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(回答先: 東電裁判では、岸信介は、再度、A級戦犯の指名を受けることになるか?(uedam.com掲示板投稿から) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 6 月 10 日 01:23:28)
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/11111
(略)
スタートしたのは、1954年。中曽根康弘氏たち数名の国会議員が原子力の研究・開発に予算をつけました。翌年、原子力関連法案が採決されました。
そこから戦後日本で原発史が開幕です。
原発推進は順調に進み、2011年3月11日まで続きます。
54基。
このうち、福島第一原発の4基が事故。今や廃炉が決定。
大きな流れはこうなりますが、1954年の前にも、日本人は大きな体験をしました。
1945年8月の2つのアメリカ軍による原爆攻撃です。広島と長崎にウラン原爆とプルトニウム原爆を投下。。
日本人の原発史は、本当はこの時に始まった、と見るべきでしょう。
なぜなら、肥田俊太郎氏の体験では、その時点(日本に到着早々の9月2日)で、マッカーサーが「日本人の被爆者はアメリカ軍の軍事機密である」と命令しました。
「日本人の被爆者は、自分の身体に現れた症状を他言してはならない。たとえ親にも語ってはならない。医師は、診察してもよいが、カルテに記録を取ってはならない。医師たちが集まって、被爆者の症状について語ってはならない。研究してはならない。これらに違反したものは重罪に処す(=死刑)」。
というわけで、戦後日本人は、人類で唯一原爆を受けた国民であるのに、そのことによる被曝体験については、無知に留め置かれることになります。
私は、このアメリカ軍の「日本人は無知に留め置け」戦略が、3.11以後の民主党政権の、特に野田政権のクレージー動向に直結していると考えます。放射能の人体への影響への「管理された無知」が、放射能・安全神話を今も維持させている、と。
一方、日本人の原発立地国へのスタートへ最大の影響を与えたのは、1953年12月のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」スピーチ。
ソビエトと対抗するために(冷戦)、アメリカの原子力情報(マンハッタン計画の成果)を、西側諸国におすそ分けする戦略。
こうして、日本は、濃縮ウランをアメリカから提供されることになり、めでたく原発推進が具体化。
ということで、以上を整理すると、
1期 1945年8月の2つの原爆。
ちなみに、この時点を新しい世界史の原点にしよう、と主張したのが、奥さんと一緒に安楽死したアーサー・C・クラークでした。日本語の題名で、『ホロン革命』という本だったかな。
キリストを基点する西暦に代わる、広島暦です。
2期 1954年の原子力予算の成立。
3期 2011年3月11日の福島第一原発の大事故。
2012年6月9日の本日は、この3期にいます。
で、私の想定では、これに4期が続きます。
4期 東電裁判。
この裁判では、1954年の原子力予算の時点から、戦犯の確定作業となるでしょう。
問題は、この裁判がいつ始まるか、です。
早くて2045年か。そうすると、日本人の「原発100年戦争」となります。
この裁判が開廷されるころは、私はもうこの世にいないでしょう。
こんな具合にして、私たちは、福島原発事故以後の今の状況を理解したらどうでしょうか?
昨日は、ここから東電OL殺人事件の話題に入ったのでした。
この事件は、2期の時期に起きた原発戦争だったのだろう、と。
しかし、きょうはここでやめておきます。
東電OL殺人事件は、あたらめて。
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