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【第56回】 2012年11月6日 相川俊英
「大阪維新の会」結成の意外なきっかけ
合併後も地域に亀裂を広げる新庁舎問題
そもそも大阪府庁舎移転議論が
大阪維新の会を産み出した
「ふざけたことを言うな!」とお叱りを受けるかもしれないが、大阪府庁舎が橋下徹氏率いる「日本維新の会」を産み出したと言える。
より正確に表現すると、老朽化した大阪府庁舎の問題がきっかけとなって、「大阪維新の会」が結成され、大阪都構想の具体化につながった。その流れが国政政党「日本維新の会」を誕生させたのである。その経緯をざっと説明しよう。
タレント弁護士だった橋下徹氏が大阪府知事に就任したのは、2008年1月のこと。自民党と公明党の推薦を受けて当選した。
当時の大阪府は財政危機など様々な難問に直面していたが、その1つに大阪府庁舎の建て替え問題があった。1926年に造られた府庁舎は重厚な建物ながら老朽化が進み、ボロボロになっていた。耐震性にも難があり、もはや限界だった。このため、前知事時代に現在地で建て替えるとの方針が示されていた。
これに異を唱えたのが、橋下新知事だった。建て替え費用や工期、さらには将来を見越した地域戦略などから府庁舎の移転を主張したのである。移転先として白羽の矢を立てたのが、大阪市がベイエリアに建設した超高層ビル、ワールドトレードセンター(WTC)だった。
現在地で庁舎を建て替えるよりも低コストで済み、しかも、いつでも転居できる。スペースも充分あり、将来は大阪のみならず関西圏の一大拠点になるとアピールした。
一方、WTCを所有する大阪市の第三セクターは経営破綻し、ビルの買い手を必死になって探していた。しかし、このご時世である。巨大物件を購入したいという話はなく、天を仰ぐ日々が続いていた。
それだけに、WTCへの府庁移転は大阪市にとっても願ってもない話だった。まさに、大阪府と大阪市が「ウィン・ウィン」の関係になるものだった。
しかし、庁舎移転は通常の引っ越しのようにはいかない。議会や庁内から難色を示す声が上がり、移転に賛同する議員は一部に止まった。府議会での審議は大揉めに揉め、とうとう徹夜議会となった。
大阪府議会の論議をヤキモキしながら見ていたのが、大阪市の平松邦夫市長(当時)だった。移転案の採決前に本人をインタビューしたが、「橋下さんを応援するために府議会に傍聴に行きたいくらいです」と真顔で語るほどだった。
結局、WTCの購入は認められたが、本庁舎とする案は退けられた(庁舎の位置の変更は条例で定めなければならず、それには議会での3分の2以上の賛成が必要)。
平松市長は議決直後に大阪府庁をわざわざ訪れ、橋下知事の労をねぎらった。その後、紆余曲折を経て両者は不倶戴天の関係となってしまったが、当時は互いに「府市連携」を掲げて蜜月関係にあった。
WTCへの移転は一部に止まり
関係者の落胆と怒りが改革を加速
WTCへの府庁舎移転はなくなり、一部の部署が移転するだけとなった。この結果に知事のみならず、移転に賛同した自民党の若い府議たちも落胆した。彼らは投票結果だけでなく、移転案の採決を無記名投票にしたことに怒りを募らせていた。
6人が自民党府議団から離脱し、新たに「自由民主党・維新の会」を結成した。脱藩組のリーダーは、その後、大阪府知事になる松井一郎府議(日本維新の会幹事長)だった。さらに、政策通で知られる浅田均府議(大阪府議会議長・日本維新の会政調会長)も、仲間と共に自民党府議団を離脱し、松井氏らと合流した。
こうした経緯を経て、2010年4月に地域政党「大阪維新の会」が結成された。大阪府が庁舎移転問題で大揺れに揺れたあのときから、約1年後のことだ。
自治体が庁舎の移転や建て替えをめぐって紛糾するケースは珍しくない。役所の周辺が地域の中心地と考える住民が多く、庁舎の移転は単なる場所の移動に止まらないと見られているからだ。庁舎の移転はどの自治体にとっても最大の難事業なのだ。
市町村合併では庁舎が火種に
富山県射水市がとった「分庁舎方式」
既存の自治体ですら、頭を悩ます問題である。市町村合併となると、ややこしさはさらに拡大する。
合併協議で最大の難所となるのが、庁舎問題だ。編入合併のケースはまだしも、新設合併となると庁舎位置をめぐる綱引きが過熱する。「たかが庁舎の位置」なのだが、「されど庁舎の位置」である。どうにも折り合いがつかず、合併協議が決裂してしまうことも少なくない。
国主導で進められた「平成の大合併」においても、各地で庁舎位置をめぐる「笑うに笑えぬドタバタ劇」が展開された。なかには、今なお揉め続けている自治体すらある。たとえば、富山県射水市だ。
富山県射水市は、2005年11月に富山湾に面した旧新湊市と内陸部の旧射水郡4町村が合併して誕生した。人口は9万3588人(2010年国勢調査)で、県内第3位の都市となった。
もともと旧5市町村はゴミ処理や消防、上下水道などを広域で行なっていた。それで合併となったのだが、すんなりとはいかなかった。生活圏や気質の違い、さらには中心部の二極化といった地域固有の問題を抱えていたからだ。
旧新湊市の人口は約3万6500人(05年国勢調査時点・以下同)で、旧小杉町が約3万3000人、旧大門町が約1万2000人、旧大島町が約1万人、それに旧下村が約2000人だった。
旧新湊市が人口減少傾向にあったのに対し、富山市や高岡市のベットタウンとなっていた旧小杉町は人口を増やしていた。勢いに違いがあったのである。
5市町村による合併協議が始まったが、旧小杉町では旧射水郡4町村での合併を模索する動きも広がった。旧新湊市を除く合併の枠組みである。5市町村による合併か郡内合併か、町内を二分する論争が繰り広げられた。すったもんだの末に住民投票となり、僅差で5市町村合併に軍配があがった。
こうして5市町村による合併協議がスタートしたが、徹底的に話し合うという雰囲気ではなかったようだ。合併協議の破談を避けるため、合意形成が困難な事項は玉虫色のまま先送りされたのである。その最たるものが本庁舎の位置だった。
「(本庁舎をどこにするか)そういう話になると、合併そのものがうまくいかなくなってしまうので、当面は分庁方式で合併し、その後に考えていくことになった」(射水市市長政策室の話)という。
分庁舎方式から統合本庁舎建設へ
税金のムダ遣いと市民から批判の声
5市町村合併で誕生した射水市は、「分庁舎方式」なるものを採用した。旧市町村の5つの庁舎と上下水道事業部の庁舎の計6つを、合併後もそれぞれ庁舎として活用するというものだ。6庁舎ごとに入居する課を割り振り、条例上、全てを本庁舎と位置付けたのである。
たとえば、小杉庁舎には市長政策室や総務課、人事課、財政課といった11課室などを配置した。新湊庁舎には議会を置き、さらに社会福祉課や農林水産課など11課室。大門庁舎には都市計画課や道路建設課など5課、大島庁舎には課税課や生活安全課など6課、下庁舎には教育委員会などの5課が配分された。
「便宜上の庁舎の位置は市長がいる小杉庁舎になっていますが、条例上は全てが本庁舎となっています」(射水市市長政策室の話)
合併から7年が経過し、射水市は分庁舎方式を止め、新たに統合本庁舎を建設する方針を示している。総事業費は約80億6000万円にのぼるが、合併特例債を活用するので市の負担額は53億8000万円になるという。市は2015年度内の完成を目指し、現在、新庁舎の基本設計を進めている。
こうした射水市の動きに対し、市民の一部から批判の声が上がっている。新庁舎建設に反対する住民グループの渡辺謙一代表は、「市町村合併は市民への行政サービスを低下させないための行財政改革であり、立派な庁舎を新築するために合併したのではない」と、主張する。新庁舎建設に巨額の税金を投じるべきなのかという、本質的な疑問である。
さらに、反対派住民は市長への不信感を募らせている。こんな背景があった。
2009年の射水市長選は、統合庁舎建設の是非が争点となった。建設推進の現職市長(旧新湊市長)に対し、新人候補が「建設反対」を訴え、初当選した。旧郡部の票を集めたものと見られている。
その新市長が新庁舎建設を表明(市議会が2011年6月に、市庁舎の位置を旧大島町内に変更する議員提案を可決)し、かつての支持者などが猛反発しているのである。「議員提案で新庁舎の位置を定めた条例は違法だ」と主張し、新庁舎建設に関する公金支出の差し止めを求める住民訴訟となっている。
2町が納得する絶妙な解決策?
「本庁定期移動方式」の不思議
「この方法は好ましくないので、10年以内をメドにどちらかを本庁舎にすることになっていました」
こう語るのは、熊本県美里町の総務課長。
熊本県のほぼ中央に位置する美里町は、2004年11月に旧中央町(約5000人)と旧砥用町(約8000人)が対等合併して誕生した町だ。当初は西隣の豊野町も含めた3町での合併を模索したが、2町での合併協議となった。
四十数項目の合意がなされ、最後に残った難題が本庁舎の位置だった。2町互いに譲らず、合併はそのままご破算になるかと思われた。
ところがどっこい、突飛なことを思いつく人がいるものだ。突っ張り合う2町がともに納得する絶妙の解決策(?)を捻り出した。それが、彼らの命名によると「分庁定期移動方式」というものだった(当方は「本庁定期移動方式」と表現する)。
これは本庁舎の位置を2年ごとに変えるという奇策である。まずは旧中央町庁舎と旧砥用町庁舎に配置する課を決める。税務課や住民課、経済課などは旧中央町庁舎に置き、旧砥用町庁舎には福祉課や建設課、林務課などを配置し、それぞれ固定させる。いわゆる分庁方式である。ユニークなのはここからだ。
本庁部門とされる町長や副町長、総務課、議会は2年ごとに2つの庁舎を移動することになった。2年経ったら別の庁舎に引っ越すのである。企画課も総務課と対になって交互に移動する。
つまり、2年ごとに本庁舎の位置が変わるのである。2つの庁舎の距離は約10キロ。2年に1度、職員らが書類を運ぶ光景が美里町の恒例行事となった。
最初(2004年11月1日から)は中央庁舎に町長や副町長、議会、総務課が居を構え、06年11月に砥用庁舎に転居。08年11月に2回目の引っ越しを行ない、中央庁舎に移動し、10年に3回目の引っ越しでまた砥用庁舎へ。
そして、今年11月に4回目の引っ越しが行なわれ、中央庁舎が3回目の本庁舎になり、本庁定期移動方式は終了となった。昨年の9月町議会で本庁舎を中央庁舎にする条例改正案が可決されたからである。普通の分庁方式に切り替わったのである。
平成時代になぜ参勤交代を?
大型公共工事という側面も
それにしても、なぜ、参勤交代のようなことを平成の時代に続けたのか。それは言うまでもない。どちらの町も「本庁舎をわが町に」と譲らなかったからだ。
だが、それ以外に特別な事情もうかがえた。2町の庁舎はともに完成して日が浅かった。旧中央町の庁舎は1995年完成で、合併時は築9年。旧砥用町庁舎に至っては、合併の半年ほど前に完成したばかりだった。
庁舎の広さは旧中央町庁舎が旧砥用の1.5倍もあり、豪華さを競っていた。多額の税金を投じて建てたばかりの庁舎なので、本庁機能を譲るわけにはいかなかったのではないか。
美里町は楕円形をしていて、砥用庁舎がほぼ中央に位置している。しかし、本庁舎は町の東端にある中央庁舎に固定されることになった。スペースが広いこと、そして熊本市内や県の事務所に近いことなどが決め手となったという。
本庁舎は町の真ん中にあった方が住民にとってはよいかと思うが、別の判断基準が優先されたようである。
合併後に大きな新庁舎を建設する自治体もあれば、合併前にわざわざ新庁舎を造った自治体もある。庁舎の新設や建て替えは、地域の業者などにとって最高の大型公共工事なのかもしれない。
http://diamond.jp/articles/print/27418
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