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渋谷の軽トラ転倒「祭」に見る終わりの始まり いまや発展途上国レベルに堕ちた日本の品位
2018.10.30(火) 伊東 乾
川崎の「百鬼夜行」は観衆12万人と一体型 ハロウィーンパレード最高潮
川崎市で開催されたハロウィンパレードで、ポーズを取る参加者たち(2018年10月28日撮影、資料写真)。(c)AFP/Toshifumi KITAMURA 〔AFPBB News〕
10月28日の早朝、東京・渋谷のセンター街にハロウィンの馬鹿騒ぎで繰り出した群衆が進入してきた軽トラックを取り囲み暴徒化、車体の上に乗るなどの乱暴狼藉の末、警官を呼ぶために運転者が席を離れた隙に、トラックをひっくり返すという事件がありました。
友人からこの情報を送ってもらい、最初に私が確認したいと思ったのは、この暴徒が「何者か?」「どこの国の人間か?」ということでした。
「3.11の秩序」から7年
誤解のないように最初に釘を刺しておきますが、「こんな暴動を起こすのは日本人であるはずがない。不良外国人がやってきて日本を悪くしているのだ」などという、“ドナルド・ダック”やドイツのネオナチ政党のようなことを言いたいわけではありません。
流通している動画を見る限り、定かに確認はできませんでしたが、トラックの上に乗ったり横転させたりしたと思しい中に、見るからに日本人ではない外国人は見当たりませんでした。
また、トラックを取り囲んではやし立てている群衆の中には、様々な肌や髪の色の人物が写り込んでいたようにも思われました。
日本は2011年、3.11東日本大震災の後、一件の暴動事件も起きず、派手な略奪などもなく(火事場泥棒的な犯罪はあったようですが)、被災地で避難者が整然と協力して復興に当たるという、地球上でも稀有な「超高モラル社会」として全世界を驚かせた国でした。
まだほんの、7年前の出来事に過ぎません。
それが2018年の秋になると、夜の渋谷に繰り出した、多くは若者と思われますが、群衆が何の罪もない一般車両を取り囲み、それを転倒させて喜ぶという、普通によくある発展途上国の愚民の群れと同じ行動を取ったと報道されている。
この間の「日本の劣化」をこそ、考えねばならないと思ったのです。「トラックを倒すなんて犯罪だ。こんな奴らは日本の恥だ」といったネットの書き込みを目にしました。
ですが、こうした行動は、全人類に共通して見られる、ある意味では普遍的な「祝祭的反応」でもあります。
このコラムで時折、生前たいへん多くご指導を頂いた文化人類学者の山口昌男さんの「中心周縁論」を引用してお祭りを議論することがあります。
日常的な価値の「転倒」
普段隅っこにいるものが中心にやって来て、中央にいるものが隅に追いやられる。
上は下、右は左、偉そうな奴は引きずり下ろし、男は女、女は男、たいくつな社会のあらゆる秩序や順序をひっくり返して、社会全体が活性化する・・・。
これが祝祭の本質的な特徴ですので、象徴的な価値転倒の供犠は全世界のあらゆる地域で確認することができます。
リオのカーニバルのような謝肉祭、韓国のタル・ノリで演じられる業病に罹患した貴族を嘲笑する仮面劇・・・。
日本で考えるなら、日頃威張り散らしている「大名」が「太郎冠者」にやり込められる狂言など、極めて典型的な「祝祭的価値転倒」の技芸と言うことができるでしょう。
渋谷で軽トラックを取り囲み、それを生贄に選んではやし立て、車体の上に乗って踊り、さらには車をひっくり返して大喜びする・・・。
太古の人類が日常価値の転倒に共同体刷新活性化の力を見出したのと同じように、2018年10月28日の東京でも、半ば原始人、半ば猿の如き若者たちが、普段偉そうにして自分たちを押さえつけている体制や支配層、年配者や社会のルールをひっくり返して祝うという心理は、器物破損の犯罪行為であるのはもちろんですが、非常に普遍的な「人間社会によくあるパターン」であるのも間違いありません。
要するに「未開な状態」で起こりやすい、衆愚状況です。
そこまで、日本人を含むであろう、この加害者集団の精神年齢が「低下」していたことに、まず注目しておく必要があります。
3.11の苦境を整然と乗り切ったはずの日本で、どうしてこんなみっともない「低EQ(Emotional Intelligence Quotient=心の知能指数)状態」に、若者が退行してしまったのか・・・。
それを解くカギは、この非日常の「祭り」以上に、「日常」の側にあるように思うのです。
転倒の陰画としての日常
要するに、日頃鬱積しているから、その憤懣が爆発する。そう考えるのが合理的です。トラックをひっくり返した者は、画像から身元を特定され、一部は逮捕されるなどして、刑事・民事の責任を問われるでしょう。
この人たちには何ら同情の余地もなく、問われる社会的責任をきちんと果たすべきと思います。司直は再発防止を念頭に、もしかすると実刑を含む厳しい判決を下すかもしれません。
しかし、中には、かなり確信犯で焚きつけながら、自身は手を下さず、責任をはぐらかして逃げおおせる奴がいるかもしれません。たぶん、いるでしょう。
また、その場にいたほぼすべての人間が「お、何これ。トラックが取り囲まれてるじゃん。どーなんのかな。あれあれ乗っちゃったよ。踊ってる。面白れーなー」などと、この「非日常」の騒ぎを面白がっていたわけです。
しかし、これら全員が逮捕、訴追などされることは絶対にないわけです。そこが一番の問題でしょう。
またしても繰り返される古典的な「責任を取らない日本人」のパターンです。しかも、槍玉に挙げられるのは、日頃威張り散らす権力者ではなく、土曜の深夜日曜の早朝に業務でセンター街に乗りつけたのであろう軽トラックです。
社会構造の上部でふんぞり返る悪代官が「この紋所が目に入らぬか!?」と格さん助さんに三葉葵の印籠を見せつけられ、「ここにおわせらるるは、畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ! 頭が高〜い」と一喝され、
「ハハ〜・・・」とひれ伏す価値転倒を、戦後70年を過ぎても日本人は一貫して愛好してきたわけですが、ここでは深夜に就労している営業車両を迫害する「弱い者いじめ」による「祭り」で喜んでいたわけです。
残念ながらそういうケースも、人類には山のように例があります。
欧州におけるユダヤ人排撃、近くはルワンダ・ジェノサイドでもミャンマーの少数派ムスリム・ロヒンギャへの迫害でもいいでしょう。
要するに「ヘイト」と呼ばれるものは、すべてこの種の下層で圧迫され余裕のない大衆が、さらに弱いものを見つけて血祭りにあげて憂さを晴らす、最低最悪の経世済民のなせる技として客観的な分析が完了した社会病理にほかなりません。
暴徒化した群衆の多くが、ひっくり返ったトラックの周りで万歳しながら飛び跳ねたりしているのを、私も動画で確認しました。その事実、この末期性にこそ注目する必要があります。
1994年のルワンダ・ジェノサイドでは、暴徒化した民衆が面白がって少数派を追い詰め、教会や小学校にすし詰めにして手榴弾で爆殺したり、家族でバーベキューをしている食卓のま横で、なたで切りつけてなぶり殺しにしたりという、日常では考えられない事態が現実に発生しました。
なぜ・・・?
日頃抑圧されている、という社会不満があったからです。こいつらは悪い奴だ。私たちが日頃苦しんでいるのに、甘い汁を吸ってやがった。因果応報で懲らしめてやる・・・という心理。
1933年にナチス・ドイツが政権を取ると、ただちにユダヤ人排撃が公共事業として推進されますが、多くのドイツ国民はそれを黙認、ないし支援しました。
なぜ?
第1次世界大戦に負け、多額の賠償金で経済を圧迫されていたドイツでは、戦争を仕かけたのがユダヤ人、国際ユダヤ財閥で、いくさで暴利を得てドイツ国民の日々の生活を圧迫している、というプロパガンダにさらされていました。
ヘイト・スピーチによる洗脳です。
2018年10月28日の暴徒は、「ヘイトスピーチ」で焚きつけられた群衆ではありませんでした。
しかし、日常の中で高いストレスにさらされ、日頃の抑圧状況を転倒する、象徴交換儀式として「軽トラック」という生贄を欲していたことは間違いありません。
直接の加害者の責任は言うまでもありませんが、そんな社会状況に日本を捻じ曲げて来たのはどこの誰か?
遠因の責任をどこに問うべきかを考えるのも重要なことだと思います。くさい臭いにおいは元から断たなきゃダメ、ということです。
レームダック政権の安売り人事、閣僚不祥事の類が毎日紙面を賑わせる末期的なご時世、起こるべくして起こった暴徒事件と考えられ、今後この傾向はさらに加速することが懸念されます。
「ええじゃないか」は終わりの始まり
1867年8月から12月にかけて、日本は不思議な熱気に包まれていました。天からお札が降って来る、というのです。
これは素晴らしい出来事の前触れだということになり、民衆は仮装して町に繰り出し、踊ったり騒いだり、大八車がひっくり返されたり、富裕な商家からモノが持ち去られたりもしたようです。
これが世に名高い「ええじゃないか」の民衆暴動で、この間は都市も農村も社会機能が麻痺して、通常の市民生活を送ることが不可能になったと伝えられます。
この「ええじゃないか」ですが、1867年12月9日にピタリとやみます。
この日「王政復古の大号令」が出され、日本のレジームは近代のそれへと転換しました。「討幕派による陽動作戦だったのでは?」という説も検討されています。
今回のような暴動は、ある政治的支配体制の末期の末期、もうどうしようもない状況であることを示すバロメータである可能性が考えられるでしょう。
ハロウィン暴動は「終わりの始まり」と言うことができるかと思います。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54522
2018年10月31日 宮崎智之 :フリーライター
ハロウィンは「ただ騒ぎたいだけのバカ」のお祭りなのか?
ハロウィンを前に渋谷センター街に集まった人たち(写真と本文は関係ありません) Photo:DOL
理由なく暴れまわる無軌道な仮装集団
今年もハロウィンがやってきた。「Trick or Treat?」と子どもがお菓子をねだる姿はとても可愛い。しかし、最近では仮装した大人たちがどんちゃん騒ぎする祭りになっている。
以前、ダイヤモンド・オンラインの記事でも書いたが、筆者はハロウィンパーティーに参加したことがない。なぜなら、「仮装する」という行為が、どうしても自意識的にできないからだ。そういう人にとってハロウィンは、ただの舶来の祭りである。我々には関係ないことだ、と。だが、近頃のハロウィンは看過できないほどの勢いがある。
今年、ハロウィン前の週末には、渋谷にたくさんの仮装集団が現れ、立ち往生した軽トラックを横転させたり、痴漢や盗撮の疑いで逮捕者が出たりする大混乱に陥ったそうだ。
そんなハロウィンに対する批判としてよくあるのが「ただ騒ぎたいだけのバカ」というものである。民衆が暴徒化する例は昔からあるものの、米騒動や一揆などとは違って暴れる理由がわからないのがハロウィンの特徴だ。しかも、これといった大義もなければ、正義もない。もしかしたら、背景には不況や世界情勢への不安があるのかもしれないが、だとしたらなぜアニメキャラやゾンビに変装する理由があるのか。
まるで尾崎豊の歌詞に表現されているような無軌道性。いや、そう言ったら尾崎や尾崎のファンに失礼だろう。たしかに、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわるのはどうかと思うが、それには青春の葛藤や実存への不安が背後にあった。しかし、渋谷のハロウィンを見る限り、筆者のようないい歳をしたおっさんも交じっている。今さら実存に悩む歳でもない。しかも、尾崎は「ウェーイwww」などと叫びはしない。これは絶対に。
インスタ映えする写真を見知らぬ人と気軽に撮ることが目的の人もいるようだ。ところが、なかにはナンパ目的という輩もいるから厄介である。今年、渋谷のハロウィン騒動に遭遇した女性によると、「今は性欲の塊だから!」「去年、ハロウィンの後にラブホ行ったぜ」と自慢げに話している男たちがいて、ドン引きしたという(イベントに乗じて女性を口説く“ジョージ男子”については、前回記事を参照していただきたい)。
なぜ、人々は「渋谷」で狂乱するのか
そんな彼、彼女らに対して、社会的な警戒心が高まっている。時事ドットコムの報道(2018年10月23日)によると、東京都渋谷区の長谷部健区長は記者会見し、渋谷駅周辺に集まる若者たちに対して、モラルを守ってハロウィンを楽しむよう異例の声明を出した。駅周辺のコンビニエンスストアに、瓶入り酒の販売自粛も申し入れたという。
記事によると、一昨年は7万人以上が渋谷駅周辺に集まったそうだ。機動隊員を多数動員したが、混乱が抑えきれないほどの荒れっぷりだった。それにしても、そもそもなぜ渋谷駅なのか、という素朴な疑問もある(そう言えば、サッカーW杯の時も渋谷駅周辺が混乱する)。
中沢新一氏の著書『アースダイバー』(講談社)によると、渋谷駅前の交差点はかつて水の底にあり、宮益坂、道玄坂といった斜面に古代人が横穴を掘って、死者を埋葬していたそうだ。古代、生きている人間の共同体は厳しいおきてで支配されていたが、死霊の支配下では世俗のモラルが効力を失う、と中沢氏は指摘している。そういった歴史が渋谷という歓楽街の形成に影響を与えたという。現代のハロウィンの狂騒も、それと関係しているのだろうか。だとしたら、古代からの人間の歴史の積み重なりを感じさせる。
しかし、果たしてそんな大層なものなのだろうか。だいたいハロウィンは日本の古代とまったく関係がないのである。一緒にしないでくれと、古代人たちも迷惑がっているはずだ。
もともとはキリスト教の万聖節の前夜祭だったというハロウィンが、なぜか日本では「意味もないのに仮装して騒ぐ」という危険思想に染まった祭になってしまった。思想調査をしている公安警察も真っ青である。思想がないぶん、取り締まりようがない。
彼らは「バカ」なのではなく、むしろずる賢い
さて、筆者が一番気になるのは、彼、彼女らは本当に「ただ騒ぎたいだけのバカ」なのかどうか、ということである。なぜなら、「ただ騒ぎたいだけのバカ」ならば、いつでも、どこでも騒いでいるはずだからである。しかし、彼、彼女らは「特別な日」にしか騒がない。
ハロウィンという海外からもたらされた祝祭の日の前後には、歓楽街に多くの騒ぎたい人たちが集結する。それに乗じることで、「騒ぎたいのは自分だけではない」という免罪符が与えられたような気がするのだろう。さらに酒が入り、その乗じたい気持ちに勢いがついてくると、軽トラックまでひっくり返す暴挙に出るのだから人間は恐ろしい。
しかも、仮装という匿名性と非日常性が、彼らにさらなる無軌道性を与える。つまり、集団性、匿名性を隠れみのにして暴れる彼、彼女らは「バカ」などではなく、むしろ狡猾でずる賢い確信犯だ。「ただ騒ぎたいだけのバカ」と呼ぶには彼、彼女らは臆病で気が小さい。彼、彼女たちは、騒ぐ場所もタイミングもシチュエーションも、すべて計算ずくで選んでいる。
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もちろん、マナーを守ってハロウィンを楽しんでいる人のほうが多数であることも、付け加えておかなければならない。ほかにも、クリスマスやバレンタインデーなど、本来の文化に関係ないイベントが日本には根付いている。異文化を柔軟に取り入れる姿勢は日本人のよいところだ。ハロウィン自体が、否定すべきものだとは思わない。
思想なき集団が無軌道に暴れる現象。その裏には、実は臆病で気が小さい、一部の日本人の性質が隠れているのかもしれない。「ただ騒ぎたいだけのバカ」にもなれない彼、彼女たちにとって、「仮装する祭り」は海外からもたらされた、もってこいの口実なのだろうか。いずれにしても、節度を守って楽しまなければ、文化として衰退していくだろう。
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(フリーライター 宮崎智之)
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