純真なアラブ人を騙した極悪人ロレンスに鉄槌を!!! この映画の背景を説明するとなると、 キーポイントとしては、”産業革命”、”オスマン帝国の衰退”、 ”第一次大戦”が挙げられると思います。
*18世紀末に起こった産業革命により、機械化が進み、発展を とげた国々は、原料(石油等)や市場を求めて、第三世界の国々 を侵略しはじめた→イギリス、フランスなど 産業革命により、著しい貧富の差が生れた事で、社会主義、共産 主義の思想が生れた→ロシア *オスマン帝国は、かつて広大な領土を保有していたが、20世紀初め になると、ロシアから攻められたり、バルカン半島では独立戦争が起こったり 青息吐息の状態だった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E... *1914年、第一次世界大戦が始まると、三国同盟(ドイツ、イタリア オーストリア)対三国協商(イギリス、フランス、ロシア)の争いとなる。 オスマン帝国は、ロシアと敵対している為、ドイツ側に就く。 イギリスは、大部族ハシム家の長に、オスマンに対し反乱を起こせば、アラブ 王国として独立させてやる、と約束し、ロレンスを派遣した。 オスマンは、その後降伏したが、約束は守られなかった。 ロレンス達が戦っている間にイギリスは、のちに有名となる、”三枚舌外交” を行っています。 1、は前述の通り、オスマン帝国で反乱を起こすこと。 2、アメリカのロスチャイルド家に、ユダヤ人が戦費を賄ってくれたら、パレスチナ にユダヤ人国家建設を認める→イスラエル建国 3、第一次大戦後フランスとの間で、オスマン帝国領を、イギリス、フランス、ロシア で山分けしようと秘かに約束を交わしていた。 この結果、イギリスは、スエズ運河、ペルシャ湾(石油運搬の為)、イラク北部を 委任統治という形で、見事手に入れました、とさ。おしまいです。 ▲△▽▼ アラブが見たアラビアのロレンス スレイマン・ムーサ 2005年 02月 27日 映画「アラビアのロレンス」のロレンスを見たため、ロレンス本を探す。これはアラビア側が書いたもので、ロレンスを英雄視している人にはショックな内容だろう。つまり、ロレンスはアラビアの反乱時には指揮権など持っておらず、単にイギリス軍人としてアラビア側に同行していただけだったが、イギリスの上司にはさも自分がアラビアの王たちに影響力があり、作戦を考え指示したように報告していたこと、著書では話を大きく書いていること(人はこれを嘘と呼ぶ)、そしてアラビアの独立時には、ロレンスはアラブとイギリスを繋ぐ重要人物になっていたのだが、彼はアラブの信頼を裏切りユダヤ人のパレスチナ入植を積極的に支持したこと(これがアラブにとっては最も許せないことだろう)など、多数ある。
まず彼の著書「知恵の七柱」では、ファイサル王子から大叔母から贈られた金の刺繍入りの婚礼衣装となっているアラブ服だが、これは単なる白い絹の服で、アラブ人にとっては客人や支持者に服を贈ることは当たり前のことだった。 映画ではロレンスが奇襲を仕掛け大活躍するアカバ占領だが、これはファイサルとアウダによって練られた計画で、ロレンスは自分がこの計画の指導者だと主張しているが、実際は地雷の埋設を助けるから一緒に連れて行ってくれと、有名な砂漠の戦士だったアウダに頼み同行しただけだった。映画ではアウダやアラブ人は金の亡者で金のためだけに戦闘に加わっているが、実際は多くのベドウィンが反乱への忠誠を示そうとアウダのもとに集結していった。そして映画では、砂漠を数週間で強行突破して通り抜ける所が強調されているが、アウダ軍は5月から7月にかけての長期にわたる移動であり、途中線路を爆破したりトルコ兵と戦闘したりしている。7月のトルコ兵との戦いでは、ロレンスは自分の銃弾が自分のラクダに当たりラクダが死んでしまい、ロレンスは戦闘が終わるまで失神していた。そしてアウダは、アカバでは守備隊を降伏させ、アラブ軍の主力隊の包囲によりトルコは降伏した。つまり、映画でのロレンスが砂漠を渡り、その際自分だけ砂漠に戻ってラクダから落ちたアラブ人を助けるなんて自己犠牲のお話は全く作られた映画での盛り上がりを作るための美談だった。 またロレンスが書いた「アラブ通信」では、トルコ兵が半トルコのアラブのシェイフを4頭のラバにくくりつけて八つ裂きにしたと載せているが、そういった名前の人物は存在せず、かつ動物に人をくくりつけて処刑するのは中世ヨーロッパのやり方で、トルコではこんなことは実際にしない。またロレンスはトルコ兵が婦女子を殺したとしているが、筆者が調べたところそういった部族の人たちはそれを否定している。 汽車を襲撃した件では、ロレンスは著書の中で、怯えきったアラブ人の老婦人を助けたため後に絨毯を送ってもらったと書いている。が、友人にあてた手紙には、”戦利品の絨毯”が出てくる。映画では絨毯は出てこないが、アウダらアラブ軍が汽車の中から馬や時計など乗客の荷物を盗んで行きロレンスが怒っているが、実際にはロレンスも同様に襲撃した車内から盗んでいたわけだ。 1917年11月デラアでロレンスは、トルコ兵に捕まり鞭で失神するまで打たれると著書と映画にある。そしてバーナード・ショーの妻に後日出した手紙で、この時犯されたのだと告白している。この件の前に、ロレンスは列車爆破の任務をしており、爆発の際に怪我をしている。本書の著者はロレンスが10日ほど前の怪我があるにもかかわらず、数日間あちらこちらを回り、デアラから直ちにアズラクへ戻っていることに疑問を呈している。もし本当にデアラで拷問を受けたのなら、生死の境をさまよいながら翌朝にはアズラクへ、そしてアカバへの600kmの道を行けたのだろうか。ロレンスのアズラク滞在を知る人物によると、ロレンスはアズラク滞在中、どこにも出かけていなかったようだ。 イギリスがパレスチナにユダヤ人国家建設を支持したバルフォア宣言は、力を持つアメリカのユダヤ人組織の支持を取り付けアメリカを参戦させるため、そしてエジプトとスエズ運河でのイギリスの地位を強化するためパレスチナを防波堤として確保するためだった。また石油目当てのイギリス、フランス両国であったが、イギリスはファイサル王子にフランスの野望の餌食にならないため、アメリカ人を味方につけないとシリアを救済できないと思わせ、ファイサルにバルフォア宣言を認めさせた。シオニストのワイツマンは、ファイサルに、ユダヤ人はパレスチナを支配するつもりはなく、避難所を持つことを目的としていると口説いた。 ロレンスはシオニズムにはっきりと賛成し、そして彼は常にイギリスの利益のために働いていた。イギリス女性が、イギリスの親シオニスト政策に抗議するためアラブ人やイギリス人を招いてパーティーを開いたが、ロレンスは反シオニズムはイギリスの国益に沿わないので、自分は出席しないと断っている。 アラブは独立のため大戦に参加したが、列強が協定や約束や保証を破り、アラブ諸国を分割統治してしまった。大シリアは分割され、イラク、シリア、トランスヨルダンとなる。ファイサルはイギリスが統治していたイラクに自治権を与えることを交渉し、イラクは独立しファイサルはイラク王となった。また兄のアブドッラーは、トランスヨルダンの首長となった。 ロレンスはチャーチルのもとで、ファイサルの父であるフセイン王に、シリア分割とユダヤ問題を受け入れることを迫った。が、フセイン王は「アラブの民は彼らの祖国の大義を私の両手に委ねた。そのため、住を求める彼らの要求から逸脱するような権限を私は持っていない」と、アラブ諸国に対する帝国主義的政策を容認することを拒絶した。 1919年9月のロレンスの手紙には、「アラブが最初の褐色の大英帝国自治領であるべきで、我々の最後の褐色植民地となるべきではないのです」とある。著者は、ロレンスの礼賛者たちは、ロレンスがアラブの地位を”植民地”から”自治領”へと格上げを望んでいたことに喜ぶのかもしれないと皮肉を書いている。そしてロレンスが支持し、ファイサル王に承認をせまったユダヤ人の民族的郷土政策により、パレスチナからアラブ人が追い出され、ユダヤとアラブの間に現在まで続く憎しみと戦いが行われている。 ロレンスはベドウィンの食事や閉鎖的習慣にも嫌な顔をしないイギリス人であり、ベドウィンは彼を仲間として受け入れていたことは確かだ。また彼は、アラブにはイギリスで自分が力があるように、そしてイギリスにはアラブで力を持っているように振舞うことで、双方の信頼を集めていた。根本的に役者だったロレンスは、大戦後にパリやロンドンをアラブ服で歩いた。アメリカ人記者トマスは、ロレンスを英雄に仕立て上げたわけだが、ロレンス自身「どちらかといえば、私は真実よりもウソを好むが、特に自分に関係がある時はそうだ。」とか「歴史なんて容認されたウソの積み重ねにすぎない」と言っている。 アラブにとって反乱は、アラブの目的のためにアラブによって行われたアラブの出来事であり、ロレンスたち外国人たちは、爆破技術支援のために連合国から派遣された軍事顧問団であり、ロレンスが反乱の指導者であるというのは、西洋人に作り上げられた英雄像でしかない。 ロレンスはアラブの勝利を望んでいた。なぜなら、アラブはイギリスの同盟者であり、アラブが勝てばエジプトからイギリス軍が侵攻しやすくなるからだった。またダマスカス入城を一番乗りしたのは、フランスにシリア拠点を取られたくなかったからだ。 ロレンスは本国に戻った後、偽名で入隊し、また著作でもうかった金を受け取ることを拒否している。こうした面はロレンスを謙虚であるとか、またはアラブに対して罪悪感を感じていたためとか言われている。著者は以下のように結論付けている。 ロレンスは、心の奥底では、自己の名声の大部分が欺瞞に基づいていることを知っていた。彼は又、もしも彼の仲間のようなより正直な道を歩んでいたら、大戦後の晴れ舞台や偉大な人物からの支援をほしいままにするのは出来なかったことも知っていた。それゆえに、彼の罪悪感が彼を空軍や戦車舞台へと追いやったのであり、そうすることで自分をひそかに苦しめていた以前の過ちの償いを臨んだのである。 https://nekotamago.exblog.jp/2130515/ [スレ主【仁王像】による初期非表示理由]:阿修羅にはふさわしくない言い回し、言葉の使い方のコメント(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能) 5. 中川隆[-5605] koaQ7Jey 2018年2月24日 11:53:22: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523] ▲△▽▼ 砂漠の反乱 T・E・ロレンス アラビアのロレンスの言い分も読まなくてはということで、読んだ。関心は、「アラビアのロレンス」の映画との係わりにあったので、その箇所をあげる。
仲の悪いアテイバ族とアゲイル族の喧嘩から、一人が殺された。その犯人をロレンスが双方に属していないものとして裁いて殺した。映画では、先にロレンスが砂漠から助け出した男を殺したが、砂漠から助け出す話はない。 「私も馬鹿でないから、戦争さえ勝利に終われば、アラブ人にたいしる約束などは、反古同然の空文におわるであろうということはわかっていた。私が名誉を重んずる謀将だったら、アラブ人たちをみんな家郷に帰し、こんな無意味な仕事に命をかけるのはよせということろでもあろうが、しかし、東洋の戦線で勝利を博するために、今絶対に必要なのはアラブ人の情熱である。だから私は、イギリス政府は必ずその約束を守ると断言したのである。アラブ人はこの確信に元気づけられて、あの功業をなしとげたのだ。だが、私はその結果を誇りとするどころか、その時以来どうにもならないほど激しい恥辱をほとんど絶え間なく感じ続けたものである。私はそのお返しとして、心に固く誓った。アラブ反乱を、単にエジプト方面のイギリス軍にとっての有利な素材として出なく、アラブ人所期の目的に向かって邁進させることを。また列強をして、アラブ人の道義的要求に対する正統な考慮を払わざるをえないようにさせるため、このアラブ反乱を遮二無二最後の勝利まで推し進めて見せようと言うことを。」 「私はけっきょくのところ、アラブ人の崇高な理想を利用し、彼らの自由にたいする熱望を、イギリスの野望に達するための道具に使ったことになるのだ」 アカバからシナイ半島横断の話は、アカバに食料がなかったので8人で49時間で横断したとある。映画の二人の少年を連れて、またそのうちの一人を流砂で亡くす話はない。村をトルコ兵に襲われたアラブ人が逆上し、怪我をしたトルコ兵たちを虐殺する場面は、あり。 「アラブ人は、自由を勝ち取るために戦いに参加したのであり、アラブ人の武力によるアラビアの古都の回復こそが、彼らの戦いの大義名分であるのだ。ダマスクスに最初に突入するのはアラブ人でなければならぬ。」 *************************** ロレンスの著書だけを読んでいると、彼はアラブが好きで、イギリスがアラブを騙していることは知っていたが、そのことに良心の呵責を感じ、出来る限りのことをしてやろうと頑張った若者、しかし戦い終わって冷酷な政治の流れについてゆけず、アラブを去った。そして悲劇の死を迎えたということになろう。これは映画でも同じコンセプト。結局、ロレンスの言い分を聞けばそういうことになろう。しかし、アラブ側の見方からすれば、ロレンスが書かなかったその後、パレスチナ問題を無理やりアラブ側に承諾させたことは、それまでいくら仲間として一緒に戦った相手だとしても、許すことの出来ない行為だろう。 ちなみに映画のもとになったのは、ロレンスの著作と、ロバート・グレーヴズの「ロレンスとアラブ」。後者に関しては、ロレンスは草稿に目を通し承諾をしたが、内容に関しては責任を負わないことや、序文にロレンスがそのようなことをしなかったことをにおわせる一文を追加するよう求めていた。 https://nekotamago.exblog.jp/2145584/ [スレ主【仁王像】による初期非表示理由]:阿修羅にはふさわしくない言い回し、言葉の使い方のコメント(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能) 6. 中川隆[-5604] koaQ7Jey 2018年2月24日 11:54:35: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523] ▲△▽▼ アラビアのロレンスを探して 揺れる英雄像 スティーヴン・E・タバクニック 2005年 03月 06日 当初英雄だったロレンスが、戦後20年サド・マゾ・同性愛者といった倒錯した心理に注目されるなど、ロレンス像が、時代によって求められる姿に変化したことを紹介している。 デアラ事件に関しては、ロレンスがスターリング少佐に書いた手紙では、ロレンスを捕らえたトルコのハジム・ベイはロレンスと知った上で同性愛の相手をさせようとしたが、ロレンスは抵抗。結局病院に連れて行かれたが、ベイが思っているような深手ではなかったので夜明け前に脱走したとある。 映画に関しては、脚本はロバート・ボールトがかなりエピソードを脚色し新しい話をでっちあげていることを説明。これも当時、ロレンスのサド・マゾヒズムに注目する時流に乗ったものとしている。フィクションの部分は、始めにロレンスが自分の指を火傷させ火を消すシーン、ダウドとファラージュを連れてシナイ横断の件(ダウドはロレンスが実際にイギリスに連れて行ったダフームとの同性愛関係を示唆するもの。ただしダフームはアラビア反乱が終わる前にチフスで死亡)、ガシムを処刑するのが楽しかったと告白するが、これも処刑されるのはムーア人のハメッドで一緒にアカバまでの遠征をした仲間ではなく、またロレンスは一言も著作の中で人殺しが楽しいとは言っていない。彼は権力に自分が夢中になってしまうことを危惧しているだけだ。またアカバ途中の戦い、北方遠征が省略されている。そしてアラブ統一を信じているように描かれていたが、実際は彼は団結をうたったにすぎず、統一など不可能だと信じていた。また映画の始めでロレンスがアラブを野蛮だと非難するが、ロレンスはアラブ人を侮辱してはならないと注意し、そういった態度は取らなかった。またアリーがロレンスのガイドを撃ち殺すが、アリーの性格は全く異なっており、この事件もなし。しかし映画では有名になることを楽しみながら、一方で名声を嫌悪する姿や、アラブらしさを演じるロレンスとアラブに浸りきるロレンスの曖昧さといった神秘的なロレンスを描き出すことに成功している。 スレイマン・ムーサの「アラブが見たアラビアのロレンス」に関しては、北方遠征がなかったとするが資料があると反駁、デアラ事件はムーサは信憑性に欠けるとしているが、これもロレンスの体に傷があるので事件はあったとしている。しかしこのあたり、どうも矛盾しているのが、ムーサは鞭で打たれて重症ならその後すぐにきつい砂漠での遠征など出来ないのでは、としているのだが、この著者は背中の傷があったことを反論材料にしている。その一方で遠征に出かけたことへの反論としてロレンスが後に手紙で傷は深手ではなかったと言っているものを出している。不思議なのは、深手ではない傷がその後何年も人目につくほどの傷として残るのだろうか。またロレンスは、飛行機事故やら銃撃戦での怪我などもあったようだが、そういった怪我の痕はなくすぐに逃げ出せ遠征できたほどの怪我の痕だけが残るのだろうか。またタファスのトルコ兵虐殺はあったと多くの軍人が証言している。またロレンスのシオニズムに関して、著者はロレンスがアラブにもユダヤにも同情的で、双方の主張をなんとか結び付けようと努力したことは、誉められこそすれ非難されるいわれはないとしている。 ロレンスの鞭痕について面白い記事は、ナイトリーとシンプスンの著書の中で、スコットランド人のジョン・ブルースへのインタビューで、彼が空軍に入りなおした1923年から12年間ロレンスの希望により、樺の枝を使ってロレンスに鞭打ちをほどこしていたという私生活の暴露だろう。デアラ事件を含め、ロレンスにサド・マゾの倒錯趣向があったことを暴露する話であるが、先にあげたロレンスの鞭の痕とは、デアラ事件ではなく、その後の趣味の世界によってできたものと言う可能性があるのではないだろうか。著者はこのあたり、全く無視している。 どうやらこの本の著者タバクニックは、従来言われているようにロレンスは天才で、アラブの反乱はほとんどロレンスが指揮していた、または彼が指導して計画した、そして頭の中に天才の常である矛盾した考えを幾つも抱き、時代の正統に従わず、常識はずれにアラブとユダヤを友人として、ベドウィンと英国貴族を尊敬したと結論付けている。 気になったのは、ムーサを始めアラブ側の見解、つまりロレンスに指揮権などなかった、またシオニズムとの関連、アラブを助けたのは結局は英国軍人として英国の要請に応じフランスを牽制するためという点については反駁している点だ。特にシオニズムに関して、ファイサルがユダヤがイスラエルに入ることをOKしたのは、ロレンスの差し金でいやいやではなく、ファイサル自身が協力構想を評価したとしている。そしてアラブとユダヤを協定させたのは、カーター大統領を除いて歴史上ロレンスただ一人だと持ち上げている。アラブとユダヤの協調を幾度と強調しているが、このあたり、ムーサの著書ではファイサルが当時の状況ではサインをせざるを得なかったと説明しており、それでもまだサインに躊躇し、幾つかの条件を出していたにも関わらず、その点は無視して事が運ばれてしまった、しかもファイサルの父王については、この調印をまったく拒絶したのだが、本書ではそれについては触れられていない。なぜ著者がこのようにロレンスがユダヤの友だと強調しているのかを考えてみた。著者の履歴を読むと、NY生まれで1971-1984年までイスラエルのベングリオン大学外国文学部で教えている。なんだ、ということはこの人はユダヤ人か、もしくは親ユダヤということか。ならばこのユダヤ側への肩入れも納得。逆を言えば、彼のユダヤがらみの発言は、相当割り引いて読まねばならないだろう。 失笑物だったのが、「ロレンスの能力と、ほぼあらゆる事件で彼が主導的な役割を果たしたことの間接証拠のひとつは、ロレンスがアラビアを離れ、彼の助言が得られなくなると、ファイサルはシリア王としての地位を失い、その父シャリーフ・フサインはアラビアをイブン・サウードに奪われたという事実だ。」という文章。どうしてロレンスがいなくなったからファイサルがシリア王でなくなったと言えるのだろうか。またそういった歴史的事実から、逆にロレンスが全てのアラブ反乱で主導的役割を果たしていたとどうして言ってしまえるのか?このあたり、著者が必要以上にロレンスを崇め、フサイン側をロレンスがいなくては何も出来なかった、いわば彼らはロレンスの操り人形だったと貶めている。しかし、実際にロレンスが相手にしなかったファイサルの兄が治めることになったヨルダンは、結局国として現在まで続いているし、ファイサルのイラクも彼が生きている間は王制をしいていた。アラブとしてみれば、英国などの欧米の力を使うことで、自分の統治を行っていたわけで、上手く英国などを使ったと言えよう。どうも全体にこの著書は、イギリスなどの欧米の押し付けの視点(あくまでも自分たちが主)が見られた。 https://nekotamago.exblog.jp/2194003/ ▲△▽▼ 現在、世界を戦乱へと導いているのはアメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟、そしてイギリスとフランスのサイクス・ピコ協定コンビだ。 サイクス・ピコ協定はオスマン帝国の領土分割などを決めた秘密協定で、イギリスのマーク・サイクスとフランスのフランソワ・ジョルジュ-ピコの協議で原案が作られたことからこう呼ばれている。 後にロシアも参加するが、1917年11月のロシア十月革命で実権を握ったボルシェビキ政権によって協定の存在が暴露されている。ちなみに、ウラジミル・プーチン露大統領はイギリスやフランスを含む勢力の中東支配プランに加担していない。 この協定が結ばれた翌月、つまり1916年6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせている。
その部署にトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」も所属していた。 このロレンスが接触、支援したアラブ人がフセイン・イブン・アリ。この人物にイギリスのエジプト駐在弁務官だったヘンリー・マクマホンはアラブ人居住地の独立を支持すると約束している。フセイン・マクマホン協定だ。 イブン・アリは1916年にヒジャーズ王国を建国しているが、このアリはイブン・サウドに追い出されてしまう。そして1932年にサウジアラビアと呼ばれる国が登場した。サウジアラビア建国の背後ではイギリスが蠢いている。
サイクス・ピコ協定が露見した2年後、つまり1917年11月に「バルフォア宣言」、つまりイギリスのアーサー・バルフォア外相の名義でウォルター・ロスチャイルド宛てに送られた書簡が書かれた。その宣言の中で「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。
イギリス政府が言う「ユダヤ人の民族的郷土」は1948年に作られた。この年の4月4日にシオニストはダーレット作戦を発動、デイル・ヤシンという村をシオニストのテロ部隊であるイルグンとスターン・ギャングは襲い、住民を惨殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると254名が殺され、そのうち145名が女性で35名は妊婦。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否された。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は避難を開始、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザ地区やトランスヨルダン(現在のヨルダン)に移住した。その後の1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。シオニストが占領した地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎないという。
イギリスの学者で地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーは1904年、世界制覇のためのプランを発表した。彼は世界支配を実現するためにカギはロシアにあると考える。広大な領土を有し、豊富な天然資源、多くの人口を抱えるからだ。この理論に基づいてズビグネフ・ブレジンスキーも戦略を立てている。
そのロシアを締め上げるため、マッキンダーはユーラシア大陸の沿岸地域に広大な弧を想定する。西ヨーロッパ、中東、インド、東南アジア、朝鮮半島をつなぐ三日月帯で、西の端にはイギリス、東の端には日本がある。この三日月帯の上にイギリスはサウジアラビアとイスラエルを作り上げた。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804190000/
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2011年当時から言われていたが、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定(小アジア協定)」のコンビ。第1次世界大戦の最中、16年5月にイギリスとフランスは帝政ロシアも巻き込んで利権の獲得を目的とした秘密協定を結び、6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせたのだ。 この部署に所属していたひとりがトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」である。 この人物を主人公としたイギリス映画がデビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で作られた理由は言うまでもないだろう。 2018.09.22 フランスとイギリスがシリア侵略で積極的な歴史的背景
ロシアの電子情報支援機IL20の撃墜に絡み、IFF(敵味方識別装置)の問題が指摘されている。IFFが機能していればシリア政府軍が発射したS200によってロシア軍機が撃ち落とされることはないだろうというわけだが、ロシア国防省は輸出用のS200にはIFFが搭載されていないとしている。S200は1960年代の後半から使われている旧型のミサイルだということもあり、ロシア側が主張するようにIFFは搭載されていなかったようだ。 しかし、IL20が撃墜されるタイミングでフランス海軍のフリゲート艦オーベルニュがミサイルを発射しているとロシア国防省は発表している。イスラエル軍のF16戦闘機4機による攻撃とオーベルニュの攻撃が無関係だとは思えない。イスラエル軍とフランス軍は連携してシリアを攻撃したのだろう。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、2011年春にリビアとシリアに対する侵略戦争が始まった当初からフランスとイギリスは積極的だった。アメリカに強制されたとは言えない。
ジョージ・H・W・ブッシュ政権で国防次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツは1991年にシリア、イラン、イラクを殲滅すると発言したとウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官が語っている。
1991年1月から2月にかけてアメリカ軍はイギリス、フランス、サウジアラビア、クウェートの軍隊を引き連れてイラクへ軍事侵攻(砂漠の嵐作戦)したが、サダム・フセインを排除しなかった。
ウォルフォウィッツなどネオコンはブッシュ大統領の決断に怒り、シリア、イラン、イラクを殲滅するという発言につながったのだが、ロシア軍が出てこなかったことにも注目している。ロシア軍はアメリカ軍の行動に手を出せないと判断したのだ。
当時、ロシアは西側巨大資本の傀儡だったボリス・エリツィンが実権を握っていた。ロシア軍に軍事介入する力はあったのだが、アメリカに逆らわなかったのだ。21世紀に入り、ウラジミル・プーチンが大統領に就任すると状況が変化、アメリカ従属はの力は弱くなり、2008年にはジョージア軍を使って南オセチアを奇襲攻撃したが、ロシア軍の反撃で惨敗している。
ジョージア軍は何年にもわたってイスラエルとアメリカから軍事訓練を受け、兵器の提供も受けるなど長い準備期間を経ての作戦だった。その作戦自体、イスラエルが立案したと推測する人もいる。そのジョージア軍と反撃してきたロシア軍は同程度の規模だったのだが、ロシア軍が勝利するまでに要したのは96時間だけだった。
ロシア軍とアメリカ軍が衝突した場合、アメリカ軍に待っているのはジョージア軍と同じ運命。そのためか、2011年にリビアとシリアを侵略する場合、バラク・オバマ政権はサラフィ主義者(ワッハーブ主義者やタクフィール主義者と渾然一体)やムスリム同胞団を主力とするジハード傭兵を使った。
リビアではこうしたジハード傭兵(アル・カイダ系武装集団)とNATO軍の連携が機能してムアンマル・アル・カダフィ体制は2011年10月に倒され、カダフィ自身は惨殺される。ところがシリアは違った。シリア軍の強さもあるが、国内事情の違いもあった。国内にアメリカなど外国勢力が使える反政府勢力が存在しなかったのだ。
ところで、ネオコンは遅くとも1991年にシリア侵略を考えているが、1988年から93年にかけてフランスの外相を務めたロラン・デュマによると、イギリスとフランスは2009年の段階でシリア侵略を目論んでいた可能性が高い。彼はあるパーティーでイギリス人とフランス人のふたりからシリア政府の転覆工作に加わらないかと声をかけられたというのだ。そのふたりが誰かは語られていないが、ニコラ・サルコジ政権やフランソワ・オランド政権はシリアでの平和を望んでいないとデュマが判断するような相手だったという。
また、シリア駐在のフランス大使だったエリック・シュバリエによると、2011年3月にシリアでは大規模な反政府行動があり、政府が暴力的に参加者を弾圧しているとする報道があった際にシュバリエは現地を調査、抗議活動は大規模な者でなく、すぐに平穏な状況になったことを確認し、そのようにパリへ報告したのだが、ジュッペ外相はそれを無視するだけでなく、シリアのフランス大使館に電話して「流血の弾圧」があったと報告するように命じたというのだ。「独裁者による民主化運動の弾圧」というストーリーをフランス政府は求めていた。勿論、侵略を正当化するためだ。
2011年当時から言われていたが、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定(小アジア協定)」のコンビ。第1次世界大戦の最中、16年5月にイギリスとフランスは帝政ロシアも巻き込んで利権の獲得を目的とした秘密協定を結び、6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせたのだ。この部署に所属していたひとりがトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」である。この人物を主人公としたイギリス映画がデビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で作られた理由は言うまでもないだろう。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/
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