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小泉悠著「プーチンの国家戦略〜岐路に立つ”強国”ロシア」東京堂出版 ’16年から
序章 プーチンの目から見た世界
≪「西側」への不満≫
「クリミア後」のロシアについて語る前に、冷戦後のロシアが抱えていた対外的な不満についても概観しておきたい。その焦点は、冷戦時代に「西側」と呼ばれた米国及び欧州との関係である。
東欧革命と冷戦の終結、そしてソ連の崩壊により、「東側」陣営は急速に消滅していった。軍事ブロックであるワルシャワ条約機構と経済協力関係であるコメコンは解体され、東欧に駐留していた膨大な数の在欧ソ連軍も、1994年までに大部分が撤退した。
このような動きは、「西側」においてはソ連が冷戦に敗北した結果として主に理解された。…
だが、米国とともに冷戦終結を宣言したソ連には、もともと「敗北」したという意識は希薄であった。むしろ、人類を破滅させかねない冷戦を米国とともに終結させるという「共通の勝利」であるという意識のほうが強かったのである。たとえソ連が社会主義体制を放棄してもそれで超大国としての地位が失われることはないという一種のユーフォリアも存在していた。
ところが実際の冷戦後の展開は、こうした甘い期待を容易に裏切るものだった。ロシアの政治・経済が混乱する中で、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、バルト三国、ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアがNATO加盟を果たすことで、冷戦終結時点におけるワルシャワ条約機構諸国はそっくりNATO加盟国となってしまった。
冷戦が終結し、ソ連はワルシャワ条約機構を解体したにもかかわらず、なぜNATOが存続しているのか。
もちろん、「西側」もロシアの不満を全く理解しなかったわけではない。1998年にはロシアとの対話枠組みとして「ロシア=NATOの常設評議会(JPC)」が設立され、2002年にはロシアにより対等な立場を認めた「ロシア=NATO理事会(NRC)」へと改編された。
政治面でも、従来のG7がロシアを含めたG8に格上げされ、形の上ではロシアは「西側」の一員に加えられることになった。
だが、1999年のNATOによるユーゴスラヴィア空爆は、ロシアの不満を一気に表出させた。
≪プーチンの大西洋主義とその行き詰まり≫
だが、全体として見れば、プーチン政権の対外姿勢は必ずしも強硬なものではなかった。…こうした初期プーチン政権の対外(特に対米)姿勢は、いくつかの背景に支えられたものであった。だが、より大きな背景は、西側との和解なしに「強いロシア」はありえないという認識に求められる。1999年のの論文で、プーチン大統領はロシアを「ヨーロッパの国」と位置づけており、その一員として復帰することがロシア再生の必須条件であるとみなしていた。
無用の軍事的対立によって、過大な軍事負担を抱え込むことなく、最大の貿易相手である欧州との貿易を活発化させることで国力を高めることこそが安全保障であるというある意味で極めてリベラルなアプローチといえる。大雑把にくくるならば、初期プーチン政権はロシアで繰り返されてきた太西洋主義の系譜に位置付けることができよう。
しかし、プーチン流の大西洋主義もまた、行き詰まりを見せ始めた。
≪プーチンの「ユーラシア連合」構想とは≫
(略)
- プーチンのNATO政策〜欧米的な価値観からの「お説教」(内政干渉)を手控えさせたいと/小泉悠 仁王像 2019/2/16 12:17:37
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