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”大減税”で大繁栄した江戸時代の日本
「五公五民」とか「六公四民」という単語を聞いたことがありますね。これ、中学や高校の歴史教科書に書いてある江戸時代の税率のことを指します。つまり、「五公」だと税率が50%、「六公」だと税率60%という意味です。この数字だと「なんとも税金が高いなぁ!」という印象を持たれる方も多いと思います。
江戸時代は税の取り立てが過酷で、貧窮した百姓(本来は”ひゃくせい”と読みます)が一揆を起こす。悪徳なお代官様が商人から袖の下を貰って私服を肥やし、税金(年貢)が払えない農民には代わりに生娘を要求する…こんな「江戸時代は暗かった」イメージが、時代劇や歴史ドラマで定着しているから、尚の事、江戸時代の税制は現代に比べてとてつもなく厳しく、そしてお上からの取り立てもきついと思われている。「そろそろ年貢の納め時」という言葉もあるくらいです。
しかし、この「江戸時代は税金が高かった」というイメージ、実は全部嘘です。江戸時代は暗い…というイメージ自体、戦後の歴史学者の主流を占めていたマルクス主義者による階級闘争史観に基づいたものですが、その話は長くなるので置いておいて、実際の江戸時代の税率というのは、本当のところどうだったのでしょうか。
江戸時代は米が経済単位の基本です。米の産出量=石高で国力が決定します。江戸時代では全国で収穫された米が一旦、大坂(現在の大阪とは一字違います)に運搬され、そこの米相場で米の価格が決定し、貨幣に変換されます。その貨幣で、例えば武士は生活必需品を買う。260年間ずっとそういう仕組みになっていたのです。
金本位制ならぬ米本位制。ですから江戸時代の農民に課せられた税金というのも、当然全部米で支払うことになります。ちなみに、税金が米から現金で払うようになったのは、明治に入ってからの地租改正が初めてです。
では当時の政府(幕府)は、農民から取る税金をどのように計算していたのか。ここからが本題。例えば「五公五民」で税率50%なら、農民Aが所有する農地の生産力100石から、50石を取ります。このためには農地の生産力を予め算定しなければなりません。そこで行われたのが「検地」です。
全国の農地の生産力を調査して、税率の母数を決めるために、徳川幕府は慶長年間(1596〜1615)に大規模な検地を行います。これを「慶長検地」といいます。これによって、日本全国の農地の生産力が確定し、徳川幕府は安定的に農民から税を取ることが出来るようになりました。
ところがその後、70年から80年間にわたって、徳川幕府は国をあげて新田開発を推奨します。つまり「土地を開墾して新しい水田をどんどん作りなさい」という方針になります。徳川の平和の世(“元和偃武=げんなえんぶ”といいます)になって、日本は経済発展に突き進んだわけです。現在、日本各地に「◯◯新田」という地名があると思いますが、そのほとんどがこの江戸時代の最初の80年くらいに開発された新しい農地という意味です。
大開発の結果、日本の農地面積はこの間、2倍になり、日本の人口は1,600万人から3,200万人に倍増します。江戸時代の最初の80年間で、日本の経済規模は倍になった、という大繁栄の時代を迎えるのです。この生産力の向上が招いた町人文化の発展と都市人口の増加で、日本は未曽有の大好況になります。それこそが、17世紀半ばから始まる「元禄時代」(1688〜1704)で知られる黄金時代です。
ここで問題なのは「五公五民」の税率。実は、江戸時代の大規模な検地は、「慶長検地」1回きりです。つまり生産力が倍になっても、最初の基準の母数を幕府は使い続けたのです。お分かりでしょうか?つまり実質的な税率は、50%から半分の25%になった、というカラクリです。江戸時代はこのように “大減税の時代”だったのです。
江戸時代のほとんどの時期、「五公五民」というのは建前で、せいぜい2割から3割程度が実効税率。場所によっては1割という場合も。あれ、現在よりもだいぶ税金安いかも?なんだ、江戸時代って、実はぜんぜん厳しい時代ではなかったんですね。羨ましい!
では何故、江戸幕府は検地を最初の1回きりしか行わなかったのでしょうか。幕府は金山等の鉱山を独占していたのと、対外貿易も取り仕切っていました。収入源が他に沢山あったのです。そしてなにより、実質的な減税を行うことによって、経済成長が達成され、人々の勤労意欲が増す、ということを経験的に知っていたと言われています。
強きをくじき弱きを助ける“武士道”を重んじる支配階級たる士族が、民衆から必要以上に過酷な税金の取り立てをするのは恥である、という道徳的意味合いもあったと言われています。
当時の「お上」は、実にこんな具合にいろいろと余裕があって、大人なところがあったのです。江戸時代は暗かったというのは、真っ赤な嘘であることがお分かりいただけたと思います。消費税増税を遮二無二になそうとする、どこかの財務省は、是非この江戸幕府の姿勢を見習って頂きたい。が、しかし、江戸時代でも強固な「増税論者」が居たのをご存知ですか。そう、皆さんご存知の通り「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍徳川吉宗その人です。
時代劇では人気があり、なんとなく庶民のことを思っていそうな吉宗。が、そのイメージとは裏腹に、実際の彼の治世下では全国各地で大一揆が起こり、最も民衆に嫌われた将軍でした。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/30/furuya-4/
増税将軍 吉宗
時代劇「暴れん坊将軍」を知らないという人はあまりいないでしょう。松平健扮する8代将軍吉宗が、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗り江戸町人と交流しながら、悪を成敗するという勧善懲悪のストーリーです。普段は貧乏旗本として仮の姿をしている吉宗も、クライマックでは必ず「余の顔を忘れたか!」と一喝して「成敗!」と号する姿は、なるほどカタルシスに満ちたもの。
吉宗は、紀州徳川藩の四男として生まれました。本来、継嗣(世継ぎ)となるべき長兄たちが、次々と病気で死去したのでトントン拍子に紀州徳川藩主になり、そのまま将軍職に上り詰めた幸運の人です。
最初から将軍候補として育てられたわけではないため、庶民的で、機転がきき、そのうえ豪気の性格で、その親しみやすく力強い人柄が、江戸町民に親しまれた…そんなイメージが「暴れん坊将軍」の中に登場する徳川吉宗のイメージです。きっと本当の吉宗も、新之助に扮しないまでも、民衆から人気のあった殿様なんだなあ…。そう思ってしまう人も多いかと思います。しかし、実像は全くの嘘でたらめです。
江戸時代の税制についての基本的事実は、前回お伝えしたとおりです。年貢の母数を決める検地も、江戸の最初、つまり慶長年間(1596〜1615)に行ったきりで、以後行われなくなった、というのも前回のとおりです。それまで新田開発による高度成長で、空前の好況(元禄時代)を迎えていた日本は、吉宗の時代に転換点を迎えます。8代将軍に吉宗が就任(在位・1716〜1745)すると、その在位30年間の間に、彼が行った様々な改革を、元号に習って「享保の改革」と呼びます。
「享保の改革」は、簡単にいえば幕府の財政再建政策です。主軸は、年貢の収納改善です。それまで「五公五民」(税率50%)と建前上の年貢率が採用されていましたが、江戸時代の最初の80年間の大開発によって、当初の検地では記録されていない田畑が大量に登場しました。それまでの年貢は、慶長検地の分母に基づく検見法(田んぼの生産量に応じて税率を決める)だったので、検地後に増加した新田からの収入は、そのまま農民の懐に入っていき、実効税率はせいぜい2割から3割、といったところだったのです。
ところが吉宗は、江戸幕府の財政が悪化したために、検見法から定免法へと年貢の収納方法を変更するのです。この定免法というのは、生産力に対し50%とか60%という従来の納税率ではなく、予め指定した量の年貢米を毎年納めよ、という新方式です。つまり、従量課金から定額制に移行したのです。
ふつう、定額制の方が割安感があると思いますが、繰り返すように江戸時代の従量課金(検見法)の分母は、新田が増加する前の、低い基準を分母としています。農民にとって、実質的に増加した新田の分の生産量まで網羅される定免法は、事実上の増税と受け取られたのです。吉宗は定免法の導入に合わせて、「隠田」(かくしでん)の摘発も積極的に行いました。
「隠田」とは農民が届出を出さないで、密かに経営する農地のことです。当然そこは年貢の計算の及ばないところでしたが、吉宗はその部分へも定免法を押し付けたのです。いくら広い日本とはいえ、「隠田」を本当に隠れて作ることは出来ません。幕府はこれまで、統治者としての寛大な精神から、そういった農民のへそくりにはお目こぼしを与えていました。しかし、吉宗はそれを全く許さなかったのです。
こうした強引とも言える「享保の改革」のさなか、全国各地で事実上の増税に反対する一揆が増加しました。幕府の財政緊縮のため、江戸の街も一気に冷え切った様相になったと伝えられています。質素倹約が合言葉となり、豪華な催し(祭りや芝居)は禁止され、消費は落ち込み、世の中は一気に不景気になりました。H本龍太郎総理による消費税5%引き上げの時と、はからずもシンクロいたしますね。
では、なぜ吉宗はこうまでして財政再建を行わなければならなかったのでしょうか。それは吉宗以前の、歴代将軍による瀟洒な贅沢が原因です。徳川幕府の始祖、徳川家康は現在でも栃木県日光市の「日光東照宮」に祀られていますが、江戸時代、歴代の将軍は神君とまで呼ばれた家康の墓参に訪れるのが慣例となっていました。これを「日光社参」(にっこうしゃさん)と言います。
特に三代将軍家光・四代大将軍家綱による社参は壮麗で、国家を挙げての大イベントが、毎年のように開催されていたのです。このような莫大な浪費は、徳川家の権威を内外に知らしめるという効果はありましたが、いき過ぎた社参は幕府財政を圧迫し、家康の時代には江戸城の倉庫が黄金で光り輝いていたが、吉宗の時代の頃になると全くの空になってしまったといいます。つまり吉宗の「享保の改革」は、過去におこなった贅沢の尻拭いを、後世、国民にさせているのと同じです。これもどこか、現在と通じるものがあるかもしれません。
こういった吉宗によって引き起こされた緊縮財政による不景気が列島を覆う中、ただ一箇所だけ湧いていた都市があります。尾張徳川藩のお膝元、名古屋です。当時、尾張藩主であった徳川宗春(むねはる)は、吉宗のこういった増税政策に反発し、逆に財政出動と民間消費の喚起を目論見、人心を鼓舞することに勤めました。
宗春自身、「白牛に乗って、キセルを蒸かしながら街を練り歩いていた」という記録が残るほど、豪快で派手好きな人物だったようです。倹約の風潮で禁止されていた祭りや芝居も、名古屋では何の制限もありませんでした。こうした尾張藩の政策が功を奏し、名古屋には増税と緊縮財政で火が消えた日本各地から、商機や活気を求めて人口が流入し、空前の大繁栄を謳歌しました。現在、名古屋は人口200万を超える日本三大都市のひとつでありますが、その基礎は、増税に真っ向から対決した宗春が創り上げたといって過言ではありません。
しかし、こういった幕府と正反対の政策をおこなって成功した宗春に、吉宗は良い気がしません。嫉妬の炎を燃やしたのか、尾張藩内の反宗春派と結託して宗春を失脚に追い込みます。1739年、徳川宗春は蟄居謹慎(自宅軟禁)の命を受け、事実上の追放。吉宗が死ぬ1751年まで、屋敷に幽閉されることとなりました。吉宗の死後、宗春は自由の身となりますが、そのまま1764年に死去しています。大増税で民衆の怒りを買った徳川吉宗と、減税と人心喚起で名古屋繁栄の礎を築いた徳川宗春。どちらが正しかったのかは、歴史を振り返れば明らかなはずです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/09/13/furuya-5/
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