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上州どっと楽市にお邪魔しました。ドリームチームの皆さんにこの後御挨拶10/28
サンデー毎日に私のコメントが載っています。(※1サンデー毎日)世襲について。(三宅雪子※2ツイート)
サンデー毎日に私のコメントが載っています。世襲について。政治資金団体問題や機会均等かどうかはあるにせよ、「全ては有権者」の判断です。私が言うのも変ですが、福田康夫元首相のご長男(※3福田達夫氏)は人柄よく評判のいい方です。
再送:群馬4区候補者内定報道にあたり(訂正)TWをたくさん頂きます。大事なのは、応募一人とはいえ正当に公募で選ばれた候補者ということを忘れてはいけません。、同じケースが全国で重なったのは候補者の責任ではありません。祖父(※4石田博英氏)は反対論者でしたが是非は有権者が決めることだと思っています。
全ては有権者が決めること。割り切っています。私の祖父は地盤や票は自分のものではない、引退の時は有権者に返すのだ、と明確な後継者指名もせず、地元が混乱し、ご批判を受けました。そんな祖父を私は尊敬しています。
(三宅雪子ツイート)https://twitter.com/miyake_yukiko35#
※1
■こりゃ、ダメだ! 安倍自民が開き直った世襲病の真相(サンデー毎日11.4・抄)
次期衆院選の勝利が確実だからだろう。出るわ出るわ、自民党の。世襲々が花盛り。批判をかわそうと「党員投票」を打ち出したものの、出来レースの様相だ。これではまるで現代の"貴族"そのものではないのか。
▼政治団体間寄付で「非課税の穴」
振り返れば、9月の自民党総裁選に立候補した面々も、全員そうだった。
安倍晋三総裁が決選投票で逆転勝利を収めたこの戦いに名乗りを上げたのは、石破茂幹事長、石原仲晃前幹事長、町村信孝元官房長官、林芳正参院議員の計5人。ご存じの方もいるだろうが、
▽安倍氏は安倍晋太郎元外相
▽石破氏は石破二朗元自治相
▽石原氏は石原慎太郎東京都知事
▽林氏は林義郎元蔵相のそれぞれ子息で”世襲議員” のオンパレードだったのだ。
与党時代、世襲批判を浴びた自民党は、民主党に政権交代を許して野党に転落した09年衆院選のマニフェストで、次期衆院選から、
引退議員の配偶者と3親等以内の親族を同一選挙区で公認・推薦しないことを明記していた。ところが、翌10年になると「無原則に公認しない」に変化。さらには「透明感のある選考作業」という表現で、世襲制限は事実上、”骨抜き”になってしまった。
今回、父親の政界引退表明を受けて自民党の公募に応じたか、あるいは応じる予定の世襲候補は「大物の子息」ばかりだ。
▽「偉大なるイエスマン」こと武部勤元幹事長の長男・新氏(北海道12区、公募で決定)
▽「あなたとは違うんです」の福田康夫元首相の長男・達夫氏(群馬4区、公募締め切り)
▽かつて女性問題でマスコミを賑わした中川秀直元幹事長の次男・俊直氏(広島4区、公募中)
▽大野功統元防衛庁長官の長男・敬太郎氏(香川3区、公募で決定)
■課税対象のルールを作れ
なぜ今、このタイミングで世襲が大流行なのか。「各種世論調査の結果を見ると、次期衆院選では今のところ、単独過半数(241議席)に届くかどうかは別にして、自民党が第一党になって政権を奪還することが確実視される情勢。そこで父親の議員としては、今なら比較的楽に自分の地盤を息子に譲ることができると判断しているのでしょう」(永田町関係者)
正直と言えばあまりに正直な。親心だが、これが跋扈すれば世襲以外で意欲・能力のある人材を結果的に排除することになる。
一枚のA4判のペーパーが手元にある。自民党本部が10月12日、各都道府県連宛てに出した「現職引退に伴う新たな選挙区支部長の選任について(案)」というものだ。文書には〈各支部連合会において公募を行うことは勿論のこと、最終決定にあたっては、対象者が1人であったとしても、必ず当該選挙区の党員による投票を実施するよう要請する次第です〉とある。
ただ、この「党員投票」も世襲批判をかわす決定打にはなりそうにない。公募段階で候補者が一人しかいなければ、党員としてはその一人を選ぶしか方法がなく、事実上の「信任投票」になってしまうためだ。「大物議員の息子相手では、地元の市議や県議が公募に応じるのをためらう雰囲気がある。無理に出れば仕返しが怖い」(別の永田町関係者)という声もある。
一方、自民党の世襲候補を迎え撃つ現職議員は、どう受け止めるのか。武部親子と連続して戦うことになった新党大地・真民主の松木謙公・代表代行兼幹事長は、皮肉交じりにこう言う。
「職業選択の自由を考えた時、世襲候補が国会議員になることを妨げるものではありません。問題は、それを国民・有権者が望むかどうかでしょう。私は世襲批判をして次期衆院選に臨むつもりはありません。ただ、武部(勤)さん自身が、かつて世襲批判をしてきたと耳にしていますがね」
同じく福田親子に挑む三宅雪子衆院議員(国民の生活が第一)の母方の祖父は、秋田県選出で自民党の故・石田博英元労相。石田氏が世襲反対論者だったため、秋田からの立候補を見送った経緯がある。三宅氏は「他党のことなのでコメントする立場にありません。最終的には有権者の判断。サバサバしていますよ」と話したうえで、法改正の必要性を指摘する。
「特に福田さん親子ということではありませんが、政治団体が非課税になっている問題については国会で議論すべきでしょう」
国税庁などによると、政治団体は一般的に「人格のない社団」とされ、法人税法の規定で物品販売などの収益事業のみ課税される。父親の政治団体から息子の政治団体への寄付は課税されず、贈与税も発生しない。政治団体が受けた政治活動に関する寄付は原則非課税で、政治家が多額のカネを「合法的」に子どもに譲ることができるわけだ。政治家ではない親を持つ候補者からすれば、とても公平とは言えないだろう。
「政治団体を引き継ぐ際には、たとえば何親等以内の場合は課税対象にするなど、新たにルールを決めるべきです」(三宅氏)
先祖返りした安倍自民党が罹った「世襲病」は意外に重篤かもしれない。(以上)
※2
三宅 雪子(みやけ ゆきこ、1965年(昭和40年)3月5日 - )は、日本の政治家。国民の生活が第一所属の衆議院議員(1期)。外交官の父の赴任先であるアメリカ合衆国ワシントンD.C.にて出生。WIKIPEDIA(抄)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%9B%AA%E5%AD%90 国民の生活が第一オフィシャルWEBhttp://www.seikatsu1.jp/member45.html
出身校 桐朋女子高校、玉川学園女子短期大学、共立女子大学を卒業
前職 民放テレビ局に21年間勤務
世襲 無
祖父 石田博英(労働大臣)
選出選挙区 比例北関東ブロック
次回 選挙区:群馬県第4区(高崎市・藤岡市・神流町・上野村)
当選回数 1回
所属党派(民主党→) 国民の生活が第一
役職 選挙対策副委員長
国会の所属委員会等/役職 予算委員会 厚生労働委員会 海賊・テロ委員会
ホームページ
http://www.miyake-yukiko.com/
ツーイート
https://twitter.com/miyake_yukiko35#
命名の由来は、誕生時に雪がふっていたことによる。
1988年(昭和63年)に、フジテレビジョンに入社した。営業局、報道局、国際局、CSR推進室に勤務。報道局では経済部記者として為替と株式を担当した。
2009年(平成21年)7月27日に、父と関係が深く三宅自身も報道局時代に取材経験のあった民主党代表代行(当時)の小沢一郎から出馬要請を受け、フジテレビを休職。第45回衆議院議員総選挙に首相(当時)の福田康夫の地盤である群馬県第4区からの立候補を表明した。。群馬県第4区は、三宅の祖父・石田博英の秘書を務めた中島政希も立候補を希望していたが、三宅の見識と知名度を勘案した民主党執行部の裁定により、三宅が公認候補となった。前回の第44回衆議院議員総選挙で次点の民主党公認候補に約6万2千票差で圧勝した福田に、約1万2千票及ばず落選した。その後、惜敗率88.4%で重複立候補していた比例北関東ブロックより復活当選した。初登院となった第172回国会(特別会)には開門5時間前の午前3時前に姿を見せ、「国会に対する意気込みを有権者に見せたかった」と述べた。
2012年(平成24年)1月22日に、 自身のツイッターで民主党の電気料金値下げ隊副隊長に就任したことを公表。
同年6月の衆議院の消費税増税法案に反対。7月2日に民主党に離党届を提出、11日に国民の生活が第一の結党に参加した。
人物
ツイッターやインターネットを通して国民の声を直に取り入れ、政策に反映させる姿勢を見せる。
「脱原発」、および「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)反対」の立場を取る。小沢グループに所属していた。
逸話 [編集]
2009年 8月2日、高崎まつりに出向いた際、政権交代について尋ねるアンケートボードを手に、高崎市内を浴衣姿で練り回った。たまたま福田康夫が通りかかったので、福田にもアンケートに答えるように声を掛けた。すると福田は、少し躊躇したあと、政権交代に「ノー」の方にシールを貼ったという。なお、結果は「イエス」が11、「ノー」が福田を入れて4だった。[9]
9月16日、国会議事堂に一番乗りで入場するため、午前2時47分から正門前に並んだ。コンビニで買ったサンドイッチを食べるなどして開門まで5時間待ち、午前8時に正門が開くと一番乗りする姿が各種メディアで取り上げられた。
家族
外祖父:石田博英(第16・17代内閣官房長官)
父:三宅和助(駐シンガポール特命全権大使)
※3
群馬4区に福田達夫氏内定 自民、元首相の長男
自民党群馬県連は21日、福田康夫元首相が不出馬を表明した次期衆院選の群馬4区に、元首相の長男で私設秘書福田達夫氏(45)の擁立を内定した。近く4区の党員大会を開き承認する。
県連によると、党本部はいったん「候補未定の小選挙区は党員投票で選考する」との方針を表明したが、その後「党員大会で承認すれば投票を実施したとみなす」との意向が伝えられたという。
県連は元首相の不出馬表明を受けて公募を実施したが応募は達夫氏だけで、書類選考と県連役員の面接で内定した。
産経2012.10.21 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121021/elc12102120390004-n1.htm
※4
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。労働大臣。内閣官房長官。衆議院議員。 WIKIPEDIA(抄)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%8D%9A%E8%8B%B1
秋田県大館市出身。祖父は花岡鉱山を開発した鉱山師。父は京都帝国大学工科を卒業後、冶金技師として大阪造幣局に勤務。戦後、闇米をせず栄養失調のため死去している。
早稲田大学政治経済学部に入学し、在学中に恩師で後に早大政治経済学部長となった吉村正に連れられて三木武夫の選挙応援をしたことが機縁となり、三木との知遇を得る。石田は、選挙民に嘲笑されてはならないと父親のフロックコートを借りて、三木を自転車に載せて街頭演説に回った。
1939年、早稲田大学を卒業後、中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社。政治部に配属される。
石橋湛山に私淑するようになる。石橋が公職追放となると、他の政治家が占領軍を恐れて石橋との関係を疎遠にしていく中で、石田は「石橋側近」である事を公言して憚る事は無かった。秘書であった田中秀征は、石橋を総理に押し上げた時点で、石田の政治的野心も終わったと証言している。
1956年12月14日の総裁公選では、第一回投票で、岸信介223票、石橋151票、石井光次郎137票でいずれも過半数を制するに至らず、大会規約により一位の岸と二位の石橋との間で決選投票に持ち込まれた。石田は、舞台裏で石橋、石井の「2・3位連合」を工作し、決選投票では7票差で岸を破って、石橋内閣を誕生させた。
石田は石橋内閣の内閣官房長官となり、公選で石橋を支持した池田勇人が大蔵大臣、三木武夫が党幹事長となり、石田とトリオを組んで石橋内閣を支えることとなったが、石橋の病気でわずか二ヶ月で退陣することになる。
石橋退陣後、成立した第1次岸内閣で引き続き官房長官を務めた後、同改造内閣で労働大臣に就任。以後、通算6期に渡り労相を務めた。
岸政権が退陣した後、後を襲った池田勇人も三井三池争議解決のために石田を労相に起用。皇居での認証式を終えた石田は、モーニングのまま、現地に飛びその豪腕と熱意をもって三井三池争議を収拾することに成功した。
中央労働委員会の仲裁裁定完全実施の慣行や、ILO87号条約批准問題に取り組むなど、戦後の労働行政に、「石田労政」とよばれる一時代を築いた。
1963年、雑誌『中央公論』に論文「保守政治のビジョン」を発表。前年に社会党書記長の江田三郎が発表した「江田ビジョン」を受け、もしこのまま自民党が何も手を打たなければ、社会の変容(都市化や産業構造の変化)により6年後には自民党は社会党に政権を譲って野党に転落するという内容であった。
現職の自民党議員が政権交代を予測したとして話題を集めたが、1960年代から1970年代においては都市部においては社会・共産両党を事実上の与党とする革新自治体の増加が見られた。(以上・抄)
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