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人生の価値観 その1(抜粋) 東海アマブログ
人生の価値観 その2 東海アマブログ
人生の価値観 その3 東海アマブログ
何も考えずに、あるがまま、なすがまま、与えられた環境に順応して生きてゆくのが人生なのだけど、ときには、ふと人生について考えることもある。
オウム真理教の幹部たち、13名が処刑殺害された。
彼らは、例えば、宅間のように人間性が劣悪だから殺されたわけではない。ただ、社会から「優秀」と評価されるための高い学力はあったが、自分のやってることが、社会にとって何をもたらすのか?
きちんと、自分個人の立場で深く考えずに、集団の雰囲気に引きずられてしまって、愚かな殺人行為に手を染めたから、日本社会のシステムに殺された。
他人を蹴落とす学力はあったが、ウソを見抜く学力がなかったのである。
彼らを見ていると、別にオウムであろうと、三菱商事であろうと、自衛隊であろうとまるで同じであって、所属する組織の上から命令されれば、それが、どんなに理不尽で、非人道的なものであっても、命令に従って「優秀」と評価されることに、快感と恍惚を感じるように、幼い頃から洗脳されてきた人たちであって、この習性によってサリンを散布したが、たまたま所属先がオウムという立場の弱い組織だったので、殺される羽目になったのだ。
もし、これがオウムでなく、日本政府の組織だったなら、今でも左うちわで、「記憶にありません」なんて国会で証言しながら、のうのうと巨額の退職金をもらって余生を過ごせるはずだ。
東京電力の勝俣会長、清水社長なんて、もの凄い数の人々を、自分たちの愚劣な金儲け優先主義によって殺しておいて、「私にも余生がある」なんてほざきながら、巨額の退職金を得て、ドバイに逃げて悠々自適ではないか?
やってることは、東電や安倍政権の幹部と、本質的変わらない。むしろ、殺した数が少なかった。これが東電のように、数十万数百万なら、殺されなかったかもしれない。
高いところから首に縄をかけられてドスンと落とされて頸椎を引きちぎられて殺されたオウムの13名の死刑囚たちは、釈迦の弟子であるアングリマーラにそっくりだ。
アングリマーラは、「街の人々を100名殺せば悟りを開ける」とウソを教えられて99名を殺害したものの、最後に殺せなかった釈迦の弟子になることによって、それ以降は、散々なリンチに遭ったものの、殺されることは免れ、希にみる優れた僧になった。
しかし、日本は、オウムのアングリマーラたちを生かしておかなかった。
オウム幹部たちの悲惨な最期を見るにつけ、一つ間違えば、自分も、ああなっていたかもしれないと思った人はたくさんいるだろう。
オウムの死刑にされた幹部たちは、我々に人生の意味を考えさせるメッセージを残した。
「どんな人生を送ったらよいのか? 何が本当の価値なのか?」
このように考えて、自らの環境を、少しずつでも、より合理的でストレスのない楽ちんなものに変えてゆこうとするのが、人間の人間たる属性なのである。
「やっぱり、組織に入って上の命令に盲従する主体性のない人生を送るのも、こんな悲惨を招くんだな」
と気づいた人も多いだろう。
「組織」の持つ、本当の恐ろしさを、はじめて思い知らされた人も少なくないだろう。
オウム幹部たちの残したものは、自分個人の価値観を見失うことの恐ろしさを世に示すことであった。
「自分個人の人生とは何か?」 「良き人生とは何か?」
むちゃくちゃに難しくて、実は無茶苦茶にやさしい、この問題の答えは、もちろん、一人一人、全部違うというのが正しいのだが、私の六十数年の、ろくでもない人生経験から、無理矢理答えをひねり出すとするなら、私は、人は、「人の笑顔欲しさに生きている」という答えを提示するだろう。
別の言い方をすれば、人は、空気を吸って、水を飲み、食事をして、生きているのだが、本当に、呼吸しているもの、本当に食べているものは、実は見せかけの空気や飲食ではない。命を支える本当の栄養とは、実は人の笑顔なのである。
さらに、別の言い方をすれば。それは「愛」なのだ。
赤ちゃんは、生まれて最初に何を欲するのか? 飲食という答えも間違いではないのだが、実は母親の笑顔なのである。
愛に溢れた笑顔、それこそ、この世に誕生した赤ちゃんが、この世に生きてゆきたいという凄まじく猛烈なモチベーションを生み出してくれる魔法の杖である。
つまり、人の心を支える栄養素というものは、人の体を支える食事や飲料と同じように、もの凄く本質的で、もの凄い力を持ったもの、笑顔=愛なのだ。
もし、愛がなければ生きる意欲など、どこにもない。
もちろん、その愛は、教科書に書いてある通りの素晴らしい抱擁とともにある愛である必要はない。
天涯孤独の老人が、一人で大衆食堂に向かう。そこに働いているおばさんが、「いらっしゃい」と笑顔を投げかけてくれる。こんな小さな愛でも、命の綱になるのだ。
まして、年がら年中ケンカばかりの配偶者だって、いなくなれば寂しくて、ただ、いてくれるだけで、そこに命を支える愛があったことを知るのである。
小さな笑顔の持つ、凄まじい力、それは折れそうになる心を支えてくれる。もし、誰も自分に関心がなければ、あと十日で終わる命を、何年も支えてくれるのである。
だから、「人生の価値観」と問うたとき、私は、「人の笑顔」を見ること、と答えるのである。
まあ、これはキレイな方の話。汚い方の話をすると、私のツイッターやブログにまとわりつく人間のクズどもに対しては、笑顔の代わりに脳味噌への鉄槌を与えてあげたいが、この激しい憎悪でも、ときには人を生き延びさせる力になるのかもしれない。
先に、オウム真理教の処刑された幹部たちの発想も、東電で原発事業に携わっている連中も、安倍政権で人々を欺して私腹を肥やしてる連中も、実は非常に似通っていて、その本質的な共通点は、所属する組織を利用して、その共有する価値観のなかに埋もれて自分を疑おうとしないことだと書いた。
他人から言われたことだけをやって、何も考えないですむロボット人生は、とても楽ちんに見える。
組織のなかで、勝ち組になって、上司の覚えが目出度ければ理想の人生である。
みんな、全体の運命なんか考えずに、ただ自分の良き待遇だけを考えて、主体性を放棄し、命令に従う人生だけを選んできた。
そして、そんな人生観に対して疑問を投げかける主体性のある人を「異端者」として排除してきたのである。
戦後、保育園から始まる競争社会の集団洗脳のなかで、人々は、他人を蹴落とす競争は大好きだが、自分の力だけで見いだすイノベーション、創意工夫というのは、もの凄く厄介で嫌いなのだ。
競争社会の勝ち組にとって、自分だけの心ほど嫌なものはない。
与えられたことだけを、やれば褒められたが、与えられないこと=自分で見いだすことは、やらされたこともないから極端に苦手というわけである。
だから組織に埋没して、命令に従うだけのロボット人生を選びたいのである。自分で判断する人生なんて、まっぴらだ。人生のすべてを与えて欲しい、指示してほしい。
そんな人生を周囲から推奨されてきたし、そうなるべく努力してきたのだから。
もし、日本社会に致命的な瑕疵があったとするなら、それは、主体性を放棄して「長いものに巻かれる」ことが正義であると勘違いしてきた、人々のこのような価値観であろう。
巨大な組織に身も心も任せて親方日の丸の座布団でぬくぬくしたい、創意工夫は大嫌いという若者を、戦後競争社会は、大量に生産してきたのだ。
問題は、所属→ 実は帰属する組織なのである。
人は一人では生きていけない。自分に自信のない者は、特に威圧感のある権威にすがりつく傾向がある。人を脅かす権威というのは、たくさんの力を集合した組織である。
腕っ節の強いガキ大将に、たくさんの取り巻きが金魚の糞のようにつく理由も、「虎の威を借る狐」のようなものだ。
大きな、強い組織に加わっていれば「親方日の丸」で、ただ命令に従ってさえいれば、自分が特別にトクをしてるような気分になれるのである。
オウムの場合は、物理化学に優れた若者が、目の前で麻原の「空中浮揚」を見せられ、それまで学んできた知識や法則が、まったく役に立たない世界があると知らされ、いっぺんに夢中になってしまった。
それまでの価値観が逆転させられてしまったのだ。
まあ、この程度の空中浮揚は、ただ跳ねているだけでも瞬間写真でインチキだと分かるが、東大やらを出たインテリがコロリと欺されるのだから、決してインチキだけでもないのだろう。
「麻原は東大で学んだ物理法則さえも超えてしまう超人間だ」
と信じ込んでしまった彼らは、麻原の言葉までが、本当の神のように絶対服従しなければならないもののように思えた。
だから、麻原の一挙一頭足や、思いつきの言葉でさえ「神の言葉」のように思い、それは、自分たちが拠り所にしてきた、人間への常識的な価値観さえ超えるものと信じてしまった。
「地下鉄でサリンを撒くことが人類救済のハルマゲドン」
という麻原の単純な思いつきを、神の指示として信じ込んでしまった。
なぜ、こんな馬鹿げた妄想を真に受けてしまったのか?
私なら、最初から麻原など信用しない。
世界には常識で理解することのできない、不可解な超能力を示す人は山ほどいるのだ。
私は若い頃、気を使った物体移動ができたから、この種の超常現象に驚くことはないのだが、日本を代表する学問的権威を学んできた若者は、説明不可能な現象を前にして、どうしていいか分からず、信心という不合理な道に向かうしかなかった。
自分の心、人生の価値観が、はっきりと見えていなかったのである。であると同時に、それまで依存してきた、彼らの共有するアイデンティティである「優秀な人間」という社会的評価が、真実を見えなくさせてしまったのだと私は思う。
オウムの死刑囚たちは、麻原という権威に服し、自分個人の人生に対する、他人に対する価値観と責任を、全部、帰属する組織の価値観にすり替えてしまったのだ。
その意味では、東京電力の金儲けのために放射能をばらまいた連中も、自衛隊員も、公務員も、安倍政権幹部たちも、「自分の主体性を放棄した」という意味で、まったく同じものであり、上の命令に従うことが、帰属する組織に奉仕することであり、個人の主体性を放棄することが、幼い頃から「与えられた人生」に他ならなかった。
だが、企業という組織も、日本国家という組織も、山根明が君臨したボクシング協会という組織も、オウム真理教という組織も、すべて、組織への依存心=それにしがみついていれば自分は安泰であるという幻想によってのみ成立している。
だが、ちょっと待て!
我々は、今から27年前、1991年、「鉄の帝国」と呼ばれて、無数の人々を国家の権威によって殺戮してきた組織が、わずかの期間に根底から瓦解するのを目撃した。
アメリカと共に世界を制した、あの超大国ソビエト連邦が、一瞬にして崩壊し、この世から消えてしまったのを目撃したのである。
オウム真理教も、わずか数年で瓦解し、首領の麻原らも処刑されてしまった。
「鉄の帝国」に対して「電気の帝国」であった東京電力も「おまえはすでに死んでいる」状態ではないか?
安倍晋三よ、思い上がるな! 日本政府だって、安倍自民党が、これほどデタラメを積み重ね国家の基盤を次々に使い潰している以上、その崩落、日本国滅亡だって、決して遠い話、妄想ではない。それは約束された現実であることを知らねばならない。
「おごる平家は久しからず」
栄華を誇った、平清盛も独裁の末、最後は源氏に追い詰められ、惨めな病死を迎えた。
栄枯盛衰は世の習い。この世に生を受け、滅せぬ者あるべきか。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。
秀吉も辞世の句で「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
と読んでいる。
どんなに強大で、無限に見えたとしても、歴史上に栄華を続けた例は存在しない。生まれたものは必ず死ぬ、繁栄したものは、必ず衰退する。
人類だって、本当に必要なカルマを理解したなら、あとは滅亡する運命しか残されていない。
国家や東京電力なんて組織だって、オウム真理教と本質的に変わらないと知るべきである。自民党も日本政府も、横暴を重ねて民衆から嫌われるなら、やがて崩壊を免れ得ない。
安倍政権は、オウムのサリン事件と同じようなことをやってるのだから、やがてオウム幹部たちが処刑されたのと同じ運命を享受することになるだろう。
本当に大切な人生の価値観とは何か?
それは、みんなが羨むような豪邸を建てることでもなければ、地球上の資産の多くを個人所有することでもない。
人生、起きて半畳寝て一畳
テレビを何十台所有しようが、人は一台しか視聴できないのだ。
車を何十台所有しようが、人は一台にしか乗ることができない。
何十室のベッドルームを所有しても、人は一部屋にしかいることができない。
とんでもない美女を何十人侍らしても、人は一人としかやれない。
人には背丈というものがある。背丈以上のことはできないのだ。背伸びしたって疲れるだけだ。
適正な人生、適正な生活、これをジャストパフォーマンスと呼んでいる。
我々の価値観は、このジャストパフォーマンスでいい。背伸びするな、背丈の人生を歩め。無理のない生活、組織に頼るな、自分を見つめよ。本当の自分に必要なものは何かと問え。
物質ではなく、人の愛だけを見つめて生きよ。
これが、我々の価値観なのだ。
人が生きている根源的な理由は、愛する人の笑顔が見たいからだと書いた。
競争社会の毒に染まるまでの人間は、誰でも、人の笑顔をエネルギーに変えて生きてゆくようにプログラムされているのだ。
いわば、人間のもっとも自然な姿、無理のない自然体が、笑顔のなかで生きることである。
幼い、素直な愛の心を失っていない子供たちにとって、金も、豪邸も、高級車も、美人妻も、豪華な食事も、この世のあらゆる贅沢にも関心がない。
関心を持つのは、ただ一つ、母親の笑顔である。
しかし、そんな子供が保育園や幼稚園で、かけっこ競争したり、ごく初歩的なテストをして、結果に対し、順位、序列をつけられることで、最初の差別のコンプレックスを知ることになる。
5〜7歳の子供に与えられた、この序列、差別のインパクトは、おそらく彼の人生の生涯を束縛するほど激しいものだろう。
ベルゴニー・トリボンドーの法則じゃないが、感受性というのは、それから起きる細胞分裂の回数に規定されて大きいのであって、6歳の感受性と12歳の感受性は、まったく別物であって、未来の大きさに比例して激しく作用するのである。
競争と差別のなかに放り込まれた子供は、すでに母親の笑顔よりも重い辛い現実のなかに置かれてしまっている。
かけっこで一番になった我が子を褒める母親の姿勢こそは、子供にとって地獄の挽歌である。
「勝ったって負けたって関係ないじゃない」
と言ってくれるならいいのだが、勝ったことを褒める母親は、言外に負けるなと強要しているに等しいのだから。
そのときから、他人を蹴落とす人生観、価値観が芽生えるとともに、笑顔の価値も下がってゆく。
競争に勝って「褒められる」という新しい価値観のなかに生きることを強いられるのである。そこでは、笑顔によって素直に癒やされる世界は、もう遠い。
それからは、小学校に入っても、中学でも高校でも、社会に出ても、競争の嵐のなかを歩む過酷な人生を強いられる。
競争に勝たねばならない。勝って特権階級になることが、人生最高の価値であるかのように、本人も周囲も思い込み、駆り立てるのだ。
このようにして、素直な心を歪めてしまって優秀な人材になったオウムの幹部たちはサリンを撒いた。
もし、子供の頃からの競争敗者だったなら、絶対にやらなかっただろう。
競争に勝ち続けた優秀な子供だったからこそ、組織に埋没し、主体性のなかで社会全体を俯瞰する視点を見失ってしまっていたのだ。
もし、佐川宣寿が、競争社会の負け組だったなら、国会で見え透いた嘘をつき続けることもなかっただろう。勝ち組はサリンを撒かねばならないことになっているのだ。
競争社会の勝ち組というのは、体制に疑問を持ってはいけない。ただ他人を蹴落とし、組織の命令に忠実であればいいのだ。
佐川もオウム幹部たちも、人間性の本質においては、何も変わらないことを理解していただけるだろうか? 佐川が、たまたまオウムの勧誘に引っかかっていたなら、まとめて処刑されていたことだろう。しかし、安倍晋三が、麻原と同じ運命に至れば、オウムと同じような結末になるのではないだろうか?
「特別な人間=選ばれた人間になりたい」
競争社会の洗脳が、最終的に人間にもたらす思想的影響といえば、人生の目標が、他人に秀でて、特別な地位と、特別な蓄財と、特別な待遇を得て「選ばれた人間」になることなのだろう。
若いうちは、セレブや権力者にコンプレックスが植え付けられているから、他人に秀でた選ばれた人間こそが目標であるかのように勘違いするのだが、60年以上も生きて、この世の、あらゆる酸いも甘いも知ってしまうと、だんだん、若い頃のコンプレックスがウソのように馬鹿馬鹿しくなって、人間は、どんな立場にいても、どんなに貧しくとも、幸せの量も苦難の量も同じなんだということを、繰り返し思い知らされるのである。
この世に「特別な人」など、一人もいないのだと、たくさんの過酷な現実のなかで思い知らされるのである。どんなに立派そうに見える人間だって、近寄って顔のあばたまで数えてみれば、醜い人間性に辟易することばかりだ。
私が若い頃、今から40年以上も前に、反原発市民運動の旗手だった学者のKさんは、フクイチ事故後、低線量被曝に閾値があるかのような発言をして私を驚かせた。
もの凄く信頼していた人なのに、この極端な立場の変更は何を意味したのか?
彼は分子生物学者だったが放射線ゲノム研究に取り組んでいて、今や、ゲノム研究には被曝が欠かせないのである。
彼は、妊婦研究員を放射線照射ゲノム研究に参加させ、「期間中の総被曝量が5ミリシーベルト以下だったから安全だった」と発言し、私を卒倒させかけた。
胎児の被曝量が、もし5ミリもあったなら何が起きるのか? 広島長崎被曝者のデータを元にしたABCC放影研のデータに書かれている。
(肝心のデータを政府が削除してしまった! お探しのページが見つかりません。 公益財団法人放射線影響研究所 )
5ミリグレイ=シーベルト以上の被曝で、4.4%が重度知的障害者になると書かれていたのだ。
妊婦を絶対に被曝させてはならない。これは放射線取扱者の常識中の常識なのだが、K氏の発言をきくと、閾値があるから積算5ミリ以下なら問題は起きないと述べている。
私は、K氏の変節をみて、体制のなかで生きる「優秀な」研究者の発想を見た。K氏が高く評価される分子生物学者でなく、オチコボレ研究者であったなら、決してこんなことはしなかっただろうと私は思った。
評価されるということは、人生を激しく拘束するのだと、私は強烈な違和感を抱いた。と同時に、世間から何一つ評価されない私の人生は、間違っていなかったとも思ったのである。
「特別な人間になりたい、選ばれた人間になりたい」と思いながらサリンを撒いたオウム幹部たち、安倍政権の中枢幹部たち、東芝の経営者たち、東京電力の経営者たち、技術者たち、三菱の経営技術幹部たち。
優秀であるがゆえに、評価されるがゆえに、それに拘泥し、全体像を見ることができず、木を見ていながら森を見ることもできず、局面において、優れた判断、行動をしながら、全体では、滅亡に向けてひた走る人たち。
これらの根源的な出発点が、保育園、幼稚園から始まる競争選抜=人間のランキング付けにあることの意味を知るべきである。
人にランクをつけようとすれば、末は、みんなを皆殺しにしてしまう真実に気づくべきである。
本当に必要な価値観は、競争の始まる前、人の笑顔を見て人生のモチベーションとした素直な心に戻ることではないのか?
全く仰せの通り、目前の事象に囚われた自己中心性は、あらゆる弱者を毀損する。 忠恕の心、良心を押し殺した、人は社会は、偽善で空っぽで一切を破壊して終わる。
もう手遅れかもしれないけど、あるべき人類の姿の探求
《金融クラッシュを待っている受動的姿勢をやめよ!!》貨幣資本主義社会の抱える致命的欠陥からの回避と真の人間らしさを求めて
《破産危機が迫るイリノイ州・コネチカットの金融中心ハートフォード市に破綻の危機》んで、人類全体が幸せになれる方法を考える
まだまだあるある歴史の嘘と、貧困、飢餓、殆どの犯罪、高齢化、少子化、等、社会問題の根源は貨幣制度の是認であるに違いない。
社会主義のデンマークVS自由主義のアメリカ、どちらが住みやすい?←右と左のいいとこどり、その間にある理想社会は、あります
あるべき持続可能な、循環型社会と、その、平和的な移行方法に関する考察。
(コメントの6番が2016年2月9日現在の最新バージョンです。)
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