙著ではバーナンキがケチャップあるいはそれと類似のモノを例として持ち出したかどうかについては真偽不明の未解決問題として取り上げる格好となったのであった。 しかし、今やその答えが明らかになったと言えるかもしれない。当時財務省の役人であったトニー・フラット(Tony Fratto)から次のような話を聞いたのである。彼の記憶によると、現在スタンフォード大学に籍を置く経済学者であり、当時は財務次官(国際経済担当)を務めていたジョン・テイラー(John B. Taylor)とともに日本銀行を訪れたことがあるという−新聞の切り抜きから判断すると、彼らが日銀を訪れたのは2002年10月のことだと思われる−。その際にテイラーがケチャップ発言をしたのを聞いたというのだ。 フラットはメールで次のように答えている。「私たちが東京を訪れたのは、不良債権の処理をもっと速やかに進めるとともに、量的緩和をもっと積極的に実施するように日本の政策当局を鼓舞するためでした。あの時のジョン(テイラー)はぶっきらぼうな調子で意見を開陳していましたが、ケチャップ発言を含むコメントはそのようなざっくばらんな雰囲気の中で語られたものでした。ジョンは長い間日本銀行(金融研究所)の顧問を務めており、そこで働く人々全員と大変良好な関係を築いていました[1] 。当時のエピソードは非常によく覚えています。」 加えて、例として持ち出されたのは抽象的な「ケチャップ」というわけではなかったようである。フラットの記憶では、テイラーはケチャップの具体的な銘柄まで口にしたらしい。 「当時私たちは二人ともピッツバーグに住んでいて、日本への移動中はピッツバーグのあれやこれやについて情報を交換し合ったり語り合ったりしていました。ジョンは単に『ケチャップパケット』とだけ述べたわけではありません。『ハインツのケチャップパケット』[2] と述べたのです。」 どうやらこれが真相のようである。テイラーこそがあの何とも愉快なケチャップ発言の主だったのである。このエピソードが語り継がれる中で、テイラーと同じく高い評価を得ているアメリカ出身のマクロ経済学者であり、また彼と同じくその後公職の座に就くことになり、また彼とほぼ時期を同じくして日本を訪れた別の人物[3] の発言として入れ替わってしまったのであろう。 テイラーによると、当時日本銀行を訪れた際にケチャップのメタファーを用いたかどうかまでは詳しくは覚えていないものの、大学の講義で学生に金融政策のことを説明する際の助けとしてケチャップを例に持ち出してきたことは確かだということだ。テイラーはメールで次のように述べている。「これまで長年に(何十年にも?)わたってスタンフォード大学での経済学入門の講義で公開市場操作のエッセンスを説明する際に、『ケチャップが十分に存在するようであれば、Fedはケチャップを買うことができる』といったような調子でケチャップを例に持ち出してきました。学生が金融政策の働きを理解し、そのことを記憶に定着させるよう促すための教育上のジョークの一種としてですが。」 さて、ここにもう一つのアイロニーがある。テイラーとバーナンキが日本を訪れ、日本銀行に対してもっと積極的な金融政策に打って出るよう発破をかけてから10年以上が経過しているが、ついにここ最近になって、安倍晋三首相率いる新政府と黒田東彦新総裁率いる日本銀行はアメリカの政府高官がかつて推奨していた積極的なアプローチに踏み出すこととなった。インフレ率を2%にまで引き上げるために必要なことは何でもすると誓ったのである。これまでの動向を観察する限りでは、新たに刷った貨幣で債券を無制限に購入する姿勢を見せるなどしており、日本の政策当局は前進を続けているように思える。 しかしながら、巷間伝えられるところでは、日本銀行が新たに刷った大量の円でトマトケチャップ−ハインツあるいはその他の銘柄のケチャップ−を購入する予定はないようである。 訳注;テイラーが打ち解けた調子で意見を述べたのもそのためであった。 [↩] 訳注;ハインツの本社はピッツバーグに居を構えている。 [↩] 訳注;バーナンキ [↩]
「無能さの効能 〜信頼性のシグナルとしての無能さ〜」 BY BILL PETTI 以下は、Bill Petti, “The Individual Utility of Incompetence”(Signal/Noise, October 19, 2010)の訳。 組織(政府組織や企業組織など)が機能不全に陥り、停滞に至る理由は数多く考えられるが、その中でも主要な理由の一つは能力の劣る人物が昇進(出世)したり、現在の地位に居座り続けるからだろう。このメカニズムに焦点を当てた研究は数多い(例えば、ピーターの法則(Peter Principle)が有名である。ピーターの法則の概要は次のようになる。組織のメンバーは彼/彼女が有能であり続ける限りは(その能力が新たな役職に見合う限りは)昇進の階段を上り続けることになるが、やがてはその能力を超える役職を任せられるに至り、最終的に落ち着いた役職に照らすとその人物は無能ということになる)。しかしながら、無能な人物が昇進したり同じ地位にとどまり続けることは組織の利益に反するように思われる。どうしてそのような現象が広く見られるのだろうか? どうして能力の劣る人物が現在の地位に居座り続けることができ、場合によっては昇進までできたりするのだろうか? 考えられる理由の一つは、彼らの「無能さ」という性質それ自体に価値が置かれているから、というものである。「無能さ」はその人物の信頼性を示すコストのかかるシグナル(costly signal)として機能している可能性がある。自らの勢力基盤を固めようと企む上司が一人一人の部下の信頼性(「こいつは信頼できる(そう簡単には裏切らない)人物かどうか」)を見分ける際のシグナルとして機能している可能性があるのだ。 ディエゴ・ガンベッタ(Diego Gambetta)と言えばシグナリングの研究の第一人者として知られている社会学者だが、彼が2007年に上梓した著書『Codes of the Underworld: How Criminals Communicate』では、信頼とシグナリング、そしてコミュニケーションとの絡み合いを把握するために、犯罪者の間での協調の問題がテーマとして取り上げられている。マフィアは信頼に関わるシグナリング理論にとっての「ハードケース」(厄介な事例)[1] と見なし得るだろう。というのも、犯罪者は嘘をつく(裏切る)強いインセンティブを持っており、犯罪者であるというまさにその事実のために「信頼できる人間」という人物像からほど遠い存在だからである。それにもかかわらず、犯罪者たちはどのようにして互いの行動をコーディネートし、お互いに信頼できる相手かどうかを確認しているのだろうか? 犯罪者がいかにして自らの信頼性(「私は信頼に値する人間だ」ということ)をシグナルしているかを理解することができれば、それほど過酷ではないもっと一般的な状況において普通の人々がどのように自らの信頼性をシグナルしているかについても何らかの示唆を得ることができるだろう。 ガンベッタによると、犯罪者が自らの信頼性を相手(同じく犯罪者)に対してシグナルし得る方法の一つは・・・そう、自らの「無能さ」を示すことを通じてだという。 暴力団(ギャング)の下っ端連中−しばしば、フィクション作品の中でエネルギュメーヌ(énergumène;変人)として誇張して描かれる存在−がこの極端なケースの典型である。彼らがあまりにも賢いようだと、その組織のボスにとって脅威となることだろう。ここでは白痴(Idiocy)であることがその人物の信頼性を仄めかすことになるのである。・・・(省略)・・・「私にとって金儲けをする最大のチャンスは「義賊」(‘honourable thief’;高潔な泥棒)として振舞うことにあるんです」と他者を納得させる[2] 方法の一つは、それ以上に[3] 優れた選択肢がないことを示すことにある。・・・(省略)・・・「無能さ」(無能であること)は他者に対して次のように伝えているようなものである。「私は頼りになる存在です。だって、万一あなたを騙そうと(裏切ろうと)企んだところで、(無能な)私にはそんなことはできないんですから。」 “ 犯罪組織の下っ端は一人でやっていけるだけのスキルも知性も備えておらず、組織のボスに経済的に頼らざるを得ない。まさにそのために、犯罪組織の下っ端は自らの「無能さ」を示すことで自分が信頼に値する人物だということをボスにシグナルすることが可能となるわけだ。このロジックに従うと、犯罪組織は大抵の場合無能な人物をそのメンバーとして迎え入れる可能性が高く、犯罪組織のボスは次第に自分よりも能力の劣る人物で脇を固めていく傾向にあると言えるだろう。 これと同様のロジックが企業や学校、政府といった組織でも働いていることを見て取ることは難しくない。組織がパフォーマンスの向上よりも組織への忠誠に重きを置くようになると、その組織内では無能なメンバーの数が増すことになるだろう。さらには、「スポンサー」(自分のことを贔屓してくれている上司)が昇進するにつれて、無能な部下もまたその後を追って昇進することになるだろう。 訳注;ハードケースには「ならず者」という意味もあり、ここではその意味もかけていると思われる。 [↩] 訳注;「私と一緒に手を組んで泥棒に入りませんか? 絶対に裏切りませんから。」と他者を説得する、という意味 [↩] 訳注;泥棒として活動する以上に [↩] http://econdays.net/?p=8805 「人身供犠の経済学」 BY ELI DOURADO 以下は、Eli Dourado, “What Can We Learn from Human Sacrifice?”(The Ümlaut, February 20, 2013)の訳。 人身供犠(human sacrifice)に関する歴史的な記述は現代人の心をゾッとさせずにはおかない。ピーター・リーソン(Peter Leeson)がつい最近の論文(pdf)でインド東部のコンド族(Konds)の間で執り行われていた人身供犠をテーマに取り上げているが、その中には次のような記述がある。 いくつかのケースでは、生贄の動きを封じるために腕や足の骨が折られることもあった。そして最後の祈りが唱えられるや、神官(priest)の言葉を合図に「儀式に参加していた民衆が一斉に生贄に飛び掛かり、頭と腸には一切触れることなしに肉と骨の切り離し(皮剥ぎ)に取り掛かるのであった」。供犠に際して生贄を切り刻むことはどの地域でも共通して見られたものであったが、コンド族の間では時に生贄に対してそれ以外の処置−いずれも派手であり[1] 、見た目に残酷なものであった−が施されることもあった。例えば、生贄の体を細かく切り刻む前に、生贄を豚の血で満たされた穴の中に投げ込んで溺死させたり、生贄の命が絶えるまで真鍮の腕輪で殴り続けるといった処置が施されたのである。 “ すべては豊饒と草木の女神−人々の災いを願っているかのように見える地母神−であるタリ・ペヌー(Tari Penu)の気持ちを安らげるために執り行われたのであった。 人身供犠などというのは極めて非合理的であり、社会的に見て有害な行いでしかない、と思われることだろう。しかしながら、「いや、そうではない」、とリーソンは語る。リーソンによると、コンド族は人身供犠の儀式を自分たちの所有権を保護するためのテクノロジーの一種として利用していた、というのである。人身供犠という 「見せびらかしの破壊」(“conspicuous destruction”)に乗り出した集団はその分だけ貧しい状況に置かれる(富を失う)ことになるが、人身供犠の様子を目撃したりその事実を知った隣接する周囲の(同じコンド族に属する)集団は人身供犠を執り行った集団を襲撃したところで得にはならない[2] 、と判断することだろう。つまりは、人身供犠はそれに伴うコスト(富の破壊)を他者の目にも明らかにすることで、(同じコンド族に属する)他の集団による略奪行為を未然に防ぐ機能を果たしていたわけである。生贄−コンド族の間ではメリアー(meriahs)と呼ばれていた−は外部(コンド族以外)のコミュニティーから高値で購入される習わしとなっていたことに加えて、人身供犠は偽装が困難という特徴も備えていた。「見せびらかしの破壊」の手段としては収穫した大量の作物を一箇所に積み上げてそれを燃やすという方法も考えられるが、作物の山を燃やす場合はその表面を葉っぱで覆い尽くすことで中身の偽装[3] が可能である。一方で、人体の解体を偽装することは困難である[4] 。 リーソンの件の論文は次のこと、すなわち、少なくともいくつかの状況においては、人身供犠が合理的であり、社会的に見て有益な役割を果たしていたことを理論的・歴史的な観点から説得的に論証していると言えよう。人身供犠を通じて同族間での略奪行為が抑制されることで、そうではない場合−人身供犠が一切執り行われず、そのために同族間での略奪行為が頻発する場合−と比べてコンド族の人々は全体としてより平穏で恵まれた生活を送ることが可能となったと考えられるわけである。 それでは、我々もまたコンド族を真似して人身供犠を執り行うべきなのであろうか? その答えは明らかに「ノー」である。しかしながら、コンド族による人身供犠から学べることはたくさんある。リーソンは論文の冒頭でジョージ・スティグラー(George Stigler)の次の言葉を引用している。 「長きにわたって存続している社会制度や社会慣行はいずれも効率的である」(“[E]very durable social institution or practice is efficient.”) “ コンド族による人身供犠は太古の昔より続く習わしであったと伝えられており、それゆえ人身供犠は長きにわたって存続した社会制度であったわけである。リーソンの一連の研究は、ちょっと風変わりだが、それにもかかわらず合理的で効率的な過去の社会慣行の例で満ち溢れている。呪い(Cursing)はどうなのかって? リーソンによれば(pdf)、合理的である。決闘裁判(Trial by battle)は? リーソンによれば(pdf)、効率的である。中世ヨーロッパで行われていた試罪法(ordeals)は? リーソンによれば(pdf)、有罪と無罪を正確に見分ける有効な手段であった。虫や動物を被告とした裁判は? リーソンによれば(pdf)、十分の一税の納付の増大に貢献したという意味でカトリック教会にとって好ましいものであった。それなら妻売り(Wife sales)は? リーソン(ベッキー(Boettke)とレムケ(Lemke)との共同研究)によれば(pdf)、女性(妻)にとって好ましい慣行であった。 人身供犠に関するリーソンの研究は、リベラル派あるいはリベラルな立場に共感を抱く人々に対して次のような重要な教訓を投げ掛けている。その教訓とは、長きにわたって続く慣行や長きにわたって抱き続けられている信念を愚かだとか非合理的だと軽んじるべきではなく、現存する制度や慣行のことは何であれ理解し尽くしているなどと軽々しくも考えるべきではない、ということである。人身供犠を宗教上の制度(慣行)−確かにそうであった−としてだけ捉えてしまうと、同時に所有権を保護するための制度でもあった−確かにそうであった−という事実が易々と見過ごされてしまう結果になるだろう。仮に外部からの呪術的な干渉(magical intervention)を通じてコンド族の間での人身供犠を取りやめさせることが可能となったとしても、そのためにコンド族の人々は略奪のための闘争に明け暮れる結果となってしまうかもしれず、人身供犠が続いた場合よりも多くの人命と富が失われてしまう恐れがあるのである。また、かつてイギリスはリベラルな教育や暴力の脅しを通じてコンド族の間での人身供犠に終止符を打とうと試みたが、結局のところその試みは失敗に終わった。同様に、長きにわたって存続するリベラルとは言えない社会慣行を取りやめさせようとする試み(干渉)はしばしば失敗に終わることになるであろう。 人身供犠に関するリーソンの研究は、保守派あるいは保守的な立場に共感を抱く人々に対しても教訓を投げ掛けている。人身供犠はコンド族が直面していた特定の状況においては効率的な制度であった。イギリスがコンド族に対して所有権の保護や紛争解決のサービスを提供し始めるや、コンド族の人々は快く人身供犠の習わしから手を引くことになった−おそらく、(コンド族の)年配者の中には若者の不信心な態度に怒り心頭であった人々もいただろうが−。環境が劇的に変化すると、それまで長きにわたって存続し効率的であった社会制度ももはや効率的ではなくなり、そのために存続できなくなるわけである。スティグラーが主張しているように、効率的な制度の存続を支えるのと同じ力が非効率的な制度の淘汰をもたらすのである。また、社会制度が存続したり変化する真の理由を理解することはリベラルな人々だけではなく保守派の人々にとっても困難なようだ。そのためなのか、実のところは新しいテクノロジーの導入に対する効率的な反応であるにもかかわらず、保守派の人々は社会的な変化の原因をしばしば道徳の頽廃に求める傾向にあるのである。 我々はテクノロジーの急激な変化の時代に生きている、とはよく言われるところであるし、事実そうであろう。目下のところテクノロジーが急激に変化するだけではなく、(結婚や出産、終末期医療、労働市場、大学などなどを巡る)数多くの社会制度もまた急激な変化を被っているが、何も驚くことはない。というのも、 社会的な変化はテクノロジーの変化の結果に過ぎないからだ。リベラルな人々は、古くから続く制度を現状の温存を後押しするものと捉える一方で、社会的な変化を進歩と見なすことだろう。保守派の人々は、古くから続く制度や慣行を内面化しており、そのために社会的な変化を頽廃と見なすことだろう。しかしながら、社会的な変化は道徳的な進歩を意味するものでも道徳的な頽廃を意味するものでもない。法や経済学、そして迷信に関するリーソンの一連の研究は、一見風変わりな数多くの社会制度−コンド族に限らず我々自身の社会制度も含めて−は我々が抱える問題や直面している制約に対する合理的な反応の結果だ、ということを愉快かつ啓蒙的なかたちで教えてくれているのである。 訳注;派手=その様子が広範囲の人々の目にとまる [↩] 訳注;略奪に及ぶことで得られる便益が略奪に要するコストに見合わない [↩] 訳注;葉っぱの覆いの下に作物ではなく何か別のものを潜ませる [↩] 訳注;それゆえ、人身供犠は作物を燃やす場合と比べて富の破壊が偽りではなく本物であることを示す一層信頼のおけるシグナルとして機能した [↩]
「迷信と経済発展」 BY PETER LEESON
以下は、Peter T. Leeson, “Superstition and Development”(Aid Watch, August 23, 2010)の訳。 ジプシー(ロマ)の間では次のような迷信が信じられている。人間の下半身は気付かぬうちに穢される恐れがあり、超自然的な力の働きによって超自然的な穢れが人から人へと伝染していくことがある。そして、ジプシー以外の人々は内面的に毒されている、と。 このような一連の迷信は決して非合理的なわけではなく、ジプシー社会の秩序を維持する上で中心的な役割を果たしている。ジプシーは仲間うちでの協調を支えるために政府によって作り上げられた法制度(訳注;以下では、「公的でフォーマルな制度」と訳すことにする)に頼ることができない状況に置かれており、彼らの間でなされる経済的・社会的なやり取りは公的な法律の範囲の外にあるものとしてあるいは違法なものとして取り扱われている。しかしながら、法と秩序に対する欲求の強さに関してはジプシーもそれ以外の人々に少しも劣るところはない。 そこでジプシーは仲間内での秩序を維持するために迷信の力を借りることになる[1] 。冒頭で触れた迷信、すなわち、ジプシー以外の人々は内面的に毒されており、超自然的な穢れは人づてに伝染する、という信念について考えてみることにしよう。ジプシーは(経済的・社会的な)やり取りの相手側(ただし、自分と同じジプシー)の裏切り行為を抑えるために政府に頼ることはできない。そのため、ジプシーは社会的に見て破壊的な(非生産的な)行為を抑えるために村八分(ostracism)の脅し[2] に訴えざるを得ないことになる。 しかしながら、ここに問題がある。それは、ジプシー社会はジプシー以外の人々からなる大海の上に浮かぶ小島のようなものだということである[3] 。裏切り行為を犯して追放されたジプシーが外部の大きな社会に溶け込み、その社会の人々(ジプシー以外の人々)と接触することができるようであれば、村八分は大した罰とは言えなくなる。そこでジプシーは、村八分の脅しに実効性をもたせるために、ジプシー以外の人々は内面的に毒されており、彼らの内面における毒は伝染性があり、彼らと接触すれば超自然的な力の働きによって自らも毒されて(穢されて)しまう、との強固な信念を生み出すに至ったのである。 このような迷信が信じられている状況では、村八分の脅しは真実味を帯びたものとなる。というのも、裏切り行為はジプシー社会・非ジプシー社会を問わず全ての社会からの追放を意味することになるからである[4] 。村八分の脅しと迷信の力が相まって、ジプシー社会では社会的に見て破壊的な行為が防がれているわけである。おそらく意図しないかたちでではあろうが、ジプシーの間で信じられている迷信は(ジプシーの仲間うちの間での)法と秩序の維持に貢献しているわけである。 私たちはジプシーのような「他者」が信じる迷信をつい見下してしまいがちだが、ヨーロッパの歴史もまた迷信の宝庫であることがわかる。そして、かつてヨーロッパで信じられていた迷信の中には社会的に有益な役割を果たしていたものも存在していた可能性がある。例えば、中世ヨーロッパの裁判では、犯罪の被告人が有罪か無罪かがはっきりしない場合、被告人に対して試罪法(ordeal)が執り行われた[5] 。例えば、熱湯を用いた試罪法では、被告人はぐつぐつとお湯が沸き立つ大釜の中に手を突っ込むよう求められる。熱湯に手を突っ込んでから3日後に被告人の腕にひどいやけどや感染症の症状が確認されると、被告人は有罪を宣告されることになる。一方で、被告人の腕に何の異常も表れない場合には、被告人には無罪が言い渡されることになる。こういった試罪法はとある迷信の上に成り立っている。その迷信というのは、被告人が無実であれば、神がその被告人に対して奇跡をもたらし、厳しい試練を無傷のままで潜り抜けることを可能とする、というものである。 ジプシーのケースと同様に、この迷信は一見すると非合理的な信念のように思われるが、じっくりと検討してみると社会的に見て有益な働きをしていることが判明する。仮に被告人に罪の覚えがある場合、自らの腕を熱湯にさらさねばならない恐怖を前にして、彼/彼女は試罪法の受け入れを必ずや拒否することだろう。それというのも、中世のヨーロッパでは、罪の覚えが無い被告人は神によって救われて無罪放免となり、一方で罪の覚えがある被告人は試罪法を通じて罪を犯したことが明らかになる、との迷信が人々に信じられており、そのため罪の覚えがある被告人は試罪法を受ければ腕にやけどを負い、そして有罪を宣告されるはずだ、と考えるからである。罪の覚えがある被告人は、腕にやけどを負うよりは、自ら罪を白状するか告発者と示談に持ち込む方が得策だ、と考えることだろう。 それとは対照的に、罪の覚えが無い被告人は必ずや試罪法の執行を受け入れることだろう。彼らもまた先の迷信−罪を犯していない被告人が試罪法に身を任せた場合、神が彼らの腕をやけどから守り、そのため無罪が証明されるはずだ、との迷信−を信じており、そのために試罪法に対して何らの恐れも抱くことが無いからである。罪の覚えが無い被告人はすすんで試罪法の執行を受け入れることになるだろう。 罪の覚えがある被告人だけが試罪法の受け入れを拒否し、罪の覚えが無い被告人だけがそれをすすんで受け入れるために、被告人が試罪法に対してどういった反応を見せるかを観察することで、彼/彼女が有罪か無罪かを知ることができたわけである。中世ヨーロッパで広く信じられていた迷信は刑事裁判の進行を手助けする働きをなしており、そうすることで法と秩序の維持に貢献していたわけである。 ただし、あらゆる迷信が法と秩序の維持を促すと主張したいわけではない。決してそうではないだろう。しかしながら、滑稽で科学的な裏付けのない信念の中には、公的でフォーマルな制度が不在であったり、そういった制度がうまく機能していない状況において、公的でフォーマルな制度の代わりとなって社会的な協調を促す働きを現に果たしているものが存在する可能性を退けるべきではない、と思われるのである。そこで疑問となるのは、発展途上国で信じられている迷信のうちでどれがそういったカテゴリーに含まれるだろうか?、ということである。 原注;ジプシー社会の迷信に対して経済学的な観点から包括的な分析を加えているものとしては、次の私の論文がある。参照あれ。Leeson, Peter T. 2013. “Gypsy law(pdf)”, Public Choice, vol.155, issue 3-4, pp. 273-292. [↩] 訳注;裏切り行為に手を染めればジプシー社会から永久に追放するぞ(ジプシー社会の人間はもう誰もお前とはこの先取引することはないぞ)、との脅し [↩] 訳注;ジプシー以外の人々と容易に接触できる状況にある、ということ [↩] 訳注;裏切り行為を行うとその後は非ジプシー社会の人々とのみ付き合わざるを得なくなるが、非ジプシーの人々と付き合うと自らも穢れてしまうと信じられているために、非ジプシーの人々と付き合うわけにもいかない [↩] 原注;中世ヨーロッパで実施されていた試罪法による裁判に対して経済学的な観点から包括的な分析を加えているものとしては、次の私の論文がある。参照あれ。Leeson, Peter T. 2012. “Ordeals(pdf)”, Journal of Law and Economics, vol.55, issue 3, pp. 691-714. [↩] 「私の妻を買ってください! 〜妻売りの経済学〜」 BY KATHERINE MANGU-WARD
以下は、Katherine Mangu-Ward, “Take Buy My Wife. Please!”(Hit&Run blog, June 20, 2011)とKatherine Mangu-Ward, “Buy My Wife. Please!”(Reason, November 2011)の訳。 ジョージ・メイソン大学の経済学者であるピーター・リーソン(Peter Leeson)−彼は海賊や試罪法の研究でも有名である−とピーター・ベッキー(Peter Boettke)、ジェイマ・レムケ(Jayme S. Lemke)が18〜19世紀のイギリスで広く見られた妻売り(wife sales)の慣行に対して経済学の観点から弁護を行っている。当時のイギリスでは離婚の手続きがかなり厄介であり、妻は夫の所有物と見なされていた。この経済学者トリオは次のように説明している。「妻売りは産業革命期のイギリスの法律によって生み出された風変わりな所有権の実態に対する制度的な反応であり、それも効率改善的な反応であったと言える」。 以下、彼らの論文から一部引用しよう。 18世紀のイギリスで生活をともにしている夫婦の例について考えてみることにしよう。妻の名はハティ(Hattie)、夫の名はホーレス(Horace)である。ホーレスはハティを愛しており、妻としてのハティには5ポンドの価値があると評価している。一方で、ハティはホーレスのことが嫌でたまらず、夫としてのホーレスにはマイナス7ポンドの価値しかないと感じている。この2人の結婚は非効率的である。ハティは離婚したがっているが、そのためにはホーレスの同意が必要である。ホーレスとしてはハティが5ポンド以上支払ってくれるのであれば離婚に同意してもよいと考えており、ハティも離婚の同意を得るためならば5ポンド以上を支払う気でいる。しかしながら、結婚後のハティは財産に対する所有権を一切持ち合わせておらず、それゆえ離婚の同意を得るための手段を欠いている。(当時の法律によると;訳者挿入)ハティの財産はすべてホーレスの所有物なのである(そのため、ハティが離婚の同意を得るために支払う(5ポンド以上の)現金もホーレスのものである)。2人の間での直接的なコース流の交渉(Coasean bargain)は不可能なのだ。 しかし、間接的なコース流の交渉の可能性は残されている。ここで第3の人物ハーランド(Harland)に登場願おう。彼は未だ独身であり、ホーレス&ハティ夫婦の隣人である。ハーランドはハティのことをホーレス以上に強く愛しており、妻としてのハティには6ポンドの価値があると評価している。また、ハティはハーランドのことをホーレス以上に強く愛しており、夫としてのハーランドには1ポンドの価値があると評価している。 ホーレスがこの事実を理解している場合、彼はハティとハーランドに対して次のような提案を持ちかけることだろう。「ハーランド君に提案なんだが、もし君が私に5.5ポンドを支払っても構わないと言うのであれば、それと引き換えに君に私の妻ハティをお譲りしようと思うのだが、どうだろうか?」、と。ハティの財産はすべてホーレスのものであったが、ハーランドの財産はホーレスのものではなくハーランドのものである。そのため、この交渉は実行可能である。ハティとハーランドはホーレスの提案を受け入れることだろう。提案通りに事が進めば、ホーレスは0.5ポンド分だけ、ハーランドは0.5ポンド分だけ、ハティは8ポンド分だけの便益をそれぞれ獲得することになる[1] 。妻売りを通じて関係するすべての人物の厚生が改善するのだ。 “ 論文はこちら(pdf)である。 ――――――――――――――――――――――― 今回インタビューを受けてくれたピーター・リーソンはジョージ・メイソン大学において資本主義研究のためのBB&T教授(BB&T Professor for the Study of Capitalism)を務めている経済学者である。これまでに忍者やUFO、魔女裁判などをテーマとした論文を多数執筆しており、プリンストン大学出版局より出版された著書 The Invisible Hook(邦訳『海賊の経済学』)では経済学の原理を用いて海賊の行動の説明を試みている。同じくジョージ・メイソン大学の経済学者であるピーター・ベッキーとジェイマ・レムケと共同で執筆したつい最近の論文では、妻売りに対して経済学の観点から弁護を行っている。妻売りは18〜19世紀のイギリスで広く見られた慣行であった。当時のイギリスでは離婚の手続きがかなり厄介であり、結婚した女性は財産に対する所有権を認められていなかったという。インタビューは今年(2011年)の8月に行われた。インタビュワーはReason誌のシニア・エディターであるキャサリン・マング-ウォードである。 Q: 妻売りをテーマに論文を執筆しようと思ったきっかけは何なのでしょうか? A: 海賊に関する研究に取り組んでいた最中に18世紀に発行された新聞を調べていたんです。その中にとある広告を見つけたんです。それは妻売りの広告だったんですが、当時の新聞では普通によく見かける光景だったようです。はじめてそれを目にした時は度肝を抜かれて、何て馬鹿げているんだろうと思いました。でも、もっと細かく調査を進めていくうちに理にかなっているなと思うようになりました。 Q: 妻売りを取り巻く状況はどのようなものだったのでしょうか? A: 18〜19世紀のイギリスで妻売りが一つの慣行として形成されるに至る背景には、財産や結婚、離婚に関するひどく厳格で馬鹿げた当時の法律がありました。当時の婚姻法では、婚姻関係が続く間は妻は自らの財産に対する所有権をすべて−自分自身の身体に対する所有権でさえも−夫に譲り渡すことが基本となっていました。 そのため、妻が結婚生活に満足がいかず、婚姻関係を解消したいと考えた場合は、最終的に夫から離婚の同意を取り付ける必要がありました。通常のコースの定理のロジックからすると、このことは取り立てて問題とはならないはずです。というのも、結婚生活に不満な妻は−夫が結婚生活に不満な場合と同じように−(何らかの対価を支払って)配偶者から離婚の権利を買い取ればいいだけだからです。しかしながら、当時のイギリスの婚姻法の下では妻は財産を何も手にしていなかったので、妻が自ら夫に対価を支払って満足のいかない結婚生活を解消する(夫から離婚の権利を買い取る)という手段に訴えることはできなかったのです。 でも、その妻を現在の夫よりも高く評価し、かつ、その妻が現在の夫よりも高く評価するような男性が他にいるかもしれません。妻の財産は夫のものですが、その男性の財産は夫のものではありません。その男性は自分の財産の中から対価を支払って妻の代わりに現在の婚姻関係を解消する権利を買い取ることができます。妻売りというのは本質的にはこういうものだったと理解できるわけです。 Q: 実際に妻を買ったのはどのような人物だったのでしょうか? A: 妻の愛人というケースがかなり多かったようです。それも納得のいく話です。というのも、夫としては妻をできるだけ高い価格で売り渡したいと考えるでしょうし、それも妻を最も高く評価するとともに、妻が一緒にいることを望むような人物に売り渡したいと考えるでしょうから。妻の愛人−愛人がいればの話ですが−はこのような条件をいとも容易く満たす人物です。妻を自分のものとするために最も高い価格を支払う用意があるのは妻の愛人と言っていいでしょう。既に関係を築いていることもあって、彼女を最も高く評価しているのは愛人である彼だと考えられるからです。また、妻が現在の夫よりも高く評価する人物もその愛人ということになるでしょう。妻は、恋人としてだけではなく、夫として見た場合もその愛人を現在の夫よりも高く評価していることでしょう。 そういうわけですので、多くのケースで妻の愛人が妻の買い手であったとしても納得がいくわけです。しかし、常にそうであったというわけではありません。妻が現在の夫を好きではないものの、今のところ妻には特定の愛人がいるわけではないといったケースが考えられます。妻は結婚してもいいと思えるような人物がどこかにいるのではないかと思いを巡らせたり、そのような人物を見つけたいと考えるかもしれません。夫は夫で、妻を手放してもよいと思えるほどに彼女のことを十分高く評価する人物がいるかどうかを確かめたいと考えるかもしれません。そのようなケースにおいては、妻売りに備わる公開オークションの側面が重要になってきます。公開オークションはその種の情報を顕示させる仕組みに他ならないからです。 ただし、ここで強調しておかねばならないことは、あくまでも妻売りは妻の同意の上でなされたものだった、ということです。彼女らは無理矢理(自らの意に反して)売られたわけではありません。自ら売られたがっていたのです。 訳注;ホーレスはハティと離婚することで5ポンドの損失を被るが(妻としてのハティを5ポンドと評価しているため)、離婚と引き換えにハーランドから5.5ポンドの支払いを受けることになる。よって、両者を差し引きすると、ホーレスは妻売りによって0.5ポンド(=5.5−5)だけの便益を得ることになる。/ハーランドはハティを買うための対価としてホーレスに5.5ポンドを支払うが、それと引き替えにハティとともに過ごすことが可能となる。ハーランドはハティを妻として迎えることに6ポンドの評価を与えているため、ハティを買うことから差し引きして0.5ポンド(=6−5.5)だけの便益を得ることになる。/ハティはホーレスと離婚することで7ポンドの便益を得るとともに(夫としてのハティをマイナス7ポンドと評価しているため)、ハーランドと一緒になることで1ポンドの便益を得ることになる。両者を加えると、ハティはホーレスからハーランドのもとへ売られることによって8ポンド(=7+1)だけの便益を得ることになる。 [↩] |