01. 2013年7月08日 05:34:44
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限定型社員、雇用改革の目玉に鶴光太郎・慶応義塾大学教授に聞く 2013年7月8日(月) 清水 崇史 安倍政権が目指した雇用改革は解雇規制緩和の是非に関心が集中した。多様な論点がある雇用改革にどう取り組むべきなのか。内閣府の規制改革会議のメンバーでもある鶴光太郎・慶応義塾大学教授(比較制度分析、雇用制度)にポイントを聞いた。(聞き手は清水崇史) 規制改革会議では雇用部会の座長を務められました。具体的な成果は何でしょうか。 鶴 光太郎(つる・こうたろう)氏 慶応義塾大学大学院商学研究科教授 1960年東京生まれ、東京大学理学部を卒業後、英オックスフォード大学大学院で経済学博士号を取得。経済企画庁(現内閣府)で経済白書の執筆などに携わる。経済協力開発機構(OECD)、日銀金融研究所などを経て2012年から現職。労働経済学にとどまらず、金融やマクロ経済の幅広い視点を生かした国・企業の競争力分析に定評がある。 鶴:成長戦略がひとまず出そろいましたが、ある意味で雇用改革は規制改革の最重要項目の1つだと考えています。結局、日本の競争力を担うのは人材しかありません。教育から就業、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)まで幅広い視点で取り組む必要があるからです。今回、正社員と非正規社員の良いところを併せ持つ「限定型正社員」を初めて本格的に議論しました。新しい働き方になると期待しています。
どういう働き方ですか。 鶴:仕事の中身、勤務地、労働時間などを限定した正社員制度です。雇用改革の目標は雇用市場で人を動かすこと。働き手が自らの意志で積極的に動く環境が必要です。例えば子育てや介護で地域を離れられない、あるいは労働時間が限られる、特定の職務なら高い能力を発揮できる、など事情は多々あります。 欧米ではジョブ・ディスクリプション(職務記述書)を明確にしていますが、日本では正社員の職務はほとんど限定されていない。日本も限定型正社員を普及させれば、派遣社員などの非正規社員から正社員になるチャンスが広がります。 どのようなメリットがありますか。 鶴:限定型社員は家族思いの働き方と言えるでしょう。例えば子育て期だけ限定型に移り、落ち着いたら無限定型に戻ることができます。 企業にも良い影響を与えるでしょう。仕事の中身が明確な限定型正社員はおのずと専門性を発揮します。限定型の賃金は無限定型の80〜90%の水準ですから、その分、労働生産性が高い。非正規社員の多くは正社員になりたいと希望していますが、一方で(職種、勤務地などの変更が伴う)無限定の働き方にはなじめない人も多いのです。 限定型正社員が担う高付加価値分野 しかし、非正規社員の比率は労働者全体の35%にまで高まっています。限定型を導入しても、企業は容易に受け入れられないのでは。 鶴:非正規社員と正社員は雇用期間が決まっているかどうかが最大の違いです。この4月から、連続5年を超えて働いた有期雇用労働者(非正規社員)が申請すれば、会社はその人を無期雇用(正社員)にしなければならない「改正労働契約法」が施行されました。それでも限定型正社員の賃金をどうするかなど、具体的な雇用ルールの整備はこれからです。 確かに企業は雇用調整をする上で、より柔軟に対応できる非正規社員を増やす傾向にあります。一方で非正規社員は研修・教育を受ける機会が少なく、雇用の質がなかなか上がらないという問題点もあります。このままでは非正規社員の割合が40%台にまで高まるのは時間の問題です。それが本当に日本の競争力につながるのか。つながらないとしたら働き方を官民あげて広げていくことが論点になります。 自動車、電機など国内生産を維持するのがやっとです。限定型を設けても雇用を増やす余裕があるか疑問です。 鶴:産業の空洞化が一直線に進むとは考えていません。たとえば自動車の加工・組立がアジアに一部移管しているとはいえ、開発やデザイン、マーケティングなど高付加価値の部分は必ず日本国内に残っています。限定型正社員は高い能力を持っているからこそ、こうした付加価値の高い労働部門の担い手になり得るのです。限定型が台頭することで、無限定型の人たちも安穏とはしていられません。全体として労働市場の活性化が期待できます。 仕事と生活の調和は企業、労働者双方にとって課題です。解決策は。 鶴:日本の労働時間は約1700時間と、1400〜1600時間の欧米諸国に比べて長い。背景には有給休暇が取得しにくいことも影響しています。残業時間が一定程度溜まったら休暇に振り替える「労働時間貯蓄制度」を本格的に検討するべきではないでしょうか。労働時間が長いから企業の生産性が上がるとは限りません。この制度が広がれば、企業も総人件費をコントロールしやすくなります。 現行の解雇規制は厳しすぎる 解雇規制の改革は先送りされました。どう改革すべきですか。 鶴:個人的に現行の解雇規制は厳しすぎるとは思います。ただ、厳しい規制がある分、無限定型社員の地位が守られているのも確かです。転勤や残業を拒否した場合、過去に解雇が有効になったケースがあるほどです。その点、限定型は個人・企業とも、ある程度の妥協点を見出しています。多様な働き方が社会に浸透しないうちに解雇規制を取り上げると、かえって誤解した議論になりかねません。 解雇無効の判決が出た場合、労働者をどのように救済するかも焦点です。欧米では元の職場に復帰するのが一般的ですが、日本では難しい。金銭的な解決を図る場合でも和解は300万円、労働裁判は100万円、あっせん調停は20万円と金額にばらつきが見受けられます。勤続年数に応じた金額を設定するべきかもしれませんが、かえって解雇規制を強めることにもなりかねません。
移民受け入れについては。 鶴:一度受け入れてしまうと経済的な側面よりも社会的な面で後戻りができないという意見があります。だから高度人材に限っているというのが実情です。個人的には少子高齢化が進めば、移民を受け入れざるを得ない時期が来るはずだと思います。 アベノミクスの真価を問う
「機動的な財政政策」「大胆な金融政策」「民間投資を喚起する成長戦略」の3本の矢からなるアベノミクス。円高の修正、景気の底入れなどの成果を生み出しつつある一方、株価や債券市場が不安定になるなど副作用も無視できなくなっている。規制改革を柱とする成長戦略も力不足との指摘が少なくない。アベノミクスは今後、どこへ向かうべきか。識者へのインタビューやアンケートを柱に、あるべき姿や国民の希望を探る。
【第16回】 2013年7月8日 伊藤元重 [東京大学大学院経済学研究科教授、総合研究開発機構(NIRA)理事長] 日本企業が米国ベンチャーのイノベーションに 負け続ける理由は何か 成長の原動力は3つある
経済が成長力を高めるためには、どのような条件が必要なのか。これが成長戦略を考えるうえで重要である。成長戦略というと、どうしても個別分野の政策を並べることになりがちだが、マクロ経済の視点が必要だ。 もちろん、個別の政策なしには、成長戦略も絵に描いた餅になってしまう。個別政策の詳細設計は不可欠である。ただ、マクロ経済全体で見たときに、経済がどのようなメカニズムで成長を実現するのかという視点を常に持つことが重要なのだ。経済成長のマクロ経済的な視点が求められているのだ。 マクロ経済のサプライサイドから見れば、経済成長を牽引する要因は3つに集約することができる。 ひとつは「資本や労働などの生産要素を拡大すること」である。安倍内閣の成長戦略では、女性の労働力をもっと活用するという点が強調されているが、これなどは生産要素を拡大する方策の代表的な例である。 生産年齢人口が急速に縮小するとは言っても、女性や高齢者の労働参加が高まれば、労働力の縮小を相当程度抑えることができる。もちろん、女性の活躍の機会を高めていくことは、労働人口を増やすこと以外にも重要である理由が多くあるのは言うまでもない。 労働力を拡大していくためには、教育や技術習得の機会を増やして、国民一人ひとりのスキルを向上させていくことも重要である。頭数で見た労働人口が縮小しても、一人ひとりの労働者の能力が高くなれば、全体としては労働力の増加と同じ効果が期待できる。 経済成長を牽引する第2の要因は、「生産性の低い産業から生産性の高い産業へ資本や労働の移動を促すこと」である。安倍内閣の成長戦略でも、労働移動の問題が注目されている。 スタンフォード大学の星岳雄教授とシカゴ大学のアニル・カシャップ教授が強調するゾンビ企業の問題も、産業間の要素移動の問題と深く関わっている。本来であれば淘汰される企業が存続していることで、より高い生産性が期待できる新たな企業や産業の発展が阻害されるというのだ。 以上ふたつの経済成長を牽引する要因は、ともに成長戦略を考えるうえで重要である。本連載でもいずれ詳しく分析してみたいと考えている。 ただ、今回注目したいのは、成長を牽引するもうひとつの要因だ。それは「イノベーション」である。イノベーションを起こすことが経済成長を実現するうえで非常に重要であることは言うまでもない。 イノベーションとは、突然、天から降ってくるというものではない。産業構造や企業行動がそれに大きな影響を及ぼす。日本の長期的な成長を考えるうえでも、この点は重要である。以下では、経済学の世界における最新成果を紹介しながら、イノベーションと産業構造について考察してみたい。 2つのタイプのイノベーション イノベーションのタイプをあえて単純に分類するとすれば「改良型」と「革新型」がある。 改良型のイノベーションとは、既存の技術を改良して、より低コストで生産し、品質を改善するというタイプのものである。これに対して革新的なイノベーションとは、従来の製品や技術とは根本的に異なるモノやサービスを生み出すようなイノベーションだ。 薄型テレビのコストを下げて性能を上げるといったことは、改良型のイノベーションである。それに対してアップルのiPhoneのように、携帯電話の利用の仕方を根本的に変えるようなものは革新型のイノベーションと言ってよいだろう。 どちらのイノベーションも経済成長にとっては欠かせないものである。ただ、改良型のイノベーションだけでは、高い経済成長を続けることはできない。革新型のイノベーションをどれだけ生み出せるかが、その国の経済成長力に大きな影響を及ぼす。 かつての日本のように、海外をキャッチアップする段階にあるときには、改良型のイノベーションが中心であっても、それなりに高い経済パフォーマンスをあげることができる。キャッチアップだからこそ、改良型イノベーションの機会が多くあるとも言えよう。 しかし、現在の日本のように世界経済のフロンティアに近いところにいると、革新型のイノベーションなしで経済全体のパフォーマンスを上げることは難しい。 ベンチャーや中小企業の重要性 では革新的なイノベーションをどのように促進していくべきだろうか。ここに、産業構造が関わってくる。 イノベーションに関する海外の研究を見ていると、一般的に大企業は改良型のイノベーションに優れ、中小企業やベンチャーのほうが革新型のイノベーションに優れているように見える。これには理由がある。 大企業は、すでにビジネスで優位な立場にある。自分の市場を守らなくてはならない。そこでは、自分のビジネスを伸ばすような改良型技術に資源を投ずるインセンティブを強く持っている。しかし、自分の従来のビジネスを破壊するかもしれない革新的技術に資源を投ずる意欲は弱い。こうした合理的な理由によって、大企業は改良型の技術投資に偏る傾向がある。 一方、後発のベンチャーや中小企業にとっては、守るべき市場はない。それよりは、イチかバチかの大勝負で革新的なビジネスに集中し、巨額の利益を確保する可能性に賭けたほうが合理的だとも言える。米国のベンチャーの場合など、仮に失敗したとしても大きな打撃を受けるわけではない。その失敗を糧に、また次の挑戦をすればよいという考えだ。 日本のベンチャーは 一度失敗すると再チャレンジが難しい 日本と米国を比べると、中小企業の産業構造に大きな違いがある。米国の中小企業は平均寿命が短く6年程度だという。新たに参入した中小企業(とくにベンチャー)は、高いリターンを求められる。それがうまくいかなければ、比較的短期間で退出を余儀なくされる。したがって中小企業の寿命が短いのだ。 一方、日本では、中小企業の平均寿命が米国より長いようだ。一説によると12年程度であるという。 中小企業はいったんビジネスを始めると、利益率が低くてもそれなりに生き残ることができ、結果的に寿命が長めになる。経営者が個人保証などを求められるので、簡単に会社を潰すことができないという事情もある。そして、もし会社が潰れれば、その経営者が再起するのはかなり難しい。米国のように、失敗を糧に再チャレンジというのが簡単にはいかないのだ。 革新的なイノベーションを生み出すという意味で、日米どちらの産業構造が好ましいかは明らかだろう。多産多死で高いリターンを求められる米国のほうが、リスクを取って革新的なイノベーションに挑戦する誘因が高くなる。 再チャレンジがしやすいという点も、リスクを取りやすくしている。たとえ失敗しても、投資とそれまでの時間を失うだけでゼロからまたチャレンジできる。失敗の回数を重ねていけば、経験から学ぶことも多いだろう。 日本は起業率が非常に低い。起業率が低いということは、廃業率や倒産率も低いということになる。こうした産業構造では、革新的なイノベーションにチャレンジする企業はなかなか出てこない。大企業にはイノベーションを行う資金も人材もあるが、どうしても改良型に偏る傾向がある。 日本の産業構造を変えて、革新的なイノベーションを活性化させることは簡単ではない。しかし、将来の成長力を高めるためには、積極的に手を打っていく必要がある。 中小企業が、起業はもちろん廃業や倒産もしやすくなるような仕組みを工夫することが求められる。たとえば、融資に際して家族などの保証を求める行為を減らす動きが出てきている。こうした動きをさらに進め、個人保証を減らしていくような資金提供の手法を広げることが必要となるだろう。 【編集部からのお知らせ】 安倍政権のブレーンである伊藤元重教授の最新著書『日本経済を創造的に破壊せよ!』が発売されました。アベノミクスの先行きを知るためにも必読です! 日本経済を創造的に破壊せよ! 衰退と再生を分かつこれから10年の経済戦略
動き出したTPPの深謀遠慮
その次のRCEPで日本が勝つには 2013年7月8日(月) 羽生田 慶介 足で稼いだミクロのファクトをベースにASEAN10カ国、インド、バングラデシュの12カ国をまとめた。アジア市場の攻略法や注意点を具体的な事例でまとめている。また、人口のマジョリティを占める「若者」の対面調査を敢行、国ごとの特徴や嗜好も分析している。ぜひアジア進出の参考にしてほしい。 中国リスクの高まりとともに、「中国の次のアジア」、すなわちASEAN(東南アジア諸国連合)やインドに対する関心が日増しに高まっている。6億人超の人口を抱えるASEANは労働者の賃金も低く、少子高齢化が進む中国と違って年齢構成のバランスがいい。親日的なところもポイントだ。インドもいずれ世界一の人口大国になることが確実視されている。 この連載では、アジア市場の今の姿をミクロとマクロの視点でリポートしていく。2回目は日本が正式に参加を表明したTPP(環太平洋経済連携協定)とその先にあるRCEP(地域包括的経済連携)について。キャスチングボードを握る現状をA.T. カーニーの羽生田慶介マネージャーが解説した(より詳しくは日経ビジネスの最新ムック、『勝てるアジア最前線』をお読みください)。 2013年3月の安倍晋三総理によるTPP(環太平洋経済連携協定)参加表明を受け、日本は既存TPP参加国との事前協議を実施。その結果、各国から日本の参加に対する合意が得られ、7月の交渉会合から日本がTPPに正式参加することとなった。
後発ゆえのTPPへの高い入場料 この事前協議の過程で、日本は米国やオーストラリア、カナダの譲歩要求を受け入れた。 例えば米国は、日本の乗用車やトラックに課す関税撤廃を「TPP協定での最長期間」かつ「米韓FTAで韓国に与えた条件に劣後」とする極めて厳しい条件とした。 同様に、オーストラリアは日豪の二国間EPA交渉(注1)で調整していた「3年後の自動車関税撤廃」の方針を翻し、当面日本に対しては5%の関税を維持することとした。これは、日本がTPPへ後発での参加にならざるを得なかった代償と言っても過言ではない。TPPへの高い「入場料」については、産業界からは遺憾の声が挙がっている。 注1:「FTA(Free Trade Agreement):自由貿易協定」が物品貿易に関する関税削減・撤廃やサービス貿易の自由化を実現する協定であるのに対し、「EPA(Economic Partnership Agreement):経済連携協定」は経済協力、人的交流、知的財産権や投資を含むより包括的な協定 それでも、2013年秋に目指している妥結の前に交渉に正式参加し、広範なルールメーキングの場に当事者として参画できるようになったのは日本の国益にプラスであることは間違いない。関税面では米国との個別交渉の性格が強いTPPだが、その一方で、日本企業の主戦場であるアジア地域の広範なルール作りの場でもあるからだ。 ASEANの抱き込みに本腰を入れた米国 TPPには、米国による「アジア内政干渉ツール」としての意味合いがある。米国にとって、世界の成長センターであるアジアの勢いを取り込むことは自国経済を支えるカギであり、そのためにもアジアの経済・貿易ルールを米国産業界に有利な形で形成する必要があるためだ。 既に、アジア経済の「米国化」の橋頭堡として実現させた韓国とのFTA(2012年3月発効)の内容を基に、米国はTPPや併行して行われる日米自動車交渉で厳しい要求を続ける可能性が高い。 アジア経済圏における中国の影響力が大きくなり過ぎる前に、米国に近しい経済・貿易ルールを持つ日本など主要国を取り込みつつ、TPPを早期実現することが米国の目下の基本方針だ。そのうえで、TPPで規定したルールを、後に実現を目指すFTAAP(Free Trade Area of the Asia-Pacific:アジア太平洋自由貿易圏)に発展させ、APEC加盟国の1つである中国にもそれを受け入れさせる狙いがある。 核となるタイとインドネシアの慎重姿勢 この意味において、実は米国は現状のTPP陣営には満足していない。TPPを核にアジアの経済ルールを「米国化」するには、ASEAN(東南アジア諸国連合)からのさらなるTPP参加が必要と考えているのだ。 2013年5月の第17回交渉時点でTPPに参加しているASEAN国は、TPPの前身である通称「P4」に含まれるシンガポールとブルネイ、それに拡大プロセスで新規参加したベトナムとマレーシアのみ。ASEAN経済・産業を語るには欠かせないタイやインドネシアが参加に慎重な姿勢を見せている。 タイは2012年11月の米オバマ大統領来訪に合わせてTPPへの関心を表明したが、本格的な調整には至っていない。インドネシアはさらに慎重な姿勢を見せており、ギタ商業相は幾度もTPP参加に対する後ろ向きのメッセージを発信している。 どちらもTPPが要求する聖域なき関税撤廃要求への対応が困難であることと、金融や医療などサービス分野に及ぶリスク可能性を懸念しての慎重姿勢だ。ベトナムのように政治的な背景から米国の強い要求を免れている国以外は、TPPへの途中参加は容易ではない。 対中国の視点で、ASEANからのTPP参加国を増やすことを狙う米国は「ASEAN抱き込み」の新たな取り組みとして、2012年11月に「E3イニシアティブ」(The U.S.-ASEAN Expanded Economic Engagement(E3) Initiative)を打ち出した。これに関するホワイトハウス発表の中では、明確に「TPPをはじめとするハイレベルなFTAにASEANが参加するための準備を共同で行う」という指針が掲げられている。 タイやインドネシアがTPPへの参加に逡巡する一方で、ASEAN10カ国に加えて日本、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、インドを含むアジア16カ国が既にメンバーとなっている広域経済連携の枠組みがある。2013年5月にブルネイで第一回目の政府間交渉が開催された「RCEP(地域包括的経済連携=Regional Comprehensive Economic Partnership)」だ。 この地域においては、2000年代からASEANと日中韓による「ASEAN+3」、これにオーストラリア、ニュージーランド、インドが加わる「ASEAN+6」が広域経済連携の枠組みとして議論されてきた。 中国がより大きな発言権を持ちやすい「ASEAN+3」を志向するのに対し、日本はインドを含む生産ネットワークの広域化の流れや関係国の交渉力のバランスを重視して、「ASEAN+6」による枠組みを目指してきた。 日中韓インドを含むRCEPも交渉開始 これらは2011年末から統合され、参加国の数を限定しない「RCEP」という枠組みに移行した。RCEPとして交渉を急ぎ、TPPに対する交渉の遅れを挽回しようとしているのだ。 米国の主導でTPPが早期に実現し、アジア太平洋地域の経済・貿易ルール形成の軸となった場合には、いずれ中国もその「軍門に下る」ことを余儀なくされる可能性がある。これを警戒する中国が、米国を排除した「非TPP」の枠組み作りを急いだ形だ。 ついに政府間交渉が始まったRCEPは、既存の「ASEAN+1」のFTAやEPAの内容をベースに交渉を重ね、2015年末までの妥結を目指している。 ここで想定される交渉の構造は、より包括的かつハイレベルな協定にしたい日本、韓国、オーストラリアなどの先進経済と、中国、インドといった大規模成長経済の対立だ。例えば、環境保護やGDPの10%に相当する政府調達の自由化をRCEPでどう扱うかについては既にこれら陣営で議論が分かれている。 このアジアの新たな経済・貿易ルールづくりの動きには、欧州も強い関心を示し始めた。ユーロ危機により経済力が陰るEUは、「米国がASEAN諸国に有利な市場アクセスの条件を提供すれば、対EU貿易が減りかねない」(欧州委員会非公式文書)として危機感を隠せない。 ASEAN重視に舵を切るEU これまでEUは地理的・経済的にも近いインドおよび「FTA先進国」である韓国とのFTAには注力したものの、ASEANとの経済連携には高い優先度を置いてこなかった。ところが、近年のTPPやRCEPの発展、そして懸案だったミャンマー人権問題の解決をきっかけに、ASEAN全体とのFTA交渉を再開する方針に切り替えつつある。 また、EUは途上国に対して特別に低い輸入関税率を適用させる一般特恵関税(GSP)制度を導入しているが、2014年以降、対象国を大きく見直すことになっている。その影響を大きく受ける(GSP適用除外になる)タイやマレーシアはEUとの個別交渉も急いでいる。これらの国がEUとの交渉の早期妥結を目指す過程で様々な要求を受け入れる可能性も否定できない。 近年、産業界では欧州主導のルールがアジアにも浸透しつつある。例えば、ASEANの自動車分野の安全・環境基準は世界の潮流に沿ってUN/ECE(国連欧州経済委員会)の取り組みをベースに進められている。 EUはこのようなアドバンテージを活かしつつ、今後のアジア経済・貿易ルール主導権争いにさらに深く入り込んでくることが想定される。ちなみに、日本とEUのEPA交渉(日EU EPA)が2013年4月に開始されたのも、EUのアジア政策強化の一環だ。 TPPに関する日本国内での議論は、冒頭に挙げた自動車分野での譲歩によって「攻め」に対する期待を失い、今や関税撤廃から逃れる「聖域」の対象や米国を中心に流入してくる海外製品や海外サービスのリスク面に終始しがちだ。しかし、今後の論点は別のところにある。日本企業の中長期的な主戦場であるアジアの経済・貿易ルール作りを、いかに有利な形で進めるかである。 キャスチングボートは日本が握っている 事実、TPP交渉においては、参加国で米国に次ぐ経済規模の日本には一定の配慮が得られるとはいうものの、12番目に加わった新参者が全体ルールの主導権を握ることは簡単ではない。だが、日本は同時に日EU EPAおよびRCEPという大型経済連携を同時に進める道を踏み出している。これら交渉を戦略的にあやつる、いわばキャスチングボートを握る存在になり得るのだ。 現状、TPPとRCEP双方に参加している国はシンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、オーストラリア、ベトナム、マレーシア、そして日本の7カ国だ。これに加えて、既存FTAによって米国とのルール調整が進んでいるRCEP参加国として韓国が挙げられる。 この中で、アジアへの累積投資額が大きく、もともと「ASEAN+6」としてRCEP枠組みをリードしてきた日本は、RCEPでのアジェンダ設定やルール交渉において相対的に大きな発言力を持つことが期待される。 例えば、自動車分野における安全・環境規制や電気通信におけるローミングサービス規制、またネット関連を含む多様なサービスでの個人情報の取り扱いや政府調達の自由化など、様々なテーマの中からアジア地域(即ちRCEP)で取り上げたいアジェンダを主体的に選ぶことは可能だ。 同時進行するTPPでの米国の主張と日EU EPAでのEU主張のうち、日本に有利なものを取捨選択してRCEPに導入する戦略性、したたかさが今後の日本政府に強く求められる。 TPP交渉が首尾よく進展するほど中国は焦る。今年5月末に中国商務省が発表したTPPへの参加可能性検討の方針はその表れだ。日本のTPP参加が決定した今、国内においては「守り」に主眼を置いた後ろ向きの議論に労力を使わず、いかにアジア経済・貿易ルールを10年後、20年後の日本に有利な姿で形成するかに官民の英知を集めたい。 羽生田慶介(はにゅうだ・けいすけ) A.T. カーニー マネージャー。国際基督教大学卒業。中央官庁、大手精密機器メーカーを経て、A.T. カーニー入社。ハイテク、通信、自動車、エネルギー、サービス産業における成長戦略などのプロジェクトに従事している 勝てるアジア最前線 |