フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。 http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html 米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への 『人体実験』である。 占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。 第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・ 長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。 第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。 『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。 そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。 第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC (原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。」 広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。 「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。 そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。 その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。 治療は全く受けませんでした。 そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。 日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。 しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。 私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。 http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html 《グレン・グレーの『戦士たち』には、日本兵を一人放ち、その兵士が身の安全を求めて狂ったように逃げ回るのを標的として射撃を楽しんだというはなしが紹介されている。
兵士たちは、逃げ回る日本への様子の滑稽さに、あまり笑いすぎて日本兵に的を絞ることができなかった。しかし、ついに弾が命中すると小隊全体の雰囲気は大いに盛りあがり、数日間はそれを肴にした話題や冗談が続いたと書かれている。》 《一九四三年三月にラバウルからニューギニアのラエに向かった日本の輸送船八隻と駆逐艦四隻を撃沈すると、米豪軍の航空機はいかだや救命ボートに乗っていた3000名近くの遭難者を機銃掃射した。
『タイム』誌(一九四三年三月一五日号)は、 「低空飛行の戦闘機が生き残りのジャップでいっぱいの救命ボートを血の海に変えた。ジャップに浴びせられたこの残忍さは、かつて彼らがしばしば示したものである。今回の攻撃の結果、岸にたどり着くことができたジャップはほとんどゼロに近かった」 と報じた。 また高級紙の『アトランティック・マンスリー』誌(一九四六年二月号)でさえ、
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、他の骨でペーパーナイフを作るとかした」 との記事を掲載している。そこには、標的の日本兵がすぐ死ぬことがないように火炎放射器の炎を調節したとも書かれていた。》 《英国人記者のラッセル・スパーは『戦艦大和の運命』で、海面に浮かんでいる大和の乗員を機銃掃射した米軍機の行為を、
「米国人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに気が咎めなかった。米国の高官連中は公然と日本人を殺すことはシラミを殺すより悪いことではないと明言していた。」 と書いている。》 (元海上自衛隊海将補平間洋一著『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版)より) 《同校の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、海兵隊は日本軍の投稿をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「ひとりも捕虜にされなかった」という》
(新庄哲夫訳『リンドバーグ第二次大戦日記』下巻(新潮社)) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237378982
「特攻隊員を処刑するアメリカ軍」 http://www.youtube.com/watch?v=2XfSClIbMh0&feature=related この動画には、海面を漂う無抵抗な日本兵を砲撃・殺害し、さらにその死体に向かってピストルの銃口を向けている米軍兵の姿が映っています。 醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった? 空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達 引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg
アメリカはわざと日本人を飢えさせた
テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。 そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。 またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。 こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。 GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。 戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。 都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。
それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。 多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。 占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。
農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。 終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。 経済破綻するように仕向けた
戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。 「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。 戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。 困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。
物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。 あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。 空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。
この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。 自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。 一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。
生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。 さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。 アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。 援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。 enjo 引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg
美しくない戦後
NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。 内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。 だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。 愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。
人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。 実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。 学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。
じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。 終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。 集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。
アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。 こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。 この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。
ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。 http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html 戦後沖縄レイプ関係資料 http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/759.html ◆各項の末尾に「事後処理」 懲役:不明■ (但し、不適切な箇所等々多々有り)
1945 3.26 沖縄戦で米軍が初めて座間味村に上陸。数カ月後、米兵による強姦事件が発生。拉致してボートで連れ出し、裏海岸で強姦した後、放置。 不明
8.20 祖母と食料探しのため海岸に出た32歳の女性、米兵につかまり強姦される。翌年4月、混血の男児を出産。(玉城村) 不明 8.21 友人2人と、子どもをおぶって薪取りに出かけた31歳の女性、米兵3人に拉致され消息を絶つ。(座間味村) 不明 9.8 子どもをおぶってヨモギを摘んでいた39歳の女性、4人乗りの米兵のジープに拉致され、カーブで道ばたに放り出される。背中の子どもは死亡。(羽地市) 不明 9.24 男性2人と石川の収容所に親戚を訪ねていく途中の19歳の女性、子どもをおぶったまま3人の米兵に拉致される。男性2人は米兵に銃を向けたれ、抵抗不可能。母子は2年後に白骨死体で見つかった。(石川市) 不明 10.24 46歳の女性、道路で米兵2人に襲われそうになり、がけ下に飛び降りて大腿骨折。その後、追ってきた2人に強姦される。(本部町) 不明 10.25 家具を失って岩の下で居住していた35歳の女性、夜トイレからの帰りに米兵2人に強姦される。翌年8月、男児を出産。(知念村) 不明 この年 宜野座米軍野戦病院に収容された重傷の女性を、MPが強姦するのを沖縄人労働者が目撃。 不明 1946 1.21 草刈り作業中の23歳の女性、米兵に森の中に連れ込まれ、ナイフでほおを切られたあと強姦される。その後、妊娠、出産する。(兼城村) 不明 1. 草刈り作業をしていた19歳の女性、米兵にすすき林の中に連れ込まれ、強姦される。混血の女児を出産。(糸満町) 不明 3.10 農作業中の30歳の女性、米兵3人に拉致、強姦される。12月に男児を出産。彼女の姉も、前年、出産直後、寝ていたところを米兵に拉致されそうになったが、住民の騒ぎで未遂に終わった。(具志川村) 不明 7.26 川に選択に出かけた34歳の女性、行方不明になる。8月1日に死体で発見されるが、口にぼろ切れが詰め込まれていたことと、住民の立入禁止地区で発見されたことから、米兵による強姦、殺害と推定された。(北谷村) 不明 8.30 芋の積み込み作業をしていた24歳の女性、米兵に捕まって強姦されそうになったところを抵抗。ナイフで切りつけられ重傷を負う。数人の男性の騒ぎで米兵は逃げてしまう。(具志川村) 不明 10. 農作業中の39歳の女性、米兵3人に山中に連れ込まれて強姦される。(具志川村) 不明 46〜47 本土や海外からの引揚者が収容されていたキャンプのテント村では、米兵が進入して女性を強姦した。乱暴された後、自殺する娘も多かった。母、娘とも強姦されたケースもある。 47 3. 大勢の人たちと農作業をしていた女性、逃げ遅れて3人の米兵に拉致、強姦される。後に赤毛の男児を出産。(具志川村) 不明 5.8 34歳の女性給仕、所用で出かけて戻る途中、米兵に拉致され、浜辺で強姦される。農作業中の人たちに助けを求めたが助けられなかった。 (大宜味村) 不明 8.20 外出から帰ってきた24歳の女性、屋敷に潜んでいたフィリピン兵に強姦されそうになり、抵抗したところをナイフで刺殺される。(コザ市) 不明 9.9 28歳の女性、自宅にピストルを持った米兵が侵入したため、一旦逃げるが、生後6カ月の子どものことが気になり、戻ってきたところを畑に引きずり込まれて強姦され、ピストルで殴打されて死亡。(コザ市) 逮捕されるがその後、不明 10. 畑を階昆虫の42歳の女性、フィリピン兵らに強姦される。(具志川村) 不明 1948 7. 中部農林高校の寄宿舎が台風で破壊されたため、民家に下宿していた女子高生、家主の知り合いの米兵に強姦される。助けようとした家主はナイフで切りつけられる。(具志川村) 不明 8. フィリピン兵の集団に女性が拉致される。救出に行った地元の男性2人のうち、一人は殺され、一人は負傷。 不明 このころ、米兵が基地のまわりの民家に昼夜なく現れ、片言の日本語で女性の名を呼びながら、うろつく。(沖縄本島中部) 不明 9.14 生後9カ月の赤ちゃんが米兵によって強姦される。 不明 1949 9月 混血児人口450人 (那覇94人、前原50人、コザ73人など) 米国の「タイム」誌(1949.11.28)は、沖縄に駐留する米兵が「米軍の才能のないものや、のけ者のていのよいはきだめになっていた。9月までの6カ月間に米兵は18件の犯罪を犯罪を犯した」と論述する。(抜粋) 12 米軍部隊のメイドとして、働いていた17歳の女性、兵隊宿舎の中で米兵に強姦される。翌年、混血の女児を出産。(具志川村) 不明 1945年の上陸から、この年までの米軍人による沖縄住民に対する強姦、及び致死傷76件(うち強姦致死4人、拉致をおそれて車または崖からの転落死7人)-表沙汰になったもの 1950 2.17 夜11時頃、那覇市内で芝居見物帰りの2人の女性が米兵にカービン銃で脅迫されて去られ、一人の女性は6人の米兵に、またもう一人は8人の米兵に強姦される。 不明 7.5 民家にフィリピン兵が侵入してピストルを乱射。主婦が捕まって強姦される。(具志川村) 不明 この年の朝鮮戦争勃発で沖縄における米軍基地建設はピークに達し、沖縄は朝鮮への発進基地となって米兵があふれる。 1951 5. 戦後6年間の強姦事件は278件 1952 3.25 那覇市内の民家に米兵がCIDと偽って入り込み、21歳の女性を強姦。さらに1時間後に引き返してきて逃げ回る女性を殴りつけ、再び強姦する。米兵はエンジニア部隊所属。 不明 1955 9.3 永山由美子ちゃん(6歳)が、嘉手納高射砲隊所属の米兵に拉致され、強姦された上、惨殺される。(石川市) 死刑判決後、45年の重労働に減刑 9.9 9歳の少女が就寝中に海兵隊所属の一等兵に強姦拉致され、重傷を負う。(具志川村) 終身刑 1956 9.23 特飲街でホステスが海兵隊伍長に惨殺される。変態性欲者の犯罪といわれる。(宜野湾村) 懲役8年 1959 3.17 20歳のハウスメイドが那覇航空隊近くで一等兵に強姦される。 陪審員合議で懲役10年、平籍はく奪 10.28 22歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。死体は全裸で発見される。(コザ市) 懲役3年 1961 7.11 47歳のホステスが部隊を脱走した19歳の海兵隊員によって殺される。 逮捕され、一人は無期懲役 1963 7.3 22歳のホステスが那覇航空隊所属の上等兵に惨殺される。降られた腹いせによるもの。 10.1 20歳のホステス、キャンプ・シュワーブ所属の米兵2人に野原に引き出されて強姦される。犯人はMPに現行犯逮捕される。(久志村) 不明 1965 1.24 28歳の女性のホステス、自宅で殺害される。米兵が容疑者として、取り調べを受ける。(金武村) 不明 1966 7.21 勤め先から帰宅途中の31歳のホステス、米兵に強姦、殺害され、全裸死体となって下水溝で発見される。(金武村) 迷宮入り 1967 1.24 32歳のホステスが18歳の海兵隊員によって絞殺、全裸で発見される。(金武村) 重労働35年の判決 4.2 34歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。(コザ市) 不明 11.20 20歳のホステス、自宅で就寝中に米兵にハンマーで頭を殴られ死亡。(金武町) 迷宮入り この年、ベトナム戦争からの帰還兵による強盗、ホステス殺しが続発する。 このころ、米兵相手のバーでは、女性が一人でトイレに行くのは自殺行為だと言われた。 1968 3.29 浦添村の米軍施設内に努めていた35歳のメイドが同施設内に勤務する米人女教師に殺される。 米軍当局の許可で本国帰還 5.19 52歳の主婦、自宅前の路上でミサイル基地所属の上等兵に強姦、殺害される。(読谷村) 韓国へ出動させるが沖縄県警の捜査で逮捕。終身刑。 6.20 23歳のホステス、海兵隊MPに強姦される。その後短銃で殴りつけられたため、重体。宜野座村) 逮捕後不明 1969 2.22 21歳のホステス、砲兵連隊所属の二等兵に絞殺、全裸死体で見つかる。(コザ市) 逮捕後不明 3.3 20歳のホステスが死体で発見される。司法解剖の結果から米兵の犯行と断定。(那覇市) 迷宮入り 11.21 アルバイト帰りの25歳の女性を路上で上等兵が強姦。抵抗するたびにナイフで切りつける。(那覇市) 俸給二カ月分の罰金、降等 1970 5.28 出勤途中の21歳の軍雇用女性、米兵に襲われる。(浦添村) 証拠不十分で無罪 5.30 下校途中の女子高生が軍曹に襲われ、腹部、頭などめった刺しにされる。強姦が目的だったようだが、騒がれて未遂。教職員会、女性団体、高校生らの抗議で逮捕。(具志川市) 懲役3年の重労働、降等 この年 朝7時半頃、高校3年の女性とが登校中に、突然体が宙に浮き、上半身裸の3人の米兵に腕を捕まれたままジープで数秒間引きずられた。(宮古) この頃 バーを経営していた女性が、カウンター内に入り込んで来た米兵に強姦される。その際、足と首に大けがをし、働けなくなる。 犯人は裁判中に配置転換 1971 4.23 22歳の女性ホステスの全裸死体が墓地で見つかる。目撃者の証言で海兵隊所属の伍長が逮捕される。(宜野湾市) 血液型が被害者と同じため証拠不十分で無罪 5.1 41歳の女性が海兵隊二等兵にドライバーで刺殺される。指紋体液の血液型などの証拠で逮捕。(金武村) 不明。本人は否認 5.21 女子中学生が米兵に強姦される。(コザ市) 犯人あがらず 5.23 出勤途中のホステスが米兵に空き家に連れ込まれ、強姦される。(コザ市) 迷宮入り 7.10 自宅前で遊んでいた12歳の精薄児を3人の米兵が輪姦。(宜野湾市) 逮捕後不明 1972 4.10 25歳のホステスを陸軍軍曹が殺害。排水溝に投げ捨てる。(泡瀬ゴルフ場横) 懲役18年 8.4 37歳のホステスが二等兵によって強姦、絞殺される。(宜野湾市) 無期懲役 12.1 22歳のサウナ嬢を海兵隊二等兵が強姦、シミーズのひもで絞殺。(コザ市) 無期懲役 1973 3.18 42歳のホステスが全裸絞殺死体で発見。第二兵たん所属の兵隊の血液型、指紋が現場のものと一致したが、物的証拠がなく、逮捕不可能。地元警察の米軍側への申し入れにも関わらず容疑者は二ヶ月後に除隊し、本国に帰る。(コザ市) 迷宮入り 1974 5.8 叔父と共に農道を歩いていた17歳の少女が、米少年兵3人に全裸にされたうえ輪姦される。叔父が殴られて気絶していたときの犯行で、叔父の訴えにより、犯人が判明。(金武村) 不明 1975 4.19 海水浴に来ていた二人の女子中学生をキャンプ・ハンセン所属の二等兵が石で殴って気絶させ強姦。米軍は容疑者の身柄引き渡しを拒否したが、地元住民、県議会の抗議行動で地元警察に引き渡す。(金武村) 懲役6年 1982 8.1 33歳の女性ホステス、新築工事中の部屋で、上等兵に絞殺される。強姦しようとしたところを抵抗され、殺す。(名護市) 懲役13年 1984 9.30 19歳の米軍一等兵女性、一等兵と二等兵に強姦され、車後と焼かれて死亡。(宜野湾市) 懲役13年 1985 10.29 40代の女性が帰宅途中、キャンプ・ハンセン所属の二等兵と上等兵に拉致・強姦される。(金武町) 現行犯逮捕刑は不明 1993 5. 19歳の女性が陸軍軍曹に拉致、強姦される。被害者は告訴取り下げ。 除隊 1995 5.10 24歳の保健外交員の女性、米兵にハンマーで顔面を殴られ死亡。(宜野湾市) 係争中 9.4 米兵3人による小学生拉致、強姦事件発生 2人懲役7年・1人6.5年
[スレ主【仁王像】による初期非表示理由]:2重投稿(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
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