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稲作の起源
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/404.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 2 月 02 日 11:15:25: 3bF/xW6Ehzs4I
 


世界中で栽培されているアジアイネ

イネ属には20数種の栽培種と野生種が含まれており,栽培種はアジアイネ(oryza sativa)とアフリカイネ( oryza glaberrima)に大別されます。アフリカイネは西アフリカのニジェール川の周辺のみで栽培されているローカル作物であり,一般的に「イネ」といった場合はアジアイネのことを意味します。

アフリカイネはアジアイネと交配は可能ですが,その結果できた雑種第1代はほとんど繁殖能力がありません。これは両者が近い種ではあるものの異なる種であることを意味しています。つまり,アフリカイネとアジアイネは遠く離れた地域で別々に栽培化された可能性が高いということです。

アジアイネの栽培品種は長い栽培の歴史と地域の環境に合わせて数万種の品種に分化していますが,大きくインディカ種とジャポニカ種に区分されます。世界的な生産量はインディカ種が85%,ジャポニカ種が15%となっています。ジャポニカ種はさらに温帯ジャポニカ(ジャポニカ)と熱帯ジャポニカ(ジャバニカ)に区分されます。これを整理すると下表のようになります。

・アジアイネ(oryza sativa)
  ・インディカ種(Oryza sativa subsp.indica)
  ・ジャポニカ種(Oryza sativa subsp.japonica)
    ・温帯ジャポニカ(Oryza sativa subsp.japonica)
    ・熱帯ジャポニカ(Oryza sativa subsp.javanica)
・アフリカイネ( oryza glaberrima)

アジアイネの栽培地域は温帯ジャポニカが日本と朝鮮半島,中国北部,熱帯ジャポニカはインドネシア,インドシナ半島山間部,インディカ種は中国南部からインドシナ半島,南アジアと比較的はっきり栽培地域が区分されています。

現在のアジアイネは非常に多様性に富んでおり,生物学的な系統に関しては「単一起源説」と「多起源説」があり,長い間の科学的な論争となってきました。

単一起源説ではジャポニカ種とインディカ種は共通の野生種から進化したものと考えています。多起源説では長江流域で栽培化された単系統の品種群をジャポニカと定義し,稲作文化の伝播により西方で新たに野生種から栽培化された複数の品種群をインディカと定義しています。最近ではジャポニカ種とインディカ種の遺伝子的な違いの大きさから多起源説が有力視されていました。

ところが,2011年に大規模な遺伝子の解析を実施した遺伝子研究グループによる調査結果から,アジアイネの起源は約8200年前の中国に遡ることができることが判明したという報告が出されています。

この報告によると,アジアイネの遺伝子に対する「分子時計」法による解析結果として,その起源は8200年前の「0ryza rufipogon 」の限られた集団に遡ることが可能であり,その後,3900年前にジャポニカ種とインディカ種に分岐したとしています。この分岐は種子が中国からインドに持ち出され,それがインドの野生種と交雑した結果であると推測しています。

この報告は長江流域でコメの栽培が始まったのは8000-9000年前であり,インドでコメの栽培が始まったのは4000年前とする考古学的考証とも合致するものなので一定の説得力があります。

とはいうものの,考古学の世界では一つの発見がそれまでの定説をあっさりと覆すことはしばしば起きますので,これで「単一起源説」と「多起源説」の論争が決着したわけではありません。

それでも,長江流域で栽培化された単系統の品種群がジャポニカであり,インディカは(ジャポニカの遺伝子を一部受け継いでいるかどうかは確定しませんが)4000年前に南アジアで栽培化されたという基本線は確定したようです。


稲作の起源

稲作の起源とは最初にイネを栽培化したことを意味します。そのため古代の遺跡から例えば炭化した籾が発見されたとしても,それが野生種の採集によるものなのか栽培によるものなのかを識別する必要があります。遺跡からプラントオパールのような証拠が見つかっても同じような検証が必要となります。現在までの考古学的な発見には次のものがあります。

● 雲南省では4400年前以上には遡れない
● 長江下流域の河姆渡,6500-7000年前の水田耕作遺構
● 長江下流域の草鞋山,6000年前の水田遺構
● 長江中流域の彭頭山,7000年前のもみ殻

現在までに発見されている直接的な証拠は7000年前の彭頭山遺跡ということになっており,長江中流域が稲作の起源地であるという学説が現在の主流となっています。中国人の研究者は長江中流域で9000年前としています。

この遺跡の中には広さが数haのものも含まれておる,かなり規模の大きな定住集落でした。また,土器も相当数発見されており,その中には煮炊きに利用したと思われる上部の狭くなったものも含まれています。

多くの彭頭山遺跡は湿地にあり,そこでなんらかの形でコメを栽培していたと考えられます。人々はこの地域に定住し,住居を構え,おそらくコメと魚を食料にして暮らしていたようです。

東アジでは世界最古級の土器が何ヶ所かで発見されています。
● 日本・青森県の大平山元1遺跡:1.6万年前
● 中国・江西省の洞窟遺跡:2万年前
● 東シベリア・グロマトゥーハ遺跡:1.5万年前

西アジアやエジプトで土器が使用されるようになったのはおよそ9000年前ですから,東アジアでの土器の使用は西アジアに1万年ほど先んじています。その反面,西アジアでは土器に先立って焼成煉瓦はありましたので,粘土を焼くと固くなることは知られていました。土器の必要性は食料の貯蔵と調理のためであり,西アジアでは小麦粉を焼く食文化ですのでその必要性があまりなかったからと考えるの妥当のようです。

それに対して東アジアの食文化では堅果のあく抜きと煮炊き(日本),雑穀の煮炊き(中国),魚油の精製(東シベリヤ)に土器は欠かせない道具となっています。このように稲作に先立った土器文化があったため,稲作の初めからコメを炊くあるいは茹でる文化が存在していたと考えられます。

現在でも東アジアではコメの炊き方において「炊き上げる(炊干法)」,「茹でる(湯とり法)」,「蒸す」という3種類の文化が共存しています。稲作の伝播はイネだけではなく炊飯の文化とセットになっている可能性が高いので,日本の稲作の起源を知るうえで貴重な情報をもたらしてくれるかもしれません。

彭頭山遺跡はそれ以前のような洞穴遺跡ではなく開地式遺跡であり,かつ規模も格段に大きくなっています。そのような規模の大きな集落が突然出現したとは考え難いので,もっと以前から小規模な稲作集落があったのではないかと推定されます。そうすると,稲作の起源はさらに遡ることができます。

また,彭頭山遺跡は湿地に位置していることから,栽培形態は湿地という水田類似環境を利用していたという仮説も出されています。この仮説は従来の陸稲→水稲という学説を引っくり返すものです。稲作の起源地はほぼ長江中流域とということで確定したようですが,時期と最古の栽培方法については今後も研究が進んでいくことでしょう。


日本の稲作の起源

日本の稲作は縄文時代に始まったという考え方が主流となっています。かっては稲作の開始が縄文時代と弥生時代を分けるポイントになっていましたが,現在では本格的な水田稲作の開始に変わっており,縄文時代は1万5000年前から2500年前,弥生時代は2500年前から1700年前とされています。しかし,縄文,弥生,古墳時代の区切りは研究者により相当異なっています。

日本では2500年前に本格的な水田稲作が開始されました。これは渡来人がもたらしたイネ(温帯ジャポニカ)と水田栽培技術によるものです。それに対して縄文時代に栽培されていたイネは熱帯ジャポニカとされています。

もちろん一部の遺跡を除き縄文時代のイネや籾が大量に発見されているわけではありません。少数の炭化した籾が発見されたり,土器等に籾痕が認められてもそれは外部から持ち込まれたという可能性もあり,イネを栽培していたという確かな証拠にはなりません。

ところが古代の稲作を判断するうえでとても都合の良い方法が見つかりました。それは「プラントオパール分析法」です。イネ科の植物はケイ酸(SiO2,岩石やガラスの主成分です)という物質をガラス質の珪酸体の形で特定の細胞に蓄積する性質があります。

珪酸体はいってみればガラスのようなものですから,土中でも分解されることなく残留します。しかも,珪酸体は植物の種により異なった形状をもっていますので,種と形状の一覧表を作成すると,ある地層に含まれる珪酸体を分析することにより,当時,どのようなイネ科の植物がどの程度存在していたかを判定することができます。この方法は古い時代の植生変遷を解明する「花粉分析法」と同じものです。

この「プラントオパール分析法」を確立した藤原宏志の苦労話と実際の分析結果については「稲作の起源を探る(岩波新書)」に詳しく記されています。1990年代に日本列島の縄文時代の地層および土器中のプラントオパールを分析したところ,古いもので縄文中期のものからイネのプラントオパールが発見されています。

2005年には約6000年前の縄文前期の地層から大量のプラントオパールが発見されています。これは外部からの持ち込みではなく,明らかに栽培されていたことの証拠となります。このとき発見されたのが「熱帯ジャポニカ」のものだったということです。

長江下流域の河姆渡遺跡は6500-7000年前とされていますので,それから500-1000年ほどで日本列島に伝播したことになります。このあまりにも早い伝播は稲作の起源地の周辺から直接もたらされたことを強く示唆しています。

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」では長江下流域で稲作と漁労を行っていた人々が九州まで航海(漂着)した可能性について言及しています。「日本人はるかな旅」ではさらに,発見されたプラントオパールが「熱帯ジャポニカ」であったことから,焼畑による粗放農業で他の雑穀と一緒に栽培されていたと推定しています。

実際,プラントオパールの分析および炭化種子の分析により,多くの遺跡でイネ以外にも雑穀(アワ,ヒエ)やヒョウタン,マメ,アズキ,焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の痕跡が見つかっています。

弥生時代の始まりとされる2500年前には水田稲作技術をたずさえた「渡来人」がやってきます。このルートも朝鮮半島経由,中国大陸沿岸から直接やってきたという2つの学説が並立しています。個人的には日本人と朝鮮人の遺伝子の差異の大きさから中国大陸説を支持したいと考えています。

ともあれ,彼らの持ち込んだイネは温帯ジャポニカ種でした。しばらくの間,在来種の熱帯ジャポニカと新参の温帯ジャポニカは焼畑と水田に棲み分けていたと考えられます。そして,両者が自然交配した結果,早稲の品種ができました。

この品種は収穫までの期間が短く,高温時期の短い東北地方でも栽培可能となりました。その結果,新品種の栽培はきわめて短期間のうちに青森県まで到達しています。この熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混交が生みだした新品種が日本のイネのルーツとなりました。

それから約2000年が経過し,稲作は津軽海峡を越え,現在では北海道でも稲作は行われるようになりました。これは世界的にみても最高緯度の稲作ということができます。

その一方で,西日本は夏場の異常高温に悩まされることになりました。日本のコメは開花時期に最高気温が35℃以上になると受粉確率が下がる「高温不稔」を起こしたり,でんぷんの入りが悪い乳白米となります。地球温暖化がもう少し進行すると,西日本はジャポニカ種の栽培不適地になる可能性があります。


稲作の起源地,現在までに発見されているもっとも古い稲作の痕跡は長江中流域の彭頭山遺跡(7000年前)であり,おそらく9000年前に遡ると考えられます。長江下流域の河姆渡では6500-7000年前の水田耕作遺構と大量の炭化した籾が発見されています。ここで発見された籾には熱帯ャポニカが混ざっていました。

中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」,画像および下記の文章は佐藤洋一郎「稲のたどってきた道」より引用しました。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果,61品種に「RM1-b」遺伝子を持つ稲が見付かったが,朝鮮半島では55品種調べても「RM1-b」遺伝子を持つ稲は見つからなかった。なお,現在の日本に存在する稲の遺伝子は「RM1-a」,「RM1-b」,「RM1-c」の3種類となっている。
http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/120.htm


稲のたどってきた道 2001年9月号掲載

静岡大学農学部助教授 佐藤 洋一郎 氏


身近な存在にも関わらず、意外と謎の多い植物「稲」

──先生のご著書

『DNAが語る稲作文明』
http://www.amazon.co.jp/DNA%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E6%96%87%E6%98%8E%E2%80%95%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%A8%E5%B1%95%E9%96%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E6%B4%8B%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4140017732


を、大変興味深く読ませていただき、これまで私達が学校で教わってきた日本の稲作の起源や縄文文化の通説を次々と覆していらっしゃる内容に驚きました。今日は、日本の稲作の起源を中心にお話を伺いたいと思います。

ところで先生は、やはり遺伝学の見地から稲の研究を始められたのですか?

佐藤 育種学(※)から稲の研究に入り、今でこそDNAを使って研究をしていますが、もともとはフィールドワークが中心で、これまで日本に限らずアジア各国で調査研究をしてきました。

──先生が研究を始められた頃、稲作の起源については、どのように考えられていたのでしょうか?

佐藤 インドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説でした。この説は、1977年に発表されたもので、建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測したものだったのです。

それまで稲の起源については、議論はされていても、科学的な根拠などが乏しかったので、この説は当時としては非常に説得力のあるものでした。

──「でした」ということは・・・。

中国の慶州で発見された2000年前の稲のモミ。空気が遮断された状態にあったため、そのままの状態で見付かった(写真上)。

<br>河姆渡遺跡から出土した7000年前の土器。猪のような動物か描かれている(写真下)(写真提供:佐藤洋一郎氏)

中国の慶州で発見された2000年前の稲のモミ。空気が遮断された状態にあったため、そのままの状態で見付かった(写真上)。

河姆渡遺跡から出土した7000年前の土器。猪のような動物か描かれている(写真下)
(写真提供:佐藤洋一郎氏)

佐藤 実は「アッサム−雲南説」が発表される4年前に、中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土したんです。しかし残念なことに、当時は、それがあまり重要ととらえられず、大した調査もされなかった・・・。

──それほどまでに、「アッサム−雲南説」が強かったともいえますね。

佐藤 はい。しかしここ数年の調査で、河姆渡からは栽培稲だけでなく、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見され、さらに野生稲から栽培稲へと変っていった痕跡も発見されています。以前は7000年前という年代の真偽が問われたこともありましたが、現在、最も信頼できる手法を用いて出土したモミを測定したところ、確かにその時代のものだと証明されています。それで私は、稲作の起源は長江流域にあるのではと思うようになりました。

※育種学・・・作物の選抜や交配により、有用な品種を作り出すことを育種という。有用な遺伝的変異の発見と作出、遺伝的変異の選抜と固定、有用品種の増殖と普及を主なテーマとした、育種技術に関する総合的な学問
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水田栽培だけが稲作ではない!?高度な技術は不要?

──7000年前の稲作というのは、どのようなものだったのか、興味が湧きますね。

佐藤 その前に、稲は、大きく分けるとインディカとジャポニカの2種類あります。さらにジャポニカというのは、温帯ジャポニカといって一般に水稲と呼ばれている水田栽培向きの品種と、熱帯ジャポニカという一般に陸稲と呼ばれている畑作向きの品種の2種類に分れます。

──インディカというのは、私達にはあまり馴染みのないものですね。

佐藤 そうですね。私達に馴染み深いのは、やはりジャポニカです。実は私は、この長江流域を起源とする品種もジャポニカだと思っているんです。またその栽培方法は、ただ地面にモミを播くだけという雑駁(ざっぱく)農耕だったのではないかと考えています。

というのも長江流域というのは湿地帯ですから稲の栽培に向いている。モミを播くだけで稲が育つんです。現にアジア各国をまわってみると分るのですが、水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕が行なわれています。

ラオスで現在も行なわれている焼き畑による稲作 (写真提供:佐藤洋一郎氏)

──稲作というと水田と思いがちですが・・・

佐藤 ところが、稲作は水田でなくてもできるのです。現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。

──何か発見があったのですか?

佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができます。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。

それで1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになりました。

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三内丸山遺跡に見られる高度な「縄文農耕」

──縄文人が稲作をしていたということになると、学生時代に教わった縄文人とは、随分イメージが変ってきます。

佐藤 それだけではありません。皆さんご存知かと思いますが、青森に三内丸山遺跡という縄文遺跡があります。およそ5000年前のものと考えられていますが、私は以前、ここで縄文人が、クリを大量に栽培していたという新説を発表して、学界を騒がせたことがあるのです。

──その新説も随分と物議を醸したのではありませんか?

佐藤 はい。皆さん縄文人というと、狩猟などで生計を立てていたという野蛮なイメージをお持ちでしたからね。そんな縄文人達がクリを栽培していたとなれば、考古学界だって黙ってはいません(笑)。

──そこに先生が一石を投じたというわけですね(笑)。

佐藤 そういうことになりますね・・・(笑)。

なぜそういう説が成り立ったかというと、普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラなのです。しかし三内丸山遺跡のクリの場合は、見事な程にDNAパターンが揃っていました。これは意図的に選抜して植林したためとしか思えません。そうなるとクリを育てるという高度なノウハウが、4000年以上も前からあったと推測できます。

さらに、ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されています。

──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。

佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。

しかし、私がジャポニカの起源だと考える長江流域は、案外日本から近いですからね。別のルートで日本に伝来していてもおかしくないんです。



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朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!

──ところで、弥生時代の稲作でも興味深い発見があったとか。

佐藤 1995年に、私の勤務する静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ水田跡が発見されました。この水田跡は、古墳時代のもので、3−4畳半程の小区画が連続しているという形状をしています。

──5万−uとは、また随分広いですね。

佐藤 収穫量を計算してみたら、少なく見積っても15tくらい。100人以上が米だけで暮らすことのできる量ですが、当時のその地域の人口はそんなに多くなかったのです。

そこでその一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。

──せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?

佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。

そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。

──なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析というのは、本当にいろいろなことが分りますね。

佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。

中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。

なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?

佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。

──確かに、有力な証拠ですね。

佐藤 求められるのはいつもそこですから(笑)。実際、柳田國男氏が「海上の道」と呼んだ、熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達するといわれる道筋は、南西諸島に稲作跡がないのを理由に、物語としてしか扱われていなかったですからね。

──お話を伺って、縄文時代だけでなく、弥生時代のイメージも随分と変りそうです。

佐藤 余談になりますが、私は卑弥呼も弥生人ではなく縄文人だったのではないかと思っているんです。というのも、まず入れ墨をしていた、そして海に潜って魚を獲っていたというのが弥生人らしくないですよね。さらに、生姜やみょうがなどのハーブ類を食べなかったというのも気になります。生姜やみょうがというのは、中国大陸から伝来したものですから、渡来してきた弥生人が食べないはずがないんです。

──そういわれてみると、卑弥呼がお酒を飲んでいたという記述も気になりますね。

本日は、大胆な仮説の数々を大変楽しく伺わせていただきました。ところで、今後はどのような研究をお考えですか?

佐藤 日本中のいろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べて、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかを調べたいですね。それにより、日本人のルーツさえも見えてくると思うんです。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html

長江流域における世界最古の稲作農業

国際日本文化研究センター教授 安田喜憲

1.世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した


図1 最終氷期最盛期の東アジアの古地理と最古の土器と稲作の起源地(Yasuda,2002)


 図1は、これまでの花粉分析や古地理のデータにもとづいて復元した、最終氷期盛期の東アジアの古地理図に、初期の土器と稲作関連の遺跡の分布をおとしたものである。東アジア北部は乾燥気候が卓越し、レス(黄土)と乾燥した草原が広がっていた。一方、長江以南の中国大陸から海面の低下によって陸化した東シナ海には、海沿いにカシやシイ類を中心とする照葉樹林が、内陸部と北方には針葉樹林と落葉広葉樹林の混合林が生育していた。最終氷期の東アジアには、北と内陸部の草原地帯、南と海岸部の森林地帯という異質な2つの生態地域が明白なコントラストをもって分布していた。


(写真1) 湖南省道県玉蟾岩遺跡

(写真2)玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器


 近年の中国考古学の発展によって、土器の起源について新たな発見があいついでいる。中国における土器の起源については、暦年代2万〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000〜1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。

世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万〜1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。

 こうした世界最古の土器の出土地点を最終氷期の古地理図におとしてみると、興味深い事実が明らかとなる。大半の最古の土器の出土地点が森林地帯に近接して分布するのである。しかも、そこには小柄で短頭の港川人やワジャク人に代表される「森の民」が生活していた(図1)。

このことから、最終氷期最盛期が終末に近づいた頃、「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入ったということができるだろう。氷期から後氷期の気候変動のなかで、いち早く森林環境が拡大した中国南部において、土器は2万〜1万8000年前の最終氷期最盛期後半に出現し、1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。

2.定住革命から農耕革命へ
 土器づくりをいちはやく始め、定住生活に入った「森の民」が、稲作農耕を開始した。これまで稲作農業の起源は雲南省を中心とする東亜稲作半月弧で、せいぜいさかのぼっても5000年前に起源したとみなされていた。しかし、近年の発見によって、稲作は長江中流域で1万年以上前に誕生していたことが判明した。そうした最新の研究成果は、厳・安田(2001)(1)とYasuda(2002)(2)を参照いただきたいが、稲作の起源が麦作と同じか、さらに古い時代にまでさかのぼる可能性さえ出てきたのである。


 これまでの結果をみるかぎり、稲作は長江中流域で始まったとみなしてよい。最古の土器を作った人々が住んだ仙人洞遺跡や吊桶環遺跡などのタワーカルストの洞穴遺跡からは、暦年代1万5000〜1万4000年前までさかのぼるイネのプラントオパール(イネ科の植物の細胞壁に珪酸が沈着して形成される植物珪酸体。物性が安定しており、植物体が分解された後にも残る)の証拠が発見されている。しかし、プラントオパールだけでは、なかなか確実な証拠とはみなされない。

そうした中で玉蟾岩遺跡(写真2)から出土した最古の土器と4粒の稲籾が、これまでのところある程度信頼のおける事例である。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代が1万8000〜1万7000年前までさかのぼることはまちがいないだろう。しかし、暦年代1万5300〜1万4800年前という稲籾の年代については稲籾そのものの年代測定値ではなく、稲籾を含む地層中の炭片の測定値であるために、絶対的なものとはみなしがたい。筆者らは何度も、この稲籾そのもののAMS(加速器炭素14C年代測定法)による年代測定をお願いしたが、現時点ではいまだ実現できていない。したがって現時点では、絶対的に信頼できるものではないが、最古の稲作は1万4000年前にまでさかのぼる可能性が高いという段階にとどめておくのがよいであろう。


 麦作農耕の起源については、晩氷期の1万2800〜1万1500年前のヤンガー・ドリアス(晩氷期の寒冷期の1つ)の寒の戻りが、食料不足を引き起こし、これが人々を栽培に向かわせたという説がほぼ確実になった(Yasuda、2002 参照)。こうした筆者らの麦作農耕の起源に対する説を受けて、稲作農業もこのヤンガー・ドリアスの寒冷期に引き起こされたという説を唱える研究者もいる。

しかし、それは納得できない。なぜなら、最古の稲作農耕遺跡の分布は、野生イネ(Oryza rufipogon)の分布の北限地帯に位置しているからである(図2)。現在においても、野生イネの北限地帯に相当する長江中流域において、ヤンガー・ドリアスの寒冷期に野生イネが生息できたとは、とうていみなしがたいからである。玉蟾岩遺跡における最古の稲籾の年代である1万4000年前は、氷期の寒冷気候が急速に温暖化したベーリングの亜間氷期に相当しており、亜熱帯起源の野生イネが、拡大できる気候条件はそなわっていた。

 確実に稲作が行われていたとみなされるのは、湖南省陽平原に位置する八十遺跡や彭頭山遺跡である。これらは洞穴遺跡ではなく開地式遺跡であり、これまでの玉蟾岩遺跡などの洞穴遺跡とは異なる立地をしている。彭頭山遺跡出土の炭化米の年代は、暦年代8650〜7900年前、八十遺跡から出土した籾殻のAMS年代は7800〜7600年前であった。彭頭山遺跡は面積5〜6万平方メートルにも及び、大きな集落遺跡である。

このような巨大な農耕集落が突然誕生するとはみなしがたいので、稲作の起源はそれよりはるか以前であるとみなしてさしつかえないであろう。このことから長江中流域において稲作に立脚した稲作農耕集落の誕生が暦年代8000年前までさかのぼることは確実であり、稲作農耕の起源はそれよりもはるか以前の1万年以上前、おそらく1万4000年前頃までさかのぼる可能性がきわめて高いといってよいであろう。

 これまで中国最古の稲作遺跡として注目されていた長江下流域の浙江省河姆渡遺跡の暦年代7600〜7030年前よりは、長江中流域の稲作の起源は古いとみなしてよいであろう。稲作農業は長江中流域で8000年前には、確実に巨大な稲作農耕集落を誕生させていた。

 そして重要なことは、この稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴っていなかったことである。稲作農耕民はタンパク源を森の中の野生動物や湖沼に生息する魚類にもとめた。森の中で定住生活を開始し、土器づくりをはじめた森の狩猟・漁労民が、稲作を開始したのである。晩氷期から後氷期の気候の激動の時代に森が拡大してきた。人類はその森と湿地草原のおりなす環境に適応し、森の中で定住生活を開始する。この森の狩猟・漁労民が植物栽培の技術をマスターし、新たな食料の獲得戦略を必要として、稲作農耕を誕生させたのである。森の狩猟・漁労民が最初に出会った野生イネは、完熟するとその実はただちに脱粒してしまい、食料にはならなかった。ところがその中に、突然変異で脱粒性を失ったものを発見したのである。彼らはその脱粒性を失ったものを選択的に集めることによって、栽培稲(Oryza sativa)を作りだし、稲作農耕への第1歩を踏み出したのである。
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm

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