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第九章 結びー総合評価(抜粋)
≪喧伝された道徳上の欠陥≫
全ての世界的偉人の中で、ムハンマドほどひどく中傷されてきた者はいない。われわれはすでにいかにしてこうした事態が生じたかを見た。キリスト教国はその勢力が、イスラム教徒に比肩し得るその他の組織化された国家と直接の接触を持たなかったことから、イスラムは何世紀にも亘ってキリスト教国の大敵であった。ビザンチン帝国は、その最も肥沃な属領をアラビアに奪われた後も、引き続き小アジアで攻撃され、一方、西ヨーロッパはスペイン、シシリーを介在して脅かされた。十字軍が聖地からサラセン人の駆逐に注意を集中する以前から、中世西欧はすでに「大敵」の観念を作り上げていた。
十字軍遠征隊に流布していたイスラム教徒に関する観念は、12世紀頃まではそうしたひどいこじつけであった。その時以来、とりわけ過去二世紀において成し遂げられた成果は著しいものがあるが、旧来の偏見の多くは払拭されるものではない。
しかしながら、キリスト教徒とイスラム教徒の接触がかつてないほど緊密である現代世界では、ムハンマドの性格の客観的判断を一にすべく努力するのは焦眉の問題であある。
西欧の学者による彼の汚辱は、しばしばその他の西欧人、あるいはイスラム教徒による彼と言う人物の空想物語的理想化をその反動として伴って来た。人類のほぼ半数の相互関係に妥当する基盤は、汚辱でもなければ理想化でもない。
ムハンマドに対するありふれた喧伝の一つは、彼が自己の野望と色欲を満足させるために、自ら虚偽であると承知していた宗教的教義を広めた詐欺師であったということである。すでに論じられたことだが、そうした不誠実な行為はイスラムという宗教の発展を不可解なものにしてしまう(「英雄と英雄崇拝」が100年間大きな影響)。
誠実さなくしてどうして彼は、アブー・バクルやウマルのような強く義(ただ)しい精神を持った男たちの忠誠、果ては献身を得ることができたのだろうか。更にいかにして神は、イスラムのような大宗教が虚言と欺瞞に基いて発展するのを許し給うことができたでああろうかと疑問が生じる。このようにムハンマドが誠実であったとするには、有力な論拠がある。たとえ彼が何らかの点で誤っていたとしても、彼の誤りは故意の虚言、あるいは詐欺に帰因するものではなかった。
ムハンマドの道徳上の欠陥についてのその他の喧伝は、主として彼が道義心に欠け、肉欲的であったということである。しかし論議が尽くされ、喧伝が事実であることが確証されたわけではない。これらの喧伝はの論議は、根本的な「問い」を惹起する。
われわれはいかにムハンマドを評価すべきなのか。それは彼自身の時代と地域の水準によってなのか、あるいは今日の西欧における最も文明化された見解によってなのか。
資料を精しく考察してみると、現代の西欧で否認されるそれらムハンマドの行為は、同時代人によると「道徳上の」非難の対象でなかったことは明らかである。ザイナブとの結婚は近親相姦的であると考えられた。しかしこの近親相姦の概念は、そこでは子供の父性が明確には認知されない低い、原始共同体的水準に属する旧来の風習に結びついており、この低い水準はイスラムによって根絶の途上にあったものであった。
従ってムハンマドの時代の見地からは、道義心に欠けるとか、肉欲的であるとの喧伝は支持されよう筈がなかった。彼の同時代人は、いかなる意味においても彼に道徳上の欠陥があるとは考えていなかった。それどころか、現代人の西欧人によって非難された行為のあるもおのは、ムハンマドの水準が彼の時代よりも高かったことを示すものである。
彼は彼の時代における社会改革者であり、道徳の領域においてはなおさらそうであった。彼は社会保障の新しい組織と新しい家族構成を作り上げ、そのいずれもそれまで機能していた制度に基づく大改革であった。彼は、遊牧民の道徳律から最善のものを抽出し、それを定住社会に適応させることにより、数多くの民族の生活のための一つの宗教・社会上の系統的な原理をうち立てた。それは1人の不道義漢、あるいは「老いた好色家」の所業ではない。
この問題には最終的な答えはまだ与えられていない。これまでイスラム教徒によってなされてきたムハンマドに関する主張の擁護論は、予備的論述にすぎず、…外部世界に向けて彼らの主張を更に十全に提示する途は、今なお開かれている。イスラム教徒が、世界世論に影響を与えるという試みに、道徳、宗教というより広い領域においては、彼らは恐らく世界に貢献する何物かを持っているであろう。
キリスト教徒である西欧人に、ムハンマド(の理解で)成就されたのは、実質的には「ゼロ」である。
【出典】「ムハンマド〜預言者と政治家」モンゴメリー・ワット/みすず書房’02年
【著者略歴】
1909年スコットランド生まれ。エジンバラ大学に学び、のち同大神学部で教鞭を執る。『メッカにおけるムハンマド』(1956年)と『メジナにおけるムハンマド』(1961年)の二著は、彼の名をイスラム学会に不伐のものとした。
- 何が彼を偉人にしたのか〜預言者としての天賦の才、政治家としての才智、管理者としての手腕。人は彼の業績の巨大さに驚嘆させら 仁王像 2016/7/24 11:07:40
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