http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/584.html
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(回答先: 雪の遺書 投稿者 中川隆 日時 2015 年 2 月 14 日 04:11:10)
2012年5月4日の白馬連峰
https://www.youtube.com/watch?v=YHHP2jIqkmc
2012白馬岳2号雪渓
https://www.youtube.com/watch?v=N4cQ9ulRwis
この日、天候が急変して、稜線では多数の登山者が遭難しました。このビデオは、白馬ハイランドホテルの屋上に設置したライブカメラが捉えた当日の天候の推移です。この画像は、NHK長野の番組 「検証・白馬岳遭難事故」で使われました。
2012年ゴールデンウィークの遭難事故を検証する
北アルプス・白馬岳を登山中の6人パーティと連絡がとれない、という家族からの届け出が大町警察署にあったのは、5月4日の午後5時40分ごろのことである。
6人は北九州市の医師ら63〜78歳の男性で、前日3日に栂池高原スキー場からゴンドラリフトを利用して入山。
栂池ヒュッテに1泊し、この日は白馬乗鞍岳、小蓮華山、白馬岳を経て白馬山荘に宿泊する予定だった。ところが夕方になっても到着しないことから、山荘のスタッフが家族に連絡し、家族が大町署に届け出たのだった。
6人が栂池ヒュッテを出発したのは朝5時ごろ。このときの天候は無風で青空ものぞいていたという。ところが、午後になって天候が急変した。この日、6人とほぼ同じコースをたどった単独行の登山者は、白馬山荘のスタッフに「船越ノ頭で稜線に出たとたん、みぞれ混じりの強烈な向かい風に見舞われた」と言っていたそうだ。彼が小蓮花山に着いたのは午後1時ごろで、振り返ってみると下のほうに6人パーティが見えたという。
また、新聞報道によると、午後1時半ごろ、小蓮華山から白馬大池方面に10分ほど下った地点で6人とすれ違った10人パーティがおり、そのなかのひとりがすれ違う際に「先生、どうしましょうか」という話し声を聞いている。状況から推測するに、6人はこのまま前進するか引き返すかの相談をしていたものと思われる。
届出を受けた大町署の署員は、6人全員が所持していた携帯電話に次々電話をかけてみたが、5人はつながらず、もうひとりは呼び出し音はするものの応答がなかったという。
翌5日の朝5時40分、長野県警ヘリが松本空港を飛び立って6人の捜索に向かったが、場付近の稜線には雲がかかっており風もそうとう強かったため、接近できないままいったん帰投した。その後、午前8時ごろになって、白馬岳北方の三国境付近を通りかかった登山者が稜線で倒れている6人の登山者を発見、白馬山荘を通じて警察に通報した。
天候が若干回復した8時20分、県警ヘリが再度、現場へ向かったところ、小蓮華山で滑落した別の登山者を発見。まずこの遭難者を救助したのち、再び現場へ引き返していき、9時41分、通報どおりの場所で6人が倒れているのを発見した。
6人のうち5人はひとかたまりになっていて、2人は手袋をしていなかった。素手でなにか作業をしようとしたのだろうか、そばには脱いだ手袋が落ちていた。もうひとりはその場から滑落したもようで、100mほど下のところに倒れていた。
「何人かは生存しているものと思って早朝から無理して飛んだんですが……。まさか6人全員亡くなっているとは思っておらず、ショックでした」(長野県警航空隊・櫛引知弘隊員)
遭難者の体の一部(風上側)は厚さ10cmほどの氷漬けとなっていて、地面に張り付いていた。このため、救助隊員は体を傷つけないようにピッケルで氷を割り、動かせるようにしてからヘリコプターに収容した。
「通常、吹雪だったら雪がエビのしっぽ状に着くはずなのに、つららが成長していくような感じで氷が付着していました。たぶんみぞれのような雪が猛烈な風によって氷化したのでしょう」(櫛引隊員)
遭難者は2人ずつ3回に分けて搬送されたが、最後はガスがかかってきてしまい、間一髪の収容となった。遭難者といっしょにザックも回収するつもりだったが、そばにあった2つのザックを回収するのがやっとだった(ほかの荷物は、後日、白馬村山岳遭難防止対策協会の隊員が回収した)。6人の死因は、いずれも低体温症であった。
白馬岳の6人の遭難が懸念されはじめていた4日の夕刻、 種池山荘のオーナー・柏原一正氏の大町市内の自宅に、女性登山者(大阪市・62歳)から一本の電話がかかってきた。
開口一番、女性は「何度もかけて、やっとつながった」と言い、「吹雪でなにも見えない」と続けた。
ところがそのあとすぐに電話は切れてしまい、以降、つながっては少し喋って切れるというやりとりを何度も繰り返すことになる。その切れ切れの会話で判明したのは、女性が朝7時に扇沢から爺ヶ岳を目指して登山を開始したということであった。
扇沢から爺ヶ岳へ登るには通常、柏原新道をたどっていくが、まだ雪のあるこの時期は上部が通行不能になっているため、下部でコースを外れて尾根伝いに登り、合流した南尾根を詰めて爺ヶ岳の南峰に直接出るルートをたどっていくことになる。当然、女性もこのコースをたどったものと思われたが、では今どこにいるのかがはっきりしなかった。柏原氏が
「ジャンクションピーク(南尾根上の一ピーク)は過ぎたのか」
「樹林帯は越えたか」
「南峰には着いたのか」
と尋ねても、曖昧な答えしか返ってこないのだ。「赤旗が立っている」というのが唯一の情報だったが、赤旗は南尾根の上部および爺ヶ岳南峰〜冷池山荘間に何本も立ててあるので、その情報だけでは位置を特定できない。
それにしても朝7時に扇沢から歩き出して、午後5時になってもまだ冷池小屋に到着していないのは、いくらんでもペースが遅すぎる。柏原氏が「ずいぶん時間がかかっているね」と言うと、女性は「休み休み来たものだから」と答えたという。
「とにかく現在地がまったくわかっていなかったし、南峰まで登ったのかどうかもはっきりしない。話の様子からして、コースを全然把握していないし、山にも慣れていない印象を受けました。もしかしたら、夏道と冬道が違っていることを知らなかったのかもしれません。南尾根をたどりながら、本人は柏原新道を歩いているつもりだったのでは」
腑に落ちないのは、女性がひとことも「助けてください」「救助を要請してください」といった類いの言葉を言わなかったことだ。「もう諦めてぼちぼち下りますわ」と伝えてきたので「大丈夫か」と尋ねると、女性は「はい、大丈夫です」と答えた。ヘッドランプも持っているという。
「非常に落ち着いていて、切迫感はまったくありませんでした。だからそれほどひどい状況だとは思わず、南尾根の標高2500mあたりまでは下ってきているのだろうと考えていたんですが……」
最後の電話が掛かってきたのは午後5時半ごろ。「もう電源がない」と言って切れ、以降、電話はつながらなくなった。いくら本人が「大丈夫だ」と言っていたとしても、この状況下ではさすがに心配になり、柏原氏は警察に一報を入れるとともに、警察の許可を経てひとりで現地へ捜索に向かった。
自宅を出て扇沢に着いたのが午後7時ごろ。7時10分から登りはじめ、支尾根が南尾根に合わさるジャンクションピークには9時半に到着した。ピークにはテントが4張あり、それぞれのパーティに「単独行の年配の女性登山者を見なかったか」と聞いてみたところ、2パーティが女性に行き合っていた。その2パーティはやはり扇沢から爺ヶ岳を目指していたが、悪天候のため途中で撤退を決め、南尾根を下山してくるときに登ってきた女性とすれ違ったという。
その情報を得た柏原氏は、ジャンクションピークの上あたりまで女性が下ってきているかもしれないと思い、10時すぎまであたりを捜して歩いたが、目も開けていられないほどの猛吹雪のため捜索を断念し、諦めて11時過ぎに下山した。
翌5日、爺ヶ岳に登った登山者が、中央峰と北峰の鞍部付近に倒れている女性登山者を発見したのは午前7時ごろのことである。午前11時40分、女性は長野県の消防防災ヘリによって収容され、前日から行方不明になっている単独行者であることが判明したが、すでに息を引き取っていた。死因は低体温症と見られている。
4日午後になって猛吹雪が荒れ狂ったのは、後立山連峰だけではない。前日に上高地から入山した福岡県の56〜71歳の男女6人パーティは、4日朝、宿泊していた涸沢小屋を出発し、北穂高岳を経て穂高岳山荘を目指していた(6人が北穂高小屋に立ち寄ったかどうかは不明だが、立ち寄ったのを記憶している小屋のスタッフはいないという)。ところが、オダマキのコルまで来たところで、61歳の女性メンバーが悪天候による低体温症で行動不能者に陥ってしまった。時刻は午後3時〜4時の間だったそうだ。
このため、リーダーともうひとりのメンバーが女性に付き添ってその場に留まり、ほかの3人が穂高岳山荘に救助を求めに向かったのだが、その3人も涸沢岳に登り着いたと同時に猛烈な風雪に見舞われ、身動きできなくなってしまう。3人はなんとか山荘へのルートを探そうとしたものの、猛吹雪のなかでは方向が定められず、午後5時ごろにはやむなくビバークの態勢に入ったという。
「涸沢岳の山頂から山荘まで、ふだんだったら10分かからないんですが、あのコンディションでは、どっちに行けばいいのか、方向がわからなかったと思います。たとえコンパスがあったとしても、風速20mもの猛吹雪のなか、風を避ける場所もないところなので、果たして動けたかどうか……」(穂高岳山荘スタッフ)
穂高岳山荘に常駐していた岐阜県警山岳警備隊に救助要請の電話が入ってきたときは、すでに午後7時を回っていた。電話はオダマキのコルで女性に付き添っていたリーダーからのもので、「ああ、やっと通じた」という第一声から、それまで何度も連絡をとろうとしていたことがうかがえた。また、この通報により、先発隊の3人がまだ小屋に着いていないことも判明した。
要請を受け、3人の警備隊員がただちに現場へと出動し、遅れて穂高岳山荘のスタッフ4人がそのあとを追った。吹雪は依然おさまっておらず、風速は15〜20m、視界は20〜30mほど。自分の庭のように周辺の地形を熟知しているはずの山荘スタッフが束の間、方向がわからなくなるほどの激しい風雪のなかでの出動であった。
警備隊員が涸沢岳の山頂に上がってみると、そこにビバークしている3人の遭難者がいた。
「3人はひとかたまりになってツエルトを被っていました。この時点では3人ともわれわれの問いかけに応じられるくらい意識ははっきりしていて、なんとか自力で行動できそうに見えました」(岐阜県警山岳警備隊・佐々木拓磨隊員)
この3人を救出すべく下降点の設置作業を行なっているところへ、後発の山荘スタッフ4人が合流した。そこで救助隊は二手に分かれ、3人が涸沢岳で救助作業を引き継ぎ、ほかの4人はその先のオダマキのコルへと向かった。
ところが、下降点の設置を終え、3人を山荘に連れ帰ろうとしたときに、アクシデントが発生する。パーティのなかでいちばん高齢だった71歳の男性が、低体温症の進行によって意識朦朧となり、自力で行動できなくなってしまったのだ。悪天候・夜間・急峻な岩場という悪条件のもと、3人の遭難者を3人だけで救助するのは無理がある。やむなく山荘に応援を求め、新たに数人のスタッフらが駆けつけてきて救助活動に加わった。
行動不能となった男性を背負ってどうにか山荘まで運び込んだのが午後9時過ぎ。男性はこの時点ですでに心肺停止状態に陥っており、警備隊員がただちに心肺蘇生を開始した。ほかの2人の遭難者は、スタッフらのサポートを受けながら自力で山荘にたどり着いた。
一方、オダマキのコルに向かった4人が現場に到着してみると、最初に低体温症になった女性が意識朦朧とした状態でおり、そばに男性2人が成す術もない様子で付き添っていた。3人はいちおうツエルトを被っていたが、女性の半身は外に出ていて、あまり用を成していなかった。この行動不能の女性を警備隊員と山荘スタッフが交代で背負い、ほかの2人は自力で歩けるリーダーともうひとりのメンバーをフォローしながらあとに続いた。
だが、涸沢岳まで来たところで、とうとうリーダーが力尽きて倒れてしまう。このリーダーを搬送するために、再び山荘から応援部隊が投入された。先行していた女性は10時前に山荘に運び込まれ、もうひとりの遭難者はなんとか自力でたどり着き、最後にリーダーが11時前後に収容された。
現場で指揮に当たった岐阜県警山岳警備隊の川地昌秀隊員は、次々に遭難者が運び込まれてくる模様を、「まるで野戦病院のような状況だった」と形容した。6人の遭難者は全員が大なり小なり低体温症に陥っており、山荘のスタッフが総出で応急処置に当たった。この日、山荘の主泊客のなかに医師と看護師がおり、騒ぎを聞きつけて「なにかできることがあれば」と協力を申し出、夜を徹して治療に当たってくれた。
いちばん最初に収容された男性は30分以上に渡って心肺蘇生を受けたが回復せず、医師によって死亡が確認された。意識朦朧としていた女性は加温措置によって持ち直し、約3時間後には正常な状態に回復しつつあった。その女性よりも重症だったリーダーは半ば錯乱状態に陥っていたが、医師やスタッフらの懸命な処置によって朝方には回復した。
山荘スタッフのひとりが、このときのことを振り返ってこう言う。
「現場がオダマキのコルだったから救助できましたが、それより遠かったら救助は翌日以降になっていたでしょう。また、たとえ小屋に遭難者を運び込んでも、低体温症に対する処置ができていなければ、間違いなくあと2人は亡くなっていたはずです。そういう意味で、できることぎりぎりの状況下での、総力戦の救助活動でした」
なお、この遭難事故の2日後の6日、新穂高から入山してジャンダルムの飛騨尾根を登攀した愛知の山岳会の男性3人パーティが、奥穂高岳から間違い尾根に入り込んで滑落するという事故が起きた。3人ののうちひとり(38歳)は自力で尾根に登り返して救助を要請したのだが(本人は長野側へ滑落したものと思い、110番通報してそう告げた。電話は岐阜県警から長野県警に転送され、最初は長野県警の救助隊が出動したのだが、のちに岐阜県側での案件であることが判明する。長野県警はそのまま救助を続行)。このとき現場に駆けつけていったのも穂高岳山荘のスタッフだった。
奥穂高岳の山頂付近で確保された男性は、軽度の低体温症にかかっていたが自力で歩行できたため、スタッフが付いて山荘まで下山した。
この救助活動中、吹雪のなかから男性登山者が突如「あの〜」と声をかけてきてスタッフを驚かせた。大阪市からやってきたその男性(55歳)は3日に単独で上高地より入山。北尾根から吊尾根経由で5日に奥穂高岳山頂に到達したが、悪天候のため下山できず、頂上付近に雪洞を掘ってビバークしていた。そこへたまたま穂高岳山荘のスタッフが現れたため、助けを求めたのであった。
最初のうちは元気そうに見えた男性は、スタッフといっしょに山荘へ向かう途中、みるみるうちに弱ってきて、とうとう自力で歩けなくなってしまった。幸い涸沢に常駐していた長野県の山岳救助隊員がサポートに駆けつけてきてくれたため、どうにか担いで下ろすことができたのだが、低体温症の進行により昏睡状態と錯乱状態を夜中まで繰り返した。その後は徐々に容態が落ち着いてきて、朝にはすっかり回復していたという。
間違い尾根から転落して行方不明になっていた愛知の男性2人(35歳と31歳)は、翌朝発見され、岐阜県警のヘリコプターで収容されたが、すでに亡くなっていた。死因はやはり低体温症であった。
北アルプスで3件の事故が起きた5月4日、現場周辺の複数の山小屋関係者は、「朝の天気はそれほど悪くなかった」と口を揃える。
〈(前日からの)雨は大降りにはならず今朝まで霧雨程度で推移してきました。9時頃からはその雨も止み、時たま薄日が差して外は明るくなるものの、キリの中から抜け出せません。早くすっきり晴れて欲しいですね。気温は11時現在+5℃、今日はあまり気温が上がらず肌寒い感じです〉
4日のブログにこう綴っているのは、白馬山荘スタッフだ。また、長野県警航空隊の櫛引隊員は、「ガスで稜線は見えず、風もそこそこ吹いていた」と言うが、朝方1時間ほど、槍・穂高連峰で行方不明になった単独行の登山者をヘリコプターで捜索している(後日、南岳の山頂付近で遺体が発見される。死因はやはり低体温症と見られている)。つまりヘリコプターを飛ばせないほどの悪天候ではなかったということだ。
ところが、昼前後から天候が急変した。
「昼前から天候が崩れ出し、ぐんぐん気温が下がってきました。最初はみぞれ混じりの雨だったのが、午後になって吹雪に変わりました。警備隊員になって10年以上経ちますが、これほどいっきに風が強く吹き出したのは経験したことがありません。自分としては急変したな、という認識でした」(岐阜県警・川地隊員)
「いったんやんだ雨がしばらくしてまた振り出し、それが雪に変わりました。午後になって風が出はじめたかなと思ったら、瞬く間にブリザードのような吹雪になってました」(白馬山荘スタッフ)
この日、小誌の前編集長も、猿倉から小日向のコルに向かう途中の午後3時ごろ、天候の「激変」に遭遇する。つい1時間前までは青空が見えて半袖で歩けるほどの暖かさだったのに、西からやってきた黒雲が天を覆ったのと同時に気温が一気に下がり、冷たい雨が落ち始めたのだ。それから10分もしないうちに雨は横殴りとなり、午後4時には完全な暴風雨に変わっていたという。標高2000mに満たない場所でこの状況だったのだから、3000mの稜線上は猛烈な吹雪になっていたことは想像に難くない。
「あの日の天候の変化はまさに突発的で、荒れ方も尋常ではありませんでした。たとえ装備が完全であったとしても、あの時間帯に吹きさらしの稜線にいたということだけで、生存の可能性は限りなくゼロに近かったと思います」
ただ、急変したことはさておき、この日の天気が芳しくないのは事前に予想されていたことだった。「3、4、5日は天気が悪くなるという予報だったので、『予報どおりだな』という印象でした」と言うのは北穂高小屋のスタッフである。長野県警・櫛引隊員も、「一般登山者がどれだけ認識していたかわかりませんが、上空に寒気が入ってきて山が荒れるのは事前にわかっていたことでした」と言っている。
また、気象予報士・猪熊隆之氏は、日本山岳会の春山天気予報配信にて、北アルプスにおける4日の荒天をぴたりと的中させている。
「4日の天候は冬山の気象の典型的な疑似好天パターンでああり、予想天気図をチェックしていれば天候の変化は予測できたはずです」(猪熊氏)
さて、悪天候が予想されるとき、あるいは悪天候に遭遇してしまったときにまず考えなければならないのは、どの時点でどういう判断(計画を決行するか撤退するか)を下すか、だ。それを誤ると、悪天候につかまって命を落としてしまうことになる。
白馬岳で遭難したパーティが事故当日にたどった栂池ヒュッテから白馬山荘までの行程上には、エスケープできるルートや山小屋はまったくない(白馬大池山荘は営業期間外)。しかもいったん主稜線に上がってしまったら最後、白馬山荘までは風雪を避けられるような場所も皆無といっていい(風下側に逃げようとしても滑落してしまう危険がある)。だとしたら、すでに天候が荒れはじめていたと思われる主稜線に上がった時点で、引き返すという判断を下せなかったのだろうか。穂高連峰でのケースでも、北穂高小屋に着いたときに予定を変更して停滞するという選択肢をなぜ選べなかったのか。
この2つのパーティはどちらも6人メンバーで、九州からやってきているという点も共通している。6年前(2006年)の10月には、やはり九州から来たガイド登山の一行7人が祖母谷温泉から白馬岳へ向かう途中で悪天候につかまり、4人が低体温症で亡くなるという同様の事故も起きている。これらの事例から想起されるのは、遠方から来ていることが計画の強行につながっていなかったか、そして6、7人という人数が悪天候下でのスピードダウンをもたらさなかったか(ほかの登山者の目撃談や救助要請した時間などから考えると、両パーティの行動ペースは明らかに遅い)、という疑問だ。それらが判断ミスの一因となった可能性は否定できない。
今回の白馬岳と穂高連峰のパーティのメンバーは、決して初心者というわけでなく、経験の長い山慣れた人が多かったという。両パーティとも事前に登山計画書を提出しており、白馬岳のパーティの場合は所要時間を標準コースタイムの1・5倍で計算してあったそうだ。そうしたことを考えると、当然、豊富な経験に基づき、さまざまな判断材料を考慮して決行を決めたのだと思うが、いずれにしても結果的にどこかで間違った判断を下してしまったと言わざるを得ない。
もちろん、同じ日に同じコースをたどった登山者はほかにもいる。そのなかのあるパーティは途中で引き返してきて難を逃れ、またあるパーティはなんとか無事に歩き通している。彼らと、遭難したパーティとの差はどこにあるのか。それを詳しく検証することができれば、より明確な教訓が得られるはずである。
ところで今回の白馬岳での遭難をめぐる報道では、関係者の当初の発言として、遭難者が全員軽装だったことが大きく報道された。曰く、
「Tシャツの上に夏用の雨がっぱを着ただけの軽装備だった」
「6人とも防寒用のダウンやフリースを身に着けていなかった」
「この時期、冬山装備が常識の北アルプス登山では考えられない軽装」などなど。
しかし、長野県警が最終的に確認したところによると、後日回収されたザックの中にはダウンジャケットなどの防寒具は使われないまま入っていたというが、6人のなかにはダウンジャケットを着ていた人が2人いたし、最新のレイヤードを取り入れ上半身のウェアだけで7枚重ね着していた人もいた。いちばん薄着だった人でさえ、半袖と長袖のシャツにアウターのジャケットを着ていたのだ。
春山で行動するウェアとしては決して軽装ではないし、現場では使用した形跡のあるツエルトが発見されるなど、悪天候に対処しようとした工夫も見られる。
それがなぜ「薄着だった」ということになってしまったのか、理解に苦しむ。間違った情報は多くの人に誤解を招き、遭難者やその家族にいわれなき誹謗中傷が浴びせられることになる。自戒を込め、関係者やマスコミは正確な事実を発表・報道すべきである。
ただ、爺ヶ岳で遭難した女性については、装備および計画が不充分だったようだ。扇沢の登山指導所で女性に対応した北アルプス北部地区山岳遭難防止対策協会理事の矢口正人は、「どちらへ行かれますか」という質問に対し「五竜まで」という答えが返ってきてびっくりしたという。
「この日だけで爺ヶ岳登山口から四十数人の登山者が入山しましたが、全員が鹿島槍ヶ岳の往復するという計画でした。この時期、扇沢から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳を越えて五竜岳まで行けるのは、ごく限られたエキスパートの登山者だけです。なのにその女性はスパッツもせず、ピッケルも持っていませんでした。一見して素人のような恰好でしたね。しかもザックは30リットルぐらいの小さなもので、そのザックからストックを取り出していたようでした」
女性は矢口氏の説明や問いかけにも終始無言で、「鹿島槍へのピストンに変更したほうがいいですよ」というアドバイスに従って登山届けに記入はしたが、矢口氏がほかの登山者の応対をしているうちにいなくなってしまったという。ちなみに自作の登山計画書(登山届け)は持っておらず、冷池山荘にも予約の連絡は入っていなかった(当日、冷池山荘には約35人の登山者が宿泊したが、そのほとんどが事前に予約を入れていた)。
報道によると、この女性は登山歴約15年で、毎週のように山に出掛けており、今年の1月にはキリマンジャロにも登頂しているという。それほど山の経験があるのに、なぜ無謀としか思えない山行を実施しようとしたのか。その疑問は解消されないままである。
なお、白馬岳で遭難したパーティについては、なぜひとかたまりになって亡くなっていたのかという疑問も残る。登山中に悪天候に遭遇して低体温症になる場合、パーティのメンバー全員が同じタイミングで同じように動けなくなることはまず考えられない。いちばん先に病状が進行した者がまず行動不能になり、まだ動ける者は救助を求めるための行動を起こすというのが、これまでの事例で見られたパターンだ。前述の6年前のガイド登山の遭難や、3年前のトムラウシ山でのツアー登山の遭難では、力尽きた順に倒れていったので、結果的にパーティはバラバラになっている。
それがこのケースに限っては、なぜバラバラにならなかったのか。いちばん最初に倒れたメンバーを介抱しようとしているうちに、全員がその場で低体温症になってしまったのか。あるいは6人が寄り添って猛吹雪をやりすごそうとしたのか。その謎も残念ながら明かされることはないだろう。
最後になりましたが、亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、同様の事故が繰り返されないことを願っています。
http://www.sangakujro.com/column/201206.html
白馬岳6人遭難の不可解 岡森利幸 2012/7/8
以下は、新聞記事の引用・要約。
毎日新聞朝刊2012/5/6 一面、社会
白馬岳で倒れていた6人の死亡が確認された。軽装を吹雪が襲う。
春山一転氷点下に、装備判断が難しい時期だった。
毎日新聞朝刊2012/5/8 社会
白馬岳遭難の遺留品を回収した。ザックに冬山用ズボンなど用意、約15キロあった。6人で使用したと見られ、発見時に遺体に巻きついていたツェルト1点も回収した。
私は若い頃、装備や服装もいいかげんで、体力もないくせに、単独で、日が暮れて真っ暗になった中で道なき道をたどって奥秩父の金峰山(2599m)の無人小屋を目指したり、土砂降りの雨の中を甲斐駒ケ岳(2965m)に登ったりした無謀なハイカーだったから、ベテラン登山家たちの遭難について語る資格はまるでないことはわかっているし、気後れしてしまうのだが、この遭難については考察してみたい。この遭難には謎が多すぎるのだ。山に関しては、彼らは無謀な私よりすっと判断力もあり、装備もしっかりしていたはずなのに……。
白馬岳(2932m)で6人のベテランがそろいもそろって凍死してしまうとは、彼ら自身にとっても「想定外」のことだったろう。
状況を整理してみよう。
遭難した6人は、北九州市の医師ら60代と70代の男性パーティ。登山経験は、中には5年程度の浅い人もいたが、ほとんどベテランという人たちだった。九州から長野県に来て、5月3日から2泊3日という登山計画だった。5月3日、標高1850メートル付近の栂池ヒュッテに到着し、泊まった。5月4日の午前5時過ぎに出発し、12時間(通常7〜8時間の行程らしい)後の午後5時に白馬岳山頂付近の山小屋到着の予定で、白馬岳を目指した。
天候は、出発時、青空が見えていた。午後になると、付近で雨が降り出した。みぞれ混じりの雨から、やがて風速20メートル、吹雪になり、氷点下2〜3度にもなった。
彼らは白馬岳山頂付近の山小屋にたどりつけなかった。翌日の5日午前8時に別のパーティが発見・通報したときには、その約2km手前の、小蓮華山(2769m)の山頂付近の稜線上で、5人がツェルトに包まってかたまり、もう一人は50メートルほど離れたところで雪面の上に倒れ、全身が凍り付いていた。地元の医師によって、低体温症による死亡と診断された。
発見されたときの彼らの服装は、夏山用のシャツに、ゴアテックス製の雨具を着用していた。ザックの中には、羽毛ジャケットや冬山用ズボンが、使われないままに残っていた。
私が疑問に思う、おもな謎を列挙すると、
@悪天候をなぜ軽視したか
A6人は、年齢的に体力が落ちている。次の山小屋にたどり着くのがむずかしいのならば、なぜ近くの山小屋に引き返すなりして、安全なところで待たなかったか。(大池山荘が一番近そうだ。)
B発見されたとき、軽装だったのはなぜか。15キロの重いリュックを背負っていた。それには冬山用の服装が入っていた。なぜ着替えなかったか
Cなぜ、凍死する危険の高い尾根筋でビバーグしたのか。そんなところでビバークしたら、体温がどんどん下がってしまう。その危険性になぜ気づかなかったか。
当初、報道では、彼らが天候悪化の中で軽装で登山を強行したことが伝えられた。春は、時期的に変わりやすい天候で、日差しが強く、暑いぐらいの状況から、雪を降りしきるような極寒の世界にいっきに変化することもあると解説していた。メディアが解説するような内容のことならば、彼らほどのベテランならば、充分に知っていたはずだ。
彼らの登山計画に無理があったとは思えないが、天候の変化に対応できず、体力的についていけなかったことが推測される。たまたま、中の一人の体調が悪くなったのだろうか。
ザックの重さ15キロというのは、相当重い。肩に食い込む重さだ。その昔、私が勤労青年だった頃、ゴールデンウィークの連休(遭難した彼らとちょうど同じ季節)を利用し、職場の仲間と上高地から槍ヶ岳(3180m)を目指したことがある。仲間と相談して寄せ集めた登山装備品やキャンプ用品やらを持っていくことになったが、私が持っていた小さなザックではとても入りきらず、大きなザックを借りて、それらを詰め込んだ。ザックは15キロほどの重さになったと思う。しかし、私はその重さに音ねを上げ、上高地からほんのすこし上がったところのキャンプ地まで歩いただけでギブアップしてしまい、仲間にずいぶん迷惑をかけた苦い思い出がある。
今でも私自身、それほど重いザックを背負って山登りをしようとは思わないが、彼らにとっては重過ぎるほどではなかったはずで、充分な内容の装備を入れることで、重いリュックは心強い存在だったろう。しかし、遭難するぐらいなら、そんな荷物を背負うのは止めて(ザックなど投げ出して)、身軽な格好で次の山小屋に向かう選択肢はなかったのだろうか。
途中、尾根でビバークした判断はどうだったのだろうか。ツェルト1点(不時の露営に用いる軽量で小形のテント、広辞苑より。ツェルトを持っていたことだけでも、彼らが用意周到なパーティだったことがわかる)を6人で使用して、ビバークするのは最悪の状況だ。じっとしていては体が冷え込むだけだ。体温を保つためにも歩き続けて、先にある山小屋を目指すべきだった。ビバークした理由として考えられるのは、「もう動けない」と言い出した人がいたことだろう。その人のために、全員がいっしょにビバークしたと思われる。冬山でパーティがもう動けない人を置いて出発したら、確実に「見殺し」になる。それがパーティ全体の遭難につながったとなれば、リーダーとしては、動けない人を置き去りにする決断も必要だったかもしれない。命に関わるのだからリーダーの責任は重い。
「雨風がおさまるまで……」
最初はほんの一時的なビバークだったにせよ、それが寒さと疲労のために永久になってしまった。尾根に強い風雨が吹き荒れ、吹雪にもなった……。
全員が凍死した背景に、服装に問題があったことは確かだろう。というより、着替えるタイミングの判断の問題だった。山小屋を出発したときには、好天だったかもしれないが、その後に雨が降り出したとされる。ゴアテックスの雨具は、雨滴を通しにくく通気性がよいという評判の高い繊維を使用したものだが、風が強まったときはどうだろうか。少しは水分がしみこみ、体の表面が濡れた状態にならないか。さらに天候が悪化し、吹雪になったときに、冬山の服装にどうして着替えなかったのか。6人の中から、「みんな、冬山用に着替えよう」という一声がどうして出なかったのだろうか。風雨が激しすぎて、着替えられなかった状況があったのだろうか。
有識者によると、雨で肌着がぬれている状態で、氷点下の強い風に吹かれてしまうと、一気に体温が奪われ、体力も判断力も、それに伴って低下してしまうことがあるという。彼らは、吹きっさらしの稜線上にいたから、強い風をまともに受ける場所にいた。それを避けようとしたはずだが……。
〈ツェルトは、ビバークするためというより、強い風雪を避けるために使用したのだろう。彼らはようやく広げたツェルトの中に、雨具を着たまま、もぐりこんだ。水分がしみこんだ雨具であっても、それを脱ぐ気にはなれなかった。吹雪の中に、まだ雨が混じっていたのだ。ツェルトの中でも、寒かった。それはほとんど風除けには役に立たなかった。風がさらに強くなった。氷点下の風が容赦なく、疲れた体を吹き付けた。寒い、寒すぎる。スーと意識が遠のく……。
ふと、1人がほかの5人の異変に気づいた。
「おい! みんなしっかりしろ!」
と叫んだが、それに答えるものはいなかった。聞こえるのは荒れ狂う風の音だけだった。彼らは眠ってしまったように動かない。寝息さえ聞こえてこない。
「たいへんだ」――ぞっとするような恐怖感とともに、彼の脳裏に『遭難』という文字が浮かんだ。そして彼が思いついたことは、救助を求めることだった。
2キロ先の山小屋に行けば、人がいる。彼はツェルトを出て、強い吹雪に翻弄されながら、重い足取りで雪面を歩いた。しかし彼も50メートル歩いたところで、うずくまった……〉という推測をすることで、私はいくつかの疑問に対して納得できる答えにたどりついた。
山で遭難したら、ぼろくそに言われても(メディアで報道された中には、「彼らは山を甘く見たんだ」という意味の論調が多かった)、あるいは茶化されても仕方がないところだろう。
蛇足として、〈山高きがゆえに貴たっとからず〉のパロディを一つ、
〈ザック重きがゆえに役立つものであらず〉
http://www17.plala.or.jp/tokamori/zshirou0.htm
僕らも現場にいた・連休の白馬岳遭難について考える by やじろう 2012-05-09
5月5日深夜をもってついに稼働ゼロとなった日本の原発の今後なども気になるのだけれど、とり急ぎこのゴールデンウイークに多発した山岳遭難の話題。なかでも、白馬岳で北九州市の医師ら6人パーティの全員が死亡した事故は他人事とは思えない。弥次郎たち5人パーティは彼らと全く同一のルートを一日遅れで登る計画だった。
もともとは連休前日の2日夜に和歌山を発ち、翌3日栂池スキー場のリフトやロープウエイを頼って標高1840mの栂池ヒュッテに宿泊。翌4日夜明けと同時に同ヒュッテを出て、天狗原(2204m)、乗鞍岳(2437m)、白馬大池(2370m)、小蓮華山(2769m)、三国境(2751m)を経由して白馬岳(2933m)に登頂、その直下の白馬山荘に達する予定だった。
http://f.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509114735
この目論見は出発地が和歌山市だったことと、我々がつぼ足ではなくスキーでの登高だった点を除けば遭難パーティと全く同じだ。登頂の翌日5日がこの山行のクライマックスで、白馬大雪渓から標高差1700mをテレマークで一気呵成に滑降して猿倉(1340m)に下山というプラン。悪天への対応を考慮し連休最終日の6日を予備日に充てていた。
だが、事務所の引っ越しやらなにやらでリーダーの弥次郎自身がめちゃ忙しくて、栂池ヒュッテに予約の電話を掛けるわずかな時間も取れず、ようやく4月も末になって電話をしたらもう満室で宿泊不能とのつれない返事。予備日が平日の7日になってしまうが、やむを得ず計画を丸一日順延して、まだ空きがあった4日に宿泊の予約を入れたのだった。もし3日に予約が取れていたら、恐らく遭難パーティと同時刻に出発し、前後しながら登っていたはずだ。
先に書いた栂池から白馬山荘まで夏なら約7時間のルートだが、残雪期はその3割増を見ておきたい。とすると所要約9時間。夜明けの5時にスタートしても白馬山荘着は午後2時になる。よほどの健脚であれば別だが、平均的な登山者の力量でこれより遅い時刻の出発になって少しでもトラブルに見舞われれば、日のあるうちに安全な山荘にたどり着ける保障はない。そして、栂池高原をこの時間に出発するには、そこにあるこの時期唯一の宿、栂池ヒュッテへの前泊が必須であり、同ヒュッテに泊まれなければ我々のように日延べするしかない。
かくして我がパーティが1日遅れの行程で栂池に入り、スキー場でトレーニングしていた4日午前、ガスが山稜を包み展望は終始きかなかったものの、次第に雲の切れ間から青空が覗く時間帯もあって、その後の回復が期待されたのだが正午頃から再び日は陰り、やがて雨も落ちてきた。そこで我々は早々にチェックインして部屋でくつろいだのだったが、報道された目撃証言によればちょうどその頃、遭難した一行は小蓮華山への登りの途上にあって、リュックを他のメンバーに担いでもらっている人もいたという。
5時の出発から8時間を経由してなお小蓮華山に到達しないのは余りに遅い。天候は悪化の一途だったはずで、すでに落伍者が出て遭難寸前ではなかったか。目撃証言の主がこの困窮パーティにどう接したかは報道になく腑に落ちない所もあるのだが、ただ、小蓮華山からさらに前進して白馬山荘をめざすか、それとも栂池ヒュッテに引き返すかの判断は微妙だ。
夏道時間で比較すれば白馬山荘まであとわずか2時間だが、まともに風を受けての厳しい雪稜の登りになる。一方、栂池ヒュッテへは4時間と時間は倍かかるが下りで体力的には楽だ。それに1時間半耐えて下れば主稜線から外れて風圧も緩むだろう。ここはやはり引き返すべき所だったのではないか…
その夜は猛烈な風になった。間欠的にうなりを上げて吹き付ける風の音で眠れないほどだ。遭難パーティは雪洞を掘るスコップも悪天から身を守るツエルト(簡易テント)も持参していなかったという。翌朝8時頃、6人は小蓮華山から白馬方面へさらに進んだ三国境付近で全員、遺体となって発見された。低体温は思考力も奪っていたのか、漫然と無防備に暴風雪の中を進み無抵抗のまま力尽きた姿だった。
一方、我々は予定通り4時に起床して出発準備を始めたが強風が弱まるのを待つこととして8時までヒュッテ内で待機、その結果の時間切れで、乗鞍岳までシール登高して来たルートを滑降するのみに止めてこの山行を終わらせた。息を切らせながら雪の斜面をシール登高している間、しばしば上空をかすめたヘリは遺体を運んでいたのかもしれない。
さて、メディアは例によって、装備の不十分さ、判断の誤りなどを次々にあげて、この遭難の原因を論じている。だが、装備について言えば、たとえば彼らが夏用の雨合羽を着用していたことをやり玉に挙げて非難しているが、我々だって雨合羽だった。冬山用のヤッケは暖かいが防水機能はない。この時期、怖いのは雪より雨で、下着まで濡れて冷えればたちまち致命的になる。
両方持参すれば良さそうなものだが、冬用ヤッケはかさばるし重い。荷物が増えればそのぶん確実に行動は遅くなる。速度が死命を制する場合もあるのだ。コトは山の素人の記者が考えるほど単純ではない。雪が降ったときに重ね着する軽いダウンをリュックに忍ばせて雨合羽を着用するなど、安全と軽量化を考えればごく普通の選択ではないか。
とはいっても、間違いがなければ防げた遭難であったことも事実だ。6人パーティにツエルトひと張りもないというのはやはり論外だし、悪天下で落伍者が出て行動が遅延したときの判断も適切だったとは思えない。だが、山岳遭難が起きるたび、原因をいつもこうしてすべて自己責任に還元してしまうのはいささか問題なのではないか。
例えば、釣りや海水浴で溺れた事件で同様の自己責任が問われるか。警察などの救助ヘリが出動するたび、税金がいくら係ったなどとイヤミたっぷりに報じられるのは山岳遭難事故だけであって、溺れた人の捜索でヘリが飛ぼうが飛行機が飛ぼうが船が出ようが、それを問題視する報道にはお目にかかったことがない。同じレジャーでの事故、山と海とで一体何ゆえにこれほど扱いが違うのか、明確な理由があれば教えてもらいたい。
登山が文化的に生きる権利として認められているヨーロッパアルプスなどでは、登山者をトレーニングする公的な機関とプログラムがあり、厳しい山に登る際には事前に登山者の力量や装備のチェックが入念になされるシステムもある。また、いざ遭難となれば救助隊がヘリで直ちに急行する体制も公的に確立されている。山岳遭難事故が起きるたび、全マスコミを挙げてことさらに自己責任を言い募る我がニッポンの風潮には、本来国などが果たすべき責務を免罪する意図が隠されているように思われてならないのだ。
【5月11日追記】
5月8日に書いた以下のブログについて、一部訂正します。
白馬岳で遭難した北九州の医師ら6人パーティについて、本日付の朝日は現場から回収した4つのリュックから、ダウンジャケット類や下着、ツエルト2張りが回収されたと伝えています。うちツエルトひと張りは使おうとした形跡もあったそうです。従って、前のブログに書いた
「悪天から身を守るツエルト(簡易テント)も持参していなかったという」
さらに
「6人パーティにツエルトひと張りもないというのはやはり論外だし」
の部分はいずれも誤りで、訂正ないし削除しなければなりません。
そこで追記として2点。
まず、せっかく持っていた装備を使う余裕もないほど天候の悪化が急激であったか、そうした最低限の身を守る対応にも難渋するほど疲労困憊してパーティの力が落ちていたか、ないしはその両方が相まってこの事態に立ち至ったことが想定されます。そうなると、ますます気になるのがこのような状況に至るまでのリーダーの判断で、ここから先は結果から推定した懸念と断っておきますが、そもそもこのパーティにはリーダーと呼べる人がいたのかどうか。
リーダーも曖昧な仲良しグループや寄せ集めグループの登山は珍しくありませんが、その大半が無事に済んでいるのは、実は運が良かったおかげという面もあります。もし、今回のような天候急変など深刻なトラブルに遭遇すれば、強力なリーダーシップを持たないグループはたちまち烏合の衆と化し、撤退などの意志決定ができないまま漫然と機会と時間を喪失、挽回不能な窮地に陥ってしまうケースがままあります。今回の遭難パーティがそうだったと決めつけるわけではありませんが・・・
次いでもう一点、この国のマスコミはこれほどまでにデタラメだということです。当初の報道でツエルトを持参していないなどを挙げて装備不足を盛んに非難したのは、いったい何を根拠にしていたのか。誰かが憶測で流した情報に、すべてのマスコミが裏付けも取らずに飛びついたのではないか。「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」は巷間に流される噂や伝聞の正体を暴いた名言ですが、これが真実の報道を看板に掲げるメディアの現実の姿なのです。
今回の遭難報道においてまたも馬脚を現したマスコミのこの無惨なほどの無能さ。原発報道でも見たこの国におけるジャーナリズムの不在は、国民にとり本当に不幸なことだと思います。ともあれ、このいい加減な報道に頼り(実際、アクセスできる情報はそれしかないのですが・・・)、自分もまた間違った内容を書いてしまった点については、前記の通り訂正削除の上、お詫びします。
コメント
千石岩千石岩 2012/05/11 09:01
メデイアは彼等の服装についてTシャツと合羽と報道してますよ。
肌の上にTシャツ、合羽だけなら低体温は当然なので
そこのところがメジャーなNEWSではよく判らないんですが。
futarinoyamafutarinoyama 2012/05/11 11:03
to仙石岩さん
ご訪問ありがとうございます。
「メジャーなNEWS」のていたらくは先ほど追記したとおりです。本当によく判りませんね。
それはさておき、「Tシャツに合羽」は、あの日の午前中の気象条件からはあり得たと思います。正午近くまでは異様に気温が高く、私たちはテレマークでゲレンデ遊びをしていただけですが、それでも汗ばみました。つぼ足で雪の斜面を登っていればなおさらでしょう。ただ、天気が崩れるときには、いくら山でも必ず予兆はあるものですから、それをキャッチすれば汗に濡れたTシャツを脱いで、ザックの中の乾いた衣類等を着込むこともできたはずなのですが・・
自由の戦士自由の戦士 2012/06/17 10:35
彼らは小蓮華山頂で誰からも拘束されない自由な意思決定を行い命を失うリスクを負ったのだ、ミスを犯して命を失った者に死者に鞭打つようなバッシングはするべきでない。
なぜならば、人々はミスによるバッシングを恐れ、まわりを気にして、受け売りに徹するだろう。皆で間違えても叩かれないからだ。
ミスを恐れ、萎縮した社会では経済発展も望めないだろう。少数意見を評価しない社会では福島原発事故のような事故が再び起こる可能性があるだろう。
山岳地帯に死亡の可能性がある人がいる場合の警察の活動は治安維持活動が主である。
警察官は現地に行き、現場の状況を調査、写真をとり、死亡の可能性がある人をヘリで麓に運んで医師に検死させ、事件性がないか調査するためである。もし警察がこのような活動をしなければ、山岳地帯での殺人はバレないことになる。
警察は前記の治安維持活動のほか警察ヘリ等による救助活動も行なっている。一方、マリンレジャーでの遭難は海上保安庁の艦艇、ヘリ、航空機による捜索が行なわれ、公費が投入されている。山岳遭難だけがクローズアップされているのが現状であるが、登山に価値観を認める信条の人々をべっ視することは差別にあたる。
日本国憲法は「すべての国民は法の下に平等であり信条で差別されない」また、「自由及び幸福追求に対する国民の権利については、最大の尊重を必要とする。」と規定している。
登山に価値観を認める信条に対する差別だとマスコミを訴えればいい。弁護士も余っている時代だ、海難の比べ差別的だとやればいい、マスコミ相手なら名を上げるため着手金なしでする弁護士はいくらでもいる。裁判所は差別を肯定するだろう。判例ができればマスコミもおとなしくなるに違いない。
山に登って幸福を得る人々に「山に登って何がおもろいあほか」と言わんばかりに価値観の違う者に村八分的発想を持つ人々が多い、日本人の横並び的意識は江戸時代から変わっていない。価値観が多様なグローバルな世界にはたして太刀打できるか疑問に感じる。
甲斐駒ファン甲斐駒ファン 2012/06/23 01:36
徒然に山岳遭難についてネットサーフィンしていたら拝見したので書き込みます。
私もGWに単独で白馬岳主稜と双子尾根の二本を登り、双子尾根樺平で幕営中、夜半にヘリが暴風の中飛んでいるのを聞き事故を悟りました。
当日の天気ですが午後1時ごろまでは曇り、それからパラパラと雨が降り始め、午後3時ごろには本降りに変わりました。風は午後6時ごろから強風が吹き始め、樺平で幕営中の私のテントのポールが折れたので30m以上はあったと思われます。天候の急変というには考える時間は十分にありました。
小蓮華尾根は残雪期白馬の一般登山ルートでGW中相当数のパーティーがバリエーション中心に入山して無事故だったのにもかかわらず、そこで大量遭難したのはやはり登山者の力量不足と言わざるをえません。マスコミは確かにデタラメですがそれとこれは同一に論じてよいものでしょうか。あの日の天候はごく想定の範囲でした。
また冬用ヤッケは防水性はないと書かれていますが、最近のウエアはハード、ソフトシェルでも十分な防水性能があり十分軽量です。
当時私は幕営装備、登攀用具など含めて35?を担いでいました。見落とされがちな点ですが、やはり高齢で体力を過信しすぎた暴走だったと思います。またいくら道具を持っていたとしてもそれらを十分に使いこなせることができなければ単なる飾りに過ぎず、実質的にTシャツと合羽だけで装備不足と書かれても仕方のないことです。
見落とされがちなことですが登山では目指す山に合った体力があるかどうか、これは技術以前に大切です。また積雪期の登山を軽く見すぎるのも如何なものかと思います。
ヨーロッパと比較されていますが向こうは観光登山とアルパインは厳密に区別されています。山の違いもありますが日本は山菜採りからクライミングまで判然としません。
私も長年山に入っていますが不用意な登山者には注意を促します。マスコミに文句を言っても仕方ありません。また海と比べて差別だといっても自ら貶めるようなものです。各自が志を持って良い登山ができるように微力ながら努力しませんか
自由の戦士自由の戦士 2012/06/26 22:15
甲斐駒ファンさん ご意見有難う御座います。やじろうさんお邪魔します。
かって山岳事故が多発しマスコミが山岳遭難のたびに大々的に報道した結果、危険な山は登山を規制するべきだとの世論の動きに、県が登山に関する条例を制定したのです。
積雪期の劔岳西面や一の倉沢など、地元警察の裁量権を認め、単独はだめだとか登山禁止にできるとか、罰則もあり、登山の自由を規制したものとなっています。
「装備を持っていても使いこなせなければ無いのと同じ」おっしゃるとおりです。使いこなせなかった原因があったのかもしれませんが、彼らは小蓮華で撤退するべきだったと思います。
危険を嫌い、安全、安心な社会がキャッチフレーズになるような世論が主流になってきています、いつ危険なことは止めさせろと言い出し、積雪期の後立山連峰東面も登山を規制される可能性はあります。
マスコミの行き過ぎた遭難報道には異議を唱え、みんなで登山の自由を守るよう努力しようじゃありませんか
自由の戦士自由の戦士 2012/06/26 22:15
甲斐駒ファンさん ご意見有難う御座います。やじろうさんお邪魔します。
かって山岳事故が多発しマスコミが山岳遭難のたびに大々的に報道した結果、危険な山は登山を規制するべきだとの世論の動きに、県が登山に関する条例を制定したのです。
積雪期の劔岳西面や一の倉沢など、地元警察の裁量権を認め、単独はだめだとか登山禁止にできるとか、罰則もあり、登山の自由を規制したものとなっています。
「装備を持っていても使いこなせなければ無いのと同じ」おっしゃるとおりです。使いこなせなかった原因があったのかもしれませんが、彼らは小蓮華で撤退するべきだったと思います。
危険を嫌い、安全、安心な社会がキャッチフレーズになるような世論が主流になってきています、いつ危険なことは止めさせろと言い出し、積雪期の後立山連峰東面も登山を規制される可能性はあります。
マスコミの行き過ぎた遭難報道には異議を唱え、みんなで登山の自由を守るよう努力しようじゃありませんか
甲斐駒ファン甲斐駒ファン 2012/06/30 02:32
徒然にお邪魔して書きっ放しも何なんで再度。浅学なものでどうも論点がわかりません。自由の戦士さんの論点はマスコミ批判ですかね。私は何かに依存しすぎた登山者に問題有りと思っています。
剱や谷川で規制があるからといって登山の自由が侵されたとは思っていません。何度か冬季も届けを出して山タン持って入山しましたが、山の中は自由です。
自由と身勝手は異なるものだと思います。山に入るのは誰でもできます。でも己を知らず山を知らず、自由だというのは違うのではないですか。ザイルを担いでいるとよく初心者に声を掛けられます。「(目的地まで)あとどれくらいですか」これはまあありがちです。
しかし「ここはどこですか」とか「高山病で動けません」とか地図もコンパスも持たず「道がわかりません」と金魚の糞のように私の後をゾロゾロ。そんな経験が無数にあります。「なんじゃ。こりゃ」これが登山の自由なのでしょうか。メディアは騒ぎすぎですが遭難するのはへっぽこばかり。誤解を恐れずに言えば同好の士と思えない連中ばかり。これからハイシーズンですが極論すれば現在の日本の山岳遭難は99・9%登山者の責任です。
また衝立はじめ谷川も決して「危険な山」ではありません。それなりに訓練を積めば「良い山」です。事実一の倉や幽の沢で近年事故は聞きません。岩場や雪山で自分の上に素人がいるのが判ったときほど恐怖感を覚えることはないですね。山の評価を貶めるのは「危険な登山者」ではないでしょうか。それを助長するのは胡散臭い山岳会、ガイド、(もちろんそうでない山岳会やガイドも沢山いるのは承知の上です)金儲けに走る山小屋、ツアー会社。百名山、山ガールなど煽り、マッチポンプ式に落とすマスコミ。重層的にことが入り組んでいますね。
世の中にリスクゼロなどあり得ず、主観である安心と客観である安全が両立することも稀なのに乱発する政府やマスコミの姿勢は無論反対ですが行き過ぎた遭難報道で登山の自由が侵されるというのはやはり飛躍しすぎです。どのジャンルでもいかに規制を受けようと挑戦する人は絶えないし、大丈夫だと思います。白か黒か、敵か味方かという二分論はどうしても得心できませんね。山と海ってのも対立するものではないんじゃないですかね。
自由の戦士自由の戦士 2012/07/20 21:28
再度おじゃまします。
積雪期の劔岳西面、届けをして届済書を持参しなければいけない。届済書を持参していなければ条例違反で罰金対象。明日天気が良いから行こうという訳にはいかない、登山の自由が制限されているといえる。もっとも罰金覚悟で行く登山者は論外ですが。
百名山の大山、最高峰の剣が峰には行けません立入禁止です、地元大山町の問合せたところ回答だった。さらになぜ立入禁止と続けると、稜線の崩壊が激しく危険だから。だれが立入禁止にしたの、大山遭難防止協会。どんな組織、地元警察が主体となり町などが構成員。
話が見えてきた、地元警察が山岳遭難事故の抑止のために動いた、法的根拠がないので直接すると国家権力による憲法違反だと突っ込まれるので、権利能力のない団体である大山遭難防止協会をクッションにマスコミを宣伝媒体に使って「危ないから立入禁止だ」と大衆誘導を行ない実質の立入禁止を実現させている。
もしこの立入禁止区域で遭難事故を起こしたら、地元マスコミは「立入禁止を無視した無謀登山者」と書き立てるだろう。マスコミは基本的人権である言論の自由は主張するが、同じ基本的人権である登山者の意思決定の自由や行動の自由には目もくれないご都合主義といえる。
節電の夏、家庭の消費電力の約10%はテレビである(財団法人省エネルギーセンター)テレビを見なければ約10%の節電ができるのにテレビ局は「節電のためテレビを見ないようにしましょう」とは一切言わない、マスコミのご都合主義は明らかである。
マスコミは事件の特だね情報を警察から得たいという心理が働き、警察には協力的で山岳遭難は大騒ぎする。山は危険というイメージを国民に植え付け、山岳事故を抑止しようとする警察の意図が見え隠れする。一種のパターナリズムである。
マスコミが地元山岳遭難対策協議会などが危険なので立入禁止になりましたと報道すると、大多数の登山者は他人の目を気にして行こうとはしない。ごく一部の危険なルートに挑戦するのが大好きな特殊な登山者が他の登山者から白い目で見られながら、事故の場合は「立入禁止を無視した無謀登山者」とのレッテルを貼られるリスクを負いながら入山するのが現実である。
大山、剣が峰のような立入禁止は全国各地の山で見られる、地方自治体の財政事情が逼迫すれば山岳遭難救助対策費を抑えたいと動くだろう。事故の多い山はますます立入禁止や立入制限が増えるような方向に向かうだろう。
もっとも妙義山の鷹戻しルートでは地元警察の圧力を登山文化を守ろうと立ち上がったと登山愛好家によって登山の自由は守られた。
また、バックカントリースキーにおいても同様なことが言える、スキー場のゴンドラなどを使い、さらに登って滑り降りる、よく使う手法であるが、今年この手法で五竜遠見と野沢温泉スキー場の近郊で起こった2件の山岳事故、スキー場管理者が「立入禁止のコース外を滑った」とマスコミの取材の答えると「立入禁止を無視した悪徳者」のレッテルを貼られている。
よく考えて見よう、ゴンドラなどの乗車券の購入時にスキー場の規定の説明があり立入禁止を守ることに同意して購入した場合を除き、そのような契約は成立していないのでスキー場の管理区域内においてもどこを滑ろうが自由である。スキー場はスキー場内での事故のおりに工作物管理責任を問われるのを恐れて保身にために言っているに過ぎない。
さらに2件ともスキー場管理区域外で起こっており、スキー場管理者がとやかく言うのは筋違いであるのに、思考力の欠落した記者が鵜呑みにして立入禁止を無視して滑ったとの報道をする。
登山者が基本的人権の理解することとマスコミの誤った山岳遭難報道が無くならないと登山の自由は守れないと思う。
rageyragey 2013/01/01 22:45
9月に開催された立山黒部アルペンフェスティバルにおける登山医学の座学で当遭難事故を取り上げ,
「天気図を見ていればふもとがいかに好天であっても山の頂は荒天であることが予想できたはずだ」
と登山医学の専門家が言っていました.
「単なる天気予報でなく,天気図を山小屋で入手する方法あれかし」とも.
ネットが繋がらずテレビもなければ,NHK AM第1の気象通報しかないですが,深夜23時に寝静まった山小屋でラジオを聞きながら天気図を書くのは非現実的ですし・・・・・
とりあえずご参考まで.
http://d.hatena.ne.jp/futarinoyama/20120509/1336531819
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