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現代日本の無宗教病はすでに病膏肓、治す方法はイスラムに入信するか、嫌ならせめて、「イスラムとは何か」を本気になって研究し
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/338.html
投稿者 仁王像 日時 2016 年 1 月 14 日 20:25:01: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
 

(回答先: これからの時代は宗教の理解なくして、世界は理解できない。カギは宗教にある。イスラムを理解すれば、世界が分かる/小室直樹 投稿者 仁王像 日時 2016 年 1 月 13 日 20:03:20)

第一節 アッラーは「規範」を与えたもうた
≪現代日本の病根は「無宗教病」にあり≫
 イスラムを知る者は祝福される。
 世界の宗教を理解するからである。
 世界そのものを知るからである。
 世界の人々は、誰しも宗教によって行いが決まる。宗教が違えば、当然、行いも違ってくる。
 しかし、「宗教が違っても人間はみな同じである」と思い込んでいるのが日本人で、「宗教が違えば、エトス(行動様式)が違う」という“世界の常識”が、どうしても理解できない。
 振り返ってみれば、無宗教こそ現代日本の宿痾に他ならない。
 そもそも西洋を起源とする資本主義やデモクラシー、近代法はすべてキリスト教に深く根ざしている。その根底には、キリスト教の論理がある。

≪すべてのカギは、イスラムにあり≫
 現代日本の無宗教病はすでに病膏肓に入り、死に至るほどの重病となっている。
 この病をどうにかして治す方法はないか。あるにはある。答えは、
 イスラムに入信しなさい。これである。(入信が嫌なら)せめて、「イスラムとは何か」を本気になって研究してみてください。
 この地球上に宗教はさまざまあれど、イスラム教ほど宗教らしい宗教はない。宗教の模範と言っても、けっして褒めすぎではない。
 無宗教病の日本人が、宗教の本質を理解しようと思えば、イスラム教ほど好個の材料はないのである。
 そもそも、イスラムは一神教として先行するユダヤ教、キリスト教の中にある不合理な欠点を徹底的に研究して生まれた宗教なのだから、その教理は実によく整理されていて、きわめて合理的である。したがって、その内部論理は宗教オンチの日本人にとっても、非常に理解しやすいのである。
 キリスト教というのは、非常に特殊な宗教であって、内村鑑三でさえ、「奇態な教義」と表現したほど、キリスト教の教理を理解するのは至難の業(わざ)だ。
何しろ、現代においてもイスラム教は、世界中で最高速で信徒の数を増やしているのである(現時点で12億人、世界人口の1/5)。
実際、アメリカでも「ブラック・ムスリム」と呼ばれる黒人イスラム教徒を中心に、およそ600万〜800万の信者がいると言われ、その数は年を逐(お)うごとに増えている(中国新疆ウィグルや旧ソ連内にも無数のムスリム)。

≪史上空前の大帝国、現れる≫
 アラビア人という言葉には、世界征服者という栄光が輝いている。イスラムは絶頂期のローマ帝国をも凌ぐ大帝国を作りあげた。…まさに、これは世界史上の大奇観。
 アラブ人の作った帝国の真に驚くべきことは征服地の人々をイスラム化、アラブ化した点にあった。これこそ世界史において空前絶後の大偉業と言ってもいい。
 しかるにムスリムたちは、武力によって宗教を押しつけたのでもない。「宗教には無理強いは禁物」(コーラン)の教えのとおり、イスラムは軍事力で占領はしても、宗教を強制することはしなかった。占領地の人々が改宗したには、すべて自発性に基づくものである。
 驚くべし、このイスラム教の拡大。東南アジアや中央アジア、中国、さらにアフリカ大陸での布教は、すべて平和的に行われた。
 キリスト教徒がいいふらした「コーランか、剣か」は、まったくの嘘八百である。

≪「マホメット教」と呼ぶとムスリムが眉をひそめる理由≫
 コーランの原著者」はマホメットではなく、本当の著者はアッラー、すなわち神である。正確に言えば、アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに伝えた言葉をまとめたのがコーランである。だからコーランにはマホメット自身の言葉は片言隻句も記載されていない。
 マホメットの言行は、「スンナ」という書物にまとめられている。ムスリムにとって、スンナは重要な書物ではあるのだが、宗教上の啓典ではない。というのはキリストと違ってマホメットは、神や神の子ではない。マホメットは単なる人間である。この点において、イスラム教は非常に明快である。
 大天使ガブリエルは、あえてアラビア語でマホメットに語りかけた。ここがポイントである。それゆえ、コーランを読誦するときには、必ずアラビア語でなければならない。アラビア語以外のコーランは、もはやコーランではなくなるのである。
 だから、イスラム教では翻訳のコーランを認めない。非アラビア語圏のイスラム教徒にしても、アラビア語がペラペラというわけではない。要は、コーランをなんとか読誦できれば充分なのである。アラビア語を学ぶといっても、それほどハードルは高くない。

≪二大宗教の決定的な違い≫
 共通点が多い二つの宗教だが、決定的に違うところが一つある。その答えは規範の存在である。
 キリスト教には、この規範がまったく存在しない。これに対してイスラム教は規範だらけ。規範なくしては、イスラム教ではない。

≪規範は「目に見える行動」だけを対象にする≫
 キリスト教には規範がない。これに間違いはない。イスラム教の規範は、あくまで人間の外面的行動に限られる。外面的行動でなければ、命令を破ったか破らなかったかが測定できないからである。
 イスラム教の信者には、基本的な義務として「六信五行」というものが課せられている。六つのこと(神アッラー、天使マラク、啓典キターフ、預言者ナビー、来世アーキラット、天命カダル)を信じ、五つの行い(信仰告白シャタハ、礼拝サラート、喜捨ザカート、断食サウム、巡礼ハッジー断食と巡礼には例外規定有り)をなせ。これを守らなければ、イスラム教を信じたことにはならないのである。

≪「宗教の法」が「社会の法」となるイスラム世界≫
≪「イスラム共同体」は国籍や人種、身分までも超越する≫
≪「イスラムの連帯」を作り出す巡礼と断食≫
≪キリスト教は規範を完全否定して生まれた!≫

≪律法破りをあえて行ったイエス≫
 イエスがエルサレムの地でその教えを説きはじめたわけだが、その教えはまさにユダヤ教の律法と対立するものであった。
≪日本人は“規範嫌い”≫
 冒頭の設問、「なぜイスラム教が、日本には入らなかったか」という大問題。
その答え。日本人とは本来、規範が大嫌いな民族なのである。日本人は無規範民族なのである。…
 重ねて言うが、日本ほど宗教における規範を拒否する民族は、世界中に見当たらない。この事実を自覚し、認めないかぎり、イスラム教を理解するなんて何千年、何万年かかっても無理な話なのだ。

【出典】同前から抜粋」  

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コメント
 
1. 2016年1月14日 20:45:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[876]
>無宗教こそ現代日本の宿痾に他ならない。


このアホ全然わかってないな(呆れ)

日本人は世界で最も信心深い民族さ

日本人の信じている宗教は自然神道
(日本の仏教も、本来の仏教では絶対にやらない葬式や彼岸の儀式を自然神道から引き継いだ神道の変化形だからね)

自然神道の教えは 周囲の空気を読む事と和を尊ぶこと、物を大切にする事



2. 2016年1月14日 20:48:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[877]
イスラム教に一番近いのはこれ:

新興宗教「神の子どもたち」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/181.html


3. 2016年1月14日 21:03:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[878]

狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html

4. 晴れ間[944] kLCC6orU 2016年1月14日 22:52:27 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[66]

> そもそも西洋を起源とする資本主義やデモクラシー、近代法はすべてキリスト教に深く根ざしている。その根底には、キリスト教の論理がある。

⇒ まれに見る珍説。「キリスト教の論理」って、何? 資本主義の発生は、宗教とは関係ない。まあ、資本主義的な生産関係が一般化するよりもずっと前に、重商主義の段階で富の蓄積と(北部ヨーロッパへの) 投資を行った者たち(特に南欧の王侯貴族) がキリスト教徒であったという事実はある。しかし「キリスト教徒」だから「投資」に興味があったわけではないだろう。単に富を持ちすぎていただけ。「宣教熱」と「投資」は別次元。
⇒ 「民主主義」は、キリスト教以前の古代ギリシャに端を発する。「近代法」もローマ法(法治主義) が源流。
⇒ ただし、「社会主義」にはキリスト教の影響がある、と私は見ている。(未証明。あまり興味ないので、追求する意思はない。)
⇒ キリスト教の本質は、「神と個人の直接対話」。そこから発する「個人主義」。しかし資本主義が発達するにつれて、生産力が高まるにつれて、宗教離れが進んだ。


5. 晴れ間[945] kLCC6orU 2016年1月14日 23:07:36 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[67]

>何しろ、現代においてもイスラム教は、世界中で最高速で信徒の数を増やしているのである(現時点で12億人、世界人口の1/5)。
> しかるにムスリムたちは、武力によって宗教を押しつけたのでもない。「宗教には無理強いは禁物」(コーラン)の教えのとおり、イスラムは軍事力で占領はしても、宗教を強制することはしなかった。占領地の人々が改宗したには、すべて自発性に基づくものである。


⇒「占領地の人々が改宗したには、すべて自発性に基づくものである」というのは、真っ赤な嘘。それはムスリムが書いた「正史」だろう。「正史」を鵜呑みにするのは、愚民と素人だけ。


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【別スレへの私のコメント】
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/336.html#c3

> イスラム教が沖天の勢いで広まっていったのは、まさに当然すぎるほど当然のことであった。
⇒ 今のISのようなやり方をしてたんだね。中川隆さんのハリコ通り。預言者ムハンマドの伝記がそのことを証明している。「ジハード」(「聖戦」などと訳すからごまかされる) という名の略奪戦争。戦闘で他部族の男を皆殺しにし、土地と家畜を奪い、生け捕りにした女たちを「戦利品」として分配。一人当たり4人の「妻」がもらえ、残りの女たちは「性奴隷」として数に制限なし。(私は伝記そのものは読んでいないが、それについて書かれている本なら少し読んだ。)
⇒ 決して「徳による支配」ではない。まさに「恐怖による支配」。恐怖を感じないためには、自分では考えず、命じられる通りに盲目的に従うこと。そうするとハッピーになれる。


6. 晴れ間[946] kLCC6orU 2016年1月14日 23:38:46 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[68]
> マホメットは単なる人間である。この点において、イスラム教は非常に明快である。
⇒ 預言者ムハンマドが「単なる人間」なら、風刺画を書かれたくらいで、ムスリムはなぜいきり立つ?


> 大天使ガブリエルは、あえてアラビア語でマホメットに語りかけた。ここがポイントである。ここがポイントである。それゆえ、コーランを読誦するときには、必ずアラビア語でなければならない。アラビア語以外のコーランは、もはやコーランではなくなるのである。
> だから、イスラム教では翻訳のコーランを認めない。非アラビア語圏のイスラム教徒にしても、アラビア語がペラペラというわけではない。要は、コーランをなんとか読誦できれば充分なのである。アラビア語を学ぶといっても、それほどハードルは高くない。
⇒ バカではないか? 

> 「要は、コーランをなんとか読誦できれば充分なのである。アラビア語を学ぶといっても、それほどハードルは高くない。」
⇒ アラブ語は、口語と文語が非常に異なると聞く。コーランは人間が書いたとは思えないほど「美しい詩文」だと聞く。(人から聞いただけで、私が直接知っているわけではない。) アラブ語は難しいから止めとけ、と(アラブ人は) 皆言う。7世紀のアラブ語が現代人に容易に理解できるわけではなかろう。意味は分からなくとも、ただ唱えればよいのか? 歌うように朗唱できれば、それでいいのか? 門前の小僧たれ、ということか? 不真面目にもほどがある。


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「規範、規範」と言うが、(ジハードという)「殺戮」を肯定する宗教が、他にあるか? 異教徒や不信心者は殺せ、というのがジハードだ。まさに「死の宗教」だ。だから、現代のイスラム過激派は、自爆テロなどをやって、喜んで死んでいるのだ。これに「異常さ」を感じないのは、カルト脳の持ち主だけだ。


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しかし、この小室直樹なる人物の書いていることは、実にくだらない。
仁王像さんは、遊んでいるの? 遊ぶなら、もう少し良質の材料を使ったら?


7. 中川隆[1539] koaQ7Jey 2016年2月16日 14:28:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1422]

日本人はなぜ無宗教なのか? -「日本人に『宗教』は要らない」書評
http://liliki2.seesaa.net/article/420075965.html


海外に行くと、「宗教」について考えさせられる機会が増えます。

インドではヒンズー教の信仰が人々の生活に根づいているし、ヨーロッパではキリスト教の美しい教会が、中東では髪の毛を覆ったイスラム教徒の女性が目につきます。


日本には多くの神社やお寺がありますが、特定の宗教を信じている人は少ないですよね。お正月には神社へ初詣に行き、クリスマス(=イエス・キリストの誕生日)も盛大にお祝いして、お葬式は仏教式でやる…外国人からみたら、いろんな宗教がごちゃまぜ状態です。


なぜ日本人の多くは、特定の宗教を信仰していないのでしょうか?

「日本人に「宗教」は要らない」という本にその答えが書かれていました。

日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書) 新書 – 2014/2/8
ネルケ無方 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4584124329/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4584124329&linkCode=as2&tag=asyuracom-22

著者はネルケ無方さん。以前、

「日本で出家したドイツ人僧侶の『ここがヘンだよ!日本の仏教』」
http://liliki2.seesaa.net/article/416606609.html


と言う記事で紹介したドイツ出身のお坊さんです。


本著では、元キリスト教徒であり、現在は曹洞宗の住職として活動するネルケさんが、欧米人と日本人の宗教観の違いについて語っています。以下、本の中から特に印象に残った部分を紹介します。

「日本人に『宗教』は要らない」書評 目次


1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか
2、なぜドイツ人は空気を読まないのか
3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い


1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか


なぜ日本人は「宗教」に無関心なのか?それは、日本人が無意識に宗教的な生き方を実践しているからだと著者は語ります。

日々の生活を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する…そんな生き方こそ宗教の説く生き方であり、日本人は昔からそれを実践してきたといいます。

『宗教心に篤いと言われるキリスト教やイスラム教の国々では、宗教間の争いが絶えません。たとえ現在、紛争のない地域でも、治安が良くありません。社会秩序が乱れているからこそ、人々の宗教への関心が高いのでしょう。日本のような安定した社会、争いごとの少ない社会は、世界の中でも珍しいのです。
(中略)

日常生活の中に、仏教や神道の教えが根付いているからこそ、日本人は宗教に無関心だったのではないでしょうか。日本人は、宗教を考える必要がなかったのです。』


「宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない」と著者は語ります。みんなが当たり前と思っていることは、わざわざ問題にする必要もないのです。宗教心が自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要もありません。

『しかし、日本でも最近、「絆が大事」「思いやりの心を持とう」と言われるようになった。そう言われなければならない状況こそ、私は問題だと思う。日本人は本来、そういう言葉を口にする必要もなかったのではないだろうか。』


確かに「絆」や「思いやりの心」といった単語をよく耳にするようになりました。それだけ、「心のつながり」を身近に感じられていない人が増えたのかもしれません。著者はだからこそ日本の仏教界が、変わらなければならないと言います。

『日常生活の中で禅の教えを実践し、宗教心を持って暮らしているのが日本人であるが、その日常から抜け落ちたときが危ないのではないか。

日常から抜け落ちた人たちと苦悩をともにする。日本の仏教界がその役割を担うために動き出すときではないだろうか。』


葬式仏教に甘んじているのではなく、悩める人々を救う場を作ることこそ、今求められているお寺の役割なのかもしれません。


2、なぜドイツ人は空気を読まないのか


日本人は、空気を読むのが上手です。周りに合わせて、人とシンクロする性質があるからです。

でも、欧米にはこの「空気を読む」という概念がないそうです。


『ドイツ人には、そもそも空気を読むという概念はない。なぜ他人とシンクロしなければいけないのか。ドイツ人には、なかなか理解できない。』


子どもの頃から自分を主張しなさいと教わる欧米人と、自己主張しないようにと教わる日本人。「嫌われたくない」という思いが強い日本人は、リーダーシップを取るのも苦手です。

『日本の総理大臣は、みなの意見を聞き、みなが納得できるよう調整する。しかしそれは、欧米の感覚ではリーダーの役割ではない。「嫌われても自分の主張を通すのがリーダーの役割だ」と考えるのが欧米人だ。』


選挙でも、日本人は一匹狼より調整する人を好んで投票します。逆に欧米では、一匹狼的な人のほうが格好いいとされ、票が集まるそうです。

『しかし、欧米のように個が強すぎるのも問題だ。一匹狼を重んじ、他人はみな敵だとする西洋文化では、たくましくなければ生きていけない。他者を思いやる余裕がなくなり、争い事が多くなりがちである。』


確かに、欧米は自己主張しなきゃいけない社会なので、少し疲れます。だから海外から帰ってくると、思いやりがあって、優しい気配りのできる日本人に感動します。(まぁ、欧米のドライ&自由な雰囲気も嫌いじゃないですが…^^)


3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い


日本ではよく「亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんが、天国からわたしたちを見守ってくれている」なんて言葉を聞きますが、キリスト教徒にはこういった感覚がないそうです。

自分を見ているのは神であるイエス・キリスト、あるいはマリアであってご先祖様ではない、というのが彼らの主張です。イエス・キリストを信じていれば、死後天国に行け、信じなければ地獄に落ちると信じているのです。


『キリスト教では、生まれてきた理由に関しては、あまり記述がない。いきなり生まれてきて、70〜80歳の人生があり、死ぬと天国か地獄へ行く。そして、世界の終末には最後の審判があり、なぜか全員復活する。そこで、永遠の命を得るか、地獄で苦しみ続けるかが決まる。』

日本ではお墓参りが習慣化され、大切にされていますが、ドイツ人はほとんどお墓参りに行かないそうです。

『通常、寿命を全うした歳で亡くなったとしたら、墓参りに行くことはほとんどない。「墓は故人の遺灰や遺体を埋めるところであって、その場所に特別な意味はない」とドイツ人は思ってしまう。もちろん、亡くなった親族のことは心の中で思い浮かべたりするが、わざわざ墓に行って何かをするという発想はない。』


そのため、墓地の場所を忘れてしまっている人も多いそうです。また、欧米では日本のように墓地を忌み嫌う感覚がありません。緑あふれる広大な墓地は、デートスポットの定番でもあるんだとか。墓地でデートなんて…日本ではちょっと考えられないですね!^^


最後に


その他にも、

・お寺と教会における集金システムの違い
・日本で「キリスト教」が広まらなかった本当の理由
・なぜ欧米人の父親は子どもの扱いが下手なのか?

など興味深い内容が多かったです。


また最後の方に出てくる、日常生活に役立つ「禅」の教えや、どうしたら幸せになれるのか、などのお話も面白いです。よかったら、ぜひご一読ください♪
 ↓


「日本人に「宗教」は要らない」


8. 中川隆[1549] koaQ7Jey 2016年2月17日 20:59:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1444]

神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教です.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる.

神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしたもの.


日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物なのですね.

仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.

それはキリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからなのです.


自然神道とは


これが弥生人の神道
 
古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」と呼びました。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのです。病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していました。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのです。

 「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きです(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違いますが、生命エネルギーの活性化という意味では同じです)。神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのです。

 「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法です。そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのです
http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045056.html

人里に近い山を「葉山」といい、亡者の霊がしばし山中に留まり、この世への執着を絶った後に祖霊となり、やがて里を訪れて子孫に福をもたらしてくれる、という葉山信仰が東北に多く、恐山もその一つだ、といいます。
http://www.kurikomanosato.jp/to-r07simokita.htm


「人が死ねば肉体は滅びても、その霊は祖霊として永遠不滅な一種の生命体となって蘇生復活し、高い山に上って住み、山上から麓の子孫を守ってくれる」と信じられていました。この我が国固有の信仰は、すでに「古事記」にも見られ、永年にわたって脈々と受け継がれてきたのです。

 古来、子孫の生活の中で最も重要なことは「稲作」であり、祖霊なる「ハヤマの神」は、春4月8日ごろ「田の神」とになって田に降りて、子孫の農耕を助け、秋の収穫が終わると、家族と新穀を共食し、10月8日ごろ再び山に帰って休むと信じられていました。

したがって、「ハヤマ」のある場所は、田の見える端の山でなければなりません。もっとも、祖霊の住まう山は「ハヤマ」の冠を持つとは限らず、山形県や秋田県の「モリノヤマ」などは、「ハヤマ」に相当する山です。
http://www.geocities.jp/hayama1462m/hayama-history.htm


これが縄文人の神道  

上の稲作云々の部分は弥生時代以降に変わった部分で本来の神道は:

アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


9. 中川隆[1550] koaQ7Jey 2016年2月17日 21:05:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1445]

日本の仏教は本当の仏教ではない


世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。 それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。 生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。

 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。

 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html

スッタ・ニパータは釈迦の本当の教えなのか?

仏教学を学ぶ者にとって、釈迦が、神の存在や霊魂の不滅性の是非を説かなかったことは、初歩中の初歩であるのだろう。そして、多くの仏教本には、釈迦は、人間にとって知ることのできない形而上学的諸問題については、それを問うても解答の出ないものであり、釈迦は、それらをことごとく捨て去ったと書かれている。(無記説)

ところで、最古の経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「無執着説」を説きながら、一方では、「輪廻からの解脱」ということを言う。最初から、霊魂の不死性を肯定も否定もしなかった仏陀が、一体、何故に、再び「輪廻」という言葉を持ち出してくるのだろうか?

これらのことは、『スッタ・ニパータ』を読んだときから、どうしても、私の頭から離れなかった疑問点であった。そして、もともと、本経典は、別々の時代に書かれた別の経典から編集されたものであり、全く別のものとして仏教を誤解釈した釈迦弟子が、仏陀の言葉として書き記したものであるのだろうか?

あるいは、釈迦は最初から輪廻を信じていて、これらは、何かの点によって繋がっているものであるのだろうか? それとも、それらはナーガールジュナ(龍樹)が言うような「勝義諦」と「世俗諦」なのだろうか?

実を言うと、先日、由緒ある曹洞宗のお寺に、日本を代表する仏教学者である奈良康明先生の講演会があり、話が終わった後に、個人的に、これらの質問をもって行ったところ、お寺の奥にあった小部屋に、先生から直々に案内され、一対一で、先生からの、これらに関する解答を頂いたのでした。


『釈迦は無我説を説き、霊魂の不滅性は説かなかった。

しかし、当時の一般民衆のほとんどが輪廻思想を信じていて、釈迦は霊魂の不滅性を否定はしなかった。霊魂の不滅性を否定したなら、托鉢で飯も食えなくなっただろうし、それを信じる者には、その道で行きなさい、といった感じだった。

だから、スッタ・ニパータのは矛盾はない。』


その日の夜に、仕事が終わった後に、スリランカ出身の友人B氏と、これらについて、さらに深い部分にまで及んで話し合ったところ、まったく別の説が浮かび上がってきた。

その彼の説はこうである。

『当時のインドでは、ほとんどの人が輪廻を信じていて、釈迦は輪廻からの解脱に挑んだ。その到達点は梵我一如のそれと同じであり、ニルヴァーナに至った釈迦には輪廻それ自体が無くなってしまった。

それゆえに、神(ブラフマン)の領域にまで達した釈迦にとってはアートマンは輪廻することが無くなったために、霊魂は不滅ではなくなった。』


しかし、B氏の説はバラモン教や梵我一如とその到達点ばかりではなく、それに至る道までもが同じではないのか?

一体、釈迦の仏教は梵我一如であったのだろうか?

いや、そんなはずはないだろう。釈迦の仏教が梵我一如の達人であったのなら、仏教は仏教である意味は喪失してしまうことになるのだろう。

私は、仏教のニルヴァーナの境地とバラモン教の境地とは、同一のものであることはB氏の意見と一致するが、釈迦の山頂に登る手法は、梵我一如のそれとは異なっていたのではないのかと思っている。

そして、「釈迦は霊魂の不滅説を説かなかった(否定も肯定もしなかったという意味)。

しかし、当時、霊魂の不滅性を信じる多くの一般民衆に対しては、霊魂の不滅性を否定はしなかった。」

という奈良先生の説に、私は賛同している。

もしかしたら、修行のレベルに合わせて釈迦は説法をされたのであろう。(対機説法)
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/47870614.html


(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)


ヴァッチャは、さらに、尋ねて聞いた。

「世尊よ、では、執着を離れて解脱した者は、いずこにおもむいて生れるのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれるというのは、適当ではない。」

「では、どこにもおもむいては生まれぬというのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれぬというのも、適当ではない。」

「世尊よ、それでは、わたしはまったくわからなくなってしまった。以前に世尊と対座問答することによって、わたしの得た深い確信すらも、すっかり消えうせてしまった。」

すると世尊は、彼のために、このように説明せられた。

「ヴァッチャよ、なんじがまったく解らなくなったというのは、当然であろう。ヴァッチャよ、この教えは、はなはだ深く、知りがたく、すぐれて微妙であって、智慧あるもののみが知りうるところのものである。他の見解にしたがっている者や、他の行をしている者には、とうてい知られがたいものであろう。

だが、ヴァッチャよ、わたしはさらに、なんじのために説こう。いまわたしが、なんじに問うから、思いのままに答えるがよい。

ヴァッチャよ、もしなんじの前に、火が燃えているとしたならば、なんじは、火が燃えている、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、なんじは何と答えるか。」

「それは、この火は、薪があるから燃えるのだと、わたしは答える。」

「では、もしなんじの前で、その火が消えたならば、なんじは、火は消えた、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、なんじはいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。

「ヴァッチャよ、まったくその通りである。そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・

そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」

(同上、増谷文雄訳)


ヴァッチャは、古代インド人の常識として当然のごとく、バラモン教・ヒンズー教・俗信の伝統にしたがって、執着を離れて解脱したものはどこか善いところ赴いて生まれると思い込んでいたのです。

そのために、ブッダにつまずいてしまったわけです。

ブッダの思想には、どこかに赴いて生まれる(赴いて生まれない)とか、よい世界に生まれ変わる(生まれ変わらない)とかいうような問いは、「いままで燃えていた火はどこに行ったのか」と問うことがまったく見当違いの問いであるように、まったく見当違いの問いだったからです。

ブッダは、比喩を用いて、火が消えるのはただ薪が燃え尽きたから消えたにすぎないのであって、火がどこか別の世界に赴いて行ったのではない、というのです。ヴァッチャは、これを聞いてブッダの意味するところを理解することができ、ブッダに帰依します。

ブッダは「人は悟って天国に帰る」などとは説きませんでした。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html

ゴータマ・ブッダは紀元前500〜400年頃に生まれ80年間生きた。 研究者の間で生年に100年程の誤差あるが、もともとインドには正確な年代を記する習慣はなかったから、 むしろ100年程度の誤差ですんでいることは驚きでもあるといわれている。
 ゴータマ・ブッダは「仏教」の創始者ということになるのかもしれないが、ブッダ は、 自分が教祖となり〈「仏教」という宗教〉を興すことを意図してはいない。 彼の言葉には、宗教一般に見られる「教義」を見い出すことはできない。 むしろ「私にはこのことを説くということがない」(スッタニパータ)という言葉が示すように〈概念や教義の構築〉とは 反対の方向を目指している。
 ブッダの死後、弟子達によってブッダの言葉がまとめられた。さらに時代の流れと共にその当時の社会環境やほかの宗教、思想の影響を受け、変化してきたが、発祥の地インドでは13世紀に仏教は衰退した。仏教の外国への伝播には中国への北伝と南アジアに広がった南伝とがある。日本では北伝により仏教が入り各宗派が確立した。
 何を指して「仏教」というのか、議論されるところであるが、紀元前後にぼっ興した新しい仏教(大乗仏教)は『スッタニパータ』に比べ、時空間の拡がりやお経の規模の拡大などが目につく。その内容に目を通 すと、『スッタニパータ』の内容をそのまま増幅させたようなものもあるし、異なる部分もある。概念的に要約され、隠れてしまったこともある。私達がすでにもっている仏教についての知識を一旦取り払い『スッタニパータ』を読み直してみると、そこには、2500年の間に忘れられていた智慧があることが分かる。(2004.6.18改訂)
 もともとブッダは何を語ったのか、その時代に一番近い仏典とは何であるのか? 最近の研究では、もともとブッダが弟子達にしゃべったのはマガタ語で、それが口伝で残され、紀元前一世紀頃、パーリ語に置き換えられといわれている。パーリ語は南伝において口伝で流布したのであるが、19世紀、イギリスでローマ字表記にあらためられたパーリ語聖典(PTS:Pali Text Society)が、刊行された。それは今日でも研究者によく読まれている。そのパーリ語聖典の中で、古層にあたるといわれるものに『スッタニパータ』、『ダンマパダ』、『サンユッタニカーヤ』がある。中でも『スッタニパータ』の第四章、第五章は特に古いといわれている。
 詳しくは中村元博士が『ブッダのことば』(岩波書店発行)の後に、解説されているので、興味のある方はお読みください。 最後になったが、『スッタニパータ』はパーリ語のsutta-nipataをカタカナ表示にしたものである。suttaは「お経」、nipataは「集まり」だから、「経集」という程の意味になる。
 私たちは、たかがこの30年だけを取り上げても、多くを学んで来た。その中で重要なことの一つに次のことがある。どれほど優れた論理体系でありイデオロギーであっても、「私たちのこころ」は、論理を構成する言葉の枠に入ることをよしとはしないことだ。論理体系だけでは、自分のこころは何も解決され得ないことに気がついてきた。 
  この2500年も前のブッダの言葉(『スッタニパータ』)にはそれらを解く道筋がある。(2009.4.14改訂)
http://www.yamaji-kan.com/about.html


釈尊について知っておくべき基本的前提は、釈尊が確かにこの通りしゃべったといえる言葉は残念ながら一つも残っていないということです。 大乗経典はもちろんのこと、最初期の経典にもそれを見つけるのは困難です。

 しかし、釈尊がしゃべった言葉にかなり近いだろういわれているものはあって、スッタニパータ(『ブッダのことば』岩波文庫)やダンマパダ(『真理のことば/感興のことば』同)の中の言葉がそれにあたります。
その中でも、スッタニパータの「八つの詩句の章」と「彼岸に至る道の章」をまず読まれることをおすすめします。そこには、仏教の基本的教えとされる「諸行無常」も「諸法無我」も出てきませんし、菩提樹の下で瞑想し自己と宇宙に関する究極的真理を体得したとかいった神話もありません。

それらは釈尊よりはるかに後の人が釈尊の教えを整理した言葉、あるいは、釈尊の教えを宣伝するために作った物語なのですから当然ですが、とりあえずそういうものをいったん忘れて釈尊の言葉を読む必要があると思います。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html


釈迦は輪廻や死後の世界や神の存在を完全に否定していた。

しかし、釈迦は当時の霊魂や死後の世界を信じている一般人には真実は言わず対機説法だけをした。

スッタニパータやダンマパダの釈迦の言葉が矛盾するのは真実と対機説法が混在しているから。

ダンマパダ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/737.html
スッタニパータ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/736.html

ブッダ最後の旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/738.html

対機説法の目的


スッタニパータ 第二章 小なるもの 第一経 宝

227  正しくある者たちに賞賛された、これら四組の者たち八人(四双八輩:正覚に至る四階梯の各々において学びつつある者と学び終えた者の計八人)が〔世に〕有るなら、彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。

これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。これもまた、僧団(サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html


ここで布施を受けるのは、貧しい人々ではなく、バラモンの生活法に則って、家住期を終え、家庭を離れて遍歴修行する遊行者、あるいは祭祀を行うバラモンのことである。
 
ゴータマとその弟子たちもまた、住居と生業をもたない遍歴の修行者であった。 かれらも生存していくためにやはり在家から食を乞わねばならない。 

 そのとき、布施の功徳を問われれば、先のマーガとの問答にあるように、祭祀さえも認めることがあったのだろう。 後の経典は、動物供犠を除けば邪盛会でさえ、肯定されているのである
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/comp5.html


要するに上記227節の意味は、

釈迦の弟子は特別な存在だから、もっと金を出せ

という事ですね。そしてこれこそが仏教における釈迦崇拝の背景でしょう。


スッタニパータを書いた目的も

善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。

というのを一般の人に納得させる事なんですね.

要するに,我々偉大なる釈迦の弟子にもっと金を出せ という事です.

輪廻転生や死後の世界を素朴に信じている無知蒙昧な一般人に大金を出させるには,釈迦の弟子が特別な選ばれた人間であると思わせなければならないですからね.

ブッダというのは目覚めた者という意味で単なる人間にしか過ぎない。

さらに、部派仏教の段階で釈迦の教えは既に大幅に修正されていたので、釈迦の言説は100年後には既に真理だとは思われていなかったですからね。

悟った人間は阿羅漢と言われて、本来はその全員が釈迦と同格ですね。釈迦から阿羅漢に認定された弟子は当時、何千人も居たので、釈迦が特別な人間という訳ではないのです。


釈迦が何故神格化されたかと言うと、無知蒙昧な一般人にお布施を出させるには,釈迦が神で、その弟子も特別な選ばれた人間であると思わせなければならないからでしょう。

坊さんも水を飲んで霞を食べて生きている訳じゃないですからね.

ハッタリも方便

要するに、僧侶にとって宗教は,職業として生活の為にやっているものなので,釈迦の本当の教えなんかどうでもいいという事なんでしょうね.

釈迦の悟りというのは、輪廻転生とか霊界・死後の世界と言われているものが、実際には人間の無意識の中で生起している現象に過ぎないという事に気付いた事なのです。神や悪魔というのも人間の心の中にしか存在しない、そういう事がわかったという事です。

俗に死後の世界とか霊界とか言われているのは心理学の言葉で言えば無意識の事です。人間が死ねば脳が溶けて、意識も無意識も一緒に消えてしまいます。従って、極楽も地獄も人間の死と共に消えてなくなるのですね。

輪廻転生というのも生きている人間の脳内で生じる virtual な経験なんです。そして、その事に気付いたのが釈迦の悟りですね。

ウパニシャッドにおいては、ブラフマン・アートマンが実在する事が真実だったんですね。アートマンというのは人間の魂なので、魂が実在すれば、肉体が滅びてもまた生まれ変わってくるという輪廻の考え方になってしまうのですね。

しかし、輪廻は当時のカースト制を維持する為に悪用されていた考え方なんです。

低いカーストの人間は前世で悪行をした報いだから、上のカーストの人には逆らわず、文句を言わず、がまんして苦しい労働に耐え、来世で高いカーストに生まれ変わる様に努力しなさいという上の人間に都合のいい考え方を押し付けていたのですね。

しかし、釈迦はカーストというのはアーリア人がドラビダ人を征服したから生じたもので、人間の価値とは関係ないとわかっていたんです。

それでカースト制を支えている輪廻転生、アートマンの存在を否定する考え方を探し求めたんです。

そしてその答えとして


アートマンは存在しない(無我説)

生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。


を思いついたのです。

釈迦の悟りというのはこの無我説を実際の瞑想体験で確認するという事ですね。

神や悪魔や地獄の様な悩みの元になるものは普遍的無意識の浅い層にあるもので、そこからさらに深い所まで下りて行けば普遍的無意識の深い層(涅槃・空の世界)が広がっている。

従って、魂や死後の世界というのは幻影で、涅槃の世界からすべてを見る事ができる様になれば、苦しみもなくなるというのが釈迦の教えです。


ブッダというのは目覚めたる人間という意味ですが、目覚めるというのは魂や死後の世界というのが幻影だと悟るという意味なのですね。


仏教史を整理すると


@ 釈迦は輪廻転生や死後の世界が深層心理に基づく virtual なものだというのに気付いた。


A しかし、当時の人は魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じていたから、真理をそのまま教えたらパトロンの王侯貴族からお布施が貰えなくなる。


B それで、対機説法というのを考えて、魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じている一般人には真理を伝えないで誤魔化す事にした。


C 釈迦の弟子もお布施が貰えなくなると困るから、釈迦の対機説法を釈迦の教えとして仏典をまとめた。 スッタニパータで釈迦が否定した筈の天界や輪廻転生が語られるのにはそういう事情があった。


D 部派仏教で人間の心の深層の研究が進むにつれ、ブラフマン・アートマンが実在する事が確認され、釈迦の無我論をそのままの形で継承するのが不可能となった。


E 大乗仏教になると、釈迦の対機説法を当時の一般民衆に人気のあったヒンドゥー教に置き変えて、宗教ビジネスとして完成させた。 大乗仏教の空というのは本質的にはブラフマン・アートマンと同じものを指している。 その結果、大乗仏教での悟りも釈迦の悟りではなく、バラモン教・ヒンドゥー教の悟り、即ち梵我一如と輪廻転生からの解脱と本質的には変わらなくなってしまった。


F 日本に渡来した大乗仏教ではさらに、仏教の外見だけ残して中身を完全に自然神道に置き変えて、それまで村の古老がやっていた儀式を殆ど引き継いだ。 日本のお坊さんが本来の仏教では絶対にやらない筈の葬式やお盆で稼いでいるのはこういう事情なのです。


纏めると

インド仏教は外観だけ釈迦の教えに見せ掛けているが、中身はバラモン教・ヒンドゥー教に置き換えた。

中国仏教は外観だけインド仏教に見せ掛けているが、中身は道教に置き換えた。

日本仏教は外観だけ中国仏教に見せ掛けているが、中身は自然神道に置き換えた。


10. 中川隆[1551] koaQ7Jey 2016年2月17日 21:08:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1446]

仏教については


インド大好き _ 信心深い人々が暮らす理想の社会とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/678.html

インド人とは何か?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/680.html

言う事を聞かない生意気な女はアシッド・アタックで懲らしめてやろう
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/831.html

釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html

釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/741.html

参考資料 _ ダンマパダ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/737.html

参考資料 _ スッタニパータ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/736.html

参考資料 _ ブッダ最後の旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/738.html


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