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想像のはるか上を行く大学「大衆化」のインパクト
これで大学生と呼べるのか?「初年次教育」という憂鬱
2016.6.7(火) 児美川 孝一郎
現在、大学教育の現場がどうなっているのか、そこにどんな課題や困難があるのかを、何回かに分けてお伝えしてみたい。かつての大学の姿を知る年配の読者には、おそらく想像もつかないような光景が浮かび上がってくるはずである。
大学教育の変貌ぶりを示すトピックは、いくらでも挙げることができるが、今回は「初年次教育」について取り上げる。そんな言葉は聞いたことがないという方が大半なのではないかと想像するが、初年次教育こそは、「大衆化」という大学制度の構造変容の影響を受けた各大学が、それぞれに腐心し、苦悩している状況を象徴的に体現する場だからである。
まずは、今日の大学が、いったいなぜ、そしていつ頃から「初年次教育」に取り組むようになったのかという点から見ていこう。
大学教育の大衆化
日本の大学教育に初年次教育というジャンルを登場させた動因となったのは、この20年ほどの間に日本の大学教育を襲うことになった大学「大衆化」のインパクトである。
以下の表をご覧いただきたい。18歳人口がピークを迎えた1992年と直近の2014年の数値を単純に比較してみる。
(*配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで図表をご覧いただけます。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46996)
まず、少子化の進行によって、18歳人口は、現在ではピーク時の6割以下に減少している。しかし、それにもかかわらず、大学入学者の数は、1割以上も増加している。
なぜ、そんなことが可能になったのかと言えば、言うまでもなく大学進学率が倍近くにまで急上昇したからである。そして、上昇した進学率を吸収するべく、この20数年の間に、大学の数も大幅に増加している。
*学校制度上、短期大学も大学の一部である。各種の統計では短大も含めて、大学進学率を計算することもあるが、ここでは、短大を除いて純粋な4年制大学についての入学者数、進学率、学校数を示している。
入学者選抜の弛緩
要するに、大学は制度的に拡張・膨張し、同年代の過半数が大学に通うまでに、進学率も上昇した。しかも、この変化は、単に量的な拡張を意味しただけではなく、質的な変化を伴っていた。端的に指摘すれば、大学に入学してくる学生の「層」の変容である。
素朴に考えても、お分かりだろう。これだけ少子化が進んだにもかかわらず、大学はその数を増やしてきた。当然、各大学には経営問題がある。入学定員は満たさなくてはいけない。結果として、この20年間に進んだことは、各大学が、従来であれば大学には来なかった(入れなかった)であろう層の学生を、積極的に入学させるようになったという事態である。
事実、大学への入試経路において、この間急激に膨れてきたのが、推薦入試やAO入試にほかならない。これらの入試経路は、一般入試のような学力試験を課すことはなく、事実上、入学者「選抜」の機能を果たしていない(志願すれば、必ず合格できる)ケースも少なくない。
読者にとっては驚くべきことかもしれないが、現在、日本中の大学への入学者のうち、推薦・AO入試を経由してきた者の割合は、4割を超えている。私立大学に限れば、その割合は5割を超え、過半数に達しているのである。
(その背景には、毎年、45%前後の私立大学が入学者の定員割れを起こしているという実態がある。少なくない私大は、経営難を回避するためには、推薦・AO入試に頼らざるをえないのである)
では、一般入試を経由してきた入学者は、大丈夫なのか。ごく一部の難関大学の学生はそうなのかもしれないが、そうとは言い切れない大学生が増えている。入試で課される科目数が減少しており、かつ、合格難易度も従来の水準を維持できない大学が少なくない。「一般入試だから、学力は安心だなどとは言えない」――これが、多くの大学教員の実感であろう。
大衆化の衝撃
現在、日本の大学は、こうした意味での大学教育「大衆化」の衝撃に見舞われ、その対応に苦慮している。かつてであれば、大学生ともなれば、入試という競争的選抜をくぐり抜けた者なのだから、一定の学力や知的能力があり、意欲もあるという「前提」が成り立ち得たかもしれない。しかし、今やこの前提は成立しない。
推薦・AO入試組は、入試のための受験勉強などは経験せずに、大学に入学してくる。一般入試組といえども、少数の特定科目に焦点を当てた受験準備しかしてきていない。しかも、彼らの志望動機はかなり曖昧であることが多い。「高卒では働きたくない」「周囲が大学に行くから」といったあたりに本音があることも少なくない。これが、大学が大衆化するということの意味なのである。
大学側の対応
では、こうした「大衆化」時代の入学者を大量に抱え込むことになった大学は、事態にどう対応してきたのか。
当然のことではあるが、従来どおりの、旧態依然たる大学教育をしていたのでは、多くの学生は授業についてこられない。意欲も喪失してしまう。その結果は、留年者や中退者の増加に行く着くことは必定であろう。
そうした事態に陥らないために、多くの大学が取り組んだのが、以下の表のような手立てである。すべて「初年次教育」と括ることも可能だが、目的と形態に着目して区分することができる。
拡大画像表示
要するに、「大衆化」時代の大学に求められたのは、基礎的な学力の補充と、大学での学びに移行するための意欲の喚起、そして学習スキルの教授なのである。
初年次教育の概況
入学前教育、リメディアル教育、初年次教育のうち、純粋な大学教育と呼べるのは初年次教育のみであるので、以下は、初年次教育に限定して述べる。
いったいいつ頃から、各大学には初年次教育科目なるものが設置されるようになったのか。正確なことは分からないが、日本に「初年次教育学会」ができたのは、2007年のことである。学会の設立に至るほどの研究上のニーズや実践上の情報交換の必要性が意識されていたということは、2007年よりもかなり以前から、日本の大学教育界には初年次教育の取り組みが、それなりの規模で広まっていたことが分かるだろう。
そして、現在では、文部科学省の「大学における教育内容等の改革状況について」(2013年)によれば、全国の大学の94%が初年次教育を導入しているとされる。取り組みの具体的な内訳は、表にあるとおりである。
「論理的思考力・課題解決能力の向上」になると、一気に取り組み率が下がるように、全体としてそれほど高度なことをしているわけではないことが分かるだろう。内訳を問う質問項目に出てこないが、先に触れたように、自校教育やキャリア教育を含んでいる場合もある。
ただし、実際には、大学生活全般への諸注意、各種手続きや履修登録のガイダンス、ノートの取り方、図書館の使い方等に時間を費やすことも少なくない。
そして、極めつけは、入学直後の新入生の多くが、友だちができるかどうかを気にし、心配しているという実情を踏まえた、友だちづくりための場の提供という“裏メニュー”である。
初年次教育の実態
ここまで来ると、往年の大学を知る読者は、「今どきの大学は、いったい何をしているのか」と思うかもしれない。確かに、言わんとするところは理解できるので、初年次教育科目を担当する大学教員の側にも忸怩たる思いはある。
しかし、こうした教育(サービスの提供?)のニーズは、確実に存在しているのである。この点に目をつぶって、「そもそも大学教育であるからには・・・」などと上から目線で物を言うだけでは、何の解決策にもならない。
それでは、初年次教育の取り組みは、期待された成果を上げているのか。――これが、また悩ましい問いなのであるが、すでに紙幅が尽きた。次回は、初年次教育の取り組みの具体的な実情にも触れながら、この点に迫ってみたい。
(続く)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46996
首都圏ああ無常、学力低く東大合格者は西に偏重
実は東京には一極集中していない日本の大学教育
2016.6.7(火) 村田 雄基
中国版世界大学ランキング、今年も上位は米大が独占
米マサチューセッツ州にあるハーバード大学。世界大学ランキングでは米国の大学が上位を占める一方、東大をはじめとして日本の大学は地盤低下が著しい〔AFPBB News〕
5月1日の朝日新聞で「大学の首都圏一極集中」という記事を目にした。首都圏一極集中とは政治、経済、文化、人口など、社会における資本・資源・活動が首都圏に集中していることを言うようだ。
確かに多くの企業は首都圏に集中している。例えば、全国で1119社(2013年)ある資本金100億円を超える企業のうち、半数以上にあたる683社の本社は東京に存在する。
しかし、首都圏に何から何まで集中していると言われると、本当かと首を傾げざるを得ない。京都や金沢に旅行に行けば、文化財はこちらに集中しているようにも感じられるし、わが国の医師数は西高東低だ。首都圏では、しばしば救急車のたらい回しが問題になる。
本当に、朝日新聞が報じるように、大学教育は首都圏に一極集中しているのだろうか。全国から優秀な学生が東京を含む首都圏に集まり、地方からは人材が流出しているのだろうか。
大学教育の首都圏集中は真っ赤な嘘
疑問を感じた私は、この問題を調べてみた。対象としたのは旧帝大を前身にもつ北海道大学(北大)、東北大学(東北大)、東京大学(東大)、名古屋大、京都大学(京大)、大阪大学(阪大)、九州大学(九大)の7つの大学だ(以後、旧七帝大)。
旧七帝大は、これまで日本のエリート教育や、研究をリードしてきた。もし、朝日新聞の主張が本当なら、東大には全国から学生が集まり、地方の旧帝大は地元出身者ばかりということになる。
私が用いたデータソースは、『週刊朝日4・22号増大号』(朝日新聞出版、週間版、2016年4月12日刊)の「全国3333高校合格者数総覧」だ。難関大学合格者の出身高校を全国3333校紹介している。
まず、旧七帝大の合格者の出身高校の所在地を調べ、都道府県ごとに集計した。さらに、都道府県ごとの合格者数を、各県の18歳人口(平成27=2015年12月確定値)で割り、18歳人口1万人当たりの合格者数を計算した。
また、各県ごとの合格者数だけでなく、地方ごと、東大は関東7県1都、東北大は東北6県、九大は九州7県といった具合に合格者数も調査し地元占有率を算出した。
結果は驚くべきものだった(表1)。
(* 配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで図表をご覧いただけます。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47017)
表1:旧帝国大学の地元占有率(%)
地元占有率からすると、東大に全国から飛び抜けて学生が集まってきているわけではなかったのである。地元占有率が最も低かったのは北大だった。38%だ。ついで、東北大が39%と続く。
さらに、京大50%、阪大58%と関西の大学が続き、東大は59%で第5位である。最も地元占有率が高かったのは、名大や九大。共に71%で、地域色が高い大学と言っても過言ではない。(図1、2)
これは、多くの人が抱くイメージとは異なるのではなかろうか。旧七帝大に代表される大学教育は、決して東京に一極集中しているわけではない。
次に、入学者の分布をみると、さらに見え方は変わってくる。京大や阪大の合格者は、共に関西圏に集中している(図3、4)。関西についで多いのは、四国や中国地方、北陸地方などの隣接する地方だ。
東大の合格者の分布は、京大・阪大とは若干異なる(図5)。奈良県、鹿児島県、兵庫県などの首都圏から遠く離れた県からの合格者が多い。東大寺、ラ・サール、灘など有名進学校があるからだ。
東北大と北大では大きな相違
図1:名古屋大学の合格者分布
しばしばメディアで取り上げられるため、このような高校の存在が「東大は全国から学生が集まる」というイメージを形成しているのかもしれない。
東北大と北大は地元占有率がほぼ同等だ。ところが、両者の合格者の分布は大きく異なる。
東北大の合格者は地元を中心とした分布図を示す(図6)。隣接している関東圏からの入学者が他地域より圧倒的に多い。このため、東北地方からの合格者が少なくなる。
図2:九州大学の合格者分布
しかしながら、東北地方と関東の出身者を合わせると72%に達する。これは九大や名古屋大の地元占有率と、ほぼ同レベル。
北大の分布は違う。隣の東北地方に限らず、全国の広い地域から合格している(図7)。その分布を詳細にみると、日本海側からの出身者が多いことが分かった。
東大のように、全国的名門校が所在する県の出身者が多いわけではない。なぜ、このような分布になったのだろうか。
図3:京都大学の合格者分布
図4:大阪大学の合格者分布
図5:東京大学の合格者分布
図6:東北大学の合格者分布
図7:北海道大学の合格者分布
私は、北海道の歴史が関係していると思う。注目すべきは、北海道の次に合格者が多かったのが、富山県であることだ。
実は、富山県と北海道は歴史的なつながりが強い。江戸から明治にかけて北前船によって日本海側で交易が行われた。北海道からは昆布、富山からは米が往来した。今でも富山の昆布消費量は全国1位だ。
それだけではない。
明治30年代、北海道への入植者が最も多かったのも、富山だったのだ。また、この時期に北陸銀行の前身である十二銀行が、道内第1号店として小樽に進出している。これは、北前船を通じた結びつきが背景にある。
「本当にそんなことが、現在でも影響しているのだろうか?」と思われる方もいるだろう。実は、現代も影響が残っているのだ。例えば、北陸銀行は2004年に北海道銀行と経営統合した。
地元出身者が多い旧帝大
図8:旧帝国大学の合格者分布
政治でも影響が残っている。例えば、高橋はるみ北海道知事は富山県の出身だ。彼女の祖父は富山県知事を2期務めた大物政治家であった。
富山と北海道の深いつながりが若者を北の大地に呼び寄せているのだろう。学生が志望大学を決めるのに、縁もゆかりもない土地に行くことは稀であるからだ。
以上のデータから言えるのは、旧七帝大の合格者は、基本的にその所在地の地元出身者が多い傾向にあるということだ。
では、旧七帝大をすべて合計すれば、どのような分布になるだろうか(図8)。
18歳人口1万人あたりで最も旧七帝大合格者数が多い県を順に並べてみた。上から、奈良、福岡、京都、佐賀、愛知。驚くことに、すべて関西以西である。西の教育レベルは高い。
一方、東京を除く関東が押し並べて下位を占めていた。
確かに全国的に有名な超進学校の多くは関東に存在する。しかし、それらトップ10校の卒業生を足し合わせても、3000人にも満たない。首都圏の教育は全体を見ると、それほどレベルは高くないのである。
実際に、これは研究分野の実績面に大きく影響しているようだ。特に理工系の分野において、東大卒でノーベル賞を受賞した者が少ない。
化学賞を受賞した根岸栄一氏や、物理学賞を受賞した小柴昌俊氏、南部洋一郎氏くらいだ。関東すべて合わせても6人。一方、関西では受賞者が9人もいる。その差は歴然としている。
首都圏の理工系学部は、関東一人負けであると言っても過言ではない。教育においても首都圏集中が望ましいのか。それは別に議論する必要がある。
しかし、少なくとも関東で多くの優秀な人材を輩出するためには、大学教育のあり方は変わらなくてはならないだろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47017
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