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菊地 浩平(きくち・こうへい)/早稲田大学文学学術院助教 略歴はこちらから
最強?人形ホラーとしての『アンパンマン』
菊地 浩平/早稲田大学文学学術院助教
世界初?の人形専門講義誕生
わたしが2014年4月に文化構想学部で立ち上げた「人形メディア学概論」(春期)と「人形とホラー」(秋期)は、一年かけてあらゆる「人形」について学術的検討を試みる他に類を見ない(おそらく世界唯一の)講義だ。
講義で扱う対象は人形劇やぬいぐるみ、蝋人形、わら人形、腹話術、ロボット、ラブドールなど多岐にわたるが、一貫しているのは「人形」というメディア(=媒体、媒介)を通じて「われわれ」について考察するという点である。われわれは、呪術、芸術、科学技術、コミュニケーションなど様々な用途で、絶えず人形を生み出し続けてきた。ならば、あらゆる人形について考察することは畢竟、多様な観点からわれわれを見つめ直すことに他ならない。そこでわたしはこうした営みを「人形メディア学」と名付け、様々な時代、場所の人形及び、関連作品や文化事象について日々検討を行なってきた。
一見感動的な『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』だが…
一連の講義のなかで、ひと際学生たちから好評なのが国民的人気作品『アンパンマン』に潜む《最強の人形ホラー》としての側面を明らかにする回だ。取り上げるのは2006年に発表された映画『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』(以下『ドーリィ』)。この物語は持ち主に捨てられた人形・ドーリィが「いのちの星」の力により生命を得て、金髪巻き髪ロングの青ドレス姿に変身するところから始まる。このドーリィは自分の楽しさだけを優先するシリーズ内屈指のおてんば娘であり、そんな彼女を周囲は煙たがる。物語の中盤以降ドーリィは悩み、アンパンマンやロールパンナに助言を求めるも、どう生きていくべきかまるで分からなくなってしまう。やがて、ばいきんまんの生み出した巨大ロボによる攻撃の的となるドーリィ。そんな彼女を守ろうと身を挺したアンパンマンは、ロボの度重なるビームによって絶命する。その刹那、ドーリィは遂に自身の使命を悟り、命をアンパンマンのために捧げる。復活したアンパンマンは巨大ロボを打ち倒すも、傍らにはドーリィの亡骸がある。その夜、ドーリィの弔いが始まると、彼女には数多のいのちの星が降り注ぐ。腰の下まであった巻き髪は肩上に二つ結びされ、青ドレスからエンジのオーバーオール姿に様変わりした彼女は、こうして遂に「人間」となったのだった。
大まかなプロットはカルロ・コッローディの名作『ピノッキオの冒険』(1883)を踏襲しつつ、わがまま放題だったドーリィが、終幕においてアンパンマン的自己犠牲を体現する姿は涙を誘う。またクライマックスで流れ、本作の主題とも深くかかわる楽曲『アンパンマンのマーチ』(以下『マーチ』)男声合唱バージョンは、感動を通り越して笑いすらこみあげてくるような荘厳さである。こうして考えてみると、本作は良質な「子ども向け」映画にも思える。しかしながら本作の人形、すなわちドーリィに着目すると、『アンパンマン』に潜在するホラー性が浮き彫りになってくる。
『アンパンマン』は最強のホラーになり得る!
物語の中盤、ドーリィはアンパンマンに「なんのために生まれたの?なにをして生きるの?」と問う(いうまでもなく『マーチ』からの引用だ)。するとアンパンマンは、夕暮れの虚空をじっと見つめながら「困ってる人を助けるためかな」と答える。だがドーリィはその回答に全く納得できず「つまんない」とその場を立ち去ってしまう。このやり取りからドーリィの一筋縄ではいかぬ性格が浮き彫りになるのだが、実は後に用意されたロールパンナとドーリィの対話によりこの場面の真価が明らかになる。
とある夜、ドーリィが街の灯りを遠くに見つめていると、傍らにロールパンナが現れる。ドーリィはロールパンナにも「なんのために生まれたの?」と問う。するとロールパンナは「わからない」という。ドーリィは「(アンパンマンの答えは)嘘だよね?」とたずねると、ロールパンナは「嘘じゃない。アンパンマンはそうなんだ。でも私にはできない」と答える。ロールパンナはジャムおじさんにより生みだされたメロンパンナの姉でありながら、わけあって正義の心と悪の心をあわせ持ち、それ故にアンパンマンたちとは遠く離れて住むことを余儀なくされているという極めて複雑なキャラクターだ。彼女は本作でこの場面にしか登場しないのだが、この対話が先のアンパンマンとのやり取りのわずか6分後になされることの効果は小さくない。すなわち生きる目的が「わからない」ロールパンナの存在は、正義感に溢れ、完全無欠の絶対ヒーローであるアンパンマンを否が応にも相対化し、批評してしまう。結果として、アンパンマンよりもロールパンナの方がはるかに身近で「わかる」し、逆にアンパンマンが「つまんない」、どころかまっすぐ過ぎてなんだかこわい存在に見えてくるのはわたしだけではないはずだ。
またこうしたアンパンマンへの批評的態度は、物語冒頭、学校での『マーチ』合唱シーンにも垣間見える。児童たちの歌唱による「なんのために生まれて なにをして生きるのか」というお馴染みのフレーズを聞いた途端、ドーリィは「変な歌!」と叫び周囲をざわつかせる。ドーリィは「なんのために生きるかなんて決まってる」、「自分が楽しむためだ」と言い放つ。周囲にいたカバオらは「それは違う!」と反論するが、「なにが違うの?」と問われても答えることはできない。
当たり前だ。生きる目的や使命など簡単にわかるものではない。それにもかかわらず、ドーリィの理念は口にした途端に批判される。なぜか。答えは簡単だ。それは自己犠牲を信条とする「アンパンマン的正義」と相容れないからである。つまり本作では学校という場所が、彼らの信じる「正義」に反する者を糾弾し得る場所として描かれるのだ。こうなってくると『マーチ』が彼らの英雄称賛歌に聞こえないでもない。
流石にそこまではいわないが、こうした描写の積み重ねにより浮かび上がるのは、アンパンマンと彼を中心とした「世界」が、実は極めて排他的な空間であるという事実である。それと同時に、「なんのために生まれて なにをして生きるのか」を問う人形・ドーリィを通じて、本作がアンパンマンを中心とするこの「世界」それ自体の再検討を試みていることが明らかになってくる。
そして極めつけは、ドーリィの髪型と服装が変化し、人間になった彼女がコミュニティにすっかり受け入れられた様子を描くエンドロールである。もちろんこれは、自分本位に生きてきたドーリィの変化を通じて、自己犠牲を払って人に奉仕する心を忘れてはいけない、という教訓的なメッセージを描いたものであろう。
『ピノッキオの冒険』初版掲載の挿絵
しかしここで本作が『ピノッキオの冒険』のプロットを踏襲している点に注目したい。『ピノッキオの冒険』はディズニー映画版が有名だが、実は19世紀末イタリアにおける「教育」の暴力性を描いた風刺小説としても名高い。紙幅の関係で詳しく述べることはできないが、ジャーナリストでもあったコッローディは、数十年後にファシスト党が目指す、自己犠牲を是とする全体主義国家を予見していた。そして国民の画一化を図る「教育」を批判し、小説を通じて子どもたちの行く末を案じたのである。
それを考慮すれば、アンパンマン的正義への批評性を宿していた本作の結末を単なるハッピーエンドとみなすのは難しい。むしろ本作は、ドーリィという人形だけが「世界」に違和感を覚えそれを表明するも、最後にはやむなく大勢に取り込まれてしまうという、救いなきホラー描写により幕を閉じていると考えられる。髪型と衣装の変貌と、命を賭した自己犠牲→(不自然なまでの)コミュニティからの「承認」というプロセスはそれを象徴するものであろう。すなわち本作は、『ピノッキオの冒険』の今日的アップデートとして『アンパンマン』に潜在する全体主義的恐怖を描いた、傑作人形ホラーに他ならないのである!
ここで一点申し添えておこう。元々『アンパンマン』は1969年に既存のヒーローものへの批評性を宿した作品として生み出された。作者のやなせたかしは、たくましい肉体や超能力ではなく、お腹を減っている人を助けるという素朴なあり方こそがヒーローには不可欠であると考えていた。しかし、『アンパンマン』が国民的人気作品となり得たいま、彼もまた既存のヒーローを代表する存在となった。そこで『ドーリィ』は、改めてヒーローやその「世界」を批評し、そこに潜在する暴力性をも描いてみせた。つまりここまで述べてきた要素は、『アンパンマン』がもともと有していたヒーロー批評的性質について、その作品世界を巧みに利用して再提示するものであったことを忘れてはならない。
世界随一の人形教育研究拠点形成へ
この講義を受けた学生たちは「教育」や「ヒーロー」、ひいては「世界」について思考する機会を『アンパンマン』から得る。授業後に彼らが寄せるコメントシートは、毎年他の回とは比較にならない程の熱量を帯びている。自分でカリキュラムを組んで能動的に学び、やがてより広い世界に羽ばたいていく大学生たちと取り組むにあたり、これほど適した作品が他にあるだろうか(しかも見事に今日的でもある)。彼らはそこで、「子供向け」としか思われてこなかったような作品や人形に出会い、世界を見つめ直す機会はいつどこにでも偏在するという、当たり前だがつい忘れがちな事実と対峙するのである。
以上のようにして、わたしは人形というメディアを通じてわれわれについて考察し、更には学生たちとも対話を試みている。現在、人形やその関連作品、文化に関する研究は決して活発とはいえない。それ故に、わたしは学術的な研究を進めるのと同時に、その成果を対外的に発信していく方法を模索する必要に駆られている。その一環としてこれからも、研究者であると同時に教育者でもあることをおろそかにせず、教壇に立ち学生たちの力も借りながら研究を推進していきたい。そうした積み重ねにより、世界随一の人形教育研究拠点を国内に形成することがわたしの目標であり、本稿がそうした未来への狼煙のようなものとなればうれしい。
参考資料
・『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』日本テレビ他、2006。
・前之園幸一郎『『ピノッキオ』の人間学:イタリア近代教育史序説』青山学院女子短期大学学芸懇話会、1987。
・アンパンマン公式ポータルサイト
菊地 浩平(きくち・こうへい)/早稲田大学文学学術院助教
【略歴】
1983年生まれ。早稲田大学演劇博物館グローバルCOE研究助手、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て2014年より現職。専門は人形表象
文化全般。2017年秋に上述の講義内容をまとめた単著『人形メディア学の逆襲(仮)』を河出書房新社より刊行予定。
【論文】
「日本人形表象文化と、着ぐるみ/ギニョールとしてのゴジラ」『表象・メディア研究』7号、早稲田 表象・メディア論学会、2017。
「リカちゃんはなぜ太らないのか」『人形玩具研究』27号、日本人形玩具学会、2017。
「でくのぼうとしての初音ミク」『日本の舞台芸術における身体―死と生、人形と人工体』国際日本文化研究センター、2017。など
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http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/culture_170227.html
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