04. 中川隆 2013年3月02日 13:06:04
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2012-09-26 ストーキングされ続け、最後に酸を投げつけられたインド女性 インド圏では自分の言うがままにならない女性をアシッド・アタック(酸攻撃)するという卑劣な犯罪が、何十年も前から延々と続いている。 バングラデシュでも、パキスタンでも、アフガンでも、イランでも、そしてインドでも、莫大な女性が酸を浴びせられ、顔面を破壊されているのである。 卑劣で、卑怯で、残虐で、おおよそ人間が考える犯罪ではない。 女性の容姿を完全に破壊し、その後の人生に激しい苦痛と恐怖を与えるこの犯罪が「珍しくない」とは、いったいどのような世の中なのだろうか。 苦境に陥っているアーチャナ・クマリ 2009年にアシッド・アタックされ、医療費が払えずに苦境に陥っているアーチャナ・クマリという女性が、インドの英字新聞「ザ・ヒンドゥー」で紹介されていた。 彼女は隣人から2年以上に渡ってストーキングされ、性的な嫌がらせを受けていたが、男を頑として拒み続けていた。 そして2009年11月12日のこと、男は歩いて彼女の家にやってきて、そして彼女に酸を浴びせたのだった。 言うまでもなく、インドの警察は被害者・加害者の力関係で事件を握りつぶしたり、なかったことにしたりする。 彼女の父親は教育もない一介の労働者に過ぎず、警察がまともに調査をするはずがなかった。また、警察沙汰にすることによって、さらなる報復を受ける可能性があった。 酸攻撃された彼女の治療のために、そして何よりも、さらなる攻撃を受けるのを恐れ、彼女の両親は傷ついた彼女をウッタール・プラデシュから連れ出してデリーに移った。
アーチャナ・クマリ。2年以上も男に付きまとわれ、性的嫌がらせを受け、最後にアシッド・アタックされた。
酸攻撃された証拠を書類として提出して下さい 彼女の両親は、傷ついた娘アーチャナ・クマリのために、持てる財産をすべて治療費に充てた。 入院費、医薬品代、検査代、治療費、交通費、生活費……。 彼女の母親が持っていた大切なジュエリーから何まで売り飛ばし、さらにあちこちから借金を重ねた。 そして、彼らは限界に達した。 政府に助けを求めると、資金援助を受けるためには「アシッド・アタックされた証拠を書類として提出して下さい」と言われて追い返されたという。 彼女が悲惨な姿になっているのはどうでもよくて、アシッド・アタックされたことが確実であるという証明書を出せというのである。 ところが、彼女とその家族はさらなる報復を恐れて身を隠しており、当時は警察によって十分な調査を受けていなかった。だから、書類が用意できないのである。 そして、彼女は新聞の取材を受け、自らの苦境を訴えることになったのだった。 効果はあったようだ。 政府はすぐにこの報道に反応し、「すべての女性が不当に苦しむことがないよう対処」することを確約した。 そして、彼女を専門の病院で治療を受けさせて、他の要求にも応えていきたいとしている。 躊躇なく女性に酸を浴びせる男が、山ほどいる アーチャナ・クマリは当面は何とかなる。しかし、この物語は決してハッピーエンドではない。 彼女はアシッド・アタックの結果、どうなったのか。写真を見ても分かる通り、もう彼女の片目はまったく見えなくなってしまっている。 そして、彼女の左耳も聴力を完全に失った。彼女の顔半分は溶解し、彼女の身体もケロイドになってしまった。 これからも彼女は長い困難な治療を受ける必要がある。そして、どんなに治療を受けたとしても、完治することはない。失った容姿は取り戻すことができず、彼女は人生を失った。 女性にアシッド・アタックするというインド圏の卑劣な犯罪はこれで収束したわけでもないし、根本的な対処もまったくなされていない。 私が激しい怒りを感じるのは、こういった残虐なアシッド・アタックが、まるで日常茶飯事にインド圏では起きていることである。 以前、「ジーンズを履いた女性はインドの伝統に反している。見かけたらアシッド・アタックする」という脅迫が女子大学に掲示されて、大騒ぎになったという事件があった。(ジーンズの女性には硫酸テロをすると宣言するインド民族主義者) 日本の女性に「酸攻撃(アシッド・アタック)」と言っても、大半の女性はそれがどんなものだか理解できないはずだ。そんなことをする男はいないからだ。 しかし、インド圏には、何の躊躇もなく女性に酸を浴びせる男が山ほどいて、毎年毎年、何百人もの女性が犠牲になっているのである。 私は、これが許せない。 アシッド・アタックについては、このブログだけではなく、ダークネスでもしばしば取り上げている。 卑劣な男たちの狂気の犯罪が蔓延していることに、世界中の女性たちが声を上げてくれることを心から願っている。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120926T0324370900.html
2012-05-11 青、緑、黄色。変わった瞳の色を持つインド女性のいくつか 唐突だが、あなたの瞳の色は何色だろうか。確認しないで「黒だ」と思う人もいるかもしれないが、まず自分の瞳を鏡で確認してから以下の文章を読んで欲しい。 日本人は自分の瞳が「黒」だと思っている人がいて、私もずっと自分の瞳の色は「黒」だと言っていた。 しかし、「あなたの瞳は黒ではない。ブラウンだ」と笑って指摘したのがロシア人の女性だった。(マイクズ・プレイス。緑の虹彩を持った女性とロシアの崩壊) 多くの日本人の瞳は焦げ茶色(ダーク・ブラウン) 改めて自分の瞳の色を確認したら、本当に「濃い茶色」だった。客観的にはそうなのだが、私たち日本人は自分の瞳の色のことを「黒」と言う。だから、意識下では黒だ。 しかし、黒は「比喩」であり、本当は日本人のほとんどが「茶色」なのである。もしかしたら、本当に「真っ黒」だと思い込んでいる人もいるかもしれない。 もちろん、全員がそうだとは言わない。しかし、多くの日本人は恐らく「焦げ茶色(ダーク・ブラウン)」だというのが正確なところだろう。 そういえば、どこかの国のアライバル・カード(出入国カード)で瞳の色を書かされた国もあったような気がするが、そのときにも黙って訂正されたような気もする。どこの国だったか思い出せない。 恐らく日本人は全員、無意識に"Black"と書いて"Brown"に訂正されるだろう。 しかし、人を判断するのに、瞳の色をとても重要視する国もあったりして、欧米人なども自分の瞳の色をよく知っている。それが自分の個性であり、自分の「お気に入り」だからである。 私の目をブラウンだと言ったロシア女性に、「君の目はブルーだね」と言ったら「違う、グリーンよ」と言われてよくよく見たらグリーンだったことも強い印象として残っている。 瞳の色は、日本人よりも外国人のほうが敏感なのである。 日本人はずっと「目の色は黒(茶色)」が当たり前だと思って暮らしているから、外国で相手の色が違うと本当に引き込まれる感じになるのではないだろうか。
インドの「多彩さ」に触れると病みつきになる ところで、インド圏の女性に惹かれて戻ってこれない理由がひとつある。 それは、女性たちの肉体、衣服、文化、見た目、ファッション、持っている小物、美的感覚、匂い、声調、肌の色、すべてが東アジアや東南アジアの女性と違っていることだ。 何もかも違っている。「違っている」というのは、日本人等の東アジア女性と違っているという意味だけではない。 同じインド圏でも、あきれるほどの女性のバリエーションがあって、ひとりひとりが何もかも違うのである。 インドは広大な大陸で、北と南では文化も人種もまったく違っているので、そういった違う人種がすべて国内でめちゃくちゃに混ぜられていて、膨大な「異種」の人間を生み出している。 最初、インドの神がなぜ、たくさんの顔や手があるのか分からなかったが、インドをさまよいながら、ひとりひとり「極端に違う」のを見て分かったような気がした。 インド人は、人を見て「人間とはたくさんある」というのが子供の頃から脳裏に刻み込まれている。 だから、神を描くときは潜在的に「たくさん」が強調され、顔も手もたくさん描かれるのではないかと思ったのだった。 よくニューヨークは「人種の坩堝」と言われる。しかし、それは混ざっていない人種を指している。 インドも人種の坩堝だが、インドとニューヨークが違うのは、インドの場合は人間がまとめて交配して混ざった状態で違っているということだ。 混ざるというのは、当然、青い瞳も緑の瞳も黒も茶色も全部混ざるわけで、それが多彩なインド人の印象をさらに多彩にする。 コルカタの女性は多くがベンガル人だが、ベンガル女性の中にもドキリとする女性がいる。 顔は普通のベンガル女性のはずなのに、瞳の色が緑色だったりすることがあるのである。ベンガル女性の瞳の色は、一般的に明るいブラウンだ。 それが、たまに違う瞳の女性がいたりする。もちろん、数としては多くないのだが、日本人のように全員が全員「単色」ではないところが興味深くて仕方がない。 そういったインドの「多彩さ」に触れると、もう病みつきになって戻ってこれない。瞳でさえ、同一でない。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120511T0348550900.html
2012-04-28 インド人というのは、白人なのか黒人なのか黄色人種なのか?
世界は三大人種群に分かれているとはよく言われている。白人、黒人、黄色人種というのがそれだ。 コーカソイド=白人 ネグロイド=黒人 モンゴロイド=黄色人種 中国や日本ではもちろんモンゴロイドが多い。アフリカ大陸ではネグロイドが多い。ヨーロッパではコーカソイドが多い。それは恐らく誰でも分かるだろう。 では、インド人はこの分類で言うと、どこに当てはまるのだろうか? 人によってイメージが変容する国 答えは、「そのどれでもない」が正解であり「そのすべてだ」というのも正解だ。つまり、どれを選んでも正解になる。 なぜなら、インド大陸にはこの三大人種群のすべてを内容し、さらにはそれらの混血も混じり、混血の混血もいるからだ。インドはすべてマサラ(混合)して存在しているのである。 インドの北部・北西部はコーカソイド系が多い。インドの南部はネグロイド系が多い。インドの北東部・東部はモンゴロイド系が多い。 ただし、この分類はとても大雑把なもので、細かく見れば違う。そのすべての地域にありとあらゆるタイプの「混血」がいるからだ。 その混合具合が本当にバラバラで、それがインドの面白いところなのだが、同時に複雑なところでもある。 これだけ人種が違うと、当然、宗教も文化も言語も違ってくるわけで、一言でインドと言っても、日本のように「人種はこれだ」「宗教はこれだ」とまとめ切れないのである。 「典型的なインドとはこれだ」と言った瞬間に、そこから漏れ落ちるものが多すぎて、まとめにならない。あまりにも違いが多すぎて、国民すべての「相互理解」というものがまったくない。 だから、インドはつかみどころがなく、人によってイメージが変容する国でもある。
「何も分からない」「何も確実なものはない」 ボリウッド映画に出てくる美男美女は、ほとんどが白人系(コーカソイド)であることに気がつくと、インドでも白人系が影響力や力を持っていることが理解できる。 しかし、彼らもよくよく見てみると、金髪碧眼ではない。確かにコーカソイド的な特徴を持っているようだが、では彼らが「白人か?」と言われれば、誰もが返事に窮してしまうだろう。 白人の骨格をしているが、褐色の肌や黒い髪の特徴はどう見ても白人のものではない。かと言って、ネグロイド(黒人)かと問われれば、やはりそれも違う。 虹彩が黒く、髪も黒く、肌も黒いとは言ってもネグロイド(黒人)とは明らかに違うのである。 モンゴロイド(黄色人種)でもない。ボリウッド映画の美男美女を見て、自分たちと同じ人種だと感じる日本人は皆無に等しいはずだ。まったく違うのである。 つまり、インド人は世界のどの民族と比べても、違うようで同じ、同じようで違う。 民族の混血度が進んでいると言えば、ブラジルもまたそうだが、ではブラジルとインドを比べて人種的な外観が似ているかと言われれば、違うと思う人も多いだろう。 後で調べてみると、インド・スリランカ人、つまりアーリア系のインド人はコーカソイド(白人)系なのだという。そういうことになっている。 私はその学術的根拠が何に基づいて発表されたものか知らないが、どうも信じる気にはなれそうにもない。 私の中ではアーリア系インド人は白人ではないのだ。アーリアは、コーカソイドでもネグロイドでもモンゴロイドでもない、 まったくの「新種」だと言われた方がまだ納得が行くし、私は自分の中ではそんな気でいる。 本当にインドは混沌としており、いろんなことを思いつかせてくれる国で飽きない。こんな国は、世界のどこを見ても、他には見つからない。 「何も分からない」「何も確実なものはない」という気持ちにさせてくれるこのインドが好きだ。 答えはひとつしかない、と学校教育の弊害に悩んでいる人は、インドを放浪すれば思考の解放ができるのではないだろうか。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120428T0523320900.html 2012-09-27 いったい何という混沌なのか。インドが理解できなくて当然だ インドには完全完璧なまでに無学で、野獣のように粗暴な人間がいる。しかし、その一方で世界でも有数の知的レベルを持ったハイテクに強い人材を莫大に抱えている。 インドには女性にアシッド・アタックするような残虐な人間がいる。しかし、その一方で生き物すべてを敬い、虫すらも殺さない完全菜食主義のジャイナ教を信奉するような優しい人たちも莫大に抱えている。 インドには売春地帯があちこちに存在していて堕落した男も大勢いる。しかし、その一方で完全に禁欲してしまった瞑想者や、享楽を悪とする仏教徒も莫大に抱えている。 インドには、極端なものがすべて同時に存在して、完全に混沌としている。 カレーの中には多くの種類のハーブ(香辛料)が混ぜられてそれがひとつの味を醸し出す。インドではこれを「マサラ」と呼ぶ。 インド社会は、まさにいろんな「違うもの」がひとつの鍋の中に詰め込まれた「マサラ」なのである。 果てしのない饒舌さと、完全なる沈黙 インドはハードな国だ。最初は、あの猥雑さと混乱と喧騒に、とても馴染めなかった。 貧しい人たちの必死の生き様に巻き込まれたりすると、それだけで精根尽きるような疲労感を感じた。 いつだったか、知り合ったインド女性と話をしていたことがあった。 彼女の口調は、一方的で、激しく、そして確信的だった。それが、延々と続く。それは、もはや閉口を通り越して、困惑すら感じさせるものだった。 彼女は英語に堪能というわけではない。 単語にヒンディー語が混じり、かつ、インド独特の「r」まで発音する単語読みや、インド独特のイントネーションも、すべて混じっていた。 流暢な英語も分からないが、あまりにローカルな英語もまたつらい。途中で何を言っているのか分からなくなる。 しかし、その饒舌さに、もう聞き返したり内容を把握しようとする気力すらもなくなってしまう。だから、インドを出るときはいつも疲れ果てていた。 饒舌は、大部分のインド人に共通するところがある。 しかし、よくよく思い出してみると、まったくその逆に、言葉が話せないのではないかと思うほど寡黙な人の存在もあった。 それは、まるで自分の存在を消し去ろうとしているかのような、病的なまでの寡黙さだった。インドには、そういう人もいるのである。
私がインド人らしいとイメージするインド女性。確かにインド人らしいとは思うが、彼女とはまったく異なる人種のインド女性も莫大にいる。
インドでは神まで混沌としている インドは何から何まで極端だ。猥雑で、混乱している。しかし、それが一種の無法地帯のような自由さを醸し出して、中毒のような気持ちを生み出す。 インドは麻薬だ。一度でもインドにとらわれると、もう二度と逃れられない。インドという国そのものが、「放浪者の麻薬」にもなっている。 中毒になってしまって、一生インドがつきまとう。 常に両極端なものが存在するから、その両極端がたまらなく面白い。そもそも、インド人が信奉する神まで混沌としている。 インドで美と豊穣の女神パールバティなどは、まさにインドを象徴している神だ。インドの混沌を思い出すときは、いつも女神パールバティを思い出す。 パールバティは、美の象徴だ。 しかし、怒ると凶悪な神ドゥルガーに変異する。 さらに怒髪天を衝くような怒りにとらわれると、もはや地球をも破壊してしまうような真っ黒な異形神カーリーとなっていく。 美の象徴が、凶悪と破壊の象徴と結びついている。 美が割れると中には凶悪が入っており、それが高じると、さらに割れて中の破壊神が出てくる。 美しさと凶悪さが同居している。 パールバティ。美の化身。しかし、この女神が怒ると真ん中からふたつに割れて、怒りの神や破壊の神が出現する。
一国多文化で見識がガラリと変わる 日本は「あ・うん」の呼吸がある国だ。黙っていても相手の考えていることが読めるのが日本社会の美徳であると言われている。 それは裏を返すと、相手も自分と同質だから、考えが読めるということになる。 もっとも、最近は同じ日本人同士でも、話が通じない異質な世界に住んでいる人も増えたが、基本的には日本人は協調し、同質化する。 「誰もが同じ」 「異質を嫌う」 「同じことで安堵する」 「似たような考えでまとまる」 「相手と違うことはしない」 つまり、全体的にみれば、「みんなが右を向けば右」で、「みんなが左を向けば左」の国である。 日本のようにベクトルが常に同じ方向を向く国民性は、それが当たったときは強い力を発揮する。1950年代からの高度経済成長期はそうだった。 しかし、目指している方向が間違っていると、みんなまとめて浮かばれない。戦前の軍国主義時代がそうだった。 良くも悪くも、日本は「一国一文化」の特徴を持つ。 インドは完全なる「一国多文化」だ だから、日本を見るのと同じ目で、インドが「一国一文化」であると思って見ていると、まったく分からない国になってしまう。 インドは完全なる「一国多文化」だ。 言葉も、文化も、宗教も、人種も、哲学も、何もかもが完全にバラバラで、同じインド国内でも隣の村でさえ言葉が通じない。 美意識ですら違う。太っている女性が美しいと思い込んでいる人もいるし、痩せている女性が美しいと思い込んでいる人もいる。 書き言葉も、ヒンディー語と、タミル語と、ベンガル語と、ウルドゥー語では、まったく違っている。 こんな国だから、インドとはいったいどんな国なのだとイメージがつかめずに悩む人がいてもおかしくない。 私も、インドという象の尻尾しかつかんでおらず、まだ鼻すらも触ったこともないと言える。 インドは「A」だ、と説明すれば、インドの中にある「B」も「C」も「D」もすべて取りこぼす。では「B」だと説明すれば、「X」も「Y」も「Z」も取りこぼす。 だから、インドについてよく分からなくなっても、分からない国がインドなのだと開き直るくらいでちょうどいいのかもしれない。 インドがどれだけ混沌としているのか ちなみに、インドがどれだけ混沌としているのかは、ヒンディー語、英語以外の公用語を見れば分かる。 ・アッサム語 ・ベンガル語 ・ボド語 ・ドーグリー語 ・グジャラート ・カンナダ語 ・カシミール語 ・コーンカニー語 ・マイティリー語 ・マラヤーラム語 ・マニプル語 ・マラーティー語 ・ネパール語 ・オリヤー語 ・パンジャーブ語 ・サンスクリット語 ・サンタル語 ・シンド語 ・タミル語 ・テルグ語 ・ウルドゥー語 これ以外にも500万人以上の人々に話されている言語が16種類ほどある。いったい、何という混沌なのか……。 こういったものをすべて1つにして、「インド」というラベルを貼った国が、インドである。 マサラ(カレー)の中にはたくさんのスパイスが入っている。すべてまとめて、カレーというひとつの料理になる。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120927T2313140900.html
2012-07-08 インドに亡命することになったら、生きていけるだろうか?
インド圏をさまよったことのある人間なら誰もが思うのは、インド人の自己主張の強さである。 インド人の政治家も壇上に上がって演説を始めると、原稿も見ないで延々と1時間でも2時間でも話している。 政治家だけではない。ビジネスマンの押しの強さ、粘り強さ、交渉のうまさも東南アジアや東アジアのものとはまったく違う。 話していると、まるでクモの糸に絡め取られるかのようにやられてしまう。とてもかなわないと思う。 「謙譲の文化」と「自己主張の文化」 商売人だけならまだいいが、物乞いまで強い。 小銭では満足せず、抱えている子供がいかにかわいそうかを堂々と訴えて喜捨をするように「説得」してくるのである。 当然、女性でも性根が据わっていて、「金を出せ」と激しく突き上げてきて折れない。 東南アジアでは、このような激しい交渉をする状況はあまりなかった。タイの歓楽街の女性も常に金を狙っているが、それでもタフな交渉相手ではない。 彼女たちは男たちと直接対峙するような交渉はしない。もし、仮に客と激しい口論になったとしても、インド人の執拗さ、執念深さに比べると、明らかに見劣りがする。 それは、東南アジアには人と人が対立するのを嫌う「謙譲の文化」が根底にあるからだろう。 謙譲とは、「へりくだり、譲ること」と辞書にある。日本でもそうだが、「譲り合う」ことは美徳である。 譲り合うどころか「それは俺のものだ」と自己主張するのは、感情すらも制御できない未熟者であると考えられる。そして、それは恥ずかしいことだ、とも考える。 仏教思想の「悟りを開く」状態の対極にあるのが、自分の感情すら制御できない混乱の状態である。 だから、たとえ共産国家であっても仏教圏の影響が強い東南アジアでは、そんなみっともない姿を見せたくないと考えてしまう。 激しい自己主張や、金銭に対する際限のない執着も、悟りを開いていない証拠だと見なされる。
インドという国はひとつだが、中身はカオス しかしインドは違う。 ヒンドゥーは戦う神、怒り狂って手のつけられない神、セックスにまみれた神に溢れている。 荒々しい原始の感情、人間の持つあからさまな欲望は、すべて神々に投影され、誇張され、神話のスケールに増幅される。何もかも剥き出しであり、直接的である。 そのような感情を剥き出しにした宗教が根底にあって、さらに「分断」が社会を覆っている。 カースト制度で分断された分かり合えない各階層、シヴァ派、ヴィシュヌ派、クリシュナ派、カーリー派……と、神によって違う文化と思想。 そこに混じり込む仏教派、イスラム派、シーク派、キリスト派という異教徒の思想。 また、異人種の侵入もまたインドの文化を細分化し、それぞれを異質なものにする。 イラン側から侵入して来たアーリア系という侵略者、中国・モンゴル方面から侵入して来たモンゴロイド系。そして南アジアに土着していたドラヴィダ系。 それぞれの民族は異なった歴史を持ち、異なった言葉を持ち、異なった文化を持つ。ひとことに「異なった言語」と言うが、主要な言語だけでも、数え切れないほどだ。 ヒンディー語、ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラーティー語、カンナダ語、マラヤーラム語、オリヤー語、パンジャービー語、アッサム語、カシュミーリー語、スィンディー語、ネパーリー語、コーンカニー語、マニプリー語、サンスクリット語……。 つまり、インドとは恐ろしいほどの雑多な文化・思想・民族・宗教・言語・社会・階層を無理やりひとつに包括した国である。 インドという国はひとつだが、中身はカオスだ。完全に違う存在が凝縮されてそこにある。 インドでは女も男もタフな交渉人 だからこそ、インド人は生きるために自己主張しなければならなかったと言える。「自己主張の文化」だ。 単一民族であれば主張などしなくても、目が合っただけで分かり合える。「謙譲」の文化だ。 インドは単一民族でもないし、言葉も文化もバラバラだから、何も分かりあえない。だから、訴え、叫び、説得するのである。そういう世界だった。 これほどまでに違うものを抱えていると、分かり合うために、自分たちの特徴を主張しなければ、永遠に無視されてしまうだろう。 また、自分たちの民族や宗教が勢力を広げるという野望があるのなら、その利点を説き、圧倒するしかない。 相手に飲み込まれないためには、それぞれの個体が自らの生存を示すために、声高に権利を主張する。 そうやって長い時間をかけて、インドという国は主張する国になっていったと考えられる。 ・自分の立場を「主張」する。 ・生き残るために「交渉」を重視する。 ・自らの正しさを「断言」する。 アメリカは移民の国であり、さしずめニューヨークなどは「人種のるつぼ」だと言われている。同じことはインドでも言える。インドもまた想像を絶する「人種のるつぼ」なのである。 だから、インドでは女も男もタフな交渉人になる。 決して折れないし、あきらめない。自らの利益を主張することにかけては、執拗で、強迫観念に取り憑かれているようにも見える。 いろいろな国を巡ったとき、旅人であった私は無意識に「この国に亡命することになったら、生きていけるだろうか?」と考える。 タイやインドネシアでは生きていけると思った。しかし、インドでは、生きていけない。彼らと対等に駆け引きする能力は自分にはない。 あなたはインドで生きていけるだろうか。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120708T0007210900.html 2012-06-29 色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された
インドの女性は「黒」が嫌いだ。 インドの肌の黒い女性は、自分の肌を嫌悪している人もいて、男が「黒い肌が好きだ」と言うと、自分の肌が黒いにも関わらず、必死でその意見が間違っていることを諭そうとする。 「白い肌が美しいのよ。黒い肌は美しくない」 インドでは「色」のことを「ヴァルナ」と言うが、このヴァルナは容易に肌の区別に結びついて、それが最終的には人種差別にまで行き着く。 すなわち、黒い肌の女性は劣っており、ロー・カースト(最下層)であり、醜い女性であると社会通念として通っている。 白肌に価値があると洗脳するかのようなCM インド女性は顔貌(かおかたち)が美しい人が多い。とくに横顔を見るとその端正さが際立って目を離すことができない。 インドの男たちも自国の女性は東アジア(中国・韓国・日本)の女たちよりも美しいと言って憚らない。 もちろん個人差はあるので美醜の比較は一般論でしかないが、それにしてもインドの美しい女性は、世界中の美しい女性を圧倒的に引き離していて足元にも寄せつけない。 しかし、それでも肌の黒い自国の女と白い肌の東アジアの女がいたら、肌が白いというだけで東アジアの女性と一緒になりたいという男は多い。 白い肌は彼らの中では崇拝に値するものになっている。 女性もそれを知っているので、インドではやたらと美白化粧品が売れる。 たとえば、「Fair & lovely」という化粧品がインドにあるのだが、このコマーシャルは露骨だ。 黒肌で自信喪失の女性が見る見る白い肌に変身して輝く笑みを浮かべるのである。 あるいは、白い肌になったら注目されて成功して幸せになるようなコマーシャルが恥も外聞もなく流されている。 テレビに出てくる女性も、コマーシャルに出てくる女性も、映画に出てくる女性も、みんな判を押したかのように「白肌」だ。 インドは白い肌の人々だけが住んでいるのかと思わせるくらい、白肌俳優の採用が徹底していて、それがボリウッド映画が「夢うつつ」のような下らない内容のものにしてしまっている。 歌あり、踊りあり、シリアスあり、ドラマあり、アクションあり、サスペンスありでも、「真実」だけがない。それが、あまりに「黒」を排除するからだという遠因もある。
白肌崇拝を煽るコマーシャル。白い肌であることが重要であると洗脳するかのようなコマーシャルである。
黒は嘲笑の的になった インドはインダス文明の担い手だったドラヴィダ族(黒肌)が、アーリア族(白肌)に征服されていく過程で生まれた国である。 アーリア族(白肌)はどドラヴィダ族(黒肌)を屈服させたあとに、肌で身分を分けた。 白肌は崇高で高貴であり、黒肌は劣っていて価値がないという身分制度である。ヴァルナで分けられた身分制度だ。 それをカーストと呼んで社会に定着させて、黒という色は「醜い」という意味を持たせるような徹底ぶりだったから、アーリア族の悪質さが分かる。 とは言っても、アーリア族はまったく躊躇なくドラヴィダとの混血を進めたから、もしかしたら実際には黒肌が劣っているとは思っていなかったのかもしれない。 本当に黒肌が「醜い」と思っていたのであれば、彼らと交わることなどなかったはずだ。 歴史はその逆の結果を見せつけている。インドほど白肌と黒肌の混血が進んだ国家はない。 口ではあれこれ言いながら、アーリア族はドラヴィダ族の女性が美しかったのを実は知っていたのだろう。これも、建前と本音の乖離であって、結果がすべてを物語っている。 肌が白くなったら、とても注目されて人気者になれるというメッセージを露骨に主張するコマーシャル。 黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている インドでもっとも注意を惹くヒンドゥーの女神にシヴァの妃であるパールヴァティーがいる。 パールヴァティーは「白肌」だ。しかし、怒りに駆られると額が割れて、ドゥルガーという女神が飛び出して来る。 さらにドゥルガーが激怒していくと、今度は正真正銘の「真っ黒の神」であるカーリーに変異していく。 これはパールヴァティー(白肌)からカーリー(漆黒)の順番で語られている。 しかし、歴史から見ると逆だろう。 ドラヴィダの黒がアーリアの男の血を受けて白肌になっていったのだ。 だから、パールヴァティー(白肌)がカーリー(黒肌)になっていくのは先祖帰りであって、元々は「黒」がルーツなのだということを如実に示している。 黒肌のカーリー(左)と、白肌のパールヴァティー(右)。 ドラヴィダ族は征服されたのだから、内心では怒り狂っているのは当然だ。 カーリーがいつも怒り狂っているのは、そういった歴史の悲哀がそこに静かに込められているのであろうと推測している。 黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている。 しかし、インド圏で白が美しいというのは、白い肌の人が歴史の闘争に勝ったからであって、それ以外の何者でもない。 白い肌の人々が負けていれば、白が醜いヴァルナになっていたはずだ。 民族が闘争に負けるというのは、その民族の持つ特質が否定されることでもある。たとえば、日本人が闘争に負ければ、日本人の持つ何らかの特性は嘲笑の的になる。 ドラヴィダは民族闘争に負けて、インドの大地でその肌の黒さが嘲笑の的にされた。ヴァルナ(色)でその嘲笑が制度化されて、インドの歴史は黒を否定した。 私ひとりが黒い女性が美しいと思っていても、当の黒い肌のインド女性がそれを否定する。それでも、私は「黒」が好きだ。
黒い肌の女性が美しくないなんて、いったいどこの誰が考えついた冗談なのだろう。黒い肌の女性も、美しい。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120629T2225080900.html
2012-06-13 溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性
インドは10年前までは貧困でしか語られることのなかった国だが、国民の1割でも中産階級になっていくと、10億人の1割は1億人なので、日本の人口と同じくらいの中産階級が生まれることになる。 こういった中産階級はもう貧困で語られることがなくなり、女性たちもまた華々しさを身につけ、アピールするようになる。 そうすると、撮られる写真もいよいよ豪華絢爛になっていくので、インド女性の美しさはいよいよ際立つことになる。 それにしても、この盛装 インド女性の美しさは以前にも写真で紹介した。「溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性(1)」 (1)でも書いたが、インド人は「肌の白い」インド人が美しいと思い込んでいるので、まだまだインド中部〜南部を占める褐色のインド女性を美しく撮る写真家がいない。 いるのかもしれないが、あまり目立ってこない。 しかし、マジョリティをいつまでも無視することはできないから、やがては褐色の美しい女性が登場してインドの偏った美の概念(白肌信仰)が覆される時代が来るだろう。 それまでは、白肌のインド女性だけを見つめることになる。それにしても、この盛装はどうだろうか。溜め息をつくしかない。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120613T1202200900.html
2012-07-17 美しいインド女性を、さらにゴールドで飾り立てるCMの数々 PRINCE FINAL http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=riLWMbUKt-o
Saravana Stores antiq jwelary HQ http://www.youtube.com/watch?v=zWsv6D5BN2Y&feature=player_embedded GRT Wedding and Celebration Jewellery http://www.youtube.com/watch?v=5pLs4g7EVZo&feature=player_embedded SHREYA GHOSHAL'S JEWELLERY COLLECTION FROM JOYALUKKAS http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=oZvgTbKe_Pw Nathella Jewellery- Chennai, India http://www.youtube.com/watch?v=CUXkYu_FZdo&feature=player_embedded TANISHQ ARIA TVC http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HciYNzlLLxc 東南アジアではゴールドは宝飾というよりも財産として考える。世の中が激変したときに紙幣は価値を失ってしまうことがある。 たとえば、ベトナムでは1970年代に米ソの代理戦争である「ベトナム戦争」が共産主義側の勝利となって、それを嫌った南ベトナムの人たちが大挙としてベトナムを逃げ出した。 あるいは、カンボジアでもロン・ノル政権が崩壊してクメール・ルージュが勝利したときも、共産主義を嫌った華僑もみんなプノンペンを捨てて逃げ出した。 現地の紙幣など、海外では何の役にも立たない。まして、カンボジアではポル・ポト政権が最初にやったのは「通貨の全廃」である。 現地通貨など屑も同然なのである。 ゴールドを好きだと言っても、それは財産保全のため だから、東南アジアの人たちや華僑の人たちがゴールドを好きだと言っても、それは財産保全のために好きなのであって、ゴールドそのものが好きだというわけではない。 もちろん、ゴールドの宝飾に惹かれてアクセサリーを楽しむ女性もいるだろうが、それは特に目立って存在するわけでもない。 インドでも女性が小さなゴールドをたくさん身につけるのは、財産保全のためという理由もひとつにある。 なにしろ、つい10年ほど前までは、「銀行」すらも信用ならないと人々は考えていた。 なぜ他人の経営する得体の知れない「銀行」に自分の大切な金を預けなければならないのかと思っていたのだ。今でも大半は変わっていないかもしれない。 銀行などいつ倒産するかも分からないし、倒産したら必死で預けた金も戻ってこない。 だから銀行のコマーシャルも、「あなたのお金を、貯金しませんか?」と言うのではなく、「あなたのお金を、厳重な貸金庫に預けませんか?」というコマーシャルをやっていた。 そんな国だから、財産はゴールドに変えて持っておこうと人々は考える。
美しいインド女性を、これでもかと飾り立てる しかし、である。 インドが他の国と違うのは、インドの女性たちは、本当に心から宝飾としてのゴールドも愛していることだ。 特に結婚式ともなれば、女性の身体は「動く金宝飾」と言っても過言ではないほどゴールドで着飾られる。 ゴールドだけではない。シルバーもダイヤモンドも、ありとあらゆる宝飾が女性の身体にまとわれる。 そのきらびやかさを見ると、本当にインドは「新興国なのか?」と驚いてしまうほどだ。 世界でもっとも現物としてのゴールドを消費するのは、インドである。これがいったい何を意味しているのかというと、インドの女性が、世界で一番ゴールドの宝飾を愛しているということだ。 いかにインドの女性たちが宝飾を愛しているのか、毎日膨大に流されるインドのテレビ・コマーシャルを見れば分かる。 美しいインド女性を、これでもか、と飾り立てるコマーシャルを、あなたにも見て欲しい。 結婚式ともなれば、インド女性は完全に「歩くゴールド宝飾」と化して見る者を圧倒する。娘が3人いれば破産すると言われるのがインドだ。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120717T2050130900.html 2012-07-05 憎しみが転化して生まれた最凶・最悪の女神カーリーの秘密 カーリー女神は、殺戮と血の神である。ヒンドゥー教の中でもっとも凶暴で、もっとも手の付けられない女神である。インド・コルカタで中心に信奉されている。 カーリー寺院では山羊がカーリー女神の生け贄として屠られるが、それはこの血を好むカーリー女神を鎮めるためなのだと言われている。 ある神話が残っている。 かつて、アスラ(阿修羅)族の悪魔が神々に闘いを挑み、その悪魔が神々に打ち勝ったことがあったという。そのせいで、神々が天界を放逐されてしまった。 殺戮の女神カーリーの伝説 神が天国から追い出されてしまったのだから、これは大変なことになった。神々は困り果て、そこでシヴァ神に救いを求めた。 シヴァ神の怒りと神々の憎悪は、やがて光となってひとつの形に結晶した。それが、ドゥルガーだった。 ドゥルガーは、シヴァの妻の身体が半分に割れて出てきたと言われている。 さらにこのドゥルガーが変異したのが、この世に並ぶべくもないほど凶暴な女神カーリーだった。 カーリーは「黒」という意味がある。 憎悪が結晶して生まれたこの女神の肌は真っ黒で、手には肉塊を切り刻む円盤、三叉の杖、肉切り包丁、そして人間の生首を持つという異形ぶりだった。 憎しみから生を受けたカーリーは、アスラ(阿修羅)に戦争を挑み、彼らを殺し続けた。 カーリーは残虐だった。腰には殺戮した死体の腕を巻き、手には血まみれの杯を持ち、首から髑髏を巻きつけた。 カーリーは高笑いを上げ、敵を次々と喰い殺した。 そして、ついにアスラを全滅させたにもかかわらず、カーリーの暴走はとまらない。 殺戮する相手を求め、死体を求め続けるカーリーだったが、殺す相手がいなくなり、勝利のダンスを狂気のように踊り始めた。 大地を踏み叩くそのダンスはいつまでも続き、世界が振動して壊れそうになった。 とめようとしてもカーリーは聞く耳を持たない。そこでシヴァ神はやむなく彼女の下にくぐり、カーリー女神が踊りをとめるのを待ったのだった。 やがてシヴァを踏みつけにしているのに気がついたカーリーは、やっと正気に戻って踊りをやめた。彼女は照れ隠しに長い舌をペロリと出したが、それは血で真っ赤に染まっていたという……。
インド・ヒンドゥー教でも最凶・最悪の女神と言われる殺戮神カーリー。踏みつけにしているのはシヴァ。
神話の裏には、白人と黒人の戦争があった 神々を追い出す悪魔。暴走するカーリー。困り果てる神々。 伝説や神話には大抵、その民族の歴史が巧みに織り込まれていると言われている。このカーリー女神の神話もまた血の歴史が覆い隠されている。 インドは古来、ペルシア・イラン人の襲撃を受けて来た。ペルシア・イラン人は血統的に言うとアーリア系民族である。 アーリア系民族が思い浮かばなかったら、白人の現代イラン人を見て欲しい。彼らはアーリア族だ。 そして、そのアーリア系はゲルマン、アングロ、サクソン、ラテン、スラヴ、ギリシアを含んでいる。つまり、コーカソイド(=白人系)の民族である。彼らは伝説ではアシュラと呼ばれる悪魔である。 一方、インドに土着していた先住民は、白人ではない。南インドのドラヴィダ族を見ても分かる通り、ハム(=黒人系)の民族である。彼らが神話では「神々」になる。 つまり、ヒンドゥー教での伝説では、枝葉末節の細かい部分を全部はしょってシンプルに言うと、こうなる。 白人=悪魔。(アーリア系) 黒人=神々。(ハム系ドラヴィダ族) カーリーの伝説は、この白人(アーリア)と黒人(ドラヴィダ)の血まみれの殺戮戦争が元になっているのである。 いくつかの符号がそれを象徴している。 カーリーがシヴァの系統で語られ、しかも肌の色が「黒」であるという事実は、カーリーがドラヴィダ系だったことを意味している。 一方、敵方はアスラ(阿修羅)という象徴が与えられているが、これはかつてアーリア族が信奉していたアフラ(アフラ・マズダー)を指している。 アーリア族の言葉で言う「H」は、ドラヴィダ族では「S」に転化して呼ばれるという事実を合わせると、「アフラ」はまぎれもなく「アスラ」である。 最後に白人が勝って、身分制度が定着した 読み替えると、この伝説は何が言いたかったのか。それはこういうことだったのではないかと言われている。 ・先住民族として黒人(ドラヴィダ族)がいた。 ・白人(アーリア族)の侵入してきた。 ・黒人は戦いに負けて追い出された。 ・憎悪の燃えた黒人が立ち向かった。 ・白人たちを皆殺しにした。 恐らく、遠い遠い過去に、インドの大地でそういった戦争があったのだろう。それが、神話として残したのではないかと推測できる。 「カーリー」は、同じドラヴィダ族さえ眉を潜めるような激しい殺戮を繰り返したひとつの集団(軍隊)を指していたのかも知れない。 あまりにも凶暴すぎてドラヴィダ族さえも手に負えない状態になって、そこで指導者(シヴァ)に何とか事態を収めてもらったのではないか。 もちろん、神話であり、その真意については様々な解釈があるので、一様にそれが正しいかどうかは分からない。 しかし、そういう解釈が成り立つ事態が過去にあったことは間違いないようだ。 しかし、時代が新しくなるたびに黒人勢力は白人勢力に破れていき、やがてどこかの段階で完全に屈服させられてしまったのだ。黒人は奴隷化されたということだ。 黒人の信仰する土着信仰(アニミズム)は残ったが、白人はバラモン教というものを持ち込み、「白人は偉い。黒人は奴隷」という身分制度を徹底させた。(色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された) それはカースト制度として定着して、やがてはアニミズムとバラモンが渾然一体化したヒンドゥー教が生まれて、それがインドに定着していった。 現代インドはもはやドラヴィダ族とアーリア族とさらにモンゴロイド系が幾多にも混じって混血している。 互いに互いを引き離すことはできなくなった。 しかし、その血の中に、異質な血が戦争という猛烈な主張を繰り返して交じり合ってきた歴史を持っており、インドの人々はそれを忘れることは決してない。 戦争というのは、ひとつの集団が別の集団を暴力で持って叩きつぶす激しい「主張」だ。 そんな主張が過去に凄惨な形で行われ、神話という形態で現在にも語り継がれているところにインドがある。 この女神を奉るカーリー寺院では、現代でも山羊や鶏が生け贄として捧げられているが、かつては少年が生け贄にされていた。 人間の生け贄は1835年に禁止されたという。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120705T0338070900.html 2010年3月3日水曜日 サンスクリット語の「ダルマ」はカーストを定着させた卑劣な言葉だった
サンスクリット語に「ダルマ」という言葉がある。これは「義務」や「業」と訳されるが、「義務」という言葉で覚えれば分かりやすいかもしれない。 何の義務かというと、自分の運命を受け入れて、その運命をまっとうする義務である。 インドで運命と言えばすぐに「カースト」を思い出すが、これにダルマを重ねると、何が言いたいのかよく分かる。 ダルマというのは、自分のカーストを受け入れてそれをまっとうする義務のことを言っている。 統治のダルマだとか、宇宙のダルマだとかは枝葉末節の部類であり、カーストを守るのがとても大切な「ダルマ(義務)」であるというのがダルマという言葉の言いたいことである。 ダルマを守ることは大切であると言われている。誰が言っているのか? もちろん上位カーストの人々である。 それぞれのカーストは異なるダルマを持つ。そして、それぞれのカーストが自分に与えられたダルマを果たさなければならない。 カーストには大きく分けると以下のようになっている。 僧侶(ブラフミン) 兵士(クシャトリア) 商人(ヴァイシャ) 農民(シュードラ) ーーーーーーーーーーー 不可触民(ダリット) 上から順番に権力を持つカーストで、一番下の不可触民(アンタッチャブル)というのは、カーストすら属していないので「アウト・オブ・カースト」だと説明される。 生まれたときに子供は親のカーストを受け継ぐことになっている。 一番偉いブラフミンの子供はブラフミンである。そして、不可触民の子供は不可触民である。 身分が固定されている。 教育から待遇まですべて差別されて、どんなに優秀な子供であっても、不可触民であれば教育すら受けさせてもらうことはできない。 他のカーストは彼らと接するべきではないとされていた。だから、「触ることが不可な民=不可触民」なのである。 上位カーストは、誰であっても不可触民が用意した食べ物や飲み物を食べることを禁じられた。 いや、不可触民が触った食器すらも忌避されたし、不可触民を見ることすら「穢れる」とされたのである。 マヌ法典というものがそれを詳細に記しており、このマヌ法典こそがダルマ(義務)を説いているのである。 カースト制度で読み書きが許されるのはブラフミンだけである。 日本人なら、これが「士農工商、穢多非人」という身分制度を持っていた江戸幕府のことを思い浮かべるかもしれない。 まさに江戸幕府はインドのカーストを参考にして作られた制度である。不可触民は、穢多非人と同様の立場になる。 カーストは人間を「人間ではない」という制度である。ダルマはそれを受け入れてその立場を守る義務を果たせ、という意味である。 ダルマという言葉は、身分を固定させるために考えられた卑劣な言葉であることが窺える。 http://www.bllackz.com/2010/03/blog-post_03.html 2013-01-13 ディーバ。アプサラ。巫女。神聖なる女性に隠された闇とは? 今から1000年ほど前、ちょうどインドで大勢力を誇っていたのがチョーラ帝国(チョーラ朝)だった。 最盛期のチョーラ帝国は現在のインド・ベンガル州からバングラデシュを抜け、東南アジア南部、あげくにインドネシアまでを含む大帝国だった。 そして、インドのみならずアジア一帯のあちこちに石窟寺院を残している。 こういった寺院には非常に多彩で複雑な彫刻が施されているが、そこに描かれている女性が、「デバダシ(Devadasi)」である。 チョーラ帝国の時代、寺院で信者ややってくる人々に踊りや歌やサービスを提供する女性たちがいた。 彼女たちが「デバダシ」と言われる存在であり、初期は恐らく崇高で崇められる女性たちであったと思われる。 若干ニュアンスは違うが、日本の巫女(みこ)を想像すれば、彼女たちの存在は分かりやすいかもしれない。
ディーバ、デバダ、デバダシ。この共通点 アンコールワットもびっしりと女性の彫刻が施されているが、彼女たちはデバダ(Devada)と呼ばれており、やはりチョーラ帝国のデバダシと同様の役割があった。 こちらはよく「仙女」と訳されている。現代のカンボジアでは、仙女と言えば、デバダという古語ではなく、アプサラという言葉のほうが使われている。 ベトナム戦争からポルポト政権の激動を生き抜いたカンボジアのシハヌーク王は、ことさらアプサラたちが踊るのを見るのが好きだったと言われる。 あの手首を独特に回すアプサラたちの踊りは確かに優雅で美しく魅力的だ。歌や踊りの訓練を受けて、寺院に来る人々を魅了したデバダシ、デバダ……。 ヨーロッパではオペラ歌手のプリマドンナのことをディーヴァ(Diva)というが、これは「歌姫」と訳される。 今はもう歌姫というのはオペラのプリマドンナのことだけではなく、カリスマのある女性歌手はみんな歌姫(ディーヴァ)と言うようになっている。 この Diva というのが、Devadasi、Devada に近い語感があるので、もしかしたらチョーラ帝国のデバダシから派生した用語なのかもしれない。 Devadasi Devada Diva 並べて見ると、一目瞭然だ。
デバダシ・カーストの女性。チョーラー帝国の巫女がデバダシだ。
神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在している 1981年にはフランスでそれを題名にしたディーヴァという映画が公開されているが、出てくるのはオペラ歌手であり、これに映画の主人公と「娼婦」が絡んでくる。 このフランス映画の監督が、ディーヴァと娼婦を登場させたのは、深い意味があったのかどうかは知らない。しかし、それほど奇妙な取り合わせではなかった。 カンボジアの仙女(アプサラ)をことさら愛したシハヌーク国王だったが、かつてアプサラは歌や踊りだけではなく、妖艶な「性の化身」でもあった。 そして、ポルポト政権からその崩壊までの東南アジア史上最悪のジェノサイド(大量虐殺)を生き抜いたアプサラたちは、その貧しい教え子たちに踊りを継承させることになる。 しかし、教え子たちは踊る前に生きる必要があり、若い女性が売春に駆り立てられていたのが1980年代以降の現状だった。 2000年に入っても、アプサラ志願の女性は、相変わらず売春ビジネスをしていた。(アプサラを踊る娘。貧困地区に棲む天使(アプサラ)の笑み) 日本の巫女はかつては処女性が重視されていたのだが、一方で密教の巫女には「性の儀式」もあったという噂もあって、その姿は一様ではない。 宗教の裏側で、なぜか神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在しているのである。神聖なる女性に隠された「闇」とは、すなわち「セックスの提供」だ。 巫女はかつて漢字で「神子」と書くこともあった。 そして、「神子」と言えば、英語では「シャーマン(shaman)」、すなわち呪術師と同一にされている。 だから、巫女を Devada ではなく、Shaman と訳すのが正しい現代語かもしれない。 写真はカンボジアのアプサラ。カンボジアのアプサラは「仙女」。インドでのアプサラは「水の妖精」になる。
現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」 シャーマンとはシャーマニズム(呪術)を通して神と交信する人なのだが、密教系のシャーマンは、しばしばセックスを通して神と交信する。Shaman と Devada と 性がここでも結びついている。 密教と言えばキリスト教にも拝蛇の密教があって、その教義は性と結びついていた。 キリスト教は歴史的にも数々の異端の教え、異端の集団を生み出しており、セックス教団も数多く存在する。これらの教団に属する女性たちは信者であって、デバダでもある。 では、チョーラ帝国のデバダシはどうなっているのだろうか。 もともとインドは神々と性は別に秘されているものではない。神々が何百日にも渡ってセックスをやめなかったような伝承が残っているくらいで、リンガ・ヨーニに至っては、それが何を意味しているのか誰もが知っている。 シヴァリンガというのは、シヴァ神の男性器をそのまま現しており、ヒンドゥー寺院にはそれらのシンボルが安置されている。女性たちは男性器に礼拝し、油を先端に差す。 リンガ・ヨーニのミニチュア版もインドではどこにでも売っているが、それらはすべて聖なるものであり、礼拝に欠かせないものである。 ヒンドゥー教というのはそのような宗教であり、はじめてインドにやってきてトラヴィダ人やタミル人と接したアーリア人は、その土着のアミニズムに取り込まれて、今では彼らもインド人でありヒンドゥー教徒になった。 そして、そのヒンドゥー教の中にデバダシはしっかりと根づいているが、時代が繰り上がるたびにデバダシは世俗化し、カースト化し、そして意味合いが変質した。 現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」として残されており、一種の売春カーストになってしまっているという。 貧困家庭が子供をデバダシとして売り飛ばし、少女は性奴隷としてずっと売春をしながら生きていく。 聖女、巫女、神子、仙女、歌姫、と様々な単語や意味となって世界の歴史をくぐり抜けてきた Devadasi が、最後には売春カーストとなっているわけだ。 男は誰でも彼女たちを金で買うことができる。しかし、かつての神聖なる姿がそこにあるのかどうかは分からない。 デバダシ・カーストの女性。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130113T0403570900.html
2011年2月4日金曜日 無意識を自覚する方法。自分が何に洗脳されているか、一瞬で知る方法 インドの女性は歌が好きだ。 インド・コルコタにいたとき、ひとりの女性が口ずさむように、静かで優しい歌を歌ってくれたことがある。 彼女は普段はどちらかと言えば粗野な喋り方をする女性で、感傷的な感情をほとんど持っていないようにも見えた。 しかし、物憂げな部屋の中で暇を紛らわすように歌ったその歌は、とても感傷的なリズムで、抑制された美しい声に私は聞き惚れて涙がこぼれそうになった。 マントラという歌 声のトーンも彼女の普段の粗野なものが消えていて、まるで彼女が別人になったかのような不思議なものであった。 「それは何の歌だい?」と尋ねると、彼女は部屋の神棚に飾っている私の知らない神の写真を指さして「昔の歌(Old Song)よ」と答えた。 確かにそうだろうと思う。街の騒々しいボリウッドソングとはまったく違った趣(おもむき)の歌だった。 そのとき、私は知らなかったのだが、のちにこのような歌をマントラというのだと分かった。 マントラという言葉は初めて聞く言葉ではない。それは呪文だか呪術だとか、そういうニュアンスで私は覚えていたので、歌までマントラという括りをすることに驚いた。 今となっては彼女がアカペラで歌ったそのマントラがどんなものだったのか旋律が思い出せないのだが、その歌を聞いたときの感情は生々しく思い出すことができる。 美しい歌を聞いたときの感動の震えがそこにあった。そして、ずいぶん後になって私は「これは危険だな」と意識したのだった。 美しさに取り込まれてしまいそうなのが分かっていた。 その歌がマントラなのであれば、その歌の先にヒンドゥー教が待っている。 ガヤトリ・マントラ
人は美しい歌を聞いて感動し、その歌の世界観に浸って自分の心を癒すことができる。 宗教はそういった歌の効用をよく知っていて、それを巧みに使って心を操っていく。 キリスト教徒は賛美歌やゴスペルに涙を流す。 たとえば、「アメイジング・グレイス」や「What A Friend We Have In Jesus」などをじっくり聞いていると、キリスト教徒は涙がとまらなくなるという。 人口に膾炙する美しい旋律(リズム)と、その詩の内容の優しさが加わって心に響くようだ。 インドのマントラも美しい旋律のものがいくつかあって、ガヤトリ・マントラ(GAYATRI MANTRA)などはよく知られている。 ただ、古い歌にはよくあることだが、ひとことでガヤトリ・マントラと言っても、膨大な種類のリズムと歌詞があって、同じ歌でもまったく違うように聞こえる。 私が聞いているガヤトリ・マントラは YouTube で見つからないのだが、近いのはドイツ出身の歌手、デヴァ・プレマールの歌うガヤトリ・マントラかもしれない。 Deva Premal and Miten - Gayatri Mantra http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=d63COahIpVM Om bhur bhuvah svaha tat savitur varenyam bargo devasya dhimahi dhiyo yonah prachodayat 彼女はドイツ人だ。なぜドイツ人女性がヒンドゥー語でガヤトリ・マントラを歌っているのか最初は戸惑った。 調べてみると、彼女は子供の頃から父親にマントラを聞かされていたらしく、その影響が強かったようだ。 こういった珍しい経歴の人もいる。彼女は歌を通してヒンドゥーに取り込まれていた。 欧米でも、このようなヒーリング的なものを求める人たちにはよく売れているようだ。 人は、このような歌から精神世界や宗教に取り込まれていく。その典型的な例がマントラの旋律にあった。 美しさは無条件に人の心に染み入っていく。 そして何度も何度もそれを繰り返すことによってその歌の世界が自分の感情と同化していく。 そこに宗教的なメッセージがあれば、歌と同時に人はそれをも無意識に受け入れてしまう。歌が美しいゆえに拒絶反応すら起きることがない。 美しい旋律の歌が人生を変える これは一種の巧妙な洗脳とも言える。 アメイジング・グレイスやガヤトリ・マントラのような美しい旋律の中に宗教を散りばめて人々を取り込んでいくのである。 教会や寺院で人々は何をやっているのか。賛美歌を歌っているのではなかったか。 賛美歌は神を讃える歌詞をリズムに載せたものである。それを皆と一緒に歌い、感動を共有し、その宗教と一体化する。 日本が無神論者のような人が多いのは、仏教が美しい歌を「開発」しなかったからだと私は強く思っている。 念仏は眠気を誘うが宗教心を芽生えさせない。そういう意味で仏教の親玉は他の宗教と比べると知恵が足りなかったのだろう。 ヒンドゥー教もキリスト教も、歌だらけだ。 インド人は幼い頃からマントラを聞いて、歌って、その世界観の中で生きていき、成人する頃には頭の中はその思考から離れられない。 あの真っ青な荒唐無稽な神は私にとっては単なる滑稽なフィクションだが、彼らにはそうではない。それが自分の血肉に染み付いた大切な精神世界なのだ。 同じことがキリスト教にも言える。あの十字架にぶら下がっている死体は、やはり私にとっては滑稽なフィクションだが、彼らはそれを「なんという友、私たちのジーザスよ」と感極まっている。 子供の頃からくり返しくり返しそれを聞いて、それを歌い、それが思考の基盤になっていている。 父親も母親も、そして兄弟も地域社会も、自分のまわりがすべてそのひとつの宗教に染まっている。 そこまで行くと、その宗教を否定することは両親や地域社会や文化をすべて裏切ることになる。 美しい歌があり、心地良い思い出がすでに蓄積されている。だから、いくら荒唐無稽だとしても、その宗教を否定することなどできなくなってしまっている。否定する意味もない。 そして、村ぐるみで、町ぐるみで、国ぐるみで宗教を擁護し、それを認めない者を「自分を否定した」と憎むようになる。 アメイジンググレイス http://www.youtube.com/watch?v=uofG9z66LXg&feature=player_embedded#!
多くの国の美しい曲 たったひとつの美しい旋律の歌が、そのような篤い宗教心の人間を生み出しているのは間違いない。 私が感銘を受けたガヤトリ・マントラは、その一曲で私をヒンドゥー教に向かわせる威力もあったはずだ。 美しい旋律の曲が人生を変えるというのは本当だ。自分の気に入った歌を思い出して欲しい。 あなたは無意識にその歌の世界をなぞって生きているはずだ。 それに気がつかなかった人もいるかもしれない。そして、それに気がつくと、恐ろしくなる人もいるかもしれない。 あなたが子供の頃から知っている好きな歌が、あなたを洗脳した歌だ。そして、その歌の世界が、あなたの世界観である。 あなたの自分の世界観は、実はあなたが考えた世界観ではなく、歌で洗脳された世界観だ。 あなたが何に洗脳されたか知る方法は、あなたがどんな歌が好きなのかを思い出すだけでいい。 自分の愛する歌は、それ自体が自分の感情に対する訴えかけを失ってからもずっと後まで、意思決定や性格形成に影響を与え続ける。 私がガヤトリ・マントラでヒンドゥーに染まらなかったのは、理由はひとつだ。 私は、タイでタイの美しい歌に聞き惚れ、カンボジアでカンボジアの美しい歌にしっとりとし、インドネシアでやはり美しい歌に心を奪われた。 多くの国の美しい曲が、私をひとつの思考や哲学や宗教や国にとどまらせるのを許さなかった。 http://www.bllackz.com/2011/02/blog-post_3799.html
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