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大減税で大繁栄した江戸時代の日本
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投稿者 中川隆 日時 2016 年 9 月 14 日 14:19:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

”大減税”で大繁栄した江戸時代の日本


「五公五民」とか「六公四民」という単語を聞いたことがありますね。これ、中学や高校の歴史教科書に書いてある江戸時代の税率のことを指します。つまり、「五公」だと税率が50%、「六公」だと税率60%という意味です。この数字だと「なんとも税金が高いなぁ!」という印象を持たれる方も多いと思います。

江戸時代は税の取り立てが過酷で、貧窮した百姓(本来は”ひゃくせい”と読みます)が一揆を起こす。悪徳なお代官様が商人から袖の下を貰って私服を肥やし、税金(年貢)が払えない農民には代わりに生娘を要求する…こんな「江戸時代は暗かった」イメージが、時代劇や歴史ドラマで定着しているから、尚の事、江戸時代の税制は現代に比べてとてつもなく厳しく、そしてお上からの取り立てもきついと思われている。「そろそろ年貢の納め時」という言葉もあるくらいです。

しかし、この「江戸時代は税金が高かった」というイメージ、実は全部嘘です。江戸時代は暗い…というイメージ自体、戦後の歴史学者の主流を占めていたマルクス主義者による階級闘争史観に基づいたものですが、その話は長くなるので置いておいて、実際の江戸時代の税率というのは、本当のところどうだったのでしょうか。

江戸時代は米が経済単位の基本です。米の産出量=石高で国力が決定します。江戸時代では全国で収穫された米が一旦、大坂(現在の大阪とは一字違います)に運搬され、そこの米相場で米の価格が決定し、貨幣に変換されます。その貨幣で、例えば武士は生活必需品を買う。260年間ずっとそういう仕組みになっていたのです。

金本位制ならぬ米本位制。ですから江戸時代の農民に課せられた税金というのも、当然全部米で支払うことになります。ちなみに、税金が米から現金で払うようになったのは、明治に入ってからの地租改正が初めてです。

では当時の政府(幕府)は、農民から取る税金をどのように計算していたのか。ここからが本題。例えば「五公五民」で税率50%なら、農民Aが所有する農地の生産力100石から、50石を取ります。このためには農地の生産力を予め算定しなければなりません。そこで行われたのが「検地」です。

全国の農地の生産力を調査して、税率の母数を決めるために、徳川幕府は慶長年間(1596〜1615)に大規模な検地を行います。これを「慶長検地」といいます。これによって、日本全国の農地の生産力が確定し、徳川幕府は安定的に農民から税を取ることが出来るようになりました。

ところがその後、70年から80年間にわたって、徳川幕府は国をあげて新田開発を推奨します。つまり「土地を開墾して新しい水田をどんどん作りなさい」という方針になります。徳川の平和の世(“元和偃武=げんなえんぶ”といいます)になって、日本は経済発展に突き進んだわけです。現在、日本各地に「◯◯新田」という地名があると思いますが、そのほとんどがこの江戸時代の最初の80年くらいに開発された新しい農地という意味です。

大開発の結果、日本の農地面積はこの間、2倍になり、日本の人口は1,600万人から3,200万人に倍増します。江戸時代の最初の80年間で、日本の経済規模は倍になった、という大繁栄の時代を迎えるのです。この生産力の向上が招いた町人文化の発展と都市人口の増加で、日本は未曽有の大好況になります。それこそが、17世紀半ばから始まる「元禄時代」(1688〜1704)で知られる黄金時代です。

ここで問題なのは「五公五民」の税率。実は、江戸時代の大規模な検地は、「慶長検地」1回きりです。つまり生産力が倍になっても、最初の基準の母数を幕府は使い続けたのです。お分かりでしょうか?つまり実質的な税率は、50%から半分の25%になった、というカラクリです。江戸時代はこのように “大減税の時代”だったのです。

江戸時代のほとんどの時期、「五公五民」というのは建前で、せいぜい2割から3割程度が実効税率。場所によっては1割という場合も。あれ、現在よりもだいぶ税金安いかも?なんだ、江戸時代って、実はぜんぜん厳しい時代ではなかったんですね。羨ましい!

では何故、江戸幕府は検地を最初の1回きりしか行わなかったのでしょうか。幕府は金山等の鉱山を独占していたのと、対外貿易も取り仕切っていました。収入源が他に沢山あったのです。そしてなにより、実質的な減税を行うことによって、経済成長が達成され、人々の勤労意欲が増す、ということを経験的に知っていたと言われています。

強きをくじき弱きを助ける“武士道”を重んじる支配階級たる士族が、民衆から必要以上に過酷な税金の取り立てをするのは恥である、という道徳的意味合いもあったと言われています。

当時の「お上」は、実にこんな具合にいろいろと余裕があって、大人なところがあったのです。江戸時代は暗かったというのは、真っ赤な嘘であることがお分かりいただけたと思います。消費税増税を遮二無二になそうとする、どこかの財務省は、是非この江戸幕府の姿勢を見習って頂きたい。が、しかし、江戸時代でも強固な「増税論者」が居たのをご存知ですか。そう、皆さんご存知の通り「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍徳川吉宗その人です。

時代劇では人気があり、なんとなく庶民のことを思っていそうな吉宗。が、そのイメージとは裏腹に、実際の彼の治世下では全国各地で大一揆が起こり、最も民衆に嫌われた将軍でした。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/30/furuya-4/

増税将軍 吉宗

時代劇「暴れん坊将軍」を知らないという人はあまりいないでしょう。松平健扮する8代将軍吉宗が、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗り江戸町人と交流しながら、悪を成敗するという勧善懲悪のストーリーです。普段は貧乏旗本として仮の姿をしている吉宗も、クライマックでは必ず「余の顔を忘れたか!」と一喝して「成敗!」と号する姿は、なるほどカタルシスに満ちたもの。

吉宗は、紀州徳川藩の四男として生まれました。本来、継嗣(世継ぎ)となるべき長兄たちが、次々と病気で死去したのでトントン拍子に紀州徳川藩主になり、そのまま将軍職に上り詰めた幸運の人です。

最初から将軍候補として育てられたわけではないため、庶民的で、機転がきき、そのうえ豪気の性格で、その親しみやすく力強い人柄が、江戸町民に親しまれた…そんなイメージが「暴れん坊将軍」の中に登場する徳川吉宗のイメージです。きっと本当の吉宗も、新之助に扮しないまでも、民衆から人気のあった殿様なんだなあ…。そう思ってしまう人も多いかと思います。しかし、実像は全くの嘘でたらめです。

江戸時代の税制についての基本的事実は、前回お伝えしたとおりです。年貢の母数を決める検地も、江戸の最初、つまり慶長年間(1596〜1615)に行ったきりで、以後行われなくなった、というのも前回のとおりです。それまで新田開発による高度成長で、空前の好況(元禄時代)を迎えていた日本は、吉宗の時代に転換点を迎えます。8代将軍に吉宗が就任(在位・1716〜1745)すると、その在位30年間の間に、彼が行った様々な改革を、元号に習って「享保の改革」と呼びます。

「享保の改革」は、簡単にいえば幕府の財政再建政策です。主軸は、年貢の収納改善です。それまで「五公五民」(税率50%)と建前上の年貢率が採用されていましたが、江戸時代の最初の80年間の大開発によって、当初の検地では記録されていない田畑が大量に登場しました。それまでの年貢は、慶長検地の分母に基づく検見法(田んぼの生産量に応じて税率を決める)だったので、検地後に増加した新田からの収入は、そのまま農民の懐に入っていき、実効税率はせいぜい2割から3割、といったところだったのです。

ところが吉宗は、江戸幕府の財政が悪化したために、検見法から定免法へと年貢の収納方法を変更するのです。この定免法というのは、生産力に対し50%とか60%という従来の納税率ではなく、予め指定した量の年貢米を毎年納めよ、という新方式です。つまり、従量課金から定額制に移行したのです。

ふつう、定額制の方が割安感があると思いますが、繰り返すように江戸時代の従量課金(検見法)の分母は、新田が増加する前の、低い基準を分母としています。農民にとって、実質的に増加した新田の分の生産量まで網羅される定免法は、事実上の増税と受け取られたのです。吉宗は定免法の導入に合わせて、「隠田」(かくしでん)の摘発も積極的に行いました。

「隠田」とは農民が届出を出さないで、密かに経営する農地のことです。当然そこは年貢の計算の及ばないところでしたが、吉宗はその部分へも定免法を押し付けたのです。いくら広い日本とはいえ、「隠田」を本当に隠れて作ることは出来ません。幕府はこれまで、統治者としての寛大な精神から、そういった農民のへそくりにはお目こぼしを与えていました。しかし、吉宗はそれを全く許さなかったのです。

こうした強引とも言える「享保の改革」のさなか、全国各地で事実上の増税に反対する一揆が増加しました。幕府の財政緊縮のため、江戸の街も一気に冷え切った様相になったと伝えられています。質素倹約が合言葉となり、豪華な催し(祭りや芝居)は禁止され、消費は落ち込み、世の中は一気に不景気になりました。H本龍太郎総理による消費税5%引き上げの時と、はからずもシンクロいたしますね。

では、なぜ吉宗はこうまでして財政再建を行わなければならなかったのでしょうか。それは吉宗以前の、歴代将軍による瀟洒な贅沢が原因です。徳川幕府の始祖、徳川家康は現在でも栃木県日光市の「日光東照宮」に祀られていますが、江戸時代、歴代の将軍は神君とまで呼ばれた家康の墓参に訪れるのが慣例となっていました。これを「日光社参」(にっこうしゃさん)と言います。

特に三代将軍家光・四代大将軍家綱による社参は壮麗で、国家を挙げての大イベントが、毎年のように開催されていたのです。このような莫大な浪費は、徳川家の権威を内外に知らしめるという効果はありましたが、いき過ぎた社参は幕府財政を圧迫し、家康の時代には江戸城の倉庫が黄金で光り輝いていたが、吉宗の時代の頃になると全くの空になってしまったといいます。つまり吉宗の「享保の改革」は、過去におこなった贅沢の尻拭いを、後世、国民にさせているのと同じです。これもどこか、現在と通じるものがあるかもしれません。

こういった吉宗によって引き起こされた緊縮財政による不景気が列島を覆う中、ただ一箇所だけ湧いていた都市があります。尾張徳川藩のお膝元、名古屋です。当時、尾張藩主であった徳川宗春(むねはる)は、吉宗のこういった増税政策に反発し、逆に財政出動と民間消費の喚起を目論見、人心を鼓舞することに勤めました。

宗春自身、「白牛に乗って、キセルを蒸かしながら街を練り歩いていた」という記録が残るほど、豪快で派手好きな人物だったようです。倹約の風潮で禁止されていた祭りや芝居も、名古屋では何の制限もありませんでした。こうした尾張藩の政策が功を奏し、名古屋には増税と緊縮財政で火が消えた日本各地から、商機や活気を求めて人口が流入し、空前の大繁栄を謳歌しました。現在、名古屋は人口200万を超える日本三大都市のひとつでありますが、その基礎は、増税に真っ向から対決した宗春が創り上げたといって過言ではありません。

しかし、こういった幕府と正反対の政策をおこなって成功した宗春に、吉宗は良い気がしません。嫉妬の炎を燃やしたのか、尾張藩内の反宗春派と結託して宗春を失脚に追い込みます。1739年、徳川宗春は蟄居謹慎(自宅軟禁)の命を受け、事実上の追放。吉宗が死ぬ1751年まで、屋敷に幽閉されることとなりました。吉宗の死後、宗春は自由の身となりますが、そのまま1764年に死去しています。大増税で民衆の怒りを買った徳川吉宗と、減税と人心喚起で名古屋繁栄の礎を築いた徳川宗春。どちらが正しかったのかは、歴史を振り返れば明らかなはずです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/09/13/furuya-5/
 

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コメント
 
1. 中川隆[4011] koaQ7Jey 2016年9月14日 14:25:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4406]


積極財政VS緊縮財政 2013-01-27


最近アベノミクスとかで積極財政と緊縮財政でどっちがいいのか議論されていますよね。

緊縮財政こそがEUを救うと考えるドイツはじめEU諸国とは対照的に日本はついに日銀も巻き込んで積極財政に舵を取りました。

経済学のことは全く分かりませんが、歴史のことはよく分かります。
実は塩漬けマンは大学で文献史学を学んでいたのです。

積極財政VS緊縮財政は今に始まったことでなく、ず〜〜〜っと繰り返されてきたテーマです。

以下は江戸時代の積極財政VS緊縮財政です。

正徳の治 新井白石 緊縮財政

【貨幣の改鋳】・・・貨幣発行量を縮小しちゃえ!

【長崎貿易の制限】・・・金銀流出しちゃいや!


享保の改革 徳川吉宗 緊縮財政

【倹約令】・・・贅沢するな!

【年貢の増徴】・・・増税じゃ!

【定免法】・・・天候不良で不作でも年貢米の量は同じじゃ!

【上げ米の制】・・・米くれたら参勤交代の江戸滞在半分にしてあげるよ!
(大名の出張費が半分になるので、回る金が少なくなる)

【相対済し令】・・・お金の裁判はもうしません!当事者で勝手に解決して!
(借金踏み倒し増加。勿論お金の貸し借りが減り経済は・・・)

【堂島米市場の公認】・・・米価格を安定させるために米相場に積極的に介入しちゃう!
「お、米が安いな、それ商人ども米を買い占めろ!お、米が高いな、それ商人ども米を売れ!」
(市場経済に任せず権力が市場に介入すると・・・)


小石川養生所や目安箱設置したし、時代劇人気もあるから人徳者のように思われているけど、吉宗って結構最低ですよね。


田沼の改革 田沼意次 積極財政

【株仲間の公認】・・・商人はもっとお金儲けしてね♪

【運上金、冥加金】・・・商人からも税金徴収。株仲間で儲けたんだからしっかり税金払ってね♪

【通貨制度の改革】・・・金貨と銀貨の交換比率固定したし、銀貨を表位通貨制度に変更したから、お金が回りやすくなったよね。これでどんどん商売しちゃって♪

【長崎貿易の奨励】・・・いっそ開国しちゃう?♪

【印旛沼・手賀沼の干拓】・・・米ももっと作っちゃって♪

【蝦夷地開拓の計画】・・・土地がもうない?じゃあ開拓しちゃうよ♪

賄賂もらいまくってたからイメージ悪いけど、田沼ってイケイケですね。


寛政の改革 松平定信 緊縮財政

【倹約令】・・・贅沢するな!

【異学の禁】・・・勉強もするな!

【棄捐令】・・・武士の借金は帳消しじゃ!
(帳消しになるので誰も武士にお金を貸さなくなり、武士はさらに困窮した)

【囲い米の制】・・・米をしっかり溜め込むんじゃ!

【七分積金】・・・お金をしっかり溜め込むんじゃ!

【旧里帰農令】・・・農民は農村に帰って農業やって!旅費も農業資金もあげるからっ!

【人足寄場】・・・職業訓練してあげるからみんな働いてっ!


天保の改革 水野忠邦 一応積極財政

【倹約令】・・・贅沢するな!

【人返し令】・・・農民は村へ帰れっ!

【株仲間の解散】・・・規制緩和するから自由に商売していいよ♪

【一般貸借金利の引き下げ】・・・お金がどんどん回るようになるよね♪
(貸し渋りが発生して逆効果)

【上知令】・・・土地没収しちゃうよ♪
(江戸大阪近辺の直轄領近くの土地を没収して効率よく領地経営しようとしたが失敗)

このように基本的に緊縮財政と積極財政が交互に繰り替えされるのですよね。

どっちが良かったのか・・・分かりませんが、上記の享保の改革期に幕府の命令に逆らって積極財政をしまくった藩があります。

徳川宗春率いる名古屋は尾張藩。吉宗に対抗するかの如く藩主自ら徹底的に贅沢してお金使いまくったのです。

その結果名古屋には人、物、金が集まり大いに繁栄し、すると文化が発展し、そして技術が発展しました。

具体的には山車祭りをはじめとしたカラクリ人形の文化、そして現代の機械に負けないレベルのカラクリを作る技術が発展し、それが世界初の自動織機発明の基となり、今のトヨタ自動車に繋がっているわけです。

安部さんも是非新しい産業を生む方向にお金を使って欲しいなと思いました。
http://shiodukeman.blog.fc2.com/blog-entry-94.html


2. 中川隆[4012] koaQ7Jey 2016年9月14日 14:26:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4407]

世紀の大天才政治家だった田沼意次 


田沼意次(たぬまおきつぐ)は江戸時代中期に老中として幕府の実権を握り、田沼時代(18世紀後半)と呼ばれる権勢を築き上げた人物として広く知られ、学校教科書にも登場する人物です。

この田沼は、一方で賄賂政治家として、どことなく悪いイメージがもたれがちであります。田沼失脚の後、松平定信(まつだいらさだのぶ)が実権を握りますが、その時代の有名な狂歌に、

「白河の、清き流れに耐えかねて 元の濁りの田沼恋しき」

というものがあります。白河は、松平定信の出身藩である白河藩の暗喩です。これも田沼と定信の対比として頻出するものです。実際松平定信は「寛政の改革」と称して徹底的な緊縮政策を行い、倹約と瀟洒禁止を厳命、景気は一気に失速します。この狂歌は、逆説的に田沼時代が如何に猥雑で混沌としていたかを示すものとして例に挙げられがちですが、こういった「賄賂政治家」「ダークなイメージ」がまとわりつく田沼意次について、今回は少しスポットを当ててみたいと思います。

田沼意次は1719年に貧乏旗本の息子として生まれ、家柄は全く良く有りませんでしたが、その後、9代将軍家重(いえしげ)、10代将軍家治(いえはる)の元でトントン拍子に出世し、しだいに権勢を振るうようになりました。若い頃は、町娘に追っかけが出るほど、アイドル級の絶世の美男子だったとされ、将軍の側近に取り立てられ、内政面で鋭い才能を発揮します。

9代将軍家重は、現在で云うところの脳性麻痺(小児麻痺)の後遺症があり、言語が不明瞭な障碍者であったというのが定説になっていますが、その家重時代に田沼意次は確固とした地位を築き、家重の遺言の元で、その子、家治時代に田沼は全盛を迎えます。

当時の江戸幕府は、上手いことできているもので、幕府の中枢である老中(現在で云うところの内閣に当たる)は、独裁を防ぐために複数人で構成され、老中の中でも一番年長の老中首座と呼ばれる年寄りが、各々の意見をまとめ、合議制で政治を運営していました。

田沼意次が活躍した時代には、老中首座に松平武元(まつだいらたけちか)という穏健派がトップに立っていました。田沼意次は独裁を敷いていたわけではなく、途中まで、あくまでナンバー2に過ぎません。松平武元と田沼意次は仲がよく、武元の死後、いよいよ田沼意次の独壇場となりますが、田沼時代の政治は彼一人が権勢を握っていたわけではないのです。各人が協力して、合議制で政治を運営していたのです。

さて、田沼意次が行った政策にはどの様なものがあるのでしょうか。
まず第一には、徹底した重商主義政策があげられます。幕府は積極財政政策を元に、各種の公共事業を拡大し、政府需要を呼び水にして、民間活力を向上する政策が取られました。

顕著なのが印旛沼・手賀沼の開墾事業です。現在、千葉県北西部にある両沼は、広大な農地と宅地に変貌しておりますが、江戸時代、この周辺は利根川が氾濫して手が付けられない荒地であり、そこを整備して運河化することによって、大消費地である江戸への物流拠点にしようという意図がありました。現在の千葉県北西部の姿は、田沼意次の政策と深く関係しています。

第二に、商人の保護です。江戸時代、全国の商人は自由放任的な商慣習に基づいて、おのおのが勝手に競争する状態にありました。今風で言うと、「アダム・スミス的古典派経済学」の世界観を継承するものでしたが、田沼意次は「株仲間」と呼ばれる同業者団体の設立と統合を強化し、そこに特権的な地位を与え、見返りに「運上・冥賀」と呼ばれる税金(今風で言うところの法人税)を幕府に収めさせ、安定的で規律的な商慣行を推奨しました。

これによって、例えば「勝手なルールで勝手に競争する」という商人の世界が、政府のお墨付きが与えられ、かつ、安定的で明確化したルールのもとで、商売ができるようになリました。勿論、消費者にとっても、商慣行の明確化とルール作りは、安定的な商品の供給と価格設定という意味で、大変なメリットをもたらします。田沼時代は、この様に、幕府の採った重商主義政策によって、規律ある商人文化が花開いた時代でした。

最後に、最も重要なのは国防政策です。田沼意次は、おそらく日本で初めて、蝦夷地(現在の北海道)の開発計画をもくろんだ政治家です。当時、蝦夷地は南蝦夷(北海道南部)、北蝦夷(現在の樺太)、東蝦夷(道東・千島列島)などと分かれていたのは、このメールマガジンでも過去に書かせていただいたとおりですが、明治時代になって初めて開拓使を北海道に置き、本格的な開発を行う、はるか100年弱前に、田沼意次が北海道開発計画を明確に意識していたことは見逃せない事実です。

当時の北海道は、道南に松前藩がある程度で、ほぼ全域がアイヌ民族の居留地でしたが、そのアイヌと交易する和人(日本人)商人などからの情報から、北海道に多数のロシア人が接近していることが、幕府中枢に伝わっていました。このままでは、蝦夷地がロシアの領土になるのではないか、という危機感を抱いた田沼は、蝦夷地に測量など、開墾計画をおこなう下調べを命じています。

興味深いことに、このときの田沼の蝦夷地開墾計画は、穢多・非人とされる被差別階級を使役して、武装化と共に蝦夷に定着させるという内容であることが判明しています。穢多・非人が「解放令」で四民平等となるのは明治時代で、更に屯田兵制度が始まるのもその頃ですから、田沼意次は100年弱前に、明治政府の屯田兵制度の原案を実行しようとしていたことになります。正しく、未来を的確に予測した天才政治家としか言いようがないと私は思います。

しかしこの蝦夷地開墾計画は、田沼意次の失脚によって幻に終るのです。田沼意次の長男である田沼意知(たぬまおきとも)は、意次の後継者として将来を嘱望されておりましたが、1784年に暗殺されてしまいます。この事件が切っ掛けに、田沼意次の権勢は揺らぎ始めます。加えて、浅間山の大噴火など大災害が重なり、民衆の怨嗟がしだいに田沼の元に集まってくるようになります(当時、天変地異は為政者の徳の無さが原因だと見る風潮があった)。

現在では、田沼意知を殺害したのは、田沼意次をよく思わない、緊縮財政派の松平定信の系列であることが知られていますが、その田沼の権勢が激しい嫉妬を買ったのでしょう。自らの後継者として育ててきた意知が死に、失意の中、田沼意次に対する包囲網も徐々に構築され、彼の後見人であった家治の死去の直後、老中を解任され、ほどなく1788年に死去します。

現在では、反田沼派の松平定信が、将軍の遺言を捏造した一種のクーデターが起こったとする見方もありますが、真相は闇の中です。家治に変わって11代将軍となった徳川家斉(いえなり)の庇護のもと、松平定信が権勢を振るう「寛政の改革」の時代が到来。松平定信は、今風で言うところの「公共事業悪玉論者」であったので、徹底した緊縮財政と倹約を行ったのは冒頭のとおりです。
現在の北朝鮮や韓国、中国と同じく、新しい権力者は以前の権力者を徹底的に否定します。松平定信によって、こてんぱんに「悪人」「賄賂政治家」のレッテル工作が成された田沼意次は、その悪評が現在までも定着するに至ったのです。

このように、後世の悪意ある創作で「悪徳政治家」のレッテルを貼られがちな田沼意次。積極財政、重商主義、卓越した国防意識など、まさに天才政治家としか言いようの無い田沼意次を、再評価する時期が今、来ているのではありませんか?私は、歴史を振り返ると、強くそう思うのです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/12/20/furuya-11/


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