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(要点のみ抜粋)
序章
「日本人によるユダヤ人救出劇」と言えば、杉原千畝が有名である。…
だが、実は、救出劇はもう一つ存在した。杉原のビザ発給より二年前の1938年(昭和13年)三月、満州のハルビン特務機関長だった樋口季一郎は、ナチスの迫害からソ満国境の地まで逃げてきたユダヤ人難民に対し、特別にビザの発給を実現させた。この救出劇は、舞台となった地名から「オポトール事件」と呼ばれている。
第一章 オポトール事件の発生
≪樋口の決断≫
樋口は熟慮を重ねた上で、難民の受け入れを決めた。満州国外交部の決定を待っていれば、その間にも難民は凍死していく。さらに、ドイツの顔色ばかりうかがっている満州国外交部が、救出のために働く可能性は低いと思われた。
彼は自分が下した決定の中で、その後に起こりうる自らの失脚の可能性について、十分に覚悟していた。
(幼少の頃)この時の光景を父の下、現場で見ていたテオドル・カウフマン(ユダヤ人)は、こう記している。
〈樋口は世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考えている〉
第四章 オトポール事件とその後
最初に「ヒグチ・ルート」が開かれた時の難民の数は、100〜200名」程度であった。その後、同ルートを利用した難民が続々と満州国へ入り、多くの難民たちが満州国を経由して上海などへ移動していったことは間違いない。(総計「二万人」説がユダヤ人側から生まれたが、著者は論拠はない、と疑問を呈している)
この事件で新京の軍司令部に出頭した樋口は、東条英機参謀長と会った。その時、言い放ったとされる言葉は、現在でも語り草となっている。
「参謀長、ヒットラーのお先棒と担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」
結局、東条はそんな樋口に対し、懲罰を科すことをしなかった。
≪樋口の真の思い≫
(樋口は)戦争の話に口をつぐみ、自らの功績を誇ることがなかったが、孫には子どもにも話さないことを語っていた。
孫・隆一氏は言う「オトポール事件については、祖父は私に『あれは個人的な決断だった』と話していました」
隆一氏に対し、こんな話もしていたという。
『自分がヨーロッパに滞在していた当時、有色人種たる日本人に対する差別の目が歴然と存在していた。日本人が下宿を貸してもらえないなんて話は山ほどあった。そんな中で、日本人に家を貸してくれたのは十中八九、ユダヤ人だった。日本人はユダヤ人に非常に世話になっていたんだよ』
【出典】「指揮官の決断〜満州とアッツの将軍 樋口季一郎」早坂隆/文芸春秋新書2010年
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