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イスラム教徒に対する西欧人の態度は、本質的に深い恐怖心と非常な讃嘆の念とがむすびついたものであった。ところが11世紀ごろになって…/モンゴメリ・ワット
「地中海世界のイスラム」W・モンゴメリ・ワット/筑摩叢書’84年 (の解説から抜粋)
〔解説〕三木亘(訳者)
次の文章が目にとまる。
「イスラムのヨーロッパに対する影響を研究することは、キリスト教徒とイスラム教徒が、またヨーロッパ人とアラブ人が、”ひとつの世界”のなかで、お互いにますます深くかかわるようになった現在、とりわけふさわしいテーマである」
この種のテーマに関しては、欧米に類書が多いが、そのほとんどは、「イスラムも昔は良かった、今はダメ」という暗黙の差別主義の前提に立ったものである。
著者はヨーロッパとイスラム世界を対等に、しかも現代の問題として、過去のかかわりを語ろうとしている。「アラブ人やイスラム教徒と良い関係を保つためには、私たちは自己の負い目を徹底的に認めなければならない」とも著者は書いている。(以下、概説)
アラブ人がイスラム教とともに歴史の舞台に登場すると、「ほとんど信じがたい」ことだが、ほんの一世紀ほどのあいだに、「シュメール、アッカドやファラオ時代エジプトに遡る都市文明の何千年の蓄積のなかで価値ありとして保たれてきたものすべてが、いまやアラビア語で表現されるに至った」。古代ギリシャの文明もその例に漏れない。「アラブ人はギリシャ思想の単なる伝達者ではなく、正真正銘の担い手であり、学び取った諸学を維持したばかりでなくその領域を拡大さえした」。その伝統は現在のイスラム世界のなかにも脈々と生き続けている。
こうして数前年の文明遺産をそっくりひきついだアラブ・イスラム文明は、当然、それが展開した西アジアから地中海、ヨーロッパにかけての場で、一種普遍的な文明として受け取られた。スペインやシチリアで直接この大文明に接触して、これを吸収した「ヨーロッパ人は、自分の採りいれている事柄のアジア的ないしイスラム的性格にはほとんど気づきもしなかった」。
そこでは宗教意識はおよそ大した役割を演ぜず、イスラム、ユダヤ、キリストの三教徒が平和に共存して、イベリア的要素と融けあった「イスパノ・アラブ文化」さえ形成され、それはヨーロッパへのイスラム文明流入の大きな門戸となった。
当時のヨーロッパ人は、「世界の三分の二近くがイスラム教徒のものだ」と思い込んでおり。「アラブ人の文化的浸透」は自明のことであったので、「アラブ・イスラム教徒に対する西欧人の態度は、本質的に、深い恐怖心と非常な讃嘆の念とがむすびついたものであった」
ところが11世紀ごろになって、北フランスあたりを中心に、西欧内部に新しいエネルギーが動き始めると、そのイスラム観はいささか位相を変える。「大国のなかにあって、人並みの権利を享受できない階級のそれに似ていなくもない」感情に転化するのである。「そういう無権利の階級同様、彼らは特権者集団にに対して自己を主張するたたかい」を始めると、ほかに拠るべきものがないので、「宗教に頼った」。
民衆レベルから起こった、サンチャゴ・デ・コンポステーラとエルサレムへの二つの巡礼運動がその先駆であり、…レコンキスタと十字軍という、イスラム世界に対する宗教的・大衆的・軍事的植民地運動が展開することになる。
それと並行して12世紀を中心に、アラビア語文献のラテン語への「大翻訳運動」が進行した(かつてのイスラム世界におけるギリシャ語文献のアラビア語翻訳運動と同じ性格)。要するに、「アラブの試み、アラブの思索と著作の全貌を知れば、アラブ人を抜きにしてヨーロッパの科学と哲学の発展がありえなかったことは明らかである」。
このことは当然、西欧人が「イスラム世界からみずからを区別して」、「自己を主張するたたかい」とは矛盾する。このアポリアを埋める心理的な補償は、二つに求められた。一つはアリストテレスなどの「古典的過去への控訴」であり、いま一つは、「ゆがめられたイスラム像」のバリケードである。
(これらは)ギリシャ、ローマを理想化する、ルネッサンスとして展開する。イスラム教はいつわりの暴力と放縦の宗教であり、ムハマンドは反キリストであるとする思想は、はるかに現代にまで尾を引いている。およそ神話的な虚構に立つ19世紀ヨーロッパ的世界史像の原型が、ここにこうして作られて行くのである。
以上が本書の構図である。
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