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ガラパゴス?日本独自の道をたどった大学「大衆化」
大学の本音と建前:「初年次教育」という憂鬱(2)
2016.7.7(木) 児美川 孝一郎
前回の寄稿(「想像のはるか上を行く大学『大衆化』のインパクト」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46996)では、2000年代に入って以降、日本の大学がおしなべて「大衆化」の衝撃に見舞われ、さまざまな困難や教育的対応に苦慮する事態に直面したことを述べた。
問題の核心は、従来であれば大学には進学してこなかった層の学生が、大量に大学教育の舞台に登場するようになったこと、そうした層の学生たちには、総じて大学で学ぶためのレディネス(学力という点でも、意欲・姿勢という点でも)ができていなかったという点にある。それゆえ、大学の側は、彼らへの対応に苦心し、大学生活や学業への円滑な「移行」を支援するための新たな取り組みを開始することになった。その1つが、「初年次教育」にほかならない。
初年次教育では、学生たちが大学で学ぶ意欲や構えを身につけ、文献や情報検索の方法、レポートの書き方、プレゼンテーションの技法等を学ぶための科目が設けられている。大学によっては、スクール・アイデンティティを学ぶ「自校教育」やキャリア教育的な要素が、初年次教育科目の中に組み入れられていることもある。
では、現在、大学の初年次教育の実態は、どうなっているのか。それは、期待されたとおりの教育的な効果をあげているのか――。
この点に迫ることが、今回の小論の課題となるはずであった。しかし、この論点について論じる前に、どうしても触れておかなくてはならない点がある。それは、日本の大学の初年次教育には、日本の大学制度に独自の困難さがつきまとっているということである。今回は、この点を中心に述べることにしたい。
大学「大衆化」の日本的特徴
よく考えてみれば分かるように、大学制度の大衆化が、伝統的な大学教育のあり方を難しくし、大学の側での何らかの対処を必然化するという事態は、必ずしも日本に限ったことではない。しかし、にもかかわらず、日本の大学の大衆化の進行には、諸外国とは異なるいくつかの特徴がある。
そして、この日本的「大衆化」の特徴こそが、諸外国と比べてもより深刻に、今日の日本の大学教育の苦悩を深めているとも言えるのである。
では、大学「大衆化」の日本的特徴とは、いったい何なのか。それは、どこから来ているのか。
18歳のフルタイム学生の横溢
第1に、日本の大学「大衆化」は、高校卒業後の18歳人口を中心にして、通学課程へのフルタイム学生(通信制や夜間部等に通う勤労学生ではなく、昼間の時間帯を学業に振り向けることのできる学生)の量的膨張によって実現したということがある。
表は、高等教育を論じる者であれば、知らない者はいないと思われる、M・トロウによる有名な大学の発展段階論を(ごく簡略に)まとめたものである。
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* マーチン・トロウ(天野郁夫ほか訳)『高学歴社会の大学』東京大学出版会、1976年、を参照
トロウの枠組みによると、大学は「エリート段階」から「マス段階」を経て「ユニバーサル段階」へと至る。現在の日本の大学進学率は50%を超えており、すでに「ユニバーサル段階」(大衆のための大学になっている段階)に突入していることになる。しかし、その様相は、元々のトロウの想定とは違っているのである。
トロウによれば、大学がユニバーサル段階にまで量的に拡張するのは、通学課程へのフルタイム学生の周辺に、夜間部等のパートタイム学生や遠隔教育を受ける通信教育課程の学生などの層が膨れてくるからであると想定されていた。当然、それらの学生には、18歳人口だけではなく、リカレント教育(いったん就業した社会人が必要に応じて大学等に通い直し、再教育を受けること)等によって職業能力開発に努める社会人学生が、数多く含まれることにある。
しかし、日本の大学の進学率拡大という現状は、そうした「周辺的」な学生層の増大によって実現したものではない。むしろ、50%超の大学進学率の圧倒的多数は、通学課程のフルタイム学生である18歳人口によって占められている。
言ってしまえば、日本の大学は、「マス段階」の大学が抱えることになるとトロウが想定した困難(=多様なレベルの入学者が混在しているという困難)を、「ユニバーサル段階」にまで引きずり、引き受け続けているのである。マス段階においても困難であるとされた事態が、ユニバーサル段階においても、困難が煮詰められる形で現出していると言ってもよい。
* 以上の点を踏まえて、本稿では、日本の大学の量的拡大については「大衆(マス)化」という表現が適切であると判断し、「ユニバーサル化」という用語は使用していない。
私立大学を中心とする量的拡大
第2に、日本の大学制度の量的拡大は、圧倒的に私立大学に依存する形で実現したということがある。
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グラフは、戦後の大学数の推移を設置者別に見たものである(文部科学省「学校基本調査」各年度版より)。国立大学や公立大学は、一貫してほぼ横ばいである。国立大学の場合には、統廃合によって、近年では減少すらしている。公立大学に微増があるのは、自治体による誘致や、短期大学から4年制大学への転換が進んだためである。
これに対して、私立大学の数が、戦後一貫して増え続けていることは、一目瞭然であろう。学校数で見れば、私立が77%を占めている計算になる(いちいち数値は示さないが、学生数で見ても、大学生全体の74%は、私立大学の学生である)。端的に言って、日本の大学の「大衆化」は、私立大学がその量的な拡大部分を吸収し続けることで実現したのである。
一部の難関私大を除けば、国立大学は、私立大学よりも学力階層的に上位の学生のみを集めている。しかも、教育条件面で見ても、国立は私立よりもはるかに恵まれている。事実、ST比(教員1人あたりの学生数)を見れば、国立大の12.6人に対して、私大は23.4人と倍近くであることが分かっている(朝日新聞・河合塾共同調査、2015年12月より)。
要するに、こういうことだ。――より条件の悪い大学群(私立大学)が、大衆化によって新たに大学に進学するようになった層の学生たち(学力階層的には中・下層の学生層)を大量に引き受けている。しかも、経営上の事情があるために、私立大学にはそれらの学生の受け入れを拒否するという選択肢はない。彼らを入学させ続ける必要があり、かつ、そう簡単に中退させるわけにもいかない。丁寧な初年次教育の実施が必須の課題となるのである。
「アカデミックセクター」が膨張した
第3に、これだけ「大衆化」したにもかかわらず、日本の大学制度は、いまだにアカデミズム志向の学部等を中心に構成されているということもある。
諸外国の高等教育セクターは、たいていの場合、学問をベースとした専門教育、あるいは高度なリベラルアーツ教育を行う「アカデミックセクター」と、職業教育訓練を中心とした「職業教育セクター」によって構成されている。
通常、高等教育が大衆化していく際には、アカデミックセクターはそれほど膨張することなく、大卒レベルの職業人養成を担う職業教育セクターが量的に拡大していく。そして、そうした職業教育セクターであれば、大衆化した層の学生たちに対しても、彼らのモチベーションを喚起できるような教育内容を提供することができるという利点がある。
しかし、日本の大学制度の大衆化は、これとは異なる経路をたどり、むしろアカデミズム志向の学部等が、量的に膨張する形で成し遂げられたと言える。
その背景には、高度成長期以降の日本企業は、大卒をジェネラリスト人材として採用し、彼らの職業能力開発は、入社後の企業内教育が担ってきたという事情がある。
つまり、一部の専門職種を除けば、企業は職種別の採用を行わず、職種別の労働市場も発展していなかったので、大学教育の側も、職業教育に特化した学部等を増やすことはなかったのである。
ついでに言えば、先にも見たように、日本の大学の量的拡張を担ったのは私立大学であったため、人的にも物的にもコストのかかる職業教育系の学部等ではなく、安上がりで、マスプロ教育も可能な人文・社会科学系の学部等の設置や拡大に走ったということも指摘できるかもしれない。
いずれにしても、日本の大学は、「大衆化」段階において、従来であれば大学には来なかった大量の学生の層を相手にして、アカデミズム志向の教育課程を教えようとしている。ここに多大な困難と構造上のギャップが生じてしまうことは、火を見るより明らかであろう。
建前を崩さなかった日本の大学
言ってしまえば、初年次教育とは、いま述べた意味での「構造」的なギャップに、教育や指導の力によって挑戦しようとする果敢な試みなのである。はたしてそこに、“勝算”はあるのだろうか。
学校教育法 第83条
「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的・道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」
上記は、学校教育法に規定された大学の目的である。ここには、さりげなく「応用的能力」という言葉も登場している。しかし、圧倒的に目を引くのは、「学術の中心」であり「専門の学芸」であろう。
これまで、大学関係者たちの視線も、そこに集中的に注がれてきた。だからこそ、大学人が集まって議論を始めると、必ずと言っていいほど、「(そんな教育するようでは)専門学校とどこが違うのか!」「大学は就職予備校ではない!」といった言辞が飛び交うのである。
結局、日本の大学は、その教育の対象がどんなに量的に拡大してきても、「学術の中心」として、学生に「専門の学芸」を教授するという姿勢を貫いてきた。もちろん、大衆化の進行とともに、現実には、学術の最先端を教えるなどということは叶うはずもなく、専門の初歩の初歩に触れさせるだけといった教育の実態も現れてきたはずである。しかし、重要なのは、「専門の学芸」を享受するという建前は、けっして崩さなかったという点にある。
こうした大学側の建前と「大衆化」段階の学生の間には、当然、“齟齬”が生じうる。教育には“綻び”も目立ちはじめる。初年次教育は、まさにこの綻びを縫い合わせることを期待されて登場したのである。
初年次教育には構造的な「限界」がある
では、初年次教育は、期待された成果を上げているのか。
すでに紙幅が尽きているので、ここでは結論のみを述べて、次回に詳細を展開することにしたい。
単刀直入に言えば、日本の大学の多くは、大変な努力を重ねている。その結果として、一定の「成果」を上げている事例も少なくない。しかし、それらは、比喩的に表現すれば、“治癒的・回復的”な成果であって、学生の実態と大学教育(教育課程)との「構造」的ギャップを解消させるものにはなっていない可能性も強い。
実施しないでいいわけではない。実施すれば実施しただけの「成果」はある。しかし、そこには構造的な「限界」も見えている。これを、初年次教育の「憂鬱」と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47232
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