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尖閣は中国人の言う通り中国の領土かもしれない
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投稿者 中川隆 日時 2012 年 10 月 03 日 22:21:36: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 一刻も早く中国・韓国と縁を切ろう 投稿者 中川隆 日時 2012 年 9 月 29 日 23:40:45)

尖閣について書いたHPを見つけたので貼っておきます。
沖縄はもちろん日本だけど、尖閣は沖縄とは関係無いのかもしれないですね:


「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明

      井上  清 Kiyoshi INOUE

筆者紹介:1913年高知県生まれ。1936年東京大学文学部卒業。京都大学名誉教授であったが、2001年11月23日87歳で逝去された。著書に「条約改正」「日本現代史T=明治維新」「日本の軍国主義」「部落問題の研究」「日本女性史」「日本の歴史・上中下」等がある。

この論文は、1972年10月現代評論社から出版された井上清氏の著書『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』が釣魚諸島問題と沖縄の歴史との2部構成であるうち、釣魚諸島問題に関する第1部の全文であり、1996年に著者の同意を得、転載するものです(転載責任=巽良生1996-10-14)。なお、本論文は、1996年10月10日第三書館から上記と同じ書名で再刊されました。

Copyright by K. Inoue 1972

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内容:

1なぜ釣魚諸島問題を再論するか
2日本政府などは故意に歴史を無視している
3釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
4清代の記録も中国領と確認している
5日本の先覚者も中国領と明記している
6「無主地先占の法理」を反駁する
7琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
8いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
9天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
10日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
11天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
12日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
13日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
14釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
15いくつかの補遺

林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」、釣魚諸島位置図、釣魚諸島略図

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  一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
 昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なたたかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろな人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのための文献も得たいと思った。

 私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆(キールン)の東およそ百二十浬(かいり)の東中国海に散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それをたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教えを受けたいと思っていた。

 さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。

 これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」−−正しくは釣魚諸島あるいは釣魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)−−は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。

 領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。

 一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにアメリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(こうびしょ、日本で久場島という)を、五六年四月以来赤尾嶼(せきびしょ、日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。

 この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これらの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことがある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さらに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用することとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日新聞』一九七二・五・一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている。

 それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認することができた。

 まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めには西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした。

 そのとき私は、次のように考えていた。

 −−もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱな、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっていることだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つまり玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。−−

 こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざるを補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとするものもなかった。

 要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。

 小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったのではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることであると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。

 琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。

 この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところいわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もはや釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、また釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあっても、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列島の開発」に、早くも熱をあげていた。

 まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、どのようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそそいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。

 けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。

 この論文の主要な課題は二つある。

 第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどしかったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さけがたいことである。

 第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これは、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを訂正しなければならない。

 すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いたのは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。このことを論証するのが、本論の第二の課題である。

 本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみなさんの御援助をお願いする。

二 日本政府などは故意に歴史を無視している
 現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。

 この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のようにのべている。

 (1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知られており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節−−冊封使(さくほうし)−−が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来したときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』にも、この島々の名が見える。

 しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。これには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々−−井上)を中国領であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしました。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼などを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。」

 要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのであります。」

 (2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島(尖閣群島のあやまり−−井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。」

 (3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これまでと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこで「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通り標杭を建設させることにした。」

 (4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行はれています。」

 琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごまかしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後にいちいちばくろする。

 本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定するまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しかるにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証明をしていない。

 外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけである。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちにこれを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりかえしにすぎない。

 共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」

 朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない。」

 日共や朝日新聞はこのように、明・清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、このさい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているのである。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をするわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレットなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろうとはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない。

三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
 日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。

 琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。

 (註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。

 また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。

 つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。

 琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。

 この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。

 十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。

 「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」

 琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。

 その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。

 上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

 そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。

 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

 こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

 政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。

 陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。

 たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

 おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(こそうけん)が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。

 本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。

 この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。

 一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、あるいはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのすることであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじつけるためのたわごとにすぎない。

四 清代の記録も中国領と確認している
 以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。

 郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中・琉の領界の記述はない。

 このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。

 ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。

 「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」

 そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。

「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。

 汪楫は重ねて問うた。

「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。

「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」

 右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。

 この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。

 これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。

 さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪・周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。

 斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。

 のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。

 徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者−−とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(さいおん)(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。

 (註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理・天文・気象を専攻した。後に王府の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)

 『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と註している。

 この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても言いすぎではないから。

 (註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。

 もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、しかもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島について、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、「鎮」という字に重要な意味がある。

 「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であることは、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じである。

五 日本の先覚者も中国領と明記している
 これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。

 『三国通覧図説』−−以下の文では略して『図説』ということもある−−とその五枚の「付図」は、「天明五年(一七八五年)秋東都須原屋市兵衛梓」として最初に出版された。その一本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて五十四・八センチ、横七十八・三センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六嶋之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰緑色にぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(註一)は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。

 (註一)沖縄本島の北側の与論島から鬼界島に至る、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国領であったが、一六〇九年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津の直轄領地とされた。そのことは『中山傳信録』著者も林子平もよく知っていたが、それでも、これらの島々は琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日のどの国の学者にも共通している。

 琉球の蔡温が『琉球国中山世鑑』の誤りを正した父の著書を、いっそう正確に改修した『中山世譜』(一七二五年序)の首巻には、「琉球輿地名号会記」と地図があるが、それも、全琉球を中山および三十六島とし、鬼界カ島までを琉球にいれている。子平より大分前の新井白石の『南島志』(一七一九年)も、そうしている。もちろん釣魚諸島は琉球三十六島の中に入っていない。

 (註二)林子平が台湾の色を中国本土と区別して書いている理由を正確に断定することはできないが、およその推定はできる。すなわち、『図説』の付図の中には、次にのべる東アジア全図というべきものがあるが、それには、子平がはっきり日本領と見なしている小笠原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これから類推すると、彼は台湾は中国領ではあっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのではあるまいか。

 この図により、子平が釣魚諸島を中国領とみなしていたことは、一点のうたがいもなく、一目瞭然であり、文章とちがって、こじつけの解釈をいれる余地はない。『図説』の付図には「三国通覧輿地路程全図」という、「朝鮮、琉球、蝦夷并ニカラフト、カムサスカ、ラッコ島等数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」もあるが、日本を中心として北はカムチャッカ、南は小笠原、西は中国に至る広範囲の、いわば東アジア全図にさえ、釣魚諸島のような、けし粒ほどの島が−−ほかの多くのはるかに大きい島も描いてないのに−−、はっきり描かれ、それも中国本土と同じ色にぬられている。子平の『図説』にとっては、各国の範囲、その界を明確にすることは、決定的に重要であったので、釣魚諸島をはぶくわけにはいかなかったのであろう。

 子平の琉球図は、彼が『図説』の序文で「此ノ数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ……琉球ハ元ヨリ中山傳信録アリ、是ヲ証トス」と誇らしげに書いている通り、『中山傳信録』の地図に拠ったものである。しかし彼はそれを無批判にうのみにしたのではない。子平は『中山傳信録』および子平の時代までの日本人の琉球研究の最高峰である新井白石の『琉球国事略』などを研究し、自分の見聞を加えて、『図説』の本文と地図を書いたのである。そして『傳信録』の図には、国による色わけはないのに、林子平は色をぬりわけた。

 このことについて先の琉球政府声明は、子平は、『中山傳信録』に三十六島以外は琉球領とはしていないので、その外である釣魚島などを機械的に中国領として色分けしたのだ、そんなものに価値はないという。これは何とも気の毒なほど苦しい言いのがれである。子平は決して「機械的に」色分けしたのでないことは、図そのものにも明白である。すなわち、彼は中国領であることはよく知られている台湾、澎湖を中国本土とちがう色にぬり、釣魚諸島は本土と同色にぬっている。これをみても彼が琉球三十六島以外の島々はみな一律に中国本土と同じ色にしたのでないことは明らかである。子平は『中山傳信録』をよく研究し、そこに久米島が「琉球西南方界上鎮山」とあるのにより、その文を私が前節で解釈したのと同じく、ここを中国領と琉球領との界とし、ここに至るまでの釣魚諸島は中国領であることを信じて疑わなかったのであろう。そしてそのことをとくに明らかにする色分けをしたのである。

 じっさい、『中山傳信録』の姑米島の註は、郭汝霖や陳侃の使記の、すでに引用した記述と同じく、久米島から東が琉球領であり、その西の島々は中国領であることを明らかにしていると解するのが、漢文の読み方としてしごく当然のことである。

 私は『歴史学研究』二月号に、釣魚島の沿革を書いたとき、まだ『三国通覧図説』とその「付図」の天明五年版本を見ていなかった。そのとき私が使ったのは、一九四四年に東京の生活社が出版した『林子平全集』第二巻の活版本であった。その付図は国ごとの色わけはしてなかったので、私はたんに、子平の地図では、釣魚諸島は琉球と区別していることを指摘するにとどまった。いま原版を見ると、このようにはっきり中国領であることを色で示しているではないか。

 それだけでなく、京都大学付属図書館の谷村文庫には、「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本が二種類ある。それには、「林子平図」あるいは「三国通覧図説附図」の写しということはどこにも書いてないが、一見して、子平の図の写しということは明らかである。その一つ(仮にこれを甲図という)は、『図説』の付図五枚−−蝦夷、琉球、朝鮮、小笠原島のそれぞれの図および前記の日本を中心として「数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」−−を、丈夫な和紙に、多分同一人が筆写した一組みの中に入っている。これは、琉球は赤茶色に、中国本土および釣魚諸島などはうすい茶色に、日本は青緑色に、台湾、澎湖は黄色にぬり分けてある。

 もう一種の図(これを乙図と名づけよう)は、琉球を黄色に、中国の本土と釣魚諸島を桜色に、台湾をねずみ色に、そして日本を緑にぬり分けてある。

 なお谷村文庫には、『三国通覧図説』付図の「朝鮮八道之図」の写本が、三種類あり、そのうちの一種は、前記琉球図の甲と一組みになっているものであり、もう一種は、前記琉球図の乙と同じ紙質の紙に、恐らく同一の筆者と思われる筆跡で書かれている。そしてこの朝鮮八道図と琉球図の乙には、元の所蔵者のものと思われる同一の朱印がおしてある。残りのもう一種は、原版をかなり精密に模写したものである。これと一組みになっていた琉球図その他の写本もあったにちがいないと推定されるが、そうだとすれば、原版のほかに、琉球図の写本−−というよりも、『三国通覧図説』の付図五枚一組の写本が、少なくとも三種類はあったことになる。

 さらに京都大学国史研究室には、もう一種の「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本がある。

 周知のように、林子平はこの『三国通覧図説』および『海国兵談』の著作・出版により、幕府から処罰され、これらの版木も没収されてしまった。彼は日本人の近代的民族意識の先駆者であった。彼が『図説』を著述したのは、日本周辺の地理をよく知ることは、日本の国防−−徳川幕府とか諸藩とか、あれこれの封建領主あるいはその総体の防衛ではなく、それらを超えた次元の「日本」の防衛のために、緊急の必要であると考えたからであり、また、その緊要の知識を、たんに幕府や諸藩の役人あるいは武士階級にだけ独占させず、「貴賎ト無ク文(官)武(官)ト無ク」、「本邦ノ人」=日本民族のすべてにひろめねばならない−−なぜなら、事は日本の防衛にかかわる日本民族の問題であるから−−として、あえてこの書を出版した。しかも付図は色刷りにして、異なった国と国との位置関係が一目でわかるように心を使った。

 このように一介の知識人が、あえて日本の防衛を日本人民にうったえるという、まさに近代的民族主義的な思想と行動が、徳川幕府封建支配者の怒りにふれたのである。しかし、子平は日本人の近代民族的意識の成長を代表し、かつ、それに支えられていた。それゆえ、発売も発行も禁止された彼の本は、『海国兵談』も『三国通覧図説』も、争って読まれ、語られ、写され、ひろげられていった。

 さらにまた、『三国通覧図説』は、早くも一八三二年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプロート(Heinrich Klaproth)によって、フランス語に訳され出版されている。付図も原版と同じ色刷りである(註)。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかということ、また釣魚諸島が中国領であることは西洋人にも知られていたということがわかる。

 (註)私はまだこの仏訳本を見ていないが、大熊良一『竹島史稿』の二二ページに、クラプロートの経歴とその『図説』翻訳に関する紹介がある。また台湾の『政大法学評論』第六期に、同書の琉球図の色刷りがある。

 林子平のような日本の民族的自覚の先駆者が、当時までの中国人、琉球人また日本人の、琉球地理研究の最高峰であり集大成である、徐葆光や新井白石の著書を十分に研究し、民族の防衛を日本のすべての人にうったえるために精魂こめて書き、あえて出版した本、そして徳川封建支配者の弾圧に抗して、愛国的知識人の間にひろめられていき、国際的にも重視された本の図に、釣魚諸島は中国領であることが明記されているのである。こういう本の記述をしも、明治の天皇制軍国主義者とその子孫の現代帝国主義者およびその密接な協力者日本共産党などはまったく無視して、釣魚諸島は無主地であったなどと、よくもいえたものである。

六 「無主地先占の法理」を反駁する
 琉球と釣魚諸島に関する、十六世紀から十八世紀にいたる、中国人、琉球人および日本人の最良の文献が、一致して、釣魚諸島は中国領であることを明らかにしているのに、あるいは、その中国語文章表現が現代の法律文とはちがうことを利用して、勝手にその意味をねじまげ、あるいは、どうにもねじまげることの不可能な地図については、それは機械的に色分けしたにすぎないなどと、軽薄なおのれの心をもって真剣な先覚者の苦心をおとしめる。このような議論の相手をするのは、いささかめんどうくさくなってきたが、そうも言ってはおれない。彼らが、二言めにはもち出す「国際法上の無主地先占の法理」なるものについて、駁撃しておかねばならない。

 彼らは、一八八五年に釣魚諸島を奪いとろうとした天皇制軍国主義の最も熱烈な推進者、最大の指導者、陸軍中将、内務卿山県有朋と同じく、いくら明・清の中国人が釣魚諸島の存在を知り、それに中国語の名をつけ、記録していても、ここに当時の中国の政権の、「支配が及んでいる痕跡がない」、つまり、いわゆる国際法の領土先占の要件としての実効的支配が及んでいない、だからここは無主地であった、などという。

 それでは、その「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法T』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」(一六ぺージ)。この「合理的なルール」とは、私見では、つまりは強者の利益にすぎなかった。そのことは、とくに「無主地の先占の法理」において顕著である。田畑は次のように書いている。「戦争の問題とならんで、いま一つ、近世初頭の国際法学者の思索を強く刺戟したものは、新大陸、新航路の発見にともない展開された、植民地の獲得、国際通商の独占をめざした、激しい国家間の闘争であった。」この植民地争奪の激化に直面して、「国家間の行動を共通に規律するものとして(もっともこの場合には、他国に対して自国の行動を正当づけるといった動機が、多くの場合背景になっていたが)、国際法に関する論議がさかんに行なわれた。領域取得の新しい権原として、先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった」(一九ぺージ)。

 「他国に対して自国の行動を正当づける」ために、もち出された「法理」が、「国際法」になるというのは、つまり強国につごうのよい論理がまかり通るということである。無主地先占論はその典型で、スペイン人、ポルトガル人が、アメリカやアジア、アフリカの大陸、太平洋の島々を、次から次へと自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」の原則が通用していた。それに対してオランダやイギリスが、競争者として立ちあらわれ、しだいにスペイン、ポルトガルに優越していくとともに、オランダの法学者グロチウスが、「先占の法理」をとなえだしたのである。それはオランダやイギリスにつごうのよい理論であって、やがてそれが「国際法」になった。

 先占の「法理」なるものが、いかに欧米植民地主義・帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるかは、「無主地」の定義のしかたにも端的に出ている。田畑教授より先輩の国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法U』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」(九八ぺージ)。これはまたなんと、近世ヨーロッパのいわゆる主権国家の勝手きままな定義ではないか。こういう「法理」で彼らは世界中を侵略し、諸民族を抑圧してはばからなかった。

 横田も先占「法理」の成立について、「一五世紀の末における新発見の時代から、一八世紀のはじめまでは、新しい陸地や島を発見した場合に、それを自国の領土であると宣言し、国旗をかかげたり、十字架や標柱をたてたりして、それで領土を取得したことになるとされた」という。しかし、十九世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し支配しなければならないと主張され、それがしだいに諸国の慣行となった」。「おそくとも一九世紀の後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」(九八〜九九ぺージ)。「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関が必要である。わけても、秩序を維持するために、警察力が必要である。多くの場合にはいくらかの兵力も必要である」(九九ぺージ)。

 これも何のことはない、軍事・警察的実力で奪いとり保持したものが勝ちということである。このように近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした「法理」なるものが、現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている。この「法理」を、封建時代の中国の王朝の領土に適用して、その合法性の有無を論ずること自体が、歴史を無視した、現代帝国主義の横暴である。

 ヨーロッパ諸国のいわゆる領土先占の「法理」でも、十六、七世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、釣魚諸島は、中国領以外の何ものでもない。なぜなら、ここを発見したことが確実に証明されるのは、中国人の発見であり、その発見した土地に、中国名がつけられ、その名は、中国の公的記録である冊封使の使録にくり返し記載されているから。

 しかも、その使録の釣魚諸島を記載している部分を、琉球王国の非中国派の宰相向象賢も、その王国の年代記に引用し、承認している。日本の近代民族主義の先駆者林子平も、承認している。そしてその子平の本を西洋の東洋学者も重視している。つまり国際的にも中国領であることが確認されている。十六世紀ないし十八世紀に中国領であったものに、二十世紀の帝国主義の「国際法理」なるものを適用して、その要件をみたしていないという理由で、あらためてこれを無主地とすることが、どうしてゆるされよう。

 かりに、「先占は実効的でなければならない」という現代帝国主義の「法理」を釣魚諸島に適用するとしても、この小さな無人島に行政機関をもうけるなどということは、明・清の時代には不可能であり無用でもあった。現代の先占についても、横田は次のようにのべている。
「先占される土地の状態によっては、この原則(実効的支配の原則−−井上)をそのまま適用することができないこと、その必要がないこともある。たとえば無人島のような場合で、行政機関をもうけ警察力や兵力を置くことは、実際的に必要がない。住むことができないような場合には、それを置くこともできない。」

 明・清時代の釣魚諸島は、まさにこのような、人が定住することもできない無人の小島であった。だから、そこに現代的な「実効的支配」の痕跡を見出そうとしても、そんなものはありえないことは自明である。横田によれば「このような場合には、附近にある陸地や島に、行政機関や警察力を置いて、無人島が海賊の巣にならないよう、ときどき見廻って、行政的な取締りを行ない、必要があれば、相当な時間のうちに、軍艦や航空機を派遣できるようにしておけば、それで十分である。」

 これはもちろん現代において可能な処置である。「軍艦や航空機」も、レーダーも無線電信機もない昔のことではない。しかも「人の住むことのできないような島」が、「海賊の巣」になることもありえないから、ここを「ときどき見廻る」必要もない。とすれば、いったい明・清の中国人は、釣魚諸島をどうすれば、現代日本の帝国主義政府やその密接な協力者日本共産党などを満足させる「実効的支配の痕跡」を残すことができよう? 明・清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」

 しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。これはつまり横田のいう「附近の島や陸地に行政機関や警察力を置いて……」ということの、明代版にほかならない。

 こういったからとて私は、明・清の中国政府や中国人が、現代帝国主義の「国際法理」にかなうよう、釣魚島の「先占」をしていたなどと説明する必要はみとめない。彼らは、彼らの死後数百年たち、二十世紀になって、「先占の法理」などで彼らの領土に文句をつけられようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。ただ、彼らがここを彼らの領土であると確認していたればこそ、現代帝国主義の先占論をもってしても、ここが中国領であったという歴史的事実を否定できない証拠が残っているということを、明らかにしたまでのことである。

七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

八 いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
 琉球人が、琉球語で釣魚諸島の島々をヨコン(イーグン)とかクバとかよぶようになっても、彼らがこれを「尖閣列島」とよんだことは、一九〇〇年以前には一度もない。この名は、じつに西洋人がこの群島の一部につけた名をもとにして、一九〇〇年につけられたものである。

 西洋人が釣魚諸島の存在を何時ごろから知るようになったか、それについて私も多少の考証はしているが、本論文にはそこまで書く必要はあるまい。確実に言えることは、十九世紀の中頃には、釣魚島をHOAPIN−SAN(または−SU)、黄尾嶼をTIAU−SUというのは、すでに西洋人の地図の上では定着していたということである。また、彼らは釣魚島の東側にある大小の岩礁群をPINNACLE GROUPSまたはPINNACLE ISLANDSとよんでいた。

 イギリス軍艦「サマラン」(SAMARANG)は、一八四五年六月、恐らく世界で最初に、この諸島を測量しているが、その艦長サー・エドワード・バルチャー(Sir Edward Balcher)の航海記(註)に、十四日、八重山群島の与那国島の測量を終えた同艦は、そこからいったん石垣島に立ちもどり、その夕方「海図上のHOAPIN−SAN群島をもとめて航路を定めた」という。このホアピンサンは釣魚島のことである。

 (註)"NARRATIVE OF THE VOYAGE OF HMS SAMARANG DURING THE YEARS 1843〜46", by CAPTAIN SIR EDWARD BALCHER : LONDON 1848.

 サマラン号は、その翌日、PINNACLE ISLANDS(ピナクル諸嶼)を測量し、十六日、TIAU−SU(黄尾嶼)を測量した。これらの測量の結果は、一八五五年に海図として出版されている(註)。この海図およびサマラン艦長の航海記の記述が、この後のイギリス海軍の海図および水路誌のホアピン・スーとチアウ・スーの記述の基礎になっていると思われる。

 (註)"THE ISLANDS BETWEEN FORMOSA AND JAPAN WITH THE ADJACENT COAST OF CHINA" 1855.

 そして、明治維新後の日本海軍の『水路誌』のこの海域の記述は、最初はほとんどもっぱらイギリス海軍の水路誌を典拠としていたようである。

 さきに引用した総理府の南方同胞援護会機関誌『沖縄』には、一八八六年(明治十九年)三月刊行の海軍省水路局編纂発行『寰瀛水路誌』巻一、下、第十篇の釣魚諸島に関する記述がある。

 この「編纂縁起」によれば、「其第十編ハ即チ洲南諸島ニシテ、明治六年海軍大佐柳楢悦ノ実験筆記ニ拠リ、支那海針路誌第四巻(一八八四年英国海軍水路局編集刊行、第二版−−井上)及ビ沖縄志ヲ以テ之ヲ補フ」という。

 右にいう柳大佐の「実験筆記」も「沖縄志」も私は見ていないが、この水路誌は釣魚島を「和平山(ホアピンサン)島」と漢字で書いて英語名のルビをつけ、黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島」、赤尾嶼は「爾勒里(ラレリ)岩」と書いている。これらは、それぞれ、Hoapin-San, Tiau-Su, Raleigh Rockと、前記英国軍艦サマラン号の航海記に書かれている島嶼のことであり、これが一八八四年版の『英国海軍水路誌』によるものであることは明らかである。

 なお、前掲の雑誌『沖縄』に抄録されている日本海軍の水路誌は、この後も上記の島々を、以下のように書いている。

 一八九四年(明治二十七年)七月刊『日本水路誌』第二巻は、カタカナで「ホアピンス島」、「チャウス島」、「ラレー岩」と記す。

 一九〇八年(明治四十一年)十月の第一改版『日本水路誌』第二巻は、「魚釣島(Hoapin-Su),「黄尾嶼(Tiau-Su),「赤尾嶼(Raleigh Rock)」とする。すなわち、釣魚島を当時の内務省などと同じく「魚釣島」とし、黄尾、赤尾は漢字で中国の古来の名称通り書き、いずれもその下に英語名を書いてある。黄尾を久場島とし赤尾を久米赤島とするなどの琉球名はつけていない。この点はこの後も一貫している。これにより、「魚釣島」だけが日本の役所で一定共通の名となったが、他の島は、海軍と内務省とでもちがっていたことがわかる。

 一九一九年(大正八年)七月刊『日本水路誌』第六巻では、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」とだけ書く。これまであった英語名はすっかりなくなった。 一九四一年(昭和十六年)三月刊行『台湾南西諸島水路誌』も、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と書くが、何故か赤尾嶼だけには「赤尾嶼(セキビ)」としている。あるいはこれは雑誌『沖縄』にこれを抄録したさいに、こうなったのであろうか。

 古くから日本にも知られている釣魚諸島の名称を、その中国名でも、また琉球名でも記載せず、イギリス名で記載するほどイギリス一辺倒の初期の日本海軍水路誌の釣魚島に関する説明は、イギリス海軍水路誌のもとになったサマラン号航海記の記述と、文章までほとんど同じである。

 サマラン号の航海記の一節(第一巻第九章、三一八ぺージ)を、なるベく直訳して次にかかげよう。これをAとする。

 「ホアピン・サンの最高点は一、一八一フィートである。島の南側は、この高さからほとんど垂直に西北西の方向に断ち切られている。その他の部分は東向きに傾斜しており、その斜面には、良質の水の細流がたくさんある。居住者または来訪者の痕跡は全然なかった。じっさい土地は半ダースの人を容れるにも不十分である。」

 「艦上から見たこの島の上部の地層は、北東に深く傾斜した層理の線を示していた。そのために水流は容易に北東側の海岸に流れる。この水の供給が一時的なものでないことは、多くの天然の池に、淡水魚がいることによって明らかである。そしてその池は、ほとんどみな海に連結しており、水草がいっぱい茂っていて、池をおおいかくしている。」

 次は一八九四年六月版の『日本水路誌』第二巻の一節である。これをBとする。

 「此島の南側最高処(一、一八一呎(フィート))より西北に向へる方は、削断せし如き観を呈す。此島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の生育せるを以て知るべし。而して此池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。(中略)此島は地六、七名の人を支ふるにも不十分にして、人居の跡なし。」

 AとBを比べれば、Bの『日本水路誌』の記述は、サマラン航海記のAの部分をたいへん上手に簡潔に翻訳しているといってもいいくらいである。

 以上によって、明治維新後の日本人の釣魚諸島に関する科学的知識は、ほとんどみなイギリス海軍の書物や図面によって得られたものであることがわかる。そして、尖閣列島という名も、イギリス海軍のいうPinnacle Islandsを、日本海軍が「尖閣群島」あるいは「尖頭諸嶼」と翻訳したことに由来する。

 『寰瀛水路誌』には、Pinnacle Islandsのことを「尖閣群島」と漢字で書き、その横に「ピナクルグロース」とルビをつけている。この「グロース」はグループス(Groups)のPの音が脱落したものであろう。これが一八九四年の『日本海軍水路誌』第二巻では「ピンナクル諸嶼」となり、一九〇八年の水路誌では「尖頭諸嶼」となっている。「ピナクル」とは元来はキリスト教会の尖塔形の屋根のことをいう。釣魚島の東側の列岩の中心の岩礁の形が、ピナクル形であるので、イギリス人が、この列岩を Pinnacle Islands と名づけたのであろう。それを日本海軍で尖閣群島または尖頭諸嶼と訳したわけである。

 そして、釣魚島、尖閣群島(尖頭諸嶼)および黄尾嶼を総称して、「尖閣列島」というのは、すでに再三言及した黒岩恒が一九〇〇年にこう名づけたことに始まる。彼は一八九八年(明治三十一年)に『地質学雑誌』第五巻に「尖閣群島」という文章をのせていることが、大城昌隆編『黒岩恒先生顕彰記念誌』の「年譜」にのっているが、私はまだその論文を見ていないので、その地名がどの範囲をさすか知らない。彼は前に引いた一九〇〇年の報告、「尖閣列島探険記事」で、次のように書いている。

 「ここに尖閣列島と称するは、我沖縄島と清国福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表(いりおもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り。本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離もまた略(ほぼ)相似たり。台湾島の基隆へは僅に二百二十余哩を隔つ。帝国海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し渺(びょう)たる蒼海の一粟なり。(中略)而して此列島には未だ一括せる名称なく、地理学上不便少なからざるを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。」

 尖閣列島の名は、『地学雑誌』のこの論文によって、はじめて地理学界に広く知られるようになった。それ以前にはこういう名称はない。

 しかるに奥原は前にあげた論文に、『寰瀛水路誌』を引用し、それにすでに「尖閣群島」とあるとだけ書き、あたかもこの名が黒岩の名づけた「尖閣列島」と同じ範囲であるかのように、読者に印象づけようとしている。この尖閣群島がピナクル諸嶼であることは、奥原は百も承知であるのに、わざとあいまいな書き方をするのである。

 また、例の琉球政府の「尖閣列島の領土権について」の声明は、「明治十四年に刊行、同十六年に改訂された内務省地理局編纂の大日本府県分割図には、尖閣列島が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている」というが、この『大日本府県分割図』の沖縄県の地図には、「尖閣列島」なるものはない、「尖閣群島」があるだけである。そしてその「群島」は、ピナクル諸嶼のことである。それをあたかも今日のいわゆる尖閣列島の名がすでに、その当時あって、それが地図上で沖縄県に入っているかのようにみせかけるのは、琉球政府も、まことにつまらぬ小細工をするものである。

 さらに、いっそうこっけいなのは、日本社会党国際局の「尖閣列島の領有問題についての社会党の統一見解案」である。それは、多分琉球政府の右の声明をうのみにしただけで、じっさいにその地図を見て検討することもなく、「尖閣群島」(ピナクル諸嶼)と黒岩の名づけた尖閣列島との混同の上に立って、「いわゆる尖閣列島は、一八八一年(明治十四年)、当時の政府内務省地理局の手により、沖縄県下に表示されるなど、一連の領有意思の表示をへて」などというのである。この地図のどこに「尖閣列島」領有の意思があろう。

 さて、黒岩がこの人さわがせな名をつけた尖閣列島の範囲は、彼が明記している通り、釣魚島、ピナクル諸嶼および黄尾嶼の総称であって、赤尾嶼はふくんでいない。それは地理学的には当然のことで、赤尾嶼は黄尾嶼から四八浬もはなれているので、釣魚などと一群をなしているのではなく、黒岩の前記報告も、この島については一言もしていない。そして、琉球政府が一九七〇年九月十日に発表した「尖閣列島の領有権及び大陸棚資源の開発権に関する主張」は、「北緯二十五度四十分から二十六度、東経百二十三度二十分から百二十三度四十五分の間に散在する尖閣列島」という。この範囲は、黒岩が名づけた尖閣列島と同じ範囲で、赤尾嶼(北緯二五度五五分、東経一二四度二四分)はふくんでいない。

 しかし、同じ琉球政府が右の声明の一週間後に出した、たびたび引用する「尖閣列島の領土権について」という声明では、「明治二十八年一月の閣議決定は、魚釣島(釣魚島−−井上)と久場島(黄尾嶼−−井上)に言及しただけで、尖閣列島は、この島の外に、南小島及び北小島と沖の北岩、沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁(南小島から飛瀬までは、ピナクル諸嶼のこと)、それに久米赤島(赤尾嶼−−井上)から成っております」という。琉球政府も、尖閣列島の範囲について、赤尾嶼を入れたり出したり、いっこうに定まらない。

 以前の海軍水路部あたりは、はっきりしているかと思うと、これも、さに非ず。一九〇八年までの水路誌には、釣魚、黄尾とその間のピナクル諸嶼を総括する名称も、それに赤尾を加えて総括する名称も、全然記載されていない。ところが、一九一八年の水路誌には、「尖頭諸嶼」という名称で、「尖頭諸嶼ハ沖縄群島ト支那福州トノ略中央ニ在リ、……、黄尾嶼、魚釣島、北小島、南小島及沖ノ北岩、沖の南岩ヨリ成ル。魚釣島ハ其最大ナルモノナリ」という。

 上記の北小島から沖の南岩までの岩礁はピナクル諸嶼のことであり、同じ水路誌が、一九〇八年九月には「尖頭諸嶼(Pinnacle Is.)」と記し、一八九四年七月には「ピンナクル諸嶼」、そして一八八六年には「尖閣群島(ピンナツクルグロース)」と記したものである。それが、一九一九年には、前記の通り、黒岩恒の名づけた「尖閣列島」と同じ区域をさすことになっている。さらに右の水路誌は「此等諸嶼ハ位置ノ関係上古来琉球人ニ知ラレ、尖頭諸嶼、尖閣列島、或ハ Pinnacle Islands 等ノ名称ヲ有ス」と、念入りの説明をしているが、ここでは、黒岩の命名した尖閣列島も、イギリス海軍のつけたピナクル・アイランヅも、またその訳語として日本海軍水路部自身が以前に用いた「尖頭諸嶼」も、何もかもごたまぜにしている。

 一九四一年の『台湾南西諸島水路誌』は、一九一九年の水路誌と同じく「尖頭諸嶼」をかかげ、その範囲も、一九年版と同じである。そして「尖頭諸嶼ハ位置ノ関係上、古来琉球人ニ知ラレ、尖閣列島トモ呼バレタリ、外国人ハ之ヲPinnacle Islands と称セリ」という。ここでは、「尖閣列島」というのは、「古来」琉球人にそうよばれていた、この地域の旧名であり、現在は尖頭諸嶼というかのような書き方である。

 いまの日本外務省の本年三月九日の「尖閣列島領有権に関する統一見解」は、「尖閣列島は……明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設するとの閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というからには、明治二十八年の閣議で標杭を建設するとした島、すなわち魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)だけとなる。ピナクル諸嶼さえも入らないことになる。もっともピナクル諸嶼は、釣魚と黄尾の間にあるから、これは、とくに言及しなくても、「尖閣」の中にふくまれているものとみなしてもよいが、赤尾嶼はどうしても入らない。しかし、現実には、政府は赤尾嶼も「尖閣列島」の中に入れて中国から盗み取ろうとしている。

 日本共産党の「見解」も、外務省と同じで、「尖閣列島」の範囲を明示しないが、「一八九五年一月に、日本政府が魚釣島、久場島を沖縄県の所轄とすることをきめ、翌九六年四月に尖閣列島を八重山郡に編入し…」という。これでは、「尖閣列島」とは、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)のことをいうと解するほかない。このばあいも、両島の中間のピナクル諸嶼は自動的にふくむとすると、これも黒岩恒の命名した尖閣列島の区域と同じである。ところが声明の後段には、「一九四五年以降、尖閣列島は沖縄の一部としてアメリカ帝国主義の政治的軍事的支配下におかれ、列島中の大正島(赤尾礁または久米赤島)および久場の両島も米軍の射爆場にされ……」という。ここでは赤尾嶼まで「尖閣列島」に入っている。日共の宮本委員長さん、いったい尖閣列島とはどの範囲をいうのか、しっかりした典拠によって明示したらどうですか。

 琉球政府も、日本外務省も、日本共産党も、黒岩恒が地理学的根拠をもって明示した尖閣列島と、黒岩がそれからはずしている赤尾嶼をともに日本領土としたいのだが、彼らといえども、赤尾嶼をふくめた尖閣列島なる名称は、公的にはもとより私的にも、未だかつて存在したことがないのを、内心では知っているので、明確に一義的に尖閣列島とはこの範囲だと言うことができず、まず黒岩のつけた名称をあげて、後でこっそり赤尾嶼をその中に加えるのである。

 領土問題を、こんな風にコソ泥のようにしかあつかえないのは、帝国主義者としても、何とみみっちいことだろう。

 また、黒岩のつけた尖閣列島という地理学的名称は、一度も日本国によって公認されたことはない。それゆえ、軍事的必要から地理の記述には厳密性をもっとも強く要求する海軍の水路誌でさえ、後になると、前記のように尖閣列島とは、その地域の古い名称のことと思いちがいして、その名を用いず、本来はピナクル諸嶼のみの訳名であった「尖頭諸嶼」の名を総称として用いている。ところが、いまの日本政府や琉球政府は、尖閣列島とよぶ。ただしその範囲はでたらめである。日共はそのでたらめ政府に盲従追随するのみである。

 「尖閣列島は歴史的に日本領土であることは、争う余地はない」などと、日本政府、琉球政府、日本共産党、大小の商業新聞はいっせいにいうが、ごらんの通り、その範囲さえ明確でなく、またその名称も「尖閣列島」とも「尖頭諸嶼」ともいって確定しておらず、さらにその列島の個々の島の名称すら、政府機関内ですら魚釣島のほかは一定していない。黄尾嶼は久場島といい、しかもその久場島がある時期は釣魚島であったり他の時期は黄尾嶼であったりする。赤尾嶼はまた久米赤島というかと思うと、いつのまにか大正島ともいう。海軍は黄尾嶼、赤尾嶼というかまたは英語名でしか記録しない。地域の名称もその範囲もはっきりしない領土などというものが、どこにあろう。このことは、たんに名称だけの問題ではなく、政治的実質的に重要な意味がある。これは日本天皇制が、これらの島を「領有」したその仕方、他国領を盗みとったということから、必然に生じた現象である。このことは第一三節で改めて論ずる。

 (付註)イギリスの海図などのHOAPIN-SAN または HOAPIN-SU が釣魚島であり、TIAU-SU が黄尾嶼であることは、地図およびその島に関する記述を見れば明らかである。しかし、これらの名称の由来は、明らかでない。東恩納の『南島風土記』は「海図にホアピンスウとあるのは、黄尾嶼の華音である」という。この説はまちがいであろう。現在中国の共通語で「黄尾」はファンウェイという。また福建地方の語でもウンボエといい、ホアピンあるいはそれに似た音ではない。

 また、黒岩恒は、釣魚島は一名「和平島」ともいうと書いている。もしこれが正しければ、HOAPINは「和平」の中国音をローマ字表記したものといえる。しかし、私は中国の古い文献でこの島を「和平」島(あるいは嶼)と書いてあるのを見たことがない。もしここを「和平」島と書くとすれば、それは、本来中国語でそうよばれていたからではなくて、ローマ字でHOAPINと書かれている中国音に「和平」という字を当てたのであろうか。そして最初にそうしたのは日本海軍の最初の水路誌の作者ではあるまいか。

 あえて私の推測をいえば、「ホアピンスウ」というよび名は、釣魚島から西ヘ二つめの花瓶嶼(ホアピンスウ)の中国音を、西洋人があやまって釣魚島にあてたものであろう。本論文の第三章にあげた『籌海図編』の「沿海山沙図」では、西から東への島の順が、彭加山、釣魚嶼、化瓶山、黄尾山……となっているが、歴代の琉球冊封使録や『中山傳信録』などでは、花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台の順でつらなっている。中国人にこういう島名の入れちがいがありえたとすれば、西洋人がまさに釣魚島とあるべき島を花瓶嶼=ホアピンスウの名でよぶことも大いにありうるであろう。そしてその「ホアピン」に「和平」という漢字を日本海軍の翻訳者が当てたのであろう。

 また、TIAU-SUは恐らくは中国語の釣嶼(釣魚嶼の略)のローマ字表記であろう。その字を釣魚島そのものにあてないで、その東北の黄尾嶼にあてたのも、Hoapin-Suを、花瓶嶼の二つ東の釣魚島にあてたのと同じ性質のことであろう。

九 天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
 琉球人さえも、「イーグンクバシマ」の存在を知っているというていどで、その島々と日常の関係もなく、まして日本人は、一部の先覚者のほかには、ふつうの武士や民衆は、その存在さえも知らなかった幕末期に、釣魚諸島を日本領だと称して領有しようとするこころみなどのあるわけもなかった。

 幕末の騒乱期にも、徳川幕府は、南方では伊豆南方の無人島(小笠原島)を、イギリス、アメリカと争って日本領にとりこもうとし、北方では樺太における日本領とロシア領の境界について、ロシアに一歩も譲らず対抗していた。西方では幕府役人および長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らは、一八六〇年代に早くも朝鮮侵略を構想(註)していた。これほど辺境の領土に対する関心が深く、領土拡張の要求もはげしかった幕府であり、その幕府をも「夷狄」に屈従すると攻撃してやまなかった勤王派ではあったが、彼らのうちの誰一人として、琉球を併合しようとか、その清国との関係を断ち切らせようとか考えるものはなかった。まして琉球の先の無人の小島、釣魚諸島については、関心をよせるものさえなかった。

 (註)井上清『日本の軍国主義』U所収「征韓論と軍国主義の確立」にこの具体的事実をあげてある。

 一八六八年(明治元年)、勤王派は徳川幕府を倒して天皇政権をうちたてた。七一年(明治四年)には、諸藩も廃止され、天皇を唯一最高の専制君主とする高度の中央集権の統一国家がつくられた。そのころすでに天皇政府は、朝鮮、台湾、そして琉球を征服する野心をいだいていた。この三地域への天皇制の政策は、たがいに深く関連しており、一体となって天皇制の軍国主義をきわだたせている。そして、その軍国主義が、やがて釣魚諸島にも食指をのばす。それゆえ、天皇政府と釣魚諸島の関係を論ずるに先立ち、琉球処分を中心として、天皇制軍国主義の展開を見ておかねばならない。

 廃藩置県により、島津藩も廃止されたので、天皇政府は、従来島津藩の属領でその封建的植民地であった琉球王国をも、天皇政府の属領になったものとみなした。ただし、琉球王国が清国に朝貢し、清の皇帝から冊封を受けることを禁止したのではなく、従来通り清国と宗属関係を保つことを認めていた。

 この翌七二年、天皇政府は、琉球人民が台湾東岸に漂着してそこの住民に殺された事件(七一年十一月のこと)を利用して、日本人民たる琉球人のために仇をうつと称し、清国領である台湾を侵略しようとした。その侵略を正当化する一つの根拠として、琉球王国は日本領であり、その人民は日本国民であり、清国の属国民ではないとする必要にせまられた。そこで、政府はあれこれと討議したあげく、七二年九月、「琉球尚泰」(琉球国王尚泰とはいわない)を、日本天皇が琉球藩王に封じ、華族に列し、金三万円を賜わるとともに、琉球の外交事務はすべて日本外務省が管轄する、とした。尚泰王自身および王府は、こうされることに強く反対したが、天皇政府は、あるいは威圧し、あるいは外務省高官が口頭で、琉球の「国体・政体」は今まで通りでよろしい、その外交事務は本省で管するが、琉球と清国との関係は従来のままでよい、などと甘い言葉でだましたりして、一時をごまかした。

 天皇政府の台湾遠征は、アメリカの駐日公使デ・ロングC.E.de LONG と、彼の推薦により七二年十一月以降外務省の顧問となったアメリカの退役将軍のル・ジャンドルLe GENDREの強力な支援と指導のもとに、七四年(明治七年)七月に強行される。彼らがこれを正当化する口実としたのは、第一は、前記の通り「日本人」が殺されたということ、第二は、その「日本人」を殺した「生蕃」の土地は、現代風にいえば、国際法上の無主地であり、「生蕃」は中国属領民ではないというこじつけであった。この後の論法には、現在の釣魚諸島無主地論の論法と共通する点がある。

 すなわち、当時の外相副島種臣は、台湾遠征を正当化する下地をつくるために、一八七三年北京に行き、六月九日、北京駐在イギリス公使に会った。そのとき公使が、もし清国政府が、台湾はわが属領であるから、政権はわれより加えるといったら、どうするかと問うたのに対し、副島は次のように答えている。

 「此ノ権清ニ在リト云フヲ得ザルノ証跡有リ、生蕃ノ地ニ清国ヨリ嘗テ官吏ヲ派シ置ク事無ク、清ノ輿地図(全国地図)ニ生蕃ノ地名ヲ記載スルヲ見ズ、且ツ数年前、米人曾テ清ノ政府ニ告ゲズシテ彼ノ地ニ入リ、蕃人ト戦ヒ(ル・ジャンドルのことをさす)、又生蕃自ラ米人ト約ヲ結ブコトヲ得タリ。清国モシ彼ヲ属下ト謂ハバ、和戦、結約、彼レガ自ラ為スニ任セ、政府之ヲ知ラズシテ可ナル乎。我ハ此故ヲ以テ、清ノ政府ハ生蕃ノ地に於ケル権ノ及ブ可キ無シト謂へルナリ。」(『日本外交文書』第六巻)

 また六月二十一日、副島は駐清の柳原公使をともない、清国の外交部である総理衙門を訪い、台湾人の琉球人殺害について会談した。そのとき、日本側ではもっぱら柳原公使が発言するが、彼はたくみに相手を誘導して、台湾の「生蕃」は「之ヲ化外ニ置キ甚ダ理スルヲ為サザルナリ」と言わせる。そして柳原は、「貴大臣既ニ生蕃ノ地ハ政教ノ及バザル所ト謂ヒ、又旧来其ノ証跡有リテ、化外孤立ノ蕃夷ナレバ、タダ我ガ独立国ノ処置ニ帰スルノミ」と言い放って、ひきあげた。柳原は、台湾住民の一部に清国の「教化」が及んでいないという儒教的政治思想の概念と、政権が及んでいないという近代国際法的概念とは、全く別の問題であることは百も承知しながら、あえて両者を同一視し、「蛮地」は教化の外だと清国がいうのを、近代国際法にいわゆる実効的支配がなされていない「無主地」であるとこじつけて、侵略を正当化する根拠としたのである。そして、この翌年、台湾侵略を実行した後、清国の、当然の厳重な抗議を受けるが、それにたいしては、清国は「蛮地」は「化外の地」と言ったのではないかという論法で対抗する。

 このような、中国語の概念と表現を近代的概念にねしまげる論法を、陳侃・郭汝霖の使録や『中山傳信録』の、久米島と赤尾嶼に関する記述の解釈に用いたのが、釣魚諸島の無主地論である。

 七四年の台湾侵略のさいは、日本の実力では、まだ清国の実力およびイギリスの動向に抗して、「蛮地」=無主地論をおし通すことはできなかったが、この後、天皇政府の軍国主義と侵略の野望はいっそう強められた。その侵略の当面の目標を、天皇政府は、イギリスの示唆と支持をうけて、天皇政権成立の早々からねらっていた朝鮮に集中する。ところが、朝鮮国王は琉球国王と同様に、以前から形の上では清国に朝貢し、その外臣となっていたのだから、もし日本が、琉球王国を琉球「藩」とした後も、「藩」王の清朝への朝貢・臣属を認めたままでいるならば、そのことは、朝鮮国を完全に清朝の勢力から切りはなし、やがて日本の属領にしようという大政策の妨げにもなり得る。

 そこで一八七五年七月、天皇政府は、琉球「藩」王に、清朝との朝貢・冊封関係をきっぱり断つことを厳命し、かつ、王の上京と「藩」政の大改革を強要した。また琉球王らの反抗を鎮圧するために、那覇の郊外に、琉球人民の土地を強制収用して熊本鎮台(後の師団)の分営を設けた。琉球王や士族らは、これに必死に抵抗し、ひそかに清朝に援助をもとめた。清朝は、日本政府に、清の「属邦」(琉球)の朝貢を禁じたことについて、再三抗議したが、有効な琉球王援助は何もできなかった。

 この間に天皇政府は、七五年九月、軍艦「雲揚」をして、朝鮮の江華島付近の漢江に不法侵入させ島の守備兵を挑発させた。守備兵はついに発砲のよぎなきに至った。天皇政府はただちにその「罪」を問うとして、陸海軍の全力をあげて朝鮮に攻め入る準備をし、その圧力を背景にして、翌七六年二月、朝鮮に最初の「修好条約」をおしつけ、ついで八月、貿易規則をおしつけた。

 それらの条約は、日本が外国におしつけることのできた最初の不平等条約であった。「修好条約」により、日本は朝鮮の釜山その他を開港させ、そこに居留地をもうけ、居留民の治外法権を定めた。貿易規則では、「当分の間」日朝両国とも輸出入関税は無税、そして日本は朝鮮の開港場で日本の通貨(紙幣をふくむ)を以て自由に朝鮮人から物資を買い入れることができると定めた。これは、日本が早くも朝鮮を政治的に従属させ、朝鮮経済を日本資本のほしいままな略奪の場としたことを意味する。しかもこの苛酷な不平等条約の第一条には、空々しくも、「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と書いてあった。それは、朝鮮国は清国の属邦ではないということを規定したもので、その裏には、やがては朝鮮を日本の属国にしようとする野望がかくされていた。十一年後の日清戦争の種火は、早くもここに日本によって点火された。

 朝鮮強圧の成功の勢いに乗じて天皇政府は、あくまで清の「属邦」たることをやめようとしない琉球「藩」の「処分」を急いだが、日朝修好条約おしつけの翌年は、政府は西南戦争の大乱を乗切るのに全力をとられた。それにようやく勝利して、そのさしあたりの後始末もほぼかたづいた一八七九年(明治十二年)四月、政府は四百五十名の軍隊と百六十人の警官隊とで、三百年このかた軍隊というものは設けたことのない琉球「藩」王を弾圧して、うむをいわせず藩を廃止し、これを天皇政府直轄の沖縄県とし、旧藩王は強制的に東京に移住させた。

 いわゆる「琉球処分」はここに完了した。これを、もともと琉球人は本土日本人と同一民族でありながら、政治的に分立していたのが、いまや政治的にも単一の日本民族国家に統一されたのだ、と解釈する説が支配的であるが、私はその説には反対である。

 琉球では、十二世紀に最初の小国家が成立し、十四世紀に沖縄本島で三つの国が分立し、十五世紀の末に全土を統一した国家ができるが、それらの国は、日本の歴代の国家権力とは対等につきあう独立国で、十四世紀末から中国の皇帝にだけ朝貢臣属していた。やがて十七世紀初めに島津藩に征服され、以後は島津の苛酷な搾取と支配を受けることになったが、それでも琉球王国はなお独自の国家として存在し、中国の王朝にも朝貢していた。この国が、近代天皇制によって名実ともに独自の国家的存在を奪われ、中国への臣属も断ち切られ、天皇制の植民地にされたのが「琉球処分」の歴史的内容である。私はすでに、この問題を歴史的に、また民族理論的に、くわしく論じて(註)あるので、関心のある人はそれらを見ていただきたい。

 (註)岩波講座『日本歴史』第十六巻「近代」Vにのせた「沖縄」(一九六二年)。中野好夫編『沖縄問題を考える』(一九六八年、東京、太平出版社)に書いた「日本歴史の中の沖縄」。全国解放教育研究会編、雑誌『解放教育』第四号(一九七一年十月号)の小論「沖縄差別とは何か」)。

一〇 日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
 一八七二〜七九年の琉球処分の時期の天皇政府は、辺境の帰属問題を解決し、自己の支配領域を確定すると同時に、できればそれを拡張することに夢中であった。「琉球処分」以外の事実を年代順にあげれは、以下のような諸事件がある。 一八七三年九月〜十月、政府内における征韓論の大論争。西郷隆盛ら征韓派の敗退。 一八七四年二月〜十二月、台湾侵略。

 一八七五年五月、ロシアとの千島・樺太交換条約に調印。幕末以来の樺太における日露の領界争いに、日本の大譲歩で結末をつけた。日本は樺太の南半部に対して早くからもっていた権利をすべて放棄し、同島の全部をロシアの領有とする、その代償として、ロシアは千島列島のうちのウルップ島以北という、南樺太とは経済的価値も軍事地理的重要性も、当時としてはけたはずれに低い島々を日本に譲り、エトロフ島以南の元からの日本領と合わせて、千島全島を日本領とすることになった。

 一八七六年二月、朝鮮に日朝修好条約をおしつけ、ついでその付属貿易規則をおしつける。これは、強大なロシアに、領土的利益と国家的威信をともにむしり取られた代償を、弱小の隣国の侵略に見出そうとしたことであり、また前述のように「琉球処分」の推進と切りはなせない。

 一八七六年十月、小笠原諸島を日本政府の管轄とすることを、諸外国に通告した。同島については、イギリスとアメリカが、幕末に無主地の先占による領有権を主張し、日本と対立していた。近代国際法理論のみからいえば、英・米の主張にも、日本におとらないだけの根拠があったので、英・米があくまでもその権利を主張すれば、日本がここを独占することは不可能であったろう。しかし、アメリカ政府はその当時は、遠隔の地に領土をもつことは不利であるとの思想が強く、一八七三年には、小笠原島に関する領有権の主張を全面的にとりやめて日本を支持した。イギリスはなおその権利を主張していたが、これも、その全アジア政策の長期展望に立って、太平洋の小島のことで日本と深く対立するよりも、ここは譲って、日本をイギリスの味方にひきつけ、東アジアにおける大英帝国の前哨として利用する方が有利であると考え、七五年から日本の主張を遠まわしの方法で、みとめた。そのおかげで日本はこの領有権を確立(註)し、上記の通告が可能になった。

(註)このことは、『日本外交文書』第五〜九巻(明治五〜九年)の、小笠原島関係の文書をみれば容易に確認できよう。幕末の幕府と英・米との交渉は、大熊良一『千島小笠原島史稿』を参照。

 上の年代記で明らかな通り、天皇政府は、ロシアやイギリスやアメリカとは対抗できず、これらには全面的に譲歩するか、またはその好意に頼っただけであり、その反面では、朝鮮国、清国および琉球国へは、一貫して強圧、拡張の政策をとって、自己の支配領域を拡張しようとした。しかし、実力の不足はどうしようもない。いったんはむりやり中国との関係を断ち切らせ、「処分」=併合した旧琉球王国領についても、ある条件のもとでは、その一部分を清国にゆずろうとしていた。この琉球分島問題は、釣魚諸島の帰属問題と、この時点では関連はないが、後には重要な関連をもってくるので、かんたんにこの経過をのべておこう。

 日本の「琉球処分」に対しては、琉球王国を数百年来の属国とみなしていた清国は、日本が琉球王の朝貢をさしとめたときから、抗議していた。そして七九年四月四日、日本が完全に琉球を併合すると、五月十日、清国政府は北京駐在の日本公使宍戸(王+幾 たまき)に、日本の処置は承認できないと申し入れた。これより琉球の領有について、日清両国間の一年半にわたる交渉がはじまる。その間に、たまたま東アジアを旅行中のアメリカの前大統領グラントが、清国の依頼により、日清間の調停をこころみたこともあり、まず清国側から、本来の琉球−−「琉球中山」=沖縄本島および「琉球三十六島」−−を三分し、北部の十七世紀以来島津藩に直轄されていた奄美群島を日本領とし、中部の沖縄本島を主とする群島は、元の琉球王の領土として王国を復活させ、南部の宮古・八重山群島は清国領とするという、琉球三分案を出した。

 日本側はこれを一蹴した。それと同時に政府は、琉球を清国との取引きの元手にすることを考えた。すなわち、もし清国がすでに諸外国にあたえている、また将来他国にあたえるであろう「通商の便宜」−−清国内地通商の自由その他−−を、日本人にも一律に均霑(きんてん)させることに同意し、そのことを現行の日清修好条規の追加条約とするならば、その代りに日本は、宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領として、琉球を二分しようというのである。

 このいわゆる「分島・改約」の日本案に対して、清国政府内では、種々の異論があった。そのときたまたまロシアとの間に、伊犁(いり)地方の国境紛争がおこったので、清国の総理衙門では、琉球問題は日本に譲歩して早く解決し、日清関係を親密にしてロシアを孤立させる方が得策であるとの意見が有力になった。その結果、一八八〇年十月、総理衙門は宍戸公使と、日本案による分島・改約の条約案を議定した。

 ところが、この後で、清国政府内で、またも北洋大臣李鴻章らが強硬に分島・改約に反対した。そのため清国代表は議定した条約案に調印できなくなった。そのうちに十一月一日、中国側は宍戸公使に、分島・改約案については、皇帝が南洋・北洋の両大臣の意見を待った上で、改めて日本側に通告するであろう、といってきた。 宍戸はその不当を責め、翌一八八一年一月五日、中国側に、「貴国はわが好意をしりぞけて、すでに両国代表間で議定したことを、自ら棄てたからには、今後は永遠に、我国の琉球処置について貴国の異議はうけいれない」との趣旨の文書をたたきつけ、憤然として帰国した。

 (註)『日本外交文書』第一三、一四巻「琉球所属に関し日清両国紛議一件」。王芸生『六十年来中国与日本』第一巻。

 琉球分界の日清交渉はこうして決裂したが、日本政府はこのときはまだ、宍戸公使が清国にたたきつけた文書のように、今後琉球問題についてはいっさい清国にとりあわないとの方針を定めていたわけではなかった。宍戸の帰国後も、外務卿井上馨は、天津駐在領事竹添進一郎に、李鴻章と非公式に会談してその腹をさぐらせた。竹添は八一年十二月十四日、李と会談し、その様子を詳細に本省に報告するとともに、李の真意は、宮古・八重山二島を得て、そこに琉球王を復活させたいというにある、日本は李の希望をいれ、その代り日清修好条規の改約を実現するのが上策である、今をおいて日清条約改正の好機はない、と意見具申した。これに対して井上外相は、翌一八八二年一月十八日、竹添領事に、ひきつづき李の意向をさぐるよう訓令し、また政府の分島問題についての次のような考えを知らせた。(『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」付記一六)

 宮古・八重山二島を割与するだけで李が満足するなら、「土地ノ儀ニ付テハ当方ニ聊カモ異議コレ無ク候」、また琉球王を立てるというのが、日本の割与した二島に、清国政府が旧琉球王尚泰の親類または子を立てて王とするということなら、これも「別ニ異議ナシ」。しかし、日本がいったん廃王した尚泰その人を、再び日本で王に立てることはできない。

 この後の竹添と李との非公式話し合いの進行状況はわからないが、結果からみると、井上外相の右の考え方の線により再び日清の正式交渉ということにはならなかった。

 ついで、八三年三月、日本政府は来る四月二十九日で満期になる、日清修好条規付属の貿易規則の改定交渉を清国に申し入れた。これに対して五月、清国の駐日公使は井上外相に、日本はこの改約と琉球問題とを一体にして交渉するかどうか、と問うてきた。それに対して外相は、つぎのように答えている。

 琉球問題は、「前年宍戸公使ヲシテ貴政府ト和衷ヲ以テ御商議ニ及バセ候処、貴政府ニテ御聴納コレ無キヨリ、事スデニ九分ニ及ンデ一分ヲ欠キ居候」、この問題と、満期になった貿易規則の改定とは全く別のことであり、当然別に交渉すべきであると、わが政府は考える(『日本外交文書』第一六巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」)。

 この通り、井上外相ないし日本政府も、琉球問題はまだ最終的に解決していないことを認めていた。いいかえれば、八〇年に日清両国代表が議定した分島・改約案に、清国政府がすみやかに調印しないので、以後の交渉を日本側がうち切ったことをもって、その時から琉球全島が日本の独占となったと確定したのではない。琉球問題はまだ交渉すべき懸案であると、日本政府も認めていたのである。

 井上外相の右の回答をうけた清国側は、琉球問題と一体としない貿易規則改定のみの交渉には応ぜず、そのまま一八八六年に至った。この年は、日本の対欧米条約の改正交渉が進行していたので、井上外相は、その交渉を有利にするために、日清条約の改正の促進を強く希望し、三月、公使として北京に赴任する塩田三郎に、現行の日清条約改正の交渉方を訓令した。そのさいとくに、条約改正に琉球問題を決してからめないよう、入念に注意した。塩田公使は四月二十二日から、清国側と条約改正の交渉をはじめた。清国側は、しばしばその交渉に琉球問題をからめてきたが、日本側はそれをたくみにすりぬけた(註)。こうして琉球領有権に関する日清間の対立は、そのまま放置されて、八年後の日清戦争に至る。

 (註)『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程ニ関スル件」。なお条約交渉は一八八八年(明治二十一年)九月までつづけられる。その交渉で、日本は欧米なみの地位・権利を得て清国に優越しようとするが、清国は多くを譲歩しないので、日本の方から交渉を打ち切った。

 日本はこのとき、対欧米の条約改正交渉を有利にするために、中国に対して欧米諸国なみの優位に立つ新しい日清条約を結ぶことを望んでいたが、しかも、その日清条約交渉と、琉球分島の問題とをきびしく切り離したのは何故であろうか。八〇年の日清交渉では、琉球を日清間で分割する代償に、条約改定をかちとろうとしたし、その後も清国側は、分島すれば改約に応ずる意向を原則的には変えていないこと、したがって早く改約するには、それと分島をからめるのが有利であることは、井上外相も承知していながら、あえて八三年以来は、両者を切り離したのは何故か。

 その理由は、すでに、天皇政府は、きわめて近い将来の日清戦争を予期し、その準備を精力的に進めており(註)、清国ともっとも近い琉球の南部を、清国に渡すことはもはや決してできなかったからであろう。ここが清国領になれば、それは、戦争のさい清国が日本を攻撃する有力な根拠ともなり、日本がここを領有すれば、清国本土の南部や台湾への進攻根拠地にもできるのに、どうしてここを譲ることができよう。いま急いで譲ったりしないでも、近い将来には、日本の全琉球独占の既成事実を清国はいやでも認めざるを得なくなると、政府は考えたことであろう。

 沖縄がもっぱら軍事的見地から重要視されていたことは、たとえば日清戦争中の一八九五年一月、貴族院で「沖縄県々政改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも、討論でも、「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」ということのみくり返し強調され、その要地の県政を改革して「海防に備へねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれている(琉球政府編『沖縄県史』四、「教育」第六編第二章。『大日本帝国議会誌』)。

 (註)天皇政府は早くから「征韓」をめざし、そのために清国との対立を深めていたが、一八八二年朝鮮の壬午事変(朝鮮兵士の朝鮮政府および日本人軍事教官に対する叛乱とソウル市民の反日闘争が結合した事件)の直後から、朝鮮の支配権をめぐって清国との戦争をめざした軍備大拡張とそのための大増税をはじめる。さらに一八八四年十一月、朝鮮で、日本と結びついた金玉均ら開化党がクウデターで政権をとるが、わずか三日で、清国に支援せられた朝鮮保守派の反撃でつぶされ、ソウルの日本公使は生命からがら日本へ逃げ帰った。これより日清両国の朝鮮出兵となり、日清戦争の危機が切迫した。しかし、このときは、まだ日本政府は戦争する自信がなかったので、翌八五年四月、首相伊藤博文が自ら全権使節として天津に行き、李鴻章と談判して、「天津条約」を結び、日清両国の朝鮮からの同時撤兵、今後の朝鮮出兵は相互に通告することなどをきめた。これより天皇政府は、対清戦争準傭のために軍備、政治、外交、財政、思想、そのほかあらゆる方面で、国力をかたむける。

 政府の日清戦争準備の影は、沖縄県そのものにも濃くうつされる。井上外相が、日清条約改正交渉では、それに琉球問題をからませることを断乎として拒否したのと同じ八六年三月、「大日本帝国」の軍隊をつくりあげてきた最高の指導者であり、対清戦争のもっとも熱烈な推進者であり、時の内務大臣でもある山県有朋中将が、天皇の侍従をしたがえて、沖縄の視察に行った。その翌八七年四月には、沖縄県知事に長州出身の予備役陸軍少将福原実が任命された。沖縄の知事に軍人が任命されたのはこれが初めてである。そしてその秋十一月には、首相伊藤博文が、陸軍大臣大山巌、海軍軍令部長仁礼(にれ)景範らを従え、当時の日本最精鋭の軍艦三隻をひきいて、六日間も沖縄を視察した。伊藤はこのとき「命ヲ奉ジテ琉球ヲ巡視ス」と題する漢詩をつくっている。その句に曰く「誰カ知ル軍国辺防ノ策、辛苦経営ハ方寸ノ中(註)」と。こううたった伊藤はもとより、内相の肩書の山県中将の琉球視察も、対清戦争準備のためであることは疑いない。

 (註)比嘉春潮『沖縄の歴史』(一九五九年、沖縄タイムス社刊)

 その準備があらゆる面ですっかり完了し、しかも清国には対日戦備は思想的政治的には全然なく、軍備もようやく近代化に着手したばかりというとき、一八九四年七月、日本は、イギリス帝国主義の支援とはげましをうけて(註)、宣戦布告もせず、二十五日、海軍が豊島沖で清国艦隊を不意打ちし、二十九日、陸軍が朝鮮の牙山・成歓で清国陸軍を不意打ちして、対清戦争を開始した。その後で八月一日、ようやく宣戦を布告した。

 (註)井上清『条約改正』(岩波新書)に詳述した。

 戦争は従来の国家関係の断絶であるから、開戦とともに自動的に、交戦国間のすべての条約も懸案も消滅する。そして戦後には講和条約にもとづき、新しい国家関係がつくられる。日清戦争で勝利した日本は、下関の講和条約にもとづいて、政府が年来希望していた以上に日本の特権を定めた、新しい通商条約・貿易規則などを清国にのみこませた。

 琉球問題も、日清開戦と同時に、もはや名実ともに両国の懸案ではなくなった。下関講和会議でも、日本側はもとより清国側も、琉球のことは何ら問題にしなかった。したがって、講和条約にも、琉球に関することが一字も書かれるはずもない。すなわち、日清両国の新関係の創出=講和のさい、日本がそれまでに琉球につくりあげていた既成事実に対して、清国が何らの異議も出さなかったことによって、その既成事実は確立された。いいかえれば、日本は日清戦争の勝利によってはじめて、清国の琉球に対するいっさいの歴史的権利・権益を最終的に消滅させ、日本の琉球独占を確立したのである。

一一 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
 朝鮮・中国に対する侵略戦争の準備強化との関連で、天皇政府が琉球を重視し、その全島を日本の独占とする方針を確定した後の一八八五年(明治十八年)、はじめて琉球と、中国本土の間の海に散在する釣魚諸島が、天皇政府の視野に入ってきた。

 これより先一八七九年、琉球藩が沖縄県とせられた直後に、福岡県出身の古賀辰四郎という冒険的な小資本家が、さっそく那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに一八八五年(註)、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出たらしい。

 (註)従来、古賀は「明治十七年」(一八八四年)にこの島を「発見」し、翌八五年沖縄県庁に、この島で営業するために借地願いを出したといわれているが、明治二十八年(一八九五年)六月十日付で古賀が内務大臣に出した「官有地拝借願」には、「明治十八年沖縄諸島ヲ巡航シ舟ヲ八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ……」という。前掲『沖縄』五六号)

 「尖閣列島」は無主地の先占による合法的な日本領であると主張する、琉球政府や日本共産党その他は、もっぱら、古賀の釣魚島「開拓」という、平和的経済的な動機から同島の日本領有が進められたかのようにいう。一八八五年に政府がこの島に目をつけるにいたった直接のきっかけは、あるいは古賀の「開拓」願いが出されたことにあったかもしれないが、政府がここを日本領にとりこもうとしたのは、たかがアホウ鳥の羽毛を集めるていどのことのためではなく、この地の清国に対する上での軍事地理的意義を重視したからであった。そのことは、一八八三年以来の政府の琉球政策が何よりもまず軍事的見地からのみたてられ実行されてきたことから、容易に類推されるし、また八五年以降の釣魚諸島領有の経過の全体をみれば、いっそう明白となる。

 琉球政府や日共は、八五年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令した。それに対して、沖縄県令は八五年九月二十二日次のように上申している。

 「第三百十五号
     久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
 本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず−井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。

 果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向ケ出帆ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢へズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指揮ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也

  明治十八年九月二十二日
           沖縄県令 西村捨三
   内務卿伯爵 山県有朋殿」

 この上申書によって、いくつかの重要なことがわかる。

 第一に、内務省は沖縄県に、福州・琉球間の無人島の「取調べ」を「内命」したのはなぜか。なぜ公然と正式に命令しなかったか。

 第二に、ここには、それらの島に「国標」=日本国の領土であるとの標柱を建設する問題が出されているが、これは沖縄県が言い出したことか、内務省が言い出したことか。

 この二つの問題は関連する。国標取建ては、上申書の文脈から見て内務省の発案にちがいない。内務省−−内務卿は天皇制軍国主義の最大の推進者山県有朋である−−は、琉球をもっぱら軍事的見地から重視するとともに、その先の島々も日本領とする野心をいだき、その実現のために必要な調査を沖縄県に命じた。ただし、事が国際関係にふれ、日本と清国がはげしく対立している現状で、公然と正式に命令すると、どういう障害がおこるかわからないので、「内命」したのであろう。

 第三に、この内命をうけた沖縄県では、「久米赤島」などを日本領とし沖縄県に属させてもよさそうなものだが、必ずしもそうはいかない、とためらっている。その理由は、これらの島々が『中山傳信録』に記載されている釣魚島などと同じものであると思われるからである。同じものとすれば、この島々のことはすでに清国側でも「詳悉セル(くわしく知っている)ノミナラズ、各々名称ヲモ附シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ」。つまり、これは中国領らしい。「依テ」この島々に、無主地であることの明白な大東島と同様に、実地踏査してすぐ国標を建てるわけにはいかないだろう、としたのである。

 沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも八〇〜八二年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。

 これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。

 「十月廿一日発遣
 親展第三十八号
           外務卿伯爵 井上 馨
  内務卿伯爵 山県有朋殿

 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第八十三号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周回モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候。
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」

 この外務卿の回答は、山県内務卿とはちがって、清国との関係を重視している。山県は、たとえ中国が島名をつけてあっても、(1)中国領であるとの証跡がなく、(2)島の名称は、日本と清国でちがうというだけのことで気にすることはない、そして(3)八重山に近い、(4)無人島であるから、日本領にしよう、というのだが、井上外務卿は、そういう論点には一つも同意しないばかりか、かえって、(1)それらの島は沖縄に近いと同様に中国の「国境」(中国本土のこと)にも近いことを強調し、(2)ことに清国ではその名をつけていることを重視する、(3)清国人は、日本が台湾近くの清国の島(釣魚諸島もその一つである)を占領することを警戒し、日本を疑っている。こういうさいだから、いま国標をたてるのは反対であるという。

 つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとするという原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出さなかった。

 ついで同年十一月二十四日付で、沖縄県令から内務卿ヘ、かねて命令されていた無人島の実地調査の結果を報告し、かつ、「国標建設ノ儀ハ、嘗テ伺(うかがい)書ノ通リ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相済マザルニ付キ、如何取計(はか)ライ然ルベキヤ」、と至急の指揮をもとめた。これに対しては、内務・外務両卿の連名で、十二月五日、「書面伺ノ趣、目下建設ヲ要セザル儀ト心得ベキ事」と指令した。

(註)以上の沖縄県、内・外両卿の往復文書はすべて、『日本外交文書』第一八巻「雑件」中の「版図関係雑件」にある。また前掲の『沖縄』五六号にもある。

 以上の政府文書により、一八八五年の政府部内および沖縄県の釣魚諸島領有をめぐる往復は、(1)まず内務省が、この地方領有の意図をもって沖縄県にその調査を内命したこと、(2)沖縄県は、ここは中国領かもしれないので、これを日本領とするのをためらったこと、(3)しかもなお内務省は領有を強行しようとしたこと、(4)外務省もまた、中国の抗議を恐れていますぐの領有には反対したこと、(5)その結果内務省もいちおうあきらめたこと、を示している。

 ところが琉球政府の例の声明「尖閣列島の領土権について」は、「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十七年頃から古賀辰四郎氏が、魚釣島、久場島などを中心に、アホウ鳥の羽毛、綿毛、ベッ甲、貝類などの採取等を始めるようになった。こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています」という。 これは、どんなに事実をねじまげていることか。

 第一に、内務卿が先に沖縄県知事に釣魚島の調査を内命したことをかくし、第二に、沖縄県はここが清国領であるかもしれないからとの理由で国標建設をちゅうちょする意見を上申しているのに、それをあべこべにして、沖縄県から現地調査にもとづいて国標の建設を上申したようにいつわる。しかも第三に、古賀の釣魚島における事業の発展が、沖縄県の国標建設上申の機縁となっていることにしているが、このときはまだ古賀の事業は計画段階である。第四に、内務卿の意見に外務卿が、清国との関係悪化のおそれを理由に反対し、そのため内務卿もこのさいはあきらめざるをえなかったことを、すっかりかくしてしまっている。そして第五に、沖縄県が出雲丸による現地調査の結果を報告した同年十一月の「伺」でも、同県は重ねて、釣魚諸島に国標をたてることは、「清国トノ関係ナキニシモアラズ」としてためらっている。このこともすっかりかくしてしまい、たんに九月に現地調査をすると届け出たことのみしか書かない。その書き方も、調査結果を届け出て、それにもとづいて国標建設を上申したといわんばかりである。歴史の偽造もはなはだしい。

 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着着と進行した。その間に、古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして一八九〇年(明治二十三年)一月十三日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、十八年十一月五日第三百八十四号伺ニ対シ、同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第二三巻、「雑件」)

 沖縄県のこの態度は、八五年とはまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締りを理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、内務省社寺局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要しひろめるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀の事業取り締りを口実に、ここを日本領にとりこもうと積極的に動いたのであろう。

 これに対する内務、外務両省の協議の文書は見えないが、政府が何の指令もしなかったことは、次の節にかかげる明治二十七年(一八九四年)十二月二十七日付、内務大臣より外務大臣への協議書で知られる。

 さらにおどろくべきことに、日清戦争の前の年一八九三年(明治二十六年)十一月二日、沖縄県知事−−薩摩出身の有名な軍国主義者で沖縄人民をもっとも苛酷に圧制した、悪名高い奈良原繁−−は、一八九〇年一月の上申と同じ趣旨で、「魚釣島」(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を同県の所轄とし、標杭を建設したい旨を、内務、外務両大臣に上申した。これに対しても、両大臣は九〇年の上申に対するのと同様に、一年以上も何らの協議もしなかった(註)。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「版図雑件」の「付記」「久米赤島、久場島及ビ魚釣島版図編入経緯」と題する文書に、「明治二十六年十一月二日、更ニ沖縄県知事ヨリ、当時ニ至リ本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者有ルニ付キ、之ガ取締ヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄ト為シ、標杭建設シタキ旨、内務外務大臣へ上申アリタリ、依テ二十七年十二月二十七日、内務大臣ヨリ……外務大臣へ協議……」とある。これで、二十六年十一月の沖縄県の上申は、一年以上も政府によって放置せられていたことがわかる。

 それのみでない、日清戦争が始められる明治二十七年になってもまだ、開戦前か後かわからないが、いずれにしても日本の清国に対する戦勝が確実になる以前のことであるが、例の古賀辰四郎が、釣魚島開拓の許可願いを沖縄県に出したところ、県は「同島の所属が帝国のものなるや否や不明確なりし為に」、その願いを却下した。そこで古賀は、「さらに内務・農商務両大臣に宛て請願書を出すと同時に、上京して親しく同島の実況を具陳して懇願したるも」、なお許可せられなかった。

 右のことは、『沖縄毎日新聞』の明治四十三年(一九一〇年)一月一日−九日号に連載された、「琉球群島における古賀氏の業績」という、古賀をたたえる文(註)中に書かれているが、もしも政府が、釣魚島を無主地と本心から見なしていたら、すでに対清戦備はほとんど完了している、あるいは開戦後かもしれないこの時点でもなお、同島の帰属不明ということで、古賀の請願を許可しない理由はないはずである。政府は、実はそこを中国領と知っていればこそ、まだ中国を打ち破っていないうちは、なおも慎重を期していたのであろう。

 (註)この新聞記事は、那覇市編集『那覇市史』史料篇第二巻に収録。

 天皇政府はこうして、一八八五年に釣魚諸島を中国から奪う腹をきめながら、そのための「他日ノ機会」を、九年間うかがいつづけた。

一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
 政府が古賀の懇願をしりぞけてまもなく、九年このかた待ちに待っていた、釣魚諸島略奪の絶好の機会がついに到来した。宣戦布告に先立つ日本軍の清国軍不意打ちで火ぶたを切った日清戦争で、日本の勝利が確実になった九四年末こそ、その機会であった。このとき天皇政府は断然、釣魚諸島を日本領とすることにふみ切った。まず十二月二十七日、内務省から外務省へ、去年十一月の沖縄県知事の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである(傍註は『日本外交文書』編者のもの【都合上傍註は内記載に変更した:巽】 )。

 「秘別第一三三号
 久場島、魚釣島へ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候へドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也

  明治廿七年十二月廿七日
          内務大臣子爵 野村 靖(印)
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。

 「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ、之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ、右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス。 右閣議ヲ請フ」

 この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。

 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて一八九五年(明治二十八年)一月十一日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月二十一日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」(註)と指令した。

 (註)『日本外交文書』第二三巻、「八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニ関スル件」の「付記」。

 八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。

 明治十八年と二十七年との「事情の相異」とは何か。十八年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、二十七年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締りの必要を感じさせるようになった、ということであろうか。それも「事情の相異」の一つとはいえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治二十三年にははっきりしている。その相異を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに四年以上もすごした。さらに二十六年十一月に、沖縄県が前と同じ理由で重ねて標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が二十七年十二月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として一年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、九年前と今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

 明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめてはいない。さらに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよりのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していたわけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実となり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定している。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する「事情」の、以前といまとの決定的な「相異」である。

 日清戦争は、陸でも海でも日本軍の連戦連勝であった。九四年九月、日本陸軍は朝鮮の平壌の戦闘で、海軍は黄海の海戦で、いずれも決定的な勝利をかちとった。つづいて陸軍の第一軍は、十月下旬までにことごとく鴨緑江を渡り、十一月中旬には大東溝・連山関を攻略、第二軍は、十月下旬に清国遼東半島の花園口に上陸、十一月上旬に金州城を奪い、大連湾砲台を攻略し、同月二十一日には連合艦隊と協力して旅順口をも占領した。この間に海軍は、清国海軍の主力北洋艦隊を、渤海湾口の威海衛にひっそくさせた。

 戦局の推移を注目していたイギリスは、早くも十月八日、駐日公使をして、日本政府に講和の条件を打診させた。そのころから政府は、日本の圧倒的勝利を確信し、清国から奪い取るベき講和条件の具体的検討をはじめた。その重要条件の一つは、台湾を割譲させることであった。

 清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめて早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻章も、早く講和するほかないことをさとった。

 この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分れた。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。

 このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。その要旨は次の通りである。

 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行なうべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだげの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよという声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)。

 大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終った。この間に台湾占領作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。

 天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の「疑惑ヲ招キ」紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてても、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するまでのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここを清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、ここは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとしてもふしぎではない。

 釣魚諸島を沖縄県管轄の日本領としようという閣議決定は、このようにして行なわれた。しかるに本年三月八日の外務省の「尖閣列島」の領有権に関する「見解」は、「尖閣列島は、明治十八年以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行ない……」という。これがいかにでたらめであるかは、本論文のこれまでの各節によって、まったく明白であろう。

 明治政府が釣魚諸島の領有に関して現地調査をしたことは、一八八五年の内務大臣内命による沖縄県の調査があるだけである。しかもその調査結果を内務省に報告したさいの沖縄県令の「伺」は、「国標建設ノ儀ハ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相スマズ」と、この島に対する清国の権利を暗にみとめて、国標の建設をちゅうちょしている。すなわち沖縄県の調査の結果は、この島の日本領有を正当化するものにはならなかった。この後政府は改めてこの地の領有権関係の調査をしたことはない。したがって、これらの島々に「清国の支配が及んでいないことを慎重に確認した」というのも、まったくのうそである。そんなことを「慎重に確認した上で」、釣魚諸島領有の閣議決定はなされたのではない。一八八五年には清国の抗議を恐れなければならなかったが、いまは対清戦争に大勝利をしており、台湾までも奪いとる方針を確定しているという、以前と今との決定的な「事情の相異」を、「慎重に確認」した上で、九五年一月の閣議決定はなされたのである。

 閣議決定とそれによる内務省から沖縄県への指令(一月二十一日)は、日清講和条約の成立(九五年四月十七日調印、五月八日批准書交換)以前のことである。したがって、いま政府がいうように、その閣議決定によって釣魚諸島の日本領編入が決定されたとすれば−−閣議で領有すると決定しただけでは、現実に領有がなされたということにはならないが、かりにいま政府のいう通りだとすれば、それらの島は、日清講和条約第二条の清国領土割譲の条項によって日本が清国から割き取ったものには入らない。しかし、講和条約の成立以前に奪いとることにきめたとしても、これらの島々が歴史的に中国領であったことは、すでに十分に考証した通りである。その中国領の島を日本領とすることには、一八八五年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、九五年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。

 すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである。

一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
 日本が「尖閣列島」を「領有」したのは、時期的にたまたま日清戦争と重なっていただけのことで、下関条約によって台湾の付属島嶼として台湾とともに清国に割譲させたものではない、したがってこの地はカイロ宣言にいうところの、「日本国が清国人から盗取した」ものではない、というものがある。たとえば日本共産党の「見解」がそれである。たしかに、この地は下関条約第二条によって公然と正式に日本が清国から割き取ったものではない。けれども、この地の日本領有は、偶然に日清戦争の勝利の時期と重なっていたのではなく、まさに日本政府が意識的計画的に日清戦争の勝利に乗じて、盗み取ったものである。このことは、本論の前二節に詳述した、一八八五年以来の本島の領有経過によって明白である。

 朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(一九七二年三月二十日)は、もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、このさい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなかろうか」という。

 しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。

 また、第二次大戦後の日本の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との間の領土問題の処理は、まだ終っていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は会議に招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから−−当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している−−その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまっているわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第二三巻の刊行ではじめて公開された。

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

 (註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領土に編入したといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。

 釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の一九七〇年九月十日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治二十八年一月十四日の閣議決定をへて、翌二十九年四月一日、勅令第十三号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。

 これは事実ではない。「明治二十九年勅令第十三号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。

 「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ、茲(ここ)ニコレヲ公布セシム。

  御名御璽

 明冶二十九年三月五日

        内閣総理大臣侯爵 伊藤博文

        内務大臣     芳川顕正

  勅令第十三号

第一條 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス。

 島尻郡  島尻各間切(まきり)、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及ビ大東島

 中頭郡  中頭各間切

 国頭郡  国頭各間切及ビ伊江島

 宮古郡  宮古諸島

 八重山郡 八重山諸島

第二條 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定ム。

  附則

第三條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」

 この勅令のどこにも、「魚釣島」や「久場島」の名はないではないか。むろん「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球政府の七〇年九月十七日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の『八重山諸島』に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。……同時にこれによって、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」という。

 これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧琉球王国領でもないことは、百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事実を打ち消すことはできない。

 じっさい、この勅令は、もともと釣魚諸島の管轄公示とは何の関係もない、沖縄県に初めて郡制を布く(これまで郡制は沖縄県にはなかった)ということの布告にすぎないのである。

 釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あるいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成立していない。

 明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土としたばあいには、その正確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。釣魚諸島を奪いとる四年前、一八九一年(明治二十四年)、小笠原島の南々西の元無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に次のように協議した。

 「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分ヨリ同二十五度三十分、東経百四十一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶼ハ、元来無人島ナリシガ、数年来、内地人民ノ該島ニ渡航シ、採鉱、漁業ニ従事スル者コレ有ルニ付キ、今般該島嶼ノ名称、所属ニ関シ、別紙閣議ニ提出ノ見込ニコレ有リ候。然ルニ右ハ国際法上ノ関係モコレ有ルベシト存候ニ付キ、一応御協議ニ及ビ候也。」

 「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠原島ノ所属トシ、其ノ中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ、其ノ南ニ在ルモノヲ南硫黄島、其ノ北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と、その所属と島名の案も示してある。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治二十四年九月九日付勅令第百九十号として、『官報』に、その位置、名称及び所管庁が公示された。さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた(『日本外交文書』第二四巻「版図関係雑件」、『新聞集成明治編年史』)。

 さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づけて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。

 (註)この「竹島」を日本領としたことは、朝鮮国領土の略奪であると朝鮮側が主張していることは、周知のことであろう。私はまだこの問題を十分に研究していないが、この領有は無主地の先占であるという、自民党調査役大熊良一の「竹島史稿」の説には、大いに疑問をもっている。

 「竹島」領有の経過を詳述した自由民主党調査役大熊良一は次のようにのべている。「このような(竹島領有のばあいのような)閣議決定の領土編入についての公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年いらい明治政府によってとられてきた慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本国領土に編入された事例が多くある。硫黄島(一八九一年)や南鳥島(一八九八年)さらに沖の鳥島(一九二五年)などの無人の孤島が、日本国の領土に編入され、それが国際的にも認知されるに至った公示の手続きは、すべてこの竹島の国土編入の手続きと同じように、地方庁たる府県告示をもって行なわれたのである。」(硫黄島は前記の通り、勅令で公示されている−−井上)

 帝国主義支配政党である自由民主党調査役でさえ、この通り、新領土編入の場合にはその公示を必要とすることをみとめているが、釣魚諸島の領有についてだけは、それがまったく行なわれていない。日本政府は、この島々の緯度・経度も、名称も、所轄も、どんな形式によっても、ただの一度も公示せず、すべて秘密のうちに、日清戦争の勝利に乗じて、勝手に、いつのまにか日本領ということにしてしまった。これを窃かに盗んだといわずして何といおう。

 こういう次第であるから、現在政府や日本共産党や諸新聞が「尖閣列島」と称している島々の地理的範囲も、どこからどこまでのことか、いっこうにはっきりしない。またその「列島」内の個々の島の名称も、政府部内においてさえ、海軍省と内務省系統とはよび名がちがう。このことはすでに本論文の第七、八節でくわしくのべた。也国の領土を、内心ではそうと気づきながら、「無主地」だなどとこじつけ、こっそり盗みとるから、その「領有」を公示もできず、その「領有」の年月日も、その地域の正確な範囲も、位置も、その名称すらも一義的に確定できないのである。

 これが、彼らのいう「無主地の先占」の要件を一つも充たしていないことは、彼らが「硫黄島」や「竹島」を領有したしかたとくらべてみれば、誰にもすぐわかるであろう。

 釣魚諸島は本来無主地ではなく、れっきとした中国領であった。この地に「無主地の先占」の法理を適用すること自体が本来不可能であるが、かりに無主地であったと仮定しても、その「先占」なるものも、この通り日本領編入を有効に成立させるのに必要な法的手続きを行なっていない。真の無主地を、あるいは本気で無主地と信じている土地を、何らの悪意もなく領有するのではなく、内心では中国領と知りながら、戦勝に乗じてそこをかすめとるから、こういうことにならざるをえないのである。これはどうりくつをつけてみても、合法的な領有とはいえない。

 一八九五年、日清講和条約第二条で、台湾を日本が領有すると、ただちに、台湾の南側と、当時はスペイン領であったフィリピン群島との境界を、スペイン政府が問題にした。これについては、日本とスペイン両国府の交渉があり、同年八月七日の両国政府共同宣言(註)で、「バシー海峡ノ航行シ得ベキ海面ノ中央ヲ通過スル所ノ緯度平行線ヲ以テ、太平洋ノ西部ニ於ケル、日本国及ビスペイン国版図ノ境界線ト為スベシ」ということ、その他が決定され、日本領台湾とフィリピンの境界は明確にされた。

 (註)『日本外交文書』第二八巻第一冊「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両国宣言書交換ノ件」。

 また同じ下関条約で日本が領有することになった、台湾の西側の澎湖列島の範囲については、条約にその緯度・経度が明示されていたから、これと中国その他の領土との境界も、はじめから明確であった。

 ただ、台湾およびその付属島嶼の北側と東側の境界については、講和条約に何の規定もなく、また、それに関する清国と日本との別段の取りきめも行なわれなかった。清国政府は、台湾はおろか本土の要地遼東半島までも一時は日本に割譲をよぎなくされるほどの敗戦の打撃で、いまだ一度も放棄したことのない琉球に対する清国の歴史的権利を主張する力さえ失っていた。まして琉球と台湾の中間にあるけし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったであろう。日本政府はそれをもっけの幸いとして、琉球に関する中国のいっさいの歴史的権利を自然消滅させるとともに、かねてからねらっていた釣魚島から赤尾嶼に至る中国領の島々をも、盗み取ってしまったのである。

一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
 日本政府や日本共産党が、どんなに歴史を偽造し、ねじまげ、事実をかくし、帝国主義の国際法なるものをもてあそんでも、中国の領土は中国の領土であり、日本が盗んだものは盗んだものである。

 したがって、日本が第二次世界大戦に敗れ、中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した一九四五年八月十五日(降伏文書に正式調印したのは九月二日)から、釣魚諸島は、台湾・澎湖列島や「関東州」などと同じく、自動的にその本来の領有権者である中国に返還されているはずである。なぜなら、ポツダム宣言は、降伏後の日本の領土に関して、「カイロ宣言の条項は実行される」と定めてあり、そのカイロで発せられた中国、イギリス、アメリカの三大同盟国の共同宣言は、「三大同盟国の目的は……満洲、台湾、澎湖島のような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を、中華民国に返還することにある」とのべているから(カイロ宣言中の「中華民国」は現在では、全中国の唯一の政権である中華人民共和国と読み替えるべきである)。

 釣魚諸島を盗み取った一八九五年以後に、日本政府がここを国内法的にどうあつかい、ここにどんな施設をしようとも、また古賀辰四郎が一八九六年九月、多年の宿願を達して釣魚全島を政府から「借地」し、そこで事業を盛大に営んだとしても、それらのことは、現在この島を日本領とする根拠には、まったくなり得ない。また、日本が盗み取っていた期間に、中国からそれについて一度も抗議が出なかったとしても、そのことは、「日本国が清国人から盗取したすべての地域」は中国に返還されなければならないという、カイロ宣言の実行を規定したポツダム宣言の効力に、何の影響もあたえるものではない。

 さらに、また日本が連合国に降伏した一九四五年八月以後も、アメリカ帝国主義が琉球列島とともに中国領釣魚諸島を占領しつづけ、さらに一九五二年四月二十八日発効のサンフランシスコ講和条約で、釣魚諸島をもひきつづき米軍の支配下に置くことが定められたことも、それらの島が歴史的に中国領であるという事実をすこしも変更するものではない。したがって現在、アメリカ政府から、釣魚諸島の「施政権」が、「南西諸島」の米軍施政権にふくまれるものとして、日本に「返還」されても、そのことによって、釣魚諸島があらためて日本領になるのではない。どこまでいっても、中国のものは中国のものである。

 それにもかかわらず、あらゆる歴史の真実と国際の正義にさからって、日本帝国主義は釣魚諸島を、いま、「尖閣列島」の名で、再び中国から奪い取ろうとしている。そして中国が、釣魚諸島はずっと昔から中国の領土である、この不法略奪はゆるさない、と正当な主張をすれば、日本政府のみならず、軍国主義・帝国主義に反対と自称する日本共産党も日本社会党も大小の商業新聞も、ことごとく、完全に帝国主義政府に同調して、何らの歴史学的証明もせず、高飛車に、ここが歴史的に日本領であることは自明であるとして、日本人民を、にせ愛国主義・排外主義・軍国主義の熱狂にかりたてようとしている。

 かつての天皇制軍国主義は、その最初の海外侵略のほこ先を、イギリスまたはアメリカにはげまされ、支持され、指導までされて、まず朝鮮・台湾に向け、それとの関連で、島津藩の半植民地琉球王国を名実ともに滅ぼして天皇制の植民地とし、やがて日清戦争に突入した。そしてその戦争の勝利が確実となるやいなや、琉球の向うの中国領釣魚諸島を盗み取った。これが近代日本の支配者が奪いとった百パーセント外国領土の最初の地であった。そしてこの天皇制軍国主義は、その後の日本帝国主義の、とめどもない朝鮮、中国、アジアの侵略につらなり「発展」していった。

 それとまったく同じ型の道を、いま、第二次大戦の惨敗から再起した日本帝国主義支配層は、アメリカ帝国主義にはげまされ、援助され、指導どころか指揮までうけて、まっしぐらに突進している。一九六五年の「日韓条約」、六九年の佐藤・ニクソン共同声明、そして本年五月十五日発効の「南西諸島」−−琉球と釣魚諸島その他の島−−の「施政権」をアメリカから日本に「返還」するという日米協定による、これらの地域の日米共同軍事基地化は、明治の天皇制軍国主義の歩んだと同じ道である。そして釣魚諸島が、日本の奪いとる外国領土の最初の地であるということまで、天皇制軍国主義そっくりそのままである。この次のねらいは台湾と朝鮮であろうか。

 火事は最初の一分間に消しとめなければならない。いまわれわれが、日本支配層の釣魚諸島略奪を放任するならば、やがて加速度的に日本帝国主義のアジア侵略の大火は燃えひろがるであろう。ただし、朝鮮人民、中国人民、アジア人民は、昔のように日本帝国主義の野望の実現をゆるすことは、決してないであろう。

 帝国主義反対、軍国主義反対と、どんなに声高くさけんでも、アジア革命勝利を百万遍となえても、現実に、具体的に、その日本帝国主義・軍国主義が、すでに中国領釣魚諸島に侵略の手を着けていることに反対してたたかわなければ、そのいわゆる帝国主義・軍国主義反対は、現実には日本帝国主義・軍国主義を是認し支持することにしかならない。

 ましてや、「尖閣列島は日本領である」などといって、帝国主義政府と緊密に協力しながら、「尖閣列島」の軍事的利用はゆるさない、ここを平和の島にせよなどという、日本共産党などは、日本帝国主義の積極的な共犯者である。帝国主義が他国の領土を奪い取るのに全力をあげて協力しておいて、さてその奪い取ったものの使い方に、平和主義をよそおう注文をつけるのは、きわめて悪質な人だましである。これと同じことを、かつて一九二七年以来の日本帝国主義の中国侵略のさい、社会民衆党その他の右翼社会民主主義者がやった。いまの日共はそれと瓜二つである。

 「尖閣列島は日本のものでもない、中国のものでもない、それは人民のものである。われわれは、日本と中国の国家権力の領土争いには、どちらにも反対である」などといって、いかにも国際主義の人民の立場に立っているかの如く幻想するものがある。これこそ掛値なしの「革命的」空論である。その空論で現実の日本帝国主義を支援するものである。

 この地上から、いっさいの帝国主義と搾取制度が消滅させられ、いっさいの階級がなくなり、したがって国家も死滅する、遠い将来のことはいざ知らず、現在、すべての具体的現実的な、生きた人間は、階級に編成され、国家に区分されている。この現代の、生きた人民の国際主義の最大の任務は、帝国主義に反対することである。とりわけ帝国主義国の人民は、何よりもまず自国の帝国主義に反対しなげればならない。たとえ自国帝国主義と他の帝国主義国とが戦争した場合にさえ、国際主義の人民・プロレタリアートは自国帝国主義に反対してたたかう。決してどちらにも反対などといってすましてはいない。まして自国帝国主義が、現代世界の反帝勢力の拠点である中国の領土を盗むのに反対しないような、反帝はありえない。現在、われわれが日本帝国主義の釣魚諸島略奪に反対するのは、それがまさに日本帝国主義の当面の侵略の目標であり、その達成によって日本帝国主義がいっそう侵略を拡大する出発点がつくられるからである。とくに中国領をとろうとするからそれに反対するのではなくて、外国領土を取ろうとする、これが再起した日本帝国主義の出発点であるから、今、すぐ、その出発点をつぶさなければならないのである。そうするのは、中国びいきの人であろうとなかろうと、中国のためにするのではなく、日本帝国主義下にある日本人民の国際主義の貫徹としてであり、だれよりもまず日本人民自身のためである。人民、あるいはプロレタリアートを、生命のない、抽象的観念と化してしまい、「人民」は日中両国家の領土争いには反対である、などとの空論にふけることは、日本帝国主義に反対する日本人民の国際主義のたたかいに水をぶっかけ、日本帝国主義を助けるものでしかない。

 またある人々は次のようにいう。軍国主義に反対の日本人民は、いま日本と中国との国交回復に全力をあげるべきである。そのためにまず解決すべきことは台湾問題である。日本の支配者たちをして、完全に蒋介石一派と絶縁して日台条約を破棄させ、台湾省は中国の一省であり、台湾省をもふくめて全中国を支配する唯一の政権は中華人民共和国であるということを公式に認めさせ、その中国と日本との国交回復をかちとることが当面の中心課題であって、釣魚諸島問題は、国交回復後に、日中両国政府が平和五原則にもとづいて話し合いで解決されるだろう、それまで釣魚諸島問題をさわぎたてない方がよい、などというのである。

 この説は、公然と明示されていないけれども、ひじょうに広く存在している。この説は、いま釣魚諸島問題をもちだせば、大衆は軍国主義者のあおるにせ愛国主義のとりこになり、反中国になり、日中国交回復をさまたげるものとみなしている。それと同時にこの主張は、中国政府は釣魚諸島問題が日中国交正常化の妨げにならないよう配慮している、と伝えられているのを頼りにしている。このように日本人民を信じないで、中国外交の賢明巧妙に頼るだけで、日本軍国主義とたたかうことが、どうしてできよう。われわれ日本人民は、中国政府のきめの細かい巧妙な外交に頼ってわれわれ自身のたたかいを放棄するのではなく、反対に今のうちにこそ、すなわち日中が国交正常化して、次の平和条約の交渉に移った段階で必然に釣魚諸島の帰属が日中両国政府間の交渉の重大案件として大きく前面に出て来る以前にこそ、われわれは声を大にして、釣魚諸島に関する歴史と道理を人民にうったえ、日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範に展開すべきである。いまそうしないで、この問題が日中政府間交渉の議題に上ったときに、ようやく、釣魚諸島は中国領だと正論を宣伝しようとしても、そのときはすでにおそし、政府、自民党、日共をはじめ各政党とマス・コミがいっせいにあおる、尖閣列島は日本のものだ、中国に屈服するな、などという反中国のにせ愛国主義と軍国主義の猛焔が、日本中をつつんでいることだろう。

 釣魚諸島略奪反対のたたかいは、後日ではなく、まさに今日、日本人民が全力をあげてとりくむべき、日本軍国主義・帝国主義反対の闘争の当面の焦点である。このたたかいに目をつむって、反帝も反軍国主義もありえない。釣魚諸島略奪反対の闘争と日中国交回復の闘争とを、切りはなしたり、甚しきは対抗させたりすることは、じつは日帝を援助することである。本気で、まじめに、具体的に、日本帝国主義軍国主義に反対してたたかおう。そのたたかいの、当面の最大の緊急の焦点である、日本帝国主義軍国主義の中国領釣魚諸島略奪反対に、全力をあげよう。

一五 いくつかの補遺
 この原稿が印刷所に入ってから後に、私は二つの、それぞれにちがった意味で、興味ある雑誌を見た。一つは、朝日新聞社発行の『朝日アジアレビュー』第十号である。これには「尖閣列島」問題が特集されている。もう一つは台湾の学粋雑誌社編『学粋』第十四巻第二期「釣魚台是中国領土専号」である(本年二月十五日付発行)。これらの論文を、いちいち紹介批評するのは、ここでの私の目的ではなく、これらに触発されて、私が考えたことを、本論文の補遺として、二、三書いておきたい。

 『朝日アジアレビュー』の高橋庄五郎の「いわゆる尖閣列島は日本のものか」の一節は、東恩納寛惇が琉球諸島は元来日本領であったことの証拠の一つとして、「オキナワ」その他の島名が日本語であることの意義を指摘しているのを引用し、その論法を釣魚諸島問題に適用し、これらの島が中国名であることに注意をうながしている。

 釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなかった。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあいには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。

 釣魚諸島は、明・清時代の中国人の琉球への航路目標にされた。福州から琉球へ航するさい、まずこれこれの島を目標にし、ついでこれこれの島を目標にすると航路を確定するためには、その島々の位置を明らかにし、一定の名称をつけておかなければならない。こうして釣魚諸島には中国人によって中国語名がつけられ、かつそのことが中国の公的文献に記録され、伝承された。しかもその島々は、中国の沿海にあり、中国領であることは自明の島々につらなっている。のみならず、その島々のさらに先につらなる島は琉球語名がつけられており、はっきりと琉球領として中国語名の釣魚諸島とは区別されている。こういうばあいに、その中国名の島々を、「無主地」だなどと中国人はもとより琉球人も考えるわけはない。まして、本文でくわしく論じたように、中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島との間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている中国の文献が二つもあり、江戸時代日本人のこの島々を記録した唯一の文献『三国通覧図説附図』も、ここをはっきり中国領としているのだから、これでもなお、「無主地」ということは、とうていできない。

 高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節に書いた通り、ここは台湾略取と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理学的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない。

 『朝日アジアレビュー』の奥原敏雄の「尖閣列島と領土帰属問題」は、「尖閣列島」日本領論者がいよいよその帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものとして「興味」深い。彼は書いている、「無主地を先占するに当っての国家の領有意思存在の証明は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法による正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領域取得にあたって、もっとも重要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意思が証明されれば十分である」(二〇ぺージ上段)と。彼はまた、「尖閣列島の自然環境や居住不適性を考えるならば、現実的占有にまで至らなくても、国家の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に対する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう」(二一ぺージ上段)ともいう。

 中国の封建王朝の領土支配の諸形態のうちの一つに、近代現代の主権国家の領土支配と同じしかたのいわゆる実効的支配が行なわれていないからといって、そこは「無主地」だと強弁する奥原が、日本国家の行為については、「尖閣列島」は自然環境が悪くて人が住むのに適していないから、そういう地域は「現実的占有」をしなくても、領有を「公示」しなくても、また日本領編入の国内法上の手続きをしなくても、日本政府がここを日本領とするときめて支配すれば、日本領である、とにかく、オレの領土として支配している所はオレの領土だ、というのである。これほど帝国主義的な自分勝手の議論がまたとあろうか。彼がこのように、なりふりかまわず、居直り強盗の論法をふりまわさざるをえないということこそ、釣魚諸島日本領論の完全な破綻を自らばくろするものである。

 奥原は、このような居直り強盗の論法で、明治十八年以来日本はここを領有し、「統治行為」を行なってきたのだと、あれこれの事をあげているが、ここが明治十八年以前に「無主地」であったという論証は、一字もしていない。彼はそれ以前の論文で、陳侃や郭汝霖の記述は、釣魚諸島が琉球領でないことを示すだけで、中国領であることを示すものではない、それは無主地であった、ということは証明ずみであるかのようによそおっている。だが、その説に対しては、私は『歴史学研究』本年二月号で、批判を加え、陳・郭の文章をどう読むのが正しいかを明らかにし、さらに、汪楫の使録で、赤尾嶼以西が中国領であることは、文言の上でも明確にされているという史料もあげておいた。奥原はこの批判に対しては、一言半句も反論もせず、すっかり無視したかのようである。彼は反論できないのである。

 釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。私はその証明を、今回の論文で、前回の『歴史学研究』論文よりも、いっそう明確にしたが、私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪(ほうごう)という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。

 『日本一鑑』は、一五五五年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功(ていしゅんこう)が、九州滞在三年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。

 『朝日アジアレビュー』の特集の巻頭言「尖閣を日中正常化の障碍とするな」は、「尖閣列島」が歴史的には中国領であったことを、抹殺しようとつとめている。

 いわく「共産圏では大体、欧米より国家主義が強い。チェコで案内書の一節におどろかされた。いわく−−われらの祖先は、かつてアドリア海から北海にいたる地域を支配していた、と。

 妙な話だと思い、よく読んでみると、その大国は神聖ローマ帝国のこと。チェコの首都プラハは、大帝国の首都でもあったのである。

 歴史主義もこの場合ご愛嬌だが、世界各国がそれぞれの最盛期における版図を現在もし主張すれば、たいへんな騒動になるだろう。

 尖閣列島の問題も、歴史主義だけではかたづかない。」

 この一文はまるで、現代中国が、歴史上の中国の最大版図をいまの中国領であると主張しているかのように読者に印象づける。そして、同誌編集部のつくった「尖閣列島問題年史」は、一八七二年、日本政府が琉球国王尚泰を琉球藩王としたことからはじまり、それ以前の、陳侃使録以来、釣魚島が中国領と記録されている長い時代については、一字も書こうとしない。歴史をまったく無視抹殺している。

 この年表によれば、明治十八年九月、沖縄県令がここを沖縄県所管とする国標をたてるよう内務卿に上申したことになっている。これはうそである。事実は、内務卿が国標をたてようとして沖縄県に調査を内命したのに対して、沖縄県は調査の結果、ここは中国領らしいとの理由で、国標建設をためらう意見を出した。このことは本文にくわしくのべた。

 またこの年表は、一八八六年三月「海軍水路部『寰瀛水路誌』に尖閣列島に関する調査結果を発表」と書いている。これでみると、いかにも日本海軍が独自に調査したようであるが、実はそれは英国海軍水路誌の記述の抄訳であったことも、本文で明らかにした。さらにこの年表は、一八九六年四月一日「勅令第一三号による郡制の沖縄県施行により、沖縄県知事は尖閣列島を八重山郡に編入後国有地に指定(魚釣島、久場島、南小島、北小島)」とある。勅令第十三号云々のでたらめも本文で明らかにした。

 『朝日アジアレビュー』はこのように歴史を抹殺しながら、「国際問題に関心をもつ日本人の多くは、尖閣問題について語りたがらない。中国に悪く思われはせぬか、商売上の損になってはこまる、といった発想法であろう。だが意見は意見として述べないのは、信頼をえる道ではあるまい」などと、現在の事実をもねじまげる。

 「尖閣」問題について、国際関係に関心をもつ専門家も、歴史家も語ろうとしないのは事実である。私が『歴史学研究』にこの問題に関する論文を寄稿したら、編集長は、それをのせたということで、委員会でつるしあげられたらしい。釣魚諸島は歴史的に中国領であって無主地ではないことを考証した、学術論文を専門雑誌にのせることさえ、容易ではない。

 このようなことが起るのは、何も日本人が中国に気がねしてではない。まさにその逆である。日本の権力者、ジャーナリズム、右翼および日本共産党の顔色をうかがうからである。歴史学的にも、国際法論的にも、釣魚諸島は無主地だったとか、日本の領有は無主地の先占であるとか、まじめに、事実を事実とし論理を論理とするかぎり、いえたものではない。しかし、そういわないで、ここは中国領であったと正しいことをいえば、「国益に反する」「売国奴」として、さまざまの中傷・迫害をうける。領有問題がもっと尖鋭になれば、正論を吐くものへの迫害もいっそう尖鋭になろう。まして、議員選挙では、この正論は必ずしも得票と結びつかない。それどころか、自分自身がにせ愛国主義を克服しておらず、大衆は領土欲が強いものとひとりぎめにしている人々には、釣魚問題で正論をはけば大いに得票がへるだろうと恐ろしくてならない。議員候補者たらんとする者や政党はみなそう思っているので、日本共産党のように、積極的に、「尖閣は日本領だ」とどなりたてて、「にせ愛国主義」をあおって票をかせごうとするか、そこまでだらくできないものは黙っている、ということになるのである。学者でも、中国に気がねではなくて、日本の国家主義と日共に気がねして、正論をはくことがこわい以上は、「沈黙は黄金なり」をきめこんでいるのである。

 そして、「次元の低い国家主義」に反対と称する『朝日アジアレビュー』は、この島々の歴史をまったく無視して、歴史的論文は一篇ものせないばかりか、年表からさえも、これが中国領であることを示す事はすっぱりと切り棄てて、その上に巻頭言で、専門家よ、歴史にこだわるな、ここが日本領であると大声でさけべと煽動しているのである。

 こういう危険な状況に対して、反帝とか反軍国主義とか日中友好とかをいう人々が、毅然として立ちむかい、真実を真実として公然と発言することを切望する。「尖閣の問題は、歴史的事実がどうか、法律の上でどちらが正しいか、私などにはよくわからないので、だまっているほかない」などと、いいかげんな逃げ口上はやめて、わからなければ研究し調査して、どんどん発言しようではないか。これは、よくわからないですませられるような問題ではない。再起した日本帝国主義軍国主義に反対するかどうか。われわれ日本人民の前途にかかわる決定的な問題である。

 (一九七二年六月十一日追記。『中国研究月報』六月号)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
 

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コメント
 
01. 中川隆 2012年10月03日 23:35:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

琉球人は純然たる日本人


先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。

宮古列島 宮古島
池間島
大神島
来間島
伊良部島
下地島
多良間島
水納島

八重山列島 石垣島
竹富島
小浜島
黒島
新城島
西表島
鳩間島
由布島
波照間島
与那国島

尖閣諸島 魚釣島
久場島
大正島

先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。
約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。
1609年、薩摩国の島津氏による琉球王国侵攻以降、薩摩の過酷な搾取に窮した琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入し、ここから搾取した。このため、先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%B3%B6%E8%AB%B8%E5%B3%B6#.E5.85.88.E5.B3.B6.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2


縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。

約800年前ごろになるとカムイヤキや鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


琉球民族の系統

以下は遺伝子の研究から、九州以北の住民と南西諸島(奄美群島以南)の住民との比較のため参考として記するものである。ただし、遺伝的な近さと遠さは民族概念と一致するものではない。

九州以北の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。

また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究からそれらの集団とは比較的離れていることが判明している。

九州以北の住民との近縁性と共にそれを介して北海道のアイヌ民族との近縁性も指摘されている。高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、考古学などの研究も含めて

南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測され、それまで居住していた奄美・沖縄諸島と先島諸島の2グループの先住民に取って代わったと考えられている。これらのことから九州以北とは遺伝的・人類学的にみても明瞭な境界線を引くことは難しい。

政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(沖縄県民を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F


02. 2012年10月03日 23:56:11 : HNPlrBDYLM

井上清著の『「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明』(初版1972/再刊1996)はCMLで岡山の野田さんが「大変、説得力をもつ論文」という詞書を添えられて紹介の労をとってくださっていましたので、私も読みました。そして、領有権と先占権についての私のこれまでの考え方がきわめて視野の狭い見方であり、考え方であったことに気づかされました。故井上清教授は日本外務省と日本共産党の領有と先占の考え方について完膚なきまでに徹底批判しています。

■「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)

先に中国側サイトで紹介されている井上教授の主張と「尖閣諸島問題」のホームページ及び「日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」という赤旗の論評を読み比べて比較考証した際には気づかず、「尖閣諸島問題」の「中国の文献」の記述及び「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません」という赤旗の論評の方に論の正当性を感じていたのですが、改めて故井上教授の上記論文の全文を熟読して井上教授の論の正しさを確認するに到りました。

尖閣諸島の領有に関する故井上教授の主張の要点は、下記の解釈の徹底さと正しさにあるように思います。

(1)『使琉球録』(1534年に中国の福州から琉球の那覇に航した明の皇帝の冊封使陳侃著)の「乃属琉球者」(乃チ琉球ニ属スル者ナリ)の解釈
(2)『重編使琉球録』(1562年に冊封使となった郭汝霖著)の「界琉球地方山也」(琉球地方ヲ界スル山ナリ)の解釈
(3)『籌海図編(胡宗憲が編纂した1561年の序文のある巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」)にまたがって地図として示されている「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が西から東へ連なっている事実の解釈。
(4)『使琉球雑録』巻五(1683に入琉清朝の第2回目の冊封使汪楫の使録)の「中外ノ界ナリ」(中国と外国の界という意味)の解釈
(5)『中山傳信録』(1719年に入琉した使節徐葆光の著)の姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と記されている「鎮」(国境いや村境いを鎮めるの意。「鎮守」の鎮)の解釈

もちろん、故井上教授の「無主地先占の法理」なる国際法が「近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした『法理』」でしかないこと、またその「法理」が「現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている」という論証からも多くのことを学びました。

そうして故井上清教授の論の徹底性と正しさに学びながら、杉原さんがCMLで紹介されている「他国の手が及んでいない領土を先に発見したり、先占したりすることでそれを自国領だと宣言しうるという発想そのものを俎上にのせる必要がある」(『北方領土問題』、岩下明裕、中公新書)という考え方などにも学び、尖閣沖中国漁船衝突事件によって改めて、あるいはにわかにクローズアップされるようになった尖閣諸島の領有権の帰属の問題、また「先占」取得に関する現在の国際法法理は、国際社会における最高意思の主体を国家とみなす1648年以来現代まで続いているウェストファリア体制(国民国家体制)のパワー・ポリティクスに基づく法理といわなければならないものであること。17世紀以来のパワー・ポリティクスに基づく「国家主権」を結果的に優先させてきた古い時代の法理(その法理は、近現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の法理としても当然通用してきたわけですが)に基づく国際法を根拠にして「先占」取得の正当性を主張するたとえば外務省や日本共産党の考え方はいまや時代錯誤の考え方というべきであり、早急に改められなければならない考え方というべきだろう、ということに気づかされました。

私の先のエントリにおける「先占」取得に関する国際法法理を支持する考え方は、まったく視野の狭いものでした。領有権と先占の問題について先のエントリで述べた私の考え方は誤りであったことを認め、改めたいと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8635877.html


私も歴史学者の故井上清教授の政治的立場を知らないわけではありません。しかし、井上論文の評価と彼の政治的立場は無関係ではありませんが切り離して考えるべきだと思います。そうしないと正しい論文評価はできません。論は論自体として読むのが正統な読み方だと思います。

さて、井上論文で指摘されている尖閣諸島の領有権の帰属の問題、また「先占」取得の問題を読み込むにあたって、私の中にあった第一の問題意識は、「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません」(赤旗論評「日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」)と捉える赤旗の論評は正確なものといえるかどうかという点にありました。

この点について井上論文は以下の論証をしています。

■「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)

第1。『使琉球録』(陳侃 1534年)に記述のある「乃属琉球者」(乃チ琉球ニ属スル者ナリ)の解釈と『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)に記述のある「界琉球地方山也」(琉球地方ヲ界スル山ナリ)の解釈について

以下、井上論文の該当部分を少し長いですが論証に必要な範囲内で要約します。

(1)『使琉球録』(陳侃 1534年)には次のような記述がある。「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ」。

(2)『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)には次のような記述がある。「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」。

(3)上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

(4)なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

(5)こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

(6)政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。/陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。/たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

上記の故井上教授の論証に私は「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであ」るという赤旗論評以上の説得力を感じます。郭汝霖のいう「界」が赤旗論評にいう「航路の目標」以上の当時の中国人の領有意識を示している記述であることは明らかというべきであろう、と井上教授ならずとも私も思います。

このまま故井上教授の論を引用していると本メールはあまりにも長くなりすぎますのでこれ以上の井上論文からの引用は避けたいと思います。各自におかれて先のメールで私が挙げた井上論文の5つの論点のうちの残された論点、すなわち、

(3)『籌海図編(胡宗憲が編纂した1561年の序文のある巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」)にまたがって地図として示されている「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が西から東へ連なっている事実の解釈。
(4)『使琉球雑録』巻五(1683に入琉清朝の第2回目の冊封使汪楫の使録)の「中外ノ界ナリ」(中国と外国の界という意味)の解釈
(5)『中山傳信録』(1719年に入琉した使節徐葆光の著)の姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と記されている「鎮」(国境いや村境いを鎮めるの意。「鎮守」の鎮)の解釈

の論点を熟読していただければ私としても幸いに思います。

ただ、坂井さんが「もう一つ、私が井上論文に違和感を感じるのは『七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった』と、断言しているところです。その箇所を何回読み返しても、それは本当なのかという疑問はわいてきます」という疑問を述べられていますので、この点について故井上教授の論をもう少し引用させていただこうと思います。この点について井上教授は次のように言っています。

琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(略)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。/また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。

上記から釣魚諸島(尖閣諸島)に関する中国の文献に比して琉球人の文献は圧倒的に少ないこと、と言うよりも2冊しかないことがわかります。琉球人による同地に関する文献が少ないということは、琉球人の同地との関係も少なかったこと、「琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった」ことをも客観的に推察させるものです。

さらに井上教授は琉球人の口碑伝説である『地学雑誌』や琉球学の大家である東恩納寛惇の『南島風土記』、さらには石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」などなどの著作も探索し、釣魚諸島に関する琉球名称に混乱があることを指摘し次のように述べます。

この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。/現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

上記の井上論文の推定は学術的な資料探索に基づく根拠を持つ推定というべきであり、そこに琉球人を差別するなどの意図は微塵も感じられません。妥当な推定だと私は思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8679002.html
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8679031.html


03. 2012年10月04日 00:18:06 : HNPlrBDYLM

要するに、問題は尖閣が琉球人のテリトリーかどうかという事ですね。

歴史的にも位置的にも尖閣は沖縄圏ではなく台湾圏なのです。

従って、無人島だからといって勝手に日本人が居住する事自体が犯罪になるのです:

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


どうやら日本人は中国人より遥かに悪賢かったという事みたいですね。


04. 2012年10月04日 21:29:13 : HNPlrBDYLM


尖閣列島あれこれZ

 (1)藤田元治の削除

 藤田元治氏は、一九三八年冨山房から出版した『日支交通の研究』『中近世論』のなかで、おおよそつぎのように述べている。

  台湾の北富貴角を東にまわると、基隆港口に基隆嶼周囲二〇町(筆者注 約二、二〇〇メートル)の孤立せる黒岩がある。其の北に花瓶、綿花、彭佳の三嶼が鼎足の形をなしている。この彭佳嶼の東にさらに尖閣群島がある。

日本の多くの地図には載っていない。台湾の版図にも沖縄の版図にも、そこまで広く書いていないのが例であるからだが、日本総図ならば載せなくてはならぬ島である。もちろん沖縄県八重山郡に属する帝国領土で ある。尖閣の名は沖縄県師範学校教諭黒岩恒氏の実地踏査の時の命名で、明治三十三年の地学雑誌に同氏の報告がある。この諸島の中で最大のものを鉤魚嶼という。英国製の地図にピンナクル島 Pinnacle Is. と出てい る。

ところがこの島を沖縄県人はユクン・クバと呼ぶ。これは随書『琉球伝』に記されているところの義安すなわち広東から琉球に至る航路のうちに●●嶼の名残りである。●●は音クヒ、すなわちクバである。ユクンとは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球のクバ」という意である。日本人は隋の煬帝の大業三年 (六○七年、聖徳太子摂政十五年)ころの名だということをしらないから鉤魚(ky y●)という字を誤って逆に魚 釣島ということにしてしまった。


それはともかくこうした記録によって一、三○○年来中国と日本との航路に は重要な島であったことがわかる。この島は実に台湾の北端を離れて、南風に乗じて東へ十更、西表島の北九○浬、基隆から一二○浬にあたり、沖縄島へ二三○浬であるが、陳侃使録には

「十日南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平喜山、鉤魚嶼過黄色嶼過赤嶼目不暇接、一昼夜兼三日之路、夷舟帆小、不能相及矣、相失在後、十一日夕見古米山」とあるところで、南風にあえば順流即ち黒潮にものるので三日の路を一昼夜で快走することが出来たと見える。平嘉山というのは彭嘉山であり、現在の彭佳嶼である。

 ところが藤田元治氏は、十一日夕見古米山のつぎに、

「乃属琉球者、夷人歌舞於舟、喜達於家」

とあるのを削除してしまっている。陳侃の『使琉球録』は、古米山(久米島)を見て、これを「すなわち琉球に属するもの」としたのだから、久米島からが琉球だとしたので、久米島を見て夷人(琉球人)たちは舟の上で、ああ無事に家に帰ってきたと小おどりして喜んだのである。どうして、藤田氏はこのところを削除したのか。これを削除しないと尖閣列島が「八重山郡に属する帝国領土」といえなくなるからではないのか。「夷人歌舞於舟、喜達於家」のあとにまだ記述は続き、久米島を望見したのちに東風になり、「進寸退尺」の状態で二十五日ようやく那覇港に入ったわけだが、「喜達於家」までは当然引用すべきである。


そしてまた、藤田元春氏は「ユクン・クバ」は「琉球のクバ島」ということであるとして、尖閣列島を「琉球の島」であると論証しようとしている。しかし、八重山でイーグン・クバシマと呼んだイーグンは八重山方言で魚を突いてとる銛のことで、クバシマはクバの葉が繁茂しているからそのように呼んだのである。尖閣列島周辺は、各種の文献によって明らかなように、今も昔もサバ、カツオ、カジキマグロ、サメ等の魚の宝庫であり、釣魚台、釣魚嶼、魚釣島等の呼称が由来するユクンあるいはイーグンはこの島に関係しており、「琉球の」ということではない。

  (2)倭寇と尖閣列島と沖縄

井上清氏教授は『尖閣列島』(現代評論社刊、一九七二年)の中で述べている。

  おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や 郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲が編纂した『籌海図編』(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器の制・船艦の制などを説明した本である。

  本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が、現在のどれに当たるか、いちいちの考証は私はまだしていない。


 しか し、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。

  この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。

 これに対し奥原敏雄教授は、『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島領有権の根拠」でつぎのように反論している。

  井上清氏は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』における右の事 実を中国の領有論拠だとすることは、陳侃、郭汝霖使録よりもさらに劣るといってよいであろう。大体、沿海図といった性格のものは、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので あって、たとえば、日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることもあるし、台湾省の沿海図 では、与那国島や石垣島なども、示されるのが普通である。むしろ『籌海図編』を引用するのであれば、同書 巻一の十七「福建界」が当時の福建省の境界を示すものとして適当であるといえよう。だが、この地図に示されているのは、澎佳山までであって、少琉球(台湾)、釣魚台などは描かれていない。『籌海図編』は台湾が中 国の版図に編入された一六八三年よりも百二十一年前に書かれたものであるから、台湾が「福建界」の外に置かれていたのは当然であった。それだけでなく、釣魚台などが「福建界」のなかに描かれていないことは、魚 釣台などが当時中国領でなかったことを明らかにしているとさえいえるのであろう。

 倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三十二)年から一五五九(嘉靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭寇討伐のため、中国の明朝は一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対して倭寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日本に送った。このとき鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だ
ったのである。一五六○(嘉靖三十九)年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。しかし、このことによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国して、明代第一の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。


 この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太郎氏は『籌海図編』はながい中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であるといっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅元儀の『武備志』の日本に関する部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国では、倭寇が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれたもので、それ以前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。

 ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、宮古島東端に近い城辺町の上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九六二年に売り切れて、そのご重刷していないという。

 稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島である八重山諸島において痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期から、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は東シナ海の波涛を自分の家の座敷のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿命を早めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後世のわれわれの想像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっている。

 海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと呼んだ。これは倭寇と同義語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるという。

 沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが多いという。宮古島の上野村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だとされる。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子孫だとされる家系では、子供に、多くの場合「がーら」という童名をつけた。

 このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずける。陳侃が琉球に使いする以前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇への海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道であり、中国は個々の島に名を付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域にいれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全にとって重要であるというような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方向と強弱によって決まること、大陸に近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法は「海を防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合し、前後左右と組織的に連携して哨戒することである。と同時に陸上の築城をおこなった。その城の数は実に多い。

     (3)清国領になろうとした宮古・八重山群島

島津の侵略により「日中両族」となった琉球

 一三七二年、中国(明)の太祖が琉球の中山王察度に詔諭をあたえて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国に朝貢し、一四○二年に中山王が三山を統一して、一四○四年には中国(明)の太祖の冊封使が琉球に来ている。尖閣列島は琉球と中国との交通路にあたり、また琉球王はシャム、パレンバン、マッラカ、スマトラ、アンナンなどと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島は当時の海の銀座通りになったといってよい。潮流の関係で中国や南方諸国から帰る船は、尖閣列島を目標にかじをとった。琉球から中国へ行った船は、すべて福州にはいった。福州には「琉球館」が設けられた。だから尖閣列島は沖縄と福州とのあいだにある島なのである。琉球王朝は、朝貢貿易という名の中国との貿易で、栄えたのである。また南方との貿易でも多くの利を得た。一六世紀に中国(明)は、中国貿易船の日本渡航を禁止し、また一五四七年に中国の寧波港で、日本の細川船と大内船が大ゲンカししたので、中国は日本の朝貢貿易を禁止してしまった。このことによって、中国と貿易をしていた薩摩の島津も大打撃を受けた。琉球は中国とは十四世紀以来、朝貢冊封の関係にあって貿易で栄えていたので、島津義久はこれに目をつけ、琉球の中国との貿易を支配することによって、その利権を奪い「以って宿債を償なわん」としたのである。徳川家康から「琉球征伐」の許しをえた島津義久は、一六○九(慶長十四)年三月、一○○余隻の船に三、○○○余人の兵を乗せて琉球領の奄美大島を攻め、三月五日には運天港に到着、四月三日に首里城に迫り、尚寧王は降伏した。島津はこの侵略戦争で、琉球を付庸の国(植民地)とし、琉中貿易の利を独占的に収奪したのである。このときから、琉球は「日中両属」となった。琉中貿易は実に利益が大きかった。

「唐一倍」といわれたように、倍ももうかったのである。あるものは一○倍にもなった。この利益を保護するためには、琉球の中国に対する朝貢冊封の関係を維持させなければならないし、琉球が薩摩藩の付庸の国であることを中国に知られてはまずい。薩摩は十五条の掟で琉球をがんじがらめに縛ってしまったが、中国は琉球に対して全く内政干渉をしなかった。ましてや琉中間に領土問題などはありえなかった。琉球は三六島であり、福州とのあいだをひん繁に往復した琉球の官史や船員にとって、琉球と福州とのあいだに散在し、中国が島名も付けている釣魚台や黄色嶼
や赤尾嶼などは当然宋主国である中国のものであった。


 琉球と日中交渉


 幕藩体制を倒し、王政復古によって成立した明治維新政府は、一八六八(明治元)年十一月に、薩摩藩を通じて王政復古を琉球王尚泰に通告した。琉球王は、王政復古というからには、薩摩藩の島津に奪われた、奄美大島から与論島までの旧琉球領土を返してくれるのかと思ったほどに、天皇については知らなかった。明治政府は一八七二(明治五)年九月に琉球正尚健を東京に呼び、琉球王を琉球藩王にし、日本の華族にしてしまった。琉球王は宋主国である中国に助けを求めた。そこで中国(清)は琉球を助けるために、駐日公使何如璋に命じて日本政府と交渉させ,琉球は中国の属国だと主張した。

 一八七四(明治七)年十二月十五日に大久保利通内務卿が三条実美太政大臣にだした「琉球藩所分方之犠ニ付伺」に、そのようすがよくでている。一八七一年十一月に琉球人五四人が、台湾に漂着して殺されたことを口実に、一八七四年五月十七日に,明治政府は将兵三、六五八人を派遣して台湾侵略をやった。幕藩体制のもとにあった下級武士の不平不満が激化して、明治政府政権崩壊の危機を感じた維新政府は、一方ではロシアの圧力で樺太から撤退し、他方では征韓か征台かを激論した。一八七四年二月に征台と決まった。台湾無主の地だという口実で出兵したら、中国から猛反撃をくった。中国と交渉のため出向いた大久保内務卿は,全く身の細る思いで「これまでの焦思苦心言語の尽くすところにあらず」「この日終生忘るべからず」といった。しかし,この交渉で大久保内務卿は中国か五○万両をせしめたので、沖縄の帰属問題は決着したと思った。ところがそうはゆかなかった。「琉球藩所分方之犠ニ付伺」のなかで、「曖昧糢糊として日,中何れの所属か決まらず、はなはだ不体裁とは思いますが」とボヤいている。


 琉球王はあいかわらず中国との朝貢関係を続けていたので、一八七九年一月に松田道之内務大書記を那覇に派
遣し,琉球王に対して、これまで命令したことにしたがわないのはどういうわけか詰問し、「督責書」を手渡した。これ
に対して琉球王は、この問題は目下東京で清国大使と日本政府がはなしあっているから,その交渉が妥結するまで
は、命令にしたがうわけにはいかぬとハッキリ断った。松田道之内務大書記はすっかり頭にきて、「後日の処分を待
て」といっいてひとまずひきあげた。そして三月二十七日、松田道之内務大書記は歩兵四○○人、警官一六○人を
ひきいて首里城にのりこみ、病臥中の尚泰王の代理人今帰仁王子に対して、三条実美太鼓大臣の廃藩置県の達
示を読み上げた。二分ともかからなかった。武力を背景にした明治政府の断固たる処置に、琉球王は服さざるえなか
った。「古兵寸兵を治めず、専ら口舌を持って外交の衝に当たって」きた五○○年の歴史をもつ琉球王朝は亡びた。し
かし王族や支配階級のていこうは続いた。問題はすべて解決したわけではなかった。


明治天皇とグラント将軍の会見


アメリカの第一八代大統領グラント将軍は、大統領をやめてから世界漫遊の旅にでて中国を訪問し、恭親王と李鴻
章北洋大臣にあった。そのとき中国(清)側から琉球問題がだされた。一八七九年八月十日にグラント将軍は浜離宮
で明治天皇と会見した。このときの記録に「一八七九年八月十日浜離宮ニ於テ,聖上、ゼネラル・グランド御対話筆
記」がある。グラント将軍は中国の恭親王や李鴻章北洋大臣から琉球問題の話をきき、琉球の帰属問題について
日・中間の斡旋にのりだしたのである。グラント将軍は天皇に会う前に、ビンハム米駐日公使はすでに数回日本政
府と会談をおこなっている。グラント将軍は明治天皇に、要旨こういっている。

  日本に来て話を聞いてみて、日本の主張することもわかるが、中国の考えも察しなければならない。中国は 昔
から琉球の関係があるのに、今回の日本政府の琉球処分を、和親の道ではないと考えており、また中国は台 湾事
件(筆者注一八七四年の台湾侵略)の屈辱を忘れられないでいる。日本が琉球を支配下におくことによっ て、日本
はふたたび台湾を奪って、中国と太平洋のあいだを遮断しようとする意図がある、という疑念を中国 はもっている。
中国の心情も察して、中国に一歩譲った方がよい。私が中国で聞いたところでは、琉球の諸島 間に境界線をきめ、
中国が太平洋にでる道をあたえるなら、中国も承諾するのではないか。

 グラント将軍の助言と示唆で、明治政府がたてた政策は、宮古・八重山諸島を中国に渡して、中国から最恵国待
遇を手にいれようとしたことである。一八八○年六月に天皇は、中国駐在の穴戸?公使を駐清特命全権大使に任命
し、翌一八八一年二月には宮古・八重山諸島を中国に渡すことまで話しあわれた。沖縄諸島と宮古諸島のあいだの
約三○○キロメートルの海の中間に、境界線を引くというものであった。中国の考えでは薩摩藩が琉球から奪った奄
美大島を日本領とし,沖縄本島を中心にする諸島は元の琉球王の領地とし、宮古・八重山群島を清国領とするもの
であった。この日中間交渉は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。

    (4)  尖閣列島とサバニ

 沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親
しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られ
ていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。

 逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列
島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。

 彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最
大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みた
からであった・・・・・・。

 基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。

奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。

 第一のおかしな点は、奥原氏が「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場と
して知られていた」というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に
貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いて
おり、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来という
からには、五○年や一○○年前のことではあるまい。

 第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。
実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見
て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。し
かし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それ
はどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であ

ったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからで
ある。牧野清氏は「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた
一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったの
は、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」といっているが筆者もそう思う。それは決し
て古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、
彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。

 第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろま
でであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着して
いる。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。

 では、沖縄にはどんな船があったのか。

 マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船であ
る。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。

 山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造ら
れた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸
送手段であった。

 サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかっ
た。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二
五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定してい
たが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四
〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。

 フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。

 和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土か
ら流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ
朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。

 一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安
定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは
渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べ
て、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったの
である。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月か
ら九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季
節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。

 婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラ
ムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円で
あるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島で

は、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣
れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそう
で、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなけれ
ばならぬようなしろものでなかった。

 司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はな
い。これは今も昔もおなじである。

 一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○

%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻
二六六頁)。

 ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が
急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台

湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち
三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという
(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている

わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖
縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島
周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が

尖閣列島に深いつながりがあったということである。

 たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあ

たりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になって

も、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければな

らない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのであ
る。

  (5) 尖閣列島の発見者はだれか

 沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、そのようにきかされてきたか
らだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎
が鳥島(尖閣列島のこと)を発見というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たと
いうことで、この誤りは歴史がこれを証明している。

 古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれている尖閣列島に行ったときに
は、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっき
り書いてある。一八八五(明治十八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文
書のなかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。

 一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国(明)に
朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。

 尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球が東南アジア(とは当時は
いわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプ
ツサイ(パレンパン)パタニ(ビルマ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおり
となった。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは釣魚山)―黄色嶼―赤
尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉
球から中国に行った船は、みな福州にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したの
である。沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船で、合計一○四隻と
なっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。

 琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国に朝貢し、中国は琉球王を
冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていた
が、あらためて徳川家康から「琉球征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸
の国」(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。

 そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢米九、○○○余石、

芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、い草のむしろ三万八、○○
○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡

ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良で働いた女たちにとって、夜
も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜいだった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込ま
れていた。そのことは平凡社刊『日本残酷物語』に明らかである。

 また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。琉球王朝はこの袖を中国と
薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりすると織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりし
た」(『沖縄の孤島』朝日新聞社刊)。

 琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は人類税と名子制度に苦しめ
られ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから
古賀辰四郎氏が尖閣列島を発見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣
列島をしらなくても、それですんだのである。

    (6) 日清戦争とバカ鳥の島

古賀辰四郎という人

 牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県
八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一
八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。

 一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来
どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもって
いなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。

 琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻
章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧
野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四
月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイ
ツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾
探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密
糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島
の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九
年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目
であった。

牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その
有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同
島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。

 上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣し
て列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。

 一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島
の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島
を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。

 ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀
は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の
直前である」と書いている。

 『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県下益城郡河江村字住吉出
身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖
閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いて
いる。「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四郎が
魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事態の
推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸によ
る実地踏査を届けでた」、「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁民とと
ともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々二十
六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽き
て失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に漂着
している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれらも
風浪のため失敗している」。


尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争

 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこ
う語っている。

 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、
途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そ
こで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですが
ね。

 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、
父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、
まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。

 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日
本領とするようしきりに上申しまた。

 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探
検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切
らせた理由と思います。

 そこで「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」自身はどうなっているのかを、彼が一八九五年六
月十日付で野村靖内務大臣にだした「官有地拝借御願」によって見てみよう。  

  私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産業挙ラサルハ

 予テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ

 海産物ノ探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島

 ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ

 窮乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年十一月廿日時ノ沖縄県知事丸岡莞

 爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾

 海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲

 息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ

 来ル モノナル事ハ毫モ疑無御座候予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射

 殺シ商品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛

 ハ実ニ海外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナル

 ヤ否ヤ ヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候以上

 ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ベク自然

 多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之候

 間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル事

 判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文アリタルニ係ラス之ニ

 応スル能ハ サリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候

 古賀辰四郎氏はさらに、この「御願」のなかで、バカ鳥が多いといっても無限のものではなく、競争、乱獲ということ
になると繁殖保護も難しく採算も取れなくなるから、官有財産管理規則第七条二項の規定によって、全島を自分に貸
してほしいと述べている。 この「御願」は古賀氏自身が書いたものではあるまい。このような文書が書けるならば、古
賀氏の手になる探検記録があるはずである。ところが古賀善次氏のいっているように詳細な探検の記録は残ってい
ない。おそらく、この「御願」は役人の手を借りたものであろう。
 古賀辰四郎氏と尖閣列島とのかかわりあいについては、何人かの人たちは一八八四(明治十七)年といい、古賀
氏自身は一八八五年といい、『沖縄の百年』第一巻では、日清戦争の直前というから一八九三年か一八九四年から
であったであろう。古賀氏が本籍を福岡から沖縄に移したのは一八九五年であり、彼は腰を据えて事業にとりくむこ
とになった。古賀氏は寄留商人ではなくなる。
 とにかく、古賀辰四郎氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、捨ててある夜光貝などの貝殻をボタンの材料とし
て、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだし、ユクン・クバ島のバカ鳥という資
源に目を付けて、政府に開拓させてくれと何度も願いでたが、政府は「我邦ノ所属タル事判明無之」と許可しなかっ
た。ところが、日本が日清戦争に勝って、一八九四年十二月二十日には中国から、張蔭桓、邵友濂氏を講和全権と
して任命した旨アメリカ公使を通じて日本に連絡してきた。十二月二十五日に中国は、朝鮮の自主独立を認めると宣
言したのだから、朝鮮を支配するために、朝鮮から中国の勢力を一掃しようとした日本の戦争目的は、完全に果され
たことになる。そして時を移さずそれから二日後の十二月二十七日に内務大臣は外務大臣にバカ鳥の島を閣議にか
けることを協議した。野村靖内務大臣が陸奥宗光外務大臣にだした協議文書には「其当時(筆者注 明治十八年)ト
今日トハ事情モ相異候ニ付」とあり、外務大臣には異議はなかった。事情がどう異なったのか。それは日清戦争で勝
ったということ以外にはない。そして尖閣列島は、この日から「劃然日本の所属ト確定」した、というところに重大な問
題があるのであって、古賀辰四郎氏がいつ尖閣列島に行ったかということはさして問題ではない。翌一八九五年一
月十四日、伊藤博文内閣は、このバカ鳥の島を閣議にかけて、「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣
島ト称スル無人島」に標杭を建設することを認めた。日清戦争に勝ったとたんに待ってましたとばかりに、日清戦争の
処理で忙しい政府がバカ鳥の島を閣議にかけたことについてはどんな事情があったのか。これはどうにも理解に苦し
むところである。
 一九一〇(明治四十三)年一月一日から九日まで、『沖縄毎日新聞』は藍綬褒章を受けた古賀辰四郎氏の業績を
たたえる「琉球群島における古賀氏の功績」を連載した。筆者はこれを見ていないが、井上清教授によればつぎのと
おりである。

 明治二十七(一八九四)年(古賀氏は)同島(釣魚島)の開拓の許可を本県(沖縄県)知事に請願したけれども、当
時同島の所属が帝国のもなるや否や不明確なりし為に、却下せられしより、更に内務・農商務大臣に宛て請願書を
出すと同時に、氏は上京して親しく同島の実況を具陳して開拓を懇願したるも、尚ほ許可せられざりしが、時々に
偶々二十七、八年戦没(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、二十九(一八九六)年勅令第十三号を
以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより、直ちにその開拓に就き、本県知事に請願し、同年九月初め
て許可を与えられ、茲に同氏の同島に対する多年の宿望を達せり(『歴史学研究』一九七二年第二号)。

 ここに「勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより」とあるが、勅令第十三号には、そ
んなことは何も書いていない。おそらく沖縄県知事は勅令のでるのを待っていたのであろう。ところが勅令第十三号
は半年経っても一年たってもでない。沖縄県知事は内務省に、どうなっているのか照会したものと思う。ところが中央
では、台湾までわが国の版図にはいったのだから魚釣島、久場島などについて面倒な手続きなどはまったく必要な
いといわれたものであろう。

 『沖縄毎日新聞』の記事でもわかることは、古賀辰四郎が親しく中央に働きかけたということである。室伏哲郎著
『汚職のすすめ』によると、バカ鳥を閣議にかけた野村靖内務大臣は、東京市の水道用鉄管の国産会社「日本鋳鉄
合資会社」の不正を一八九五年十一月に、東京市参事会が告発したとき、東京市会の解散を命じた人物である。日
本鋳鉄合資会社の創立者雨宮敬次郎は獄中から森検事を二、○○○円で買収し、証拠不十分で免訴となり出獄し
たという当時の情況があった。古賀辰四郎氏が親しく働きかけた内容は何であったのか、これはあきらかではない。
一八九一年七月二十七日の官報に載った大臣の年俸は内閣総理大臣九、六○○円、各省大臣六、○○○円、次
官四、○○○円であった。これに対して一八九六年三月現在の職業別の平均賃金は、機織女工は上等で月に四円
五○銭であり、下等で二円二○銭だった。農作の日雇労働者は上等で男は一日二○銭、女は一八銭であった。だ
から二、○○○円も積めば検事だって買収できたわけである。
 それにしても、伊藤内閣のこの素早い反応は、古賀氏の働きかけのみによったのであろうか。当時の沖縄の政治、
経済、社会をもみなければなるまい(本書Zの(8)を参照)。
 奥原敏雄教授はこの点に関して、雑誌『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島の領有権の根拠」でこの
ように述べている。

 わが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期は、すでに日清戦争におい
て日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしていた時期である。台湾を日本に割譲する
ことについて、列国の承認も取り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄編入を認める
に至った背景に、台湾をも失うことをみとめた清国が、無主地のごく取るに足らない尖閣列島の帰属をめぐって、まず
争うことはないであろう政治的判断があったことは想像にかたくない。
 しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島の領土編入を見送ってきた
背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑惑を生じさせ、日本は尖閣列島が中国領土であると思っ
ていて、ひそかに時期を狙い、日清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処
理したのではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな疑念だと思う。

 奥原教授はこの論文で、「天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営
が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった」とする井上清教授の見解(井上清著『尖
閣列島』)、「日清戦争での勝利を機会にし背景にして、日本がさらに戦争を拡大している情況のもとでなされた至極
あいまいな『先占』というものの実質は中国から奪った台湾省の一部を先取りしたことにならないか」(高橋庄五郎論
文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号)という疑問に対して、一般的にも
っとも疑念としているが、奥原教授はあくまでも、尖閣列島は国際上の無主地であったと主張する。


バカ鳥と古賀辰四郎氏


 尖閣列島には、どんな海鳥が、どのくらいいたのであろうか。
 古賀辰四郎氏がバカ鳥と呼んだ鳥は、アホウ鳥ともトウクロウとも呼ばれ、またの名を信天翁ともいわれていた。尖
閣列島にはこのほか、クロアジサシ、セグロアジサシ、カツオドリ、オオミズナギドリなどがいた。
 そして北小島にはセグロアジサシ(背黒鰺刺)、クロアジサシ(黒鰺刺)が、南小島にはカツオドリがいた。二○○メ
ートルしか離れていないのに海鳥が異なっていた。南小島と北小島の情況について黒岩恒氏はこう書いている。

 余が着島の節は(五月)産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし、これ英語に所謂
Ternなるものとして、尖閣の諸嶼にかぎり、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を滅する
の観あり、カンエイ水路誌(明治十九年刊行の海軍水路局の水路誌)記して、其鳴声殆んと人をして
聾せしむと云へるは、誠に吾人を歎かさるなり、若し夫れ閑を偸みて北小島の南角に上らんか、幾万のTernは驚起
して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を?翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸
次下り来たりて吾か周辺に群集し、同類以外復怪物あるをしらさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるかを
疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり(筆者注 ふりがなは筆者)。
 古賀辰四郎氏」は、年間一五万羽も海鳥を捕獲した。
バカ鳥と古賀辰四郎氏がいなかったら明治時代に尖閣列島は問題にならなかった。


日清戦争のあとさき

一八九三(明治二十六)年十一月、過酷な税の負担に耐えかねて、宮古島の農民四人が上京し、宮古の悲惨な現
状を議会と政府に訴えた。中央の新聞は「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。政府はただちに内務書記官を沖縄に
派遣し調査させた。
一八九四(明治二十七)年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」がだされた。
一月十七日、宮古島福里村の農民一六○人が署名した「宮古島島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程され、
衆議院はこれを可決した。この年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○二年まで存続された。
三月、大蔵省は祝辰巳氏を沖縄県収税長に任命し税法調査をさせた。
八月一日、日本は中国(清)に対して宣戦布告。
九月十五日、平壌大会戦、十六日未明平壌を占領。
九月十七日、黄海大戦、中国軍艦五隻を撃沈。この陸海の大戦ですでに勝負はついた。
十月八日、イギリスは日本の戦勝に驚き講和を勧告。
十月二十六日、第一軍(山県有朋)は鴨緑江を渡って九連城を占領。引続き第二軍(大山巌)は花園江に上陸開
始。
十一月十二日、中国(清)はアメリカ公使を通じて講和条件の基礎を提案、日本側は講和全権の任命が先決だとし
てこれを拒否。
十一月十三日、第一軍海城を占領。
十一月二十一日、第二軍旅順占領。
十二月二十日、中国(清)はアメリカ公使を通じて張蔭桓、圏F濂氏を講和全権に任命したと日本に通知。
十二月二十五日、中国(清)は朝鮮の独立自主を認めると宣言。これによって明治軍国主義の日清戦争の目的は達
せられたことになる。
十二月二十七日、内務大臣は外務大臣と釣魚島と久場島をたてたいという沖縄県知事の上申ついて協議。外務大
臣に異議なし。
一八九五(明治二十八)年一月十四日、標杭建設を閣議決定。
一月二十一日,沖縄県知事に通知(しかし、標杭建設は日本の主権下では実行されず、七四年後にアメリカの施政
権下の石垣市長命令で初めて建設)。
一月三十一日、中国講和全権広島に到着。全権委任状が不備だとして日本側は談判を拒否。
三月二十日、下関で、伊藤博文内閣総理大臣と李鴻章全権とのあいだで講和談判開始。
四月十七日、日清講和条約調印。
四月二十三日、三国干渉(独・仏・露)。
五月五日、三国の勧告を日本は受諾。
五月八日、日清講和条約批准書交換。
五月十日、樺山資紀海軍大将を台湾総督に任命
五月二十五日、台湾省民蜂起。
五月二十九日、日本軍台湾に上陸。
六月二日、中国(清)李経方全権と樺山台湾総督との間に、講和条約第二条第二項および第三項の台湾全島及び
その付属諸島嶼と澎湖列島の受渡しがおこなわれた。
六月十日、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出。
一八九六(明治二十九)年九月、古賀氏は三○年間無償で魚釣島、久場島、北小島、南小島の借用に成功。

(1)伊沢弥喜太氏は、福州に漂着し救助され、中国の高官から陶器の花瓶をもらって帰った。


      (7)尖閣列島の開発
どの島か
 古賀辰四郎氏が尖閣列島が尖閣列島のどの島で開拓事業をおこなったかについては資料が乏しい。だから人に
よっていっていることが違う。たとえばこうである。
 古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借
地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むこと
に成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り込んだ。この年の
久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がいつごろまでいたかは明ら
かでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。
 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年五十
人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さら
に明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ・・・・・・
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八
人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。
 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十一年に
は更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野
清論文「尖閣列島小史」)。
 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当たら
せ・・・・・・翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡
った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。・・・・・・明治三十六(一九○三)年には内
地から剥製職人一○数人が移住し・・・・・・明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九九戸を
数えた。・・・・・・南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹
島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人がいるが、
それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によれば魚
釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。こ
の島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年
になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十
八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをし
たのは魚釣島と南小島であった。
 また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの貨物船の解体作業をやって
いたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これ
は台風で座礁して久場島海岸に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。古賀辰四郎氏が事業を開始
されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、
地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同
行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだといって
いる。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。
だが、よく考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕ま
えて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわ
せたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地
は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。

どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。
 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島の開拓
に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、
排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功績によって政府は一九
〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。
 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖閣列島
研究会論文)。
 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚
釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。
古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツオブシ製造をおこ
なったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本
人』一九七〇年新年号)。
 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製
造がある。・・・・・・
ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出しは、第
一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料
が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。
 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古賀さん
が労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節
工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、その後現在にいたるま
でも無人島になっている(桜井×氏)
 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その後、古
賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から
魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカツオドリ、アジサシな
どの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続いたかについては明確な記
録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海
域の学術調査に参加して」参照)。
大正(一九一九)年の冬・・・・・・当時古賀支店は魚釣島でカツオ漁業を経営していたので・・・・・・(牧野清氏)。
 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖の加工
工場も建設された。
そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。
黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任
論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み・・・・・・(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。
 黄色嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもやさとうき
びは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばか
り平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採取のため男女五三名と
いう大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの葉脈で
ロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくっ
たといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不足してくると、クバの繊
維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明にある古
賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとった
ときには、四島はふたたび無人島になっていた。

一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという「証拠
の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者が一九七
一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたとい
う伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ一枚の写真を古賀花子さ
んは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだという。この写真には事務所の責任
者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、
ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っ
ているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したもので
あろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書い
たものを門柱に貼り付けてある。これは写真をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。
 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けたのに、ど
うして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏
が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考えていたとしたらどうなので
あろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がなおので妻帯者は弥喜太氏一人であったといっている。写真にある
婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたものであり、子供労働者はとさや沖縄から
買われきたものであったという。
 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇(明治四
十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太
氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』によれば、久米島の住人
は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあったようだという。
 古賀花子さんは夫の古賀喜次からきたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔きいたことを
話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲
み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニで魚釣島まで水取りに出
掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚釣島にあったのか。そ
れとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両方にあったのかどうもはっきりしない。しか
し伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島で
は貝殻の採取とアホウ取の毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠
を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に健常するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたとい
う。真水がなくともカツオブシがつくれるのかどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれると
いう。


辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかもわから
ない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったということであ
る。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜
太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をした二つの遺体をほら
穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなかで、同行の人夫が山中に白骨ありと
いったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏
は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥
喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。
 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶應大学
医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に
沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。
 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲料水の
適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわか
った。
 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、古賀辰
四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒
岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役
のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着
す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来たりて
春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。
尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はクバの葉でつくった小舎から
どんな発見をしたのだろうか。
 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸できる
ようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹
島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、婦人労働者の住まい、
子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。
 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き一九一四
年に花蓮港で死んだ。
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。この二人
が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣
列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。
 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツオ、マグ
ロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があっ
たことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○○余円というから、これ
は当時としてはたいへんな金額である。この年の四月に三越百貨店があ食堂を開いたが、料理一食五○銭、洋菓
子一○銭、紅茶、コーヒーがそれぞれ一杯五銭であった。
 これら開発事業は、すべて日清戦争で尖閣列島を日本領としたことであり、無主地を先占し有効支配していたとい
う裏づけにはならない。

(8)閣議決定と勅令第十三号および第十四号―
    ――その政治的、経済的、社会的背景

明治憲法における閣議決定
 一九七二年三月八日に日本外務省がだした「尖閣諸島の領有問題について」という同省の基本的見解は『明示二
十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することにしたも
のである』と述べている。また、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議決定と勅令第十三号との関係につい
て、日本の一部の国際法学者たちは、つぎのようにいっている。
 尖閣列島の領有主権についてであるが、日本の主張は、同列島がすでに一八九五年の閣議決定をへて、一八九
六年の勅令十三号により領土=沖縄県の一部として公式に編入された事実に基づいている。これは、どこの国の領
土でもないいわゆる無主地を取得する方法――――先占――――として国際法が予想しているものである(皆川洸
論文「尖閣列島」)。明治二十九年(一八九六)勅令第十三号によって日本政府が尖閣列島の領有宣言を行ってい
る(新城利彦論文「尖閣列島と大陸だな」)。
 明治二十八(一八九五)年一月十四日、閣議は正式に八重山群島の北西に位する魚釣島、久場島(黄尾嶼)を沖
縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通り、同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し、その旨を同月二十一日
沖縄県知事に指令した。さらに閣議にもとづいた同列島に対する国内法上の編入措置は明治二十九(一八九六)年
四月一日、勅令十三号が沖縄県に施行されたのを機会ににおこなわれた(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイム
ス』)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、沖縄県知事に対して、その実施を指令した。沖縄県知事は、明治二十九
(一八九六)年四月、尖閣列島を、八重山郡に編入せしむることによって、国内法上の措置を完了した(尖閣列島研
究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。それでは、明治憲法(旧憲法)における内閣制度と閣
議とはどんなもであったのかということがまず問題になる。旧憲法下の内閣制度と現在のそれとは著しく異なるから
である。
 新憲法においては、「行政権は内閣に属する」のに対して、旧憲法では行政の大権はあ天皇にあって、内閣は行
政権の主体としての天皇の単なる輔弼機関にすぎなかった。
 すなわち、旧憲法では「国務閣大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」とあり、内閣は国務大臣が個別に天皇を輔弼
するにあたって、その責めを全うするための必要と便宜にもとづいて設けられたものにすぎなかった。旧憲法では国
務大臣が内閣という会議体を組織することは明らかにされておらず、内閣は憲法に直接根拠をもつ機関ではなかっ
た。だから、明治二十八年一月十四日の閣議決定は、そのままでは「正式にわが国の領土に編入する」ために国家
としての意思決定をしたことにはならない。行政の大権が天皇に属していたから、実際には、政策決定は内閣総理
大臣や各担当大臣によっておこなわれたけれども、国家としての意思表示は正式には勅令というかたちをとらなけれ
ばならなかった。

勅令第十三号および第十四号
いわゆる尖閣列島の無主地の先占を主張する一部の国際法学者は、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議
決定と一八九六年三月五日の勅令第十三号を関連させて、先占の法理をくみたてようとしている。

朕沖縄県ノ郡編制二関スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
    御 名 御 璽
明治二十九年三月五日
           内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文

             内 務 大 臣  芳 川 顕 正
勅令第十三号
第一条那覇首里両区ノ区域ヲ除ク外沖縄県画シテ左ノ五郡トス
 島尻郡 島尻各間切久米島慶良間諸島渡名喜島栗国島伊平屋諸島鳥島及大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二条郡ノ境界若クハ名称ヲ変更スルコト要スルコトハ内務大臣 
之ヲ定ム
   附則
第三条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム

朕沖縄県郡区職員及島庁職員に間スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
  御  名  御  ?
 明治二十九年三月五日
           内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
           内 務 大 臣  芳 川 顕 正 


勅令第十四号
第一条沖縄県島尻中頭国頭ノ各郡長一人及郡書記若干人ヲ置ク
第二条沖縄県宮古八重山ノ各郡ニ島司一人及島庁書記若干人ヲ置ク
第三条 沖縄県那覇首里ノ各区ニ区長及区書記若干人ヲ置キ那覇区長ハ島尻郡長を以テ之ニ充テ首理区長ハ中
頭郡長ヲ以テ之ニ充ツ
第四条 地方官官制中郡長ニ関スル規定ハ区長ニ適用シ郡書記ニ関スル規定ハ区書記ニ適用ス
第五条 沖縄県郡区書記ノ定員ハ沖縄県判任官ノ定員内ニおいて於        
           
知事之ヲ定ム
   附則

 もともと、この二つの勅令は、いわゆる尖閣列島の日本領編入を目的としたものではなかった。だから外務省の基
本見解では勅令第十三号はもちだしてはいない。では、この二つの勅令がだされた政治的、社会的背景はどういう
ものであったのか。この背景について、新里金福・大城立裕著『沖縄の百年』大平出版社刊、「第三巻・歴史編」によ
ってその概略をのべるとつぎのようになる。
 一八七九年に明治政府が武力を背景にした廃藩置県を沖縄に実施したとき、松田道之処分官は、租税はおいお
い軽減するが藩主や旧士族の身分家禄などはなるべくもとのままにして優待するから、各自安心して仕事にはげむ
ように、という格好のいいことをいって、新政府への協力を求めた(八二頁)。事実、明治政府は旧藩王尚泰に対して
は特別利付公債二○万円を、家禄もちの士族三六○余人には年額十五万余を与えた(八一頁)。同年四月に平民
にされた華士族の分家は録を失ったが、その年の十二月には旧慣どおり家禄を支給するということまでやった(八一
頁)。寄生的な士族階級に対する待遇は他府県よりもかえってよく、彼らの生活は前よりも楽になったといってよい。
 これに比べて無縁であった下級武士の生活は何の保証もされず、急速に零落して都落ちしていった(八一〜八二
頁)。農民は農奴的立場から開放さされたわけではなく、農民の租税は少しも軽減されなかった。旧藩の法規、税制
はそのまますえ置かれ、改正されたのは各離島のにも駐在所が置かれて警察組織が整備され、また裁判は「裁判
事務の執行は旧藩の法を参酌して人情風俗に従い適宜裁判すべし」というものであり、県知事が判事を兼務すると
いう、まことにひどいものであった(八三頁)。とくに宮古、八重山などの先島はあいかわらずひどい差別を受けていて
た。
 沖縄の農民は、首里王府の所有地を耕す農奴にひとしい立場におかれていた(六五、一三四、一四五頁)。首里
王府の所有地は全農地の七六%におよんでいた(一四八頁)。そしてそこには小作権というものも確立していなかっ
た。首里王府から賃与された土地の共有地とされ、納税義務は村にあった。農民は各戸ごとに村の共有地を割り当
てられた。この地割りは数年から十数年の周期で割り替えがおこなわれたから、おなじ土地をながく耕作することは
できなかった。これが地割制度である(一五一頁)。
 ところが宮古、八重山の先島では、土地は家を単位とする個人所有であったが、そのかわり人頭税制と名子制度
があった(一五二頁)。
 そしてこれらの制度は廃藩置県後も残った。人頭税制は島津が沖縄を殖民地とした、一七世紀のはじめからあった
もので、十五歳から五十歳までの全農民に、男には米、粟、女には上布を個人単位に例外なく賦課っするもので現
物納であった。また名子制度は、農民に対して旧士族のために、無償で労働を提供させたもにである。一八八八年
投じで約三、○○○人の名子が史員四百数十人に自由にこき使われていた(一三四頁)。琉球王朝時代から、三三
○キロメートルの海で沖縄本島からへだてられた宮古、八重山の士族階級の特権は、この人頭税制度と名子制度
の上に築かれたものである。
 一八九三年十一月三日、宮古の農民の代表四人は東京に着き、宮古の現状を政府に訴えた。中央の新聞は四
人の代表を「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。一八九四年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」が提出さ
れ、曽我祐準史は説明して「沖縄県諸島中には軍港とすべき処あり、わが東洋の関門というべき処なれば、もし今
日東洋に時変あらば沖縄に要塞を設くる必要なきあらず。これ実に諸君の熟考を請う点なり」と述べ、又重税負担に
あえぐ沖縄農民の惨状を知るものが少ないと欺いた(一三八頁)。明治政府は日清戦争に向かって体制を固めてお
り、沖縄は国境の島々であったわけである(一三九頁)。その直後の一月十七には宮古島福利村の農民一六○が
署名した「宮古島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程された。
 この請願の内容は島費節減と人頭税の改革を訴えたものである。衆議院はこれを可決した。四人の代表は政府に
も陳情して帰国した(一三八頁)。そしてこの年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○三年まで残され
た。じつは一八九三年三月十八日に奈良原繁沖縄県知事は宮古島民の訴えをとりあげて、蔵元、村番所の機構改
革、史員定員の削減、名子制度廃止、予算協議会の設置などを吉村貞寛宮古島役所長に内訓し、吉村役所長は旧
改革にのりだしたが士族たちの烈しい抵抗にあって、改革計画は失敗したということがあった(一三五頁)。宮古の士
族階級が、廃藩置県に強く反対しなかったのは、人頭税と名子制度が存続されてたからであった。
 一八九三年十一月に宮古農民の国会請願後、政府は直ちに内務書記官を沖縄に派遣して、「旧制度運用実情と
人心の傾向等調査」にあたらせた(一三九頁)。日清戦争という本格的外侵略戦争の準備をすすめつつあった政府に
とって、国境の島沖縄で紛糾がおこるのは、大きな痛手であったからである(一三八頁)。一八九四年には江木県治
局長を派遣して沖縄の地方制度の調整をさせ、また同年の三月二十八日には、大蔵省の祝辰巳氏を沖縄県収税局
長に任命し、税法調査させたが、祝氏の報告は「同県の制度は複雑にして、内地と同一の扱いはできぬ」というもの
で、工地整理の着手は先にひきのばされた(二二二頁)。
 一八九五年七月には、目賀田種太郎大蔵省主税局長を沖縄県制度改正方案取調委員に任命して調査に着手、
そのご若槻礼次郎国税課長によって同調査はつづけられた(一四○頁)。政府が沖縄の土地に着手したのは、一八
九九年四月からである(二二二頁)。 その間、中央政府はわずかに郡区の編成を整理して、お茶をにごしたにすぎな
かった(二二三頁)。一八九六年三月五日付勅令第十三号および第十四号がそれである。この勅令は四月一日から
施行された。そしてこれは、中央政府の令達によっておこなわれた沖縄の地方制度の最初の改正であった。沖縄の
旧慣地方制は、間切・島の制度であるがこの制度は農村地域にだけ適用され、首里、那覇の支配階級移住には別
の制度があった。
この郡区編に関する二つの勅令によって、改正されたのはつぎの諸点である(二二三〜二二六頁)。
@首里、那覇の二地区に区制を施行した。この両区はこれまでずっと支配階級の居住区で民有地であるのに移住
者は一切の貢祖や民費を負担していなかった。改正によって首里、那覇両区は区税もはらわなければならなくなっ
た。そしてまた泡盛製造税と塩田税は国庫に納入されることになった。那覇区長には島尻郡長を首里区長には中頭
郡長を兼任させた。議決機関として区会を設けた。
A農村地区を島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡に分け久米、
慶良間、渡名喜、粟国、伊平屋、鳥島、大東島を島尻郡の管轄とし、伊江島を国頭郡の管轄とした。島尻、中頭、国
頭の三郡に郡長を置き、宮古、八重山の両群には島庁を開設し島司を置くことにした。
 しかし沖縄県は、この二つの勅令による郡区編成によって,形式的には他府県と似た格好になった。沖縄県に徴兵
令が施行されたのは一八九八(明治三十一)年一月一日であるが、一八九七年六月二十四日に高島鞆之陸軍大
臣が松方正義総理大臣にだした、沖縄県及び東京府管下小笠原島に徴兵令を施行する勅令案ならび理由書には,
沖縄で廃藩置県後、十数年間も徴兵令を施行しなかったのは、当時の内政外交上の理由によるものであったが、い
まその理由を考慮する必要がなくなった。それに昨年から郡区制を施行して、制度も本土と似てきた。徴兵令を施行
するには好機である、といっている(二二五頁)。すなわち勅令第十三号、第十四号は、徴兵令を施行の役にもたった
ということになる。
 このように勅令第十三号と十四号がだされた背景は、明治政府が内政外交上の理由から、沖縄の旧慣制度をそ
のままにしていたが、宮古農民の人頭税廃止運動がきっかけとなり、政府は沖縄の近代化すなわち土地制度の改
革に、手をつけざるえなくなったということである。沖縄の諸制度の改革は租税制度改革であり、租税制度の改革は
土地制度の改革は土地制度そのものの改革であった。しかし沖縄の制度は複雑である。そこでとりあえず,郡区編制
ということでお茶をにごすことになったわけである。
 だからこの勅令十三号は、いわゆる尖閣列島とは全く関係なくだされたもので、関係あるかのようにいうことは誤り
である。
(1)法学協会編『注解日本国憲法』下巻、有斐閣刊。『図解による法律用語辞典』自由国民社刊。を参考文献とす
る。
(2)区長、郡長、島司は官選によって任命され、その俸給は従前どおり国庫負担であった。そして官選の実質は、そ
れまでの役所長の名所を変更したにすぎなかった。


(9)『ひるぎの一葉』より

 岩崎卓爾氏は一八六九(明治二)年仙台にうまれ、第二高等学校を中退して北海道札幌測候所に勤務、中央気象
台をへて、一八九八(明治三十一)年十月石垣島測候所に勤務、一八九九年に石垣島測候所所長となり一九三二
(昭和七)年退官し、一九三七年後が五月に石垣島で没した。彼は一生を通じて、木綿の着物を着て、下駄をはき、
洋服、洋傘、靴をもちいなかった。そして彼は石垣島の人たちから「天文屋のうしゆまい(じいさん)」と親しまれた。
一九一三年以後は妻子を仙台に帰して、年に一度東京で開かれる測候所所長会議に出席のついでに家族と会って
いた。程順則の『指南広義』が中央の機関誌『気象集誌』に彼の手ではじめて紹介された。退官後、彼は石垣島の
登野城に居を構え「袋風荘」と名付けた(『沖縄の百年』太平出版刊)。
一九七四年六月に,伝統と現代社から『岩崎卓爾一巻全集』が出版されている。ところが、一巻全集に載っている先
覚列島はほんのちょぴりである。彼の著作『ひるぎの一葉』のなかに「与那国島と波照間島と尖閣列島」があるが、
尖閣列島について、要旨つぎのように簡単にふれている。
@尖閣列島(通称クバ島また大正四年十月刊の水路図に尖閣諸嶼と記す)。
A尖閣列島(黒岩恒先生の新称)
B列嶼は魚釣嶼、尖閣諸嶼および黄色嶼より成る。
C先代古賀辰四郎氏が企図した初めのころ、退屈をなぐさめよとして猫を連れて行った。ところが繁殖力さかんで野
猫と化し、アホウ鳥は鳥から逃げてしまうようになった。無人島を開拓しようとする人は慎まなければならない。
D島嶼付近のカツオが群集することが多く、現在六九人がすんで漁×をしており、燐鉱あり。
また「石垣島気候篇」には「八重山群島の周囲と面積」に、南小島、北小島、魚釣島、久馬島の四島をのせている。
 石垣市に四○年も生活し、石垣島測候所に銅像まで建ててもらった岩崎氏氏は、一九○○年に宮島幹之助や古
賀辰四郎とともに尖閣列島に渡った野村道安八重山島司とは同居人(仙台)だから、当然黄尾嶼や魚釣嶼のことを
きており、古賀辰四郎や息子善次氏の事業についても知っていたとおもう。だが,岩崎氏の尖閣列島についての記録
はあまりにも少ない。岩崎氏は古賀氏の事業には興味がなかったようである。東京の中央気象台が、岩崎氏を東京
によびもどして技師にしてやろうと幾度も声をかけたのに、「実は、ここが日本一空がきれいなのですと」応じなかった
彼のことだから、バカ鳥を捕まえて羽毛をむしり、肉は缶詰にして金もうけるというよな、ナマグサイことには気をひか
れなかったのかもしれない。
(1)一九三七年『沖縄日報』に連載、一九六七年、琉球新報社刊。


 (10) 下関条約と台湾の受渡し

下関講和談判
 日清戦争の講和談判は、一八九五(明治二十八)年三月二十日から下関の藤野楼(春帆楼)でひらかれた。日本
側全権は伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣であり中国側は李鴻章筆頭全権であった。会談は七回おこなわ
れた。
 日本側の講和条約案は「奉天省南部と奉天省に属する島嶼」、「台湾全島及其付属諸島嶼及澎湖列島」などの割
譲と軍費賠償として三億両(テール)を要求した。李鴻章全権はこの日本の要求に対して、「日本は今回交戦の初
め、清国と干戈を交うるに到りたるは朝鮮の独立を図り清国の土地を貧るに非ずと中外に宣言せしに非ずや」、「兵
費に就ては今回の戦争は清国先づ手を下したるに非ず、また清国は日本の土地を侵略せしことなし。故に論理上よ
りいえば、清国は公費を賠償すべきものに非ざるが如し」と主張した。中国側は、一八九四年十二月二十五日をもっ
て、すでに朝鮮の独立自主を認める旨を宣言している、だから日本は戦争の目的を達したことになる。それ故兵費の
賠償は十二月二十五日までとし、それ以後の分について要求するのは不当だ、ともいった。日本側が「台湾全島及
其付属諸島嶼及澎湖列島」を日本によこせと要求したとき、中国側は「澎湖列島に限る事」と修正案をだした。伊藤
博文総理と李鴻章全権とのやりとりの日本側の記録はこうなっている。
 李 貴国が未だ占領せられざる台湾までも要求の条件とせられるは、少なくともその真意を解するに苦しむ所なり。
 伊藤 現に占領すると否とは、敢て問う所に非ず。仮し未だ占領せざるも、要求の条件とするにおいて何の妨げあ
らんや。
 李 現に占領せざる地を要求せらるるは、其当を得ずと思考す。
 伊藤 若し然らば、直ちに兵を送りて占領せしめんが如何。
 伊藤総理はわれわれの最大の任務は、一日も速く講和条約を結ぶことであるとして「広島に於ては出征の準備己
になり、何時を問わず×を解かんとするの運送船六十隻あり、現に昨夜以来今朝までの間に、当時峡を通過したる
運送船二十席に達せり、而してその向かう所は、天津を距る遠からざるべし」といって李全権に圧力をかけた。

 伊藤総理の脅迫によって、李全権は台湾を日本に割譲することをのぞんだわけだが、台湾の受渡しついてのやりと
りはこうなっている。尖閣列島に関連して、これは非常に重要である。
 李 条約批准の時は貴国よい其高官の為めに全権委員を簡派せられんか、其節を以て土地引渡に関する規定を
十分商議せんとす。而して貴国に割譲したる土地へは無論武官を派出せらるべきも、之と同時に文官をも派遣せし
められたし。然らば引渡細目を議するに於て、双方に便宜多し。又実際の引渡は、批准交換後六箇月と決定せられ
んことを望む。
 伊藤 六箇月は長きに過ぐるを以て許諾し難し。
 李 兔に角批准交換後引渡に関する事項を商議する為に、双方より特に全権委員を任命せられざるべからず。
 伊藤 条約第二条第二項の実行に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
 李 批准交換後に於て此事(筆者 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 条約第二条第二項の実力に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
 李 批准交換後に於て此事(筆者注 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 交換後にて不可、必ず今日に於てえ決定せざるべからず。
 李 実は台湾に関しては、余は同地総督に指揮命令する権力を有せず。因て批准交換の時、貴国より北京に簡派
せられる全権委員と、我総理衙門との間に於て商議せられんことを望む。然らば我総理衙門はその商議の結果を以
て、台湾総督に指揮するところあるべし。因て此事交換後、通商航海条約、陸路交通貿易に関する諸条約と共に商
議せらたし。
 伊藤 其の如き遅緩の措置許さず。必ず今日に於て確定せざるべからず。
 李 然れども批准交換の非ざれば,土地の引渡を得ざるは勿論なれば、交換後全権委員をして実行せしむるの外
なし。今日は単に其事の約束のめに止め置かれんことを望む。
 伊藤 約束のめ止まるは不可なり。我は実際の引渡を受くる為に何時と雖も全権委員を簡派すべし。必ず今日に
於て確定する所なかるべからず。
 李 然れども余は台湾総督に向い、何等指揮するの権力を有せざれば、今日に於ては如何とも名言するを得ず。
伊藤 批准交換後は台湾は我主権の及ぶ所なれば,其場合に於いて何
等商議するを要せず。
 李 台湾の引渡は少なくとも六箇月の猶予を乞わざる得ず。現に我官史及土豪等をして、公私の事務をもまとむる
丈の余裕を与えられざれば、或は為めに不慮の変生ずるなきや得し難し。
 伊藤 閣下は何故に今日此の取極書に同意すること能はざるか。
 李 余の権力の及ばざる所なれば,今決定するを得ず。.結局批准
交換後、両国全権委員をして商議せしめられたしと乞うの外なし。
 伊藤 然らば閣下は何れの日会同して、何の日まで決定せんとするか。
 李 其期限は今明答するを得ず。
伊藤 とても承諾し難し。
 李 既に台湾割譲の条約なりたる後のことなれば、両国全権委員が最後の引渡に付ての規定を商議するなれ
ば・・・・・・
伊藤 然らば一定の期間を確定せざるべからず。先批准交換一箇月と取極め置かん。

伊藤総理は「講和条約批准交換後、一箇月以内に双方の政府は台湾に委員を派遣し、同批准交換二箇月以内に
最後の引渡を遂行すべし」という案を李全権に示した。これに対して李全権は、平和回復ができれば両国官史は友
好的にやってゆくのだから、そんなに期限を厳しくする必要はあるまい。閣下は実にに多く望まる(You are too
hungry)といった。批准書交換についても伊藤総理は条約調印後10五日といい、李全権は一ヶ月と主張した。伊藤
総理は十五日から二十日と妥協したが、李全権は二十日では不十分だと反論した。結局講和条約には第五条で
『日清両国政府は本役批准交換後、直ちに書く一名以上の委員を台湾省に派遣し、該省の受渡を為すべし、而して
本役批准後二箇月以内に、右受渡を完了すべし』と規定した。
 講和条約は一八九五年四月二十三日に駐日独・仏・露三国の公使が外務省を訪れ、林次官に,日清講和条約中
の「×東半島の割地につき重大なる異議を」申したてた。いわゆる三国干渉である。そのことによって中国政府部内
日清講和条約の改訂・批准阻止を主張する声が大きくなった。伊藤博文総理大臣も陸奥宗光外務大臣もすっかりあ
わててしまい、結局、四月三十日に御前会議を開いて×東半島を永久に放棄することにきめた。批准書交換は五月
八日におこなわれ、五月十日には×東還付の天皇の詔勅が出された。


大急ぎの台湾受渡し
台湾の受渡しについては、筆者の手元にある岩波書店刊『近代日本総合年表』にも、おなじく岩波書店刊『日本史
年表』にも、また中央公論社『日本の歴史』別巻5の年表にも載っていない。だが、外務省編『日本外交年表』(原書
房刊)には載っている。

 明治二十八(一八九五)年六月二日,清国全権李経方と樺山台湾総督間に台湾及び澎湖列島受渡を了す。
 下関の講和談判で李全権は,台湾の引渡しには六ヶ月かかるといい、伊藤総理は一ヶ月と主張した。結局は二ヶ
月以内ということになったのだが、実際には批准書交換の日から二五日目に台湾の受渡しは完了した。講和談判の
なかで伊藤総理は、批准書交換後は台湾はわが主権のおよぶところだから、受渡しについてなにも中国とのあいだ
に相談する必要はないといったし、下関条約の台湾割譲に反対する台湾省民の抵抗武装力は、五月二十五日蜂起
しているのだから、中国側としても公私の事務をまとめて引継ぐという状況ではなかった。だから李経方全権と樺山
資紀台湾総督とのあいだの受渡しは、至極おおざっぱなあものであったろうと思う。だから台湾の付属島嶼名までい
ちいちあげるというようなことはなかった。一八九六年五月に大阪で出版された新直×編、吉岡平助発行の『高等小
学科地理補習用「台湾地理小誌・全」』には「台湾本島のほか島嶼の挙具べきものは西部の澎湖島を第一とし、つ
いで小琉球島あり、頭部に紅頭嶼、火焼嶼あり、また東北海中に二島あり、一を亀山といい、一彭佳嶼という」ときわ
めて簡単に書いている。
 奥原敏雄教授は台湾が中国領になったのは一六八三年であり、棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼などが台湾に行政編


以下 18行抜け


[ 井上清教授と奥原敏雄教授の古文書をめぐる論争

     (1) 尖閣列島は台湾の付属島嶼か無主地か

   京都大学井上教授(日本史)は、その著書『尖閣列島』のなかで、「国士舘大学の国際法助教授奥原敏雄のほ
かは、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない」と書いている。国士舘大学奥原敏雄助教
授(国際法)は、直接歴史的古文書に触れて、いかにして尖閣列島が無主の地であったかを立証しようとしている。
尖閣列島が無主の地でなければ、古賀辰四郎、善次氏親子の尖閣列島開発事業という実効的支配の証拠を何  
百ならべてみても、それらはしょせん、領有権主張の根拠にはならないからである。

   奥原教授はこのことについて、雑誌『中央公論』一九七八年七月号掲載の同教授論文「尖閣列島領有権の根
拠」のなかでこう述べている。

 もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わが国の立場はたしかに不利になる。台湾の付属諸島として尖
閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は、台湾およびその付属諸島を日本に割譲しているから、第二次大戦
後わが国が台湾を放棄した結果として……(尖閣列島も)放棄したことになる……。

 また仮に台湾の付属諸島として扱わなかったとしても、中国領である尖閣列島の領有権をわが国が取得するため
には、時効の法理による以外にないということになる。ところが時効の法理は日清戦争といった事実が存在しない場
合に使い得る議論であって、もし日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法  理によってわが
国が尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはきした時期に、わが国が
領土編入したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そういった行為を可能ならしめたということになるから
である……少くとも尖閣列島が中国領であるという前提に立つ限り、それが台湾の付属諸島であろうとなかろうと、
日本が日清戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである。

  そしてまた同論文のなかで奥原教授は、尖閣列島の考え方として六つあげている。

(1) 尖閣列島をめぐる領土紛争は政治的紛争ではなく、法的な紛争である。

(2) 私的な紛争ではなく、中国と日本の国家間の紛争である。

(3) 国家間の法的紛争だから国際法に従って解決しなければならない。歴史的見地から尖閣列島の領有を主張
するということと、その主張が法的に認められるかどうかは一応別問題である。

(4) ただし、国際法が歴史的事実を無視するということではない。問題は歴史的古文書が、国際法上に意味のあ
るものかどうかということである。

(5) 実効的支配を要件とする先占の法理は、現代の国際法のもとでも有効である。

(6) 歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これは法的な観点から分析するならば、いわゆる発見、命名、領
有意思の存在だけで領有権の帰属が決定されると主張するにひとしいことになろう。このような主張は初期の先占
の法理にも存在したものである。発見優先の原則(国家の意思による発見)は、ポルトガルとスペインが海上の支配
権を握っていたヨーロッパ近世初期から一八世紀の後半まで有効であった。ただし、この場合の発見というのは、大
陸の一部を発見したことにより大陸全体の領有権を取得し得るというものではない。

  わが国が尖閣列島の領有権を主張するには、先占以外にはない。割譲とか征服とか併合とかのいくつかの領有
主張の根拠があって、そのなかから先占を選んだわけではない。南方同胞援護会の尖閣列島研究会が、一年もか
かってだした結論は先占であった。無主地の先占を立証するために、資料を集めたと考えられる。先占を主張するた
めには、尖閣列島は絶対に台湾の付属島嶼であってはならず、それは無主の地でなければならない。国際法におけ
る無主の地の先占が、新たな領土取得の方法として、欧州列強によって、アメリカ大陸やアフリカ大陸での植民地獲
得のために機能したのは十九世紀以降であり、それは国家の一方的行為でおこなわれた。ところが奥原教授は、一
五三二年の中国の琉球王に対する第一一回目の冊封使陳侃の記録や、一五六一年の郭汝の記録を、一九世紀
の国際法に当てはめて解釈しようとしているところにたいへんな無理がある。

  中国(明)の太祖が琉球中山王察度に詔諭をあたえたのは、一三七二年であり、太祖の冊封使が琉球に来たの
は、一四〇二年である。以来、琉中間には国境問題も領土紛争も全くなかった。琉球国は三六島であり、琉球国と
中国とのあいだに第三国があるはずはなかったし、無主の地というものがあるなどという理屈は、思いもおよばなか
ったことである。陳侃が皇帝の使節として琉球に赴いたときには、尖閣列島にはすでに中国の島名が付けられてい
た。そして、一九三四年に発表された陳侃の『使琉球録』は、四〇〇年も後世の国際法の法理「無主地の先占」に
対抗するために書かれたわけではない。これは、国際法における無主地の先占というものを知っていて、デ・ロング
アメリカ公使やアメリカのル・ジャンドル前厦門領事などにそそのかされて、一八七四(明治七)年に、台湾を無主の
地として兵を送り、中国から厳重な抗議を受けて、大久保利道内務卿が自ら中国に赴かなければならなかった明治
政府とはわけが違う。中国でも琉球でも官吏や船員は、福州から那覇へつうずるこの海の道をよく知っていた。琉球
の船員は慶良間で養成され、海外へ渡航する船の船員の三分の二までは慶良間の出身者であった。那覇と福州と
のあいだにある島は、琉球のものでなければ宗主国中国のものだという認識であった。また当時の中国の領土意識
から考えてもそうであった。

      2 『三国通覧図説』の図をめぐる論争

  林子平(一七三八〜九三年)の『三国通覧図説』中の「琉球三省並三十六島之図」は、一七八五(天明五)年秋
に東都日本橋北室町三丁目須原屋市兵衛が出版したものである。この図は福州から那覇への航路上に、花瓶嶼、
彭佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山を、ほとんど直線上に描き中国本土とおなじ桃色の彩色をし、琉球三六島と区別を
している。

  奥原教授の主張

  『三国通覧図説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮に、同色に塗られているから中
国領と理解した場合、旧満洲と日本とがおなじ緑色、北海道と琉球はおなじ褐色、台湾はこのときすでに清朝の版
図に正式に編入されていたのに、朝鮮とおなじ黄色に塗られていたのはどういうわけか。色からだけ問題にすれば
旧満洲が日本領、北海道は琉球領、台湾は朝鮮領になってしまう。林子平が出鱈目な知識しかもっていなかった
か、地図の色が領土を識別したものではないかのいずれかでなければならない。もし出鱈目な知識しかもっていな
かったとすれば、釣魚台などを中国領としたことの信憑性もきわめて怪しいことになる。林子平が依拠した原典は徐
葆光の『中山伝信録』(一七一九年)であった。『中山伝信録』には二枚の地図が付されている。一つは「針路図」で
あり、いま一つは「琉球三十六島之図」である。林子平の「琉球三省並三十六島之図」がこの二枚の地図を参考にし
てつくられたことは、一見して、明らかである。『中山伝信録』からは、いかなる意味においても、釣魚台が中国領に
属することは明らかにされていない。『中山伝信録』は伝聞に依拠している以上、第二級の価値しかない。

  井上教授の主張

    釣魚島とそのならびの島々に関する明治以前の古い記憶は、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通
覧図説』の附図の「琉球三省並三十六島之図」のみである。林子平は一七一九年の冊封使徐葆光の『中山伝信』
の図によって書いたものである。だから価値が低いのではなく、価値はきわめて高い。徐葆光は琉球に渡るにあたっ
て、琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点や誤りを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、と
くに中国人専門家を連れてきたほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究を
始め、程順則と蔡温を相談相手として八ヶ月間琉球の研究をした。程順則は琉球人で、中山王の家来であり、清皇
帝の陪巨であった。彼は琉球の生んだ最大の儒学者であり、地理学者であった。また、蔡温は、福州に三年間留学
して、地理、天文、気象を専攻し、のちに琉球王府の執政官となった人で、程順則につぐ当時の大学者であり、琉球
の王国時代を通じて最大の地理の専門家であった。

  徐葆光は『中山伝信録』を著わした。この『中山伝信録』は出版後間もなく日本に輸入され、日本の版本もでた。
そして『中山伝信録』は明治初年に至るまでのあいだ、日本人にとって琉球に関する知識の最高の源であった。だか
ら、一八八五年九月二十二日付で西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した「久米赤島(筆者注 赤尾嶼)
外二島取調ノ儀ニ付上申」には久米赤島、久場島および魚釣島は、古来沖縄でいうところの島名で大東島とは異な
り、『中山伝信録』に載っている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがある、としている。また
同年十一月二十四日付西村県令から山県内務卿への文書では「清国ト関係ナキニシモアラス」と書いている。

  程順則は一七〇八年に『指南広義』を著わしたが、琉球人の文献に釣魚諸島の名がでてくるのは、一六五〇年
に琉球の支配層のなかの親日派向象賢の『琉球国中山世鑑』巻五と『指南広義』の「針路条記」の章および付図と
の二つしかない。向象賢は陳侃の『使琉球録』をそのまま引用している。程順則の本は、だれよりも清朝の皇帝とそ
の政府のために、福洲から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣
魚島などのことが書かれている「福洲往琉球」の航路記は、中国の記録に依拠している。だから徐葆光の『中山伝
言録』の図によって描いた林子平の「琉球三省並三十六島之図」の価値はきわめて高いものである。

 両教授の主張は原文のままではなく、著者の研究ノートとして整理したものである。

(1) 両教授の論争は、林子平の図の色分けについておこなわれているが、その図は尖閣列島が福州・那覇間に 
直線的に点在している。ところが林子平の図には幾種類かあって国会図書館の図は、第11図のとおり?籠山のもと
に、まとめて描かれている。?籠は台湾の基隆である。

   この図も天明五年秋、東都日本橋室町三丁目須原屋市兵衛梓のものであるが、その下に仙台伊勢□□助□
□とあり、これは奥原教授や井上教授の見た地図とは違っている。版木の彫り方もうまくない。これは初版かあるい
は幕府に版木をとりあげられたあとのものではなかろうか。この図も奥原教授としては別の三十六島の図と同様に中
国領と断定できるものではないかもしれない。

(2 奥原教授は、林子平が、出鱈目な知識しかもっていなかったのではないかといっているが、これは林子平に対
する評価を誤っている。林子平自身決して出鱈目な人ではない。経世家としてじつに優れた人であった。彼は仙台か
ら江戸に遊学、一七七五年長崎に行き、オランダ人からロシアの南下の形勢をきき、 「日本国」としての防衛の緊急
性を痛感して,このことを日本民族全体にひろめなければと考え、地理学・兵学の研究をし『三国通覧図説』を著わ
し、また『海国兵談』(一七八六年)を出版した。林子平は一七七五年の長崎行きののち、二度長崎を訪れ、また江
戸で大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周らの蘭学者と交わり、海外の事情をきいている。彼が出鱈目な人間でないこ
とは、一七八八年にロシアのエカテリナ二世女帝の命を受けたラスクマンが根室に入港して以来、ロシアの南下政
策は続き、一八七四年三月にはロシアのあいつぐ暴力によって、日本は樺太から居留民四五八八人を北海道に引
き揚げさせ、一八七五(明治八)年に樺太・千島交換条約を結び、樺太はすべてロシア帝国に属することになってし
まった。このことを見ただけでも林子平が出鱈目な人でなかったことがわかる。彼はまことに先見の明があったとい
わなければならない。

(3) 林子平の『三国通覧図説』は、「三国通覧與地路程全図」、「朝鮮八道之図」、「琉球三省並三十六島之図」、 
「蝦夷国全図」 (北海道) 、「無人島大小八十余山之図」 (小笠原) の五枚にわかれている。だから、奥原教授が、
北海道と琉球はおなじ褐色に、台湾と朝鮮がおなじ黄色に色塗りされているから、色わけだけからいえば台湾が朝
鮮領に、北海道は琉球領になってしまうといっているのは、それはへ理屈というものである。

  林子平の『三国通覧図説』はイルクーツクを経て、一八三二年にはドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプトール
の手にはいり、パリでフランス語に訳され出版されている。その地図も色分けされている。小笠原諸島の帰属問題で
の日米交渉の際には、「無人島大小八十余山之図」(小笠原)は、日本にとって有力な資料となった。

     (3) 赤尾嶼と久米島のあいだ

  『使琉球録』と『重編使琉球録』

 陳侃は一五三二年に琉球に来た第一一回目の冊封使であり、郭汝霖は一五六一年の第一二回目の冊封使であ
る。陳侃の記録に『使琉球録』があり、郭汝霖には『重編使琉球録』がある。陳侃の『使琉球録』は「使事紀略」と「群
書異質」の二部からなっている。

 陳侃の『使琉球録』より

  九日、隠隠見一小山、乃小琉球也。十日、南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平嘉山、過釣魚

 嶼、過黄毛嶼、過赤嶼、目休暇接、一昼夜兼三日之程。……十一日夕、見古米山、乃属琉球者、夷人歌舞於舟、

  喜達於家。

  

  郭汝霖の『重編使琉球録』より

  (嘉靖四十年五月)二十九日、至梅花所開洋。幸値西南風大旺、瞬目千里、過東湧、小琉球。三十日、過黄

  茅。閏五月初一日、過釣魚嶼。初三日、至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。

  

  奥原教授の主張

 陳侃が「十一日夕、久米島を見る、すなわち琉球に属するもの」といい、郭汝霖が「赤尾嶼は琉球との境の」島だ」
といっても、それまで通ってきた赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚嶼等の島々が中国領であることを示す、いかなる証拠も見出
だすことはできない。冊封使録は中国人の書いたものであるから、赤嶼が自国領であるとの認識があったとすれば、
はっきり中国領とわかるように記述できたはずである。尖閣列島が中国領か琉球領かを決定する前に、両国のいず
れにも属さない無主地である場合がありうることを、最初から無視しているところに問題があるといえよう。冊封使録
に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などに触れているのは、主として航路の目標とての関心からである。

  井上教授の主張

 そもそも当時の中国人の領土意識からすれば、琉球全土も中国皇帝に臣属している中山王の国土であり、一種の
属領であった。だから明治政府が強権をもって琉球処分をしたとき、中国側はそれに反対し、琉球二分案について日
中間で交渉がもたれたが、この件は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。日清間の対立はそのまま
放置されて日清戦争となった。日本の琉球独占が確立したのは、日清戦争で日本が勝利したことによってである。
明・清が琉球に冊封使をだした当時、 「普天の下王土に非るは莫し」 という中国人の天下観念からいっても、琉中間
に無主の地があるなどと考えるわけがない。冊封使はまぎれもなく中国領の福州から出発し、まぎれもなく中国領の
台湾の北を通り、やはり中国領であることが自明の花瓶嶼や彭佳嶼を通り、やがて釣魚島、黄尾嶼を過ぎて赤尾嶼
に到ったので、感慨をこめて、これが琉球地方を界する島だと書いた、この文勢文脈は、赤尾嶼までが中国領で、こ
こから先が琉球領だと解するのが普通であろう。

  奥原教授の井上教授に対する反論

  井上教授は、陳侃や郭汝霖が赤嶼(赤尾嶼)と久米島のあいだが琉中間の界をなすとする前提として、台湾を
「まぎれもない中国領」 としている。しかし、一六九六年の高拱乾撰『台湾府志』 によれば、台湾が中国領になった
のは一六八三年で、綿花、花瓶、彭佳三嶼が台湾に行政編入されたのは一九〇五(明治三十八)年で、日清戦争
以後のことである。井上清教授が台湾を 「まぎれもない中国領」 とした前提は崩れてしまう。井上教授は鄭舜功の
『日本一鑑』の 「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也 」 から釣魚嶼は台湾の付属諸島であることが立証されるとしてい
る。また井上教授は、小東は明朝の行政管轄では、澎湖島巡検司に属し、澎湖島検司は福建に属しており、鄭舜
功は釣魚嶼を台湾の付属の小島と明記しているから、それは中国のものであることは明らかだとしている。しかし、
澎湖の巡検司制度そのものが『日本一鑑』の一六八年前の一三八八(明の洪武二十一)年に廃止されていた。

  

  巡検司制度は唐の時代に設けられ、元もその制度を受け継ぎ、明の巡検司制度も元の制度をすこし改めた程度
のものであった。澎湖島巡検司が廃止されても、巡検司制度そのものが廃止されたわけではない。倭寇の侵入を防
衛するために 「衛」、「所」、「巡検司」 が設置された。そこに軍隊が置かれ、また城が築かれた。一三八六 (洪武十
九)年から一三八七(洪武二十)年にかけて、明朝は大規模な倭寇防衛対策を打ちだしたが、それはまず海浜の防
衛であり、築城であった。浙江省(昔は浙西、浙東に分けられていた)には、洪武十九年から二十年にかけて五九の
城が築かれた。中国の倭寇防衛策からきりはなして、澎湖島巡検司制度が廃止されたと単純な考え方をしてはなる
まい。

  「中外之界」

  汪楫(康煕二十年、一六八一年の冊封使)の『使琉球雑録』につぎのような記述がある。

   二十四日天明ニ及ビ、山ヲ見レバ則チ彭佳山也……、辰刻彭佳山ヲ過ギ、酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。船空ヲ凌グ

  ガ如クシテ行ク……

   二十五日山ヲ見ル、応サニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザル也、

  薄暮郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ、風涛大ニ作ル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥を溌ギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラ

  シ皷ヲ撃チ、諸軍皆申シ刃ヲ露ハシ、舷ニ俯シテ禦敵ノ情ヲ作ス、之ヲ久シウシテ始メテ息ム、問フ、郊ノ義

  ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也(傍点は筆者)、界ハ何ニ於テ辨ズルヤ、日ク懸揣ノミ、然レドモ頃者ハ恰モ

  其ノ処ニ当リ、臆度ニ非ル也、之ニ食シ復タ之ニ兵ス、恩咸並ビ消スノ義也(井上清論文¬釣魚列島の歴史と
  帰属問題」『歴史学研究』一九七二年二号)。

   

  冊封使たちの使録にしばしば過溝の祭がでてくる。「水皆黒色」とか「黒溝」とか「黒水溝」とも記されている。井
上教授は汪楫の使録のなかの「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也」というのは赤嶼と久米島のあいだが
「中外の界」であると主張する。これに対して奥原敏雄教授は、汪楫は舟子との問答をそのまま記述するかたちで
「中外之界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えを述べたものではなく、「中外之界」をめぐる汪楫と舟子の
問答は、冊封船の往路でなされたもので、その時期に台湾は、まだ清朝の版図に入れられておらず、翌年汪楫が帰
国した年に版図編入されているから、「中外之界」は領海域を意味するはずがない、と反論する。

 しかし、この過溝の祭は、赤尾嶼の現場の状況と一致している。高岡大輔氏は『季刊沖縄』第五十六号につぎ

のように書いている。

 大正島(筆者注 赤尾嶼)は魚釣島より役一〇〇キロ東方にあるが、台湾東海から北上して来る黒潮は魚釣島附
近で大陸棚上の大陸沿岸流と遭遇して北東に転向し、更に大正島附近で再び北方に方向を転ずるが、それは南方
系植物の濁流物が、これら群島の沿岸に打ちあげれていることからも証明されるというが、その黒潮の速度は大正
島附近で四浬と言われ、この附近を小船で船行することは、時に危険であるいう(「尖閣列島周辺海域の学術調査に
参加して」)。

   また岩崎卓爾氏はこう書いている。

島の人達自から孤島の裡に跼蹐して蒼海を怖るる陸の人となりしは「ミジュ―」(海の溝の意)の難を恐れたのであ
る。ソハ風なくして潮浪の浪、白馬の如く奔り、或は風浪風波の為め構造跪弱なる船?々破壊、流寓漂浪の身とな
り、空しく貴重なる生命を喪ふた歴史は、これが実例を以て充満するからである。

 黒潮の事を中国人は黒溝とか落?とかいって居る。黒溝というのは黒色の水流という義で黒潮というのと意味正に
一致している。次に落?というのは洋上の一段低く流るる潮流という意味で黒潮の流れは他の洋上よりは少し低く流
れて居ると見ゆる。中国人は落?を恐るること最も甚だしく隋、唐、明、清の昔より深く之を警戒して居たということは
中国の史書に散見するところである(『岩崎卓爾一巻全集』二六六頁参照。)

 そして奥原教授も、「中外の界」というのは、「東シナ海の浅海と、琉球の西方沖を南北に流れる黒潮との境にあた
る潮の流れの段差を示す部分を指すことは明らかである」と述べている。

 魚釣島も南、北小島もそうであるが、赤尾嶼は水深二〇〇メートル以内の中国の大陸棚の縁にちょっとのっている
というかたちで、それから沖縄の島々とのあいだの南北に細長い沖縄舟状海盆へと急に落ちこんでいるのである。
南方同砲援護会の目的は東中国海の海底石油を日本のものとするために、尖閣列島の領有権主張の根拠を探すこ
とであった。だから、尖閣列島は台湾の付属島嶼でないことを証明しなければならない。無主地であることを証明しな
ければならない。だから赤尾嶼と久米島のあいだが琉中間の境(界)であってはならないのである。

  また棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼の三嶼が日清戦争以前に台湾に行政編入されていたのでは困るのである。こうな
ると国際法とはカントの道徳律みたいなものに思えてくる。一九世紀の国際法が先にあって、一六〜七世紀の歴史 
に光を当てて、いいとか悪いとかいっているようなものである。歴史は書きかえられるということとはわけが違う。

  

(1)小琉球は台湾、平嘉山は彭佳嶼、黄毛嶼は黄尾嶼、赤嶼は赤尾嶼。古米山は久米島、夷人は琉球人のこと。傍
点は筆者。

(2)梅花所開洋とは福州から出発したという意。東湧はいまの東引島。井上教授は黄茅はいまの棉花嶼ではないか
といっているが、これは高草嶼とも呼ばれた彭佳嶼ではないかとも考えられる。傍点は筆者。

(3)潮流の沖縄方言。

  \ 井上教授と筆者の見解の相違

      (1) 軍事基地か石油か

  

   井上教授が尖閣列島を、一八九〇年代にも一九七〇年代にも、軍事基地として重視しているのに対して、筆者
はバカ鳥、石油という資源を重視しているというところに、考え方の相違のひとつがある。井上教授は、これらの島を
明治政府が重視したとする根拠として、一八八六(明治十九)年三月の山県有朋内務卿の沖縄視察、一八八七年四
月に沖縄県知事に任命された福原実知事が予備役陸軍少将であったこと、そしてまたその年の十一月に伊藤博文
総理が、大山厳陸軍大臣や仁礼景範海軍軍令部長らをしたがえて、軍艦三隻をひきいて六日間の沖縄視察をした
こと、そしてこれらは対清戦争準備のためであったこと、また一八九五(明治二十八)年一月、貴族院で「沖縄県県政
改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」というこ
とのみくりかえし強調され、その要地の県政を改革して「海防に備えねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあ
らわれているとしている。

 井上清教授はさらに、著書『尖閣列島』で、「この列島はまた、軍事的にきわめて重要である。ここに軍事基地をつ
くれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる」、「またこの列島の中で最大の釣魚島には、電波基地を
つくるという。周囲一二キロメートル、面積約三六七ヘクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくる
こともできる。潜水艦基地もつくれる」といっている。

 筆者は、沖縄は国境の島々であるから沖縄を重視したとは思うけれども、明治政府は尖閣列島を軍事基地として
重視したことはなかったと答える。事実、バルチック艦隊の最初の発見者は宮古島の漁師で、石垣島の電信所にサ
バニに乗って知らせに行った。尖閣列島に見張りをだしてはいなかった。

 また、現在でも軍事基地としての価値はない。北朝鮮に侵入させたスパイ船の心臓部を、三沢基地から爆破すると
いう時代である。久場島(黄尾嶼)には水がないし、魚釣島を潜水艦基地にもできない。かつて日本も米国も、尖閣列
島を軍事基地としたことはなかった。

      (2) 窃取か割譲か

 つぎは尖閣列島が、下関条約第二条によって日本領にされたのかどうかという点である。

 井上教授は、著者が『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号に発表した論文「いわゆる尖閣列島は日本のもの
か」に対してつぎのように反論されている。

 高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清
国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台
湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことにはまちがいない。そ
れゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一
二、一三節(著者注 「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」、「日本の『尖閣』列島領有は国際法
的にも無効である」)に書いた通り、ここは台湾略奪と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げ
んみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。
もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲され
たものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八
年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不
可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない(同教授著『尖閣列島』現代評論社
刊、一四六頁)。

筆者も井上教授に対して否定的に答える。

尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中
国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲
されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主
義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管
下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは
沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったこ
とを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとお
おざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。

 井上教授は「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」といわれるが、なるほど経過をみればそうと
もいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのであ
る。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。

http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html

海上の道はあったか−琉球人−


日本人の源流を探す旅の出発点は、沖縄本島の具志頭村港川での“港川人”の発見であった。

そして旅の終わりもまた、その沖縄本島を含む、南西諸島を訪ねることとしたい。
 それは、この旅の中で幾つもの課題が出来たからである。

1)琉球民族がどのように形成されたか。アイヌとの近縁性は事実か。

2)農学の佐藤洋一郎がいうように、熱帯ジャポニカは「海上の道」を伝って渡来したのか。

3)神話学が説く「古栽培民(芋などを主とする原始的な農耕民)」の渡来ルートは?。

4)日本語の語彙の多くがオーストロネシア語由来と言うが、オーストロネシア語を使う民族集団の大規模な渡来があったのか。

 柳田国男が説いた「海上の道」が本当に機能し、以上のような疑問に答えうるのか、南西諸島にその痕跡を訪ねよう。

  「海上の道」はあったか?- 南西諸島の地域別の歴史-

 この項は、纏まった文献や解説がなく困っていたが、意外にもweb上に優れた論文が発表されていた。

 小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」と木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史−発掘調査でわかったこと−」の二つである。

 まず、小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」をテキストとし、参照、引用させていただいた。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
      http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hitomono/

 
まず、次のランドサットの写真から、地政学的に俯瞰してみたい。

 南西諸島とは、この写真で明らかなように、ユーラシア大陸の東端の比較的浅瀬に浮かぶ島々である。その更に東は、深い海溝となって沈んでいる。

 したがって、氷河時代の特に寒い時期には何度も陸化し、台湾島を介して大陸と繋がっていたことは疑いない。その陸橋を伝って、3万2千年前に山下洞人が、1万8千年前に港川人が沖縄島にやって来たのであろう。

 港川人の形態が、ジャワ島のワジャク人に近似し、且つ進化の延長線上に縄文人が位置することから、日本人の南方起源説や二重構造モデルが出来たことは、すでに説明して来た。

 不思議なことに、人骨が出土するのに、彼らが使っていたはずの石器や骨角器などの考古学的資料がこれまで確認されていなかった。

 しかし、山下洞穴の出土資料を再調査したところ、礫器1点・敲石(たたきいし)2点など旧石器遺物の可能性が指摘されるに至っている。


 小田静夫(敬称略。以下同様)によると、この地域の旧石器文化は右図のように展開していたようである。  

 
トカラ海峡を境に、九州では既に詳しく調べたナイフ形石器やその後の細石刃の文化が、南西諸島の中部地域と南部地域は、東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域との関連で捉えられる「不定形剥片石器文化」が展開していた。

 ただし、これは旧石器時代の話で、冒頭の諸課題に応えられる時代の話ではない。

 その後の歴史は、北部・中部・南部のそれぞれの地域で、様々である。
沖縄県の埋蔵文化財センター発行の「いにしえ紀行」に記載の年表を改変して纏めると次のようになる。

  まず北部の島々は、旧石器時代以来、一貫して南九州の文化圏に属し、九州の土器文化をストレートに受け入れ、西日本の文化と歩みを共にした。(したがって年表も本土の中に含めている。)

 一方、中部の奄美や沖縄地域に、縄文文化が伝わるのは大幅に遅れた。上表の灰色の部分は歴史の空白部分である。

 1975年、沖縄本島中部の渡具知東原(トグチアガリバル)遺跡で、中九州の曾畑式土器が発見され、さらにその下から爪形文土器が出土した。しかも爪形文土器が出土した層は、アカホヤ火山灰層の上層からの発見であった。

 すなわち、この時、7000年前ごろ?(旧年代観で6000年前ごろ)、中部地域に九州の縄文文化が伝播したと考えられる。そして歴史の空白は停まり、本土の鎌倉時代近くまで続く、長い「貝塚時代」が始まる。

 その後、本土が弥生時代に入り、水田稲作農耕が発展しても、沖縄で同時代、稲作が行われた形跡はない。(沖縄で稲作が導入されたのは、ずっと後のグスク時代に入ってからである。)

 おそらく、南九州がシラスという火山灰や火砕流の噴出物の土壌であるため、水田稲作に適さず、稲作文化の南下を阻んでいたうえに、沖縄自体が珊瑚礁の土壌で、ここも稲作には適さなかったからであろう。

 むしろ、石器の中に木の実などを摺り潰す道具(石皿、磨石)が多くあり、植物質食糧をよく調理していたことが看取されることから、ヤマイモのような根栽類の「栽培農耕」があった可能性が指摘されている。

 また佐々木高明は、「日本史誕生」(p351)のなかで、


−−おそらく、この種のイモ類とアワなどを主作物とする、焼畑(畑作)農耕と漁撈とが組み合わされた生業の類型が、南島の基層文化の中に早くから定着していたと考えられる。・・・貝塚時代の前期から後期にかけて、アワや陸稲などの穀類の重要性が次第に大きくなっていったのではないか−−−

 このように記述している。この陸稲という記述が、かすかに熱帯ジャポニカの栽培の可能性を暗示している。


 九州の稲作文化を受け入れなかった沖縄諸島は、その後も生業形態を変えず、すなわち貝塚時代のまま、その後の存立基盤を、次に検討する“貝輪原料の供給基地”という南洋島的特性の方に置くようになる。

 したがって、この地域は、本土で言えば縄文前期から平安末期までの長期に亘って、漁労、狩猟の原始生業形態を続け、12世紀ごろに突然、群雄割拠の戦国時代・グスク時代に入る、すなわち一足飛びに中世となり、琉球王国へと飛躍してゆくことになる。

 南部地域、すなわち宮古・八重山諸島では、ピンザアブ洞穴から2万6,7千年前の、子供を含む数個体の化石人骨が出土し、旧石器時代に人がいたことが確認されているが、その後、空白の時代が長期間続く。

 実は宮古島と沖縄諸島との間は290kmも離れ、「宮古凹地」とよばれる無島海域が広がっている。そのため中部地域と南部地域はお互いに望見することが出来ず、往来が断絶されていたからであろうか。

 この南部地域(先島地域とも言われる)に新石器時代が訪れるのは、約4000年前のことである。

波照間島で下田原貝塚という遺跡が発掘されている。出土した土器は、紀元前1800〜1300年前ごろの、胎土の粗い、丸底の八重山式土器で、一方、石器のほうは、刃部だけを磨いた局部磨研石器で、台湾の巨石文化期のものと類似するとの見方がある。

 石器類が耕作用とみられることから、当時、すでに漁撈と共に、イモやアワを主作物とする畑作農耕が行われていた可能性がある。

 この南部地域は、その後不思議な動きをする。新石器時代後期といわれる紀元前後のころから、折角持った土器文化を忘れ(捨て?)、また「無土器文化」に逆戻りする。これは、この地域の衰退を意味するわけではない。


 周りの珊瑚礁の海から得られる豊富な食料資源に支えられ、人口は増加し集落の規模は拡大しているのである。

土器を使わなくなった彼らは、いわゆる「ストーンボイリング」と呼ばれる調理用の石蒸し方法を多用し、その遺構も残している。

 また、石斧に加え貝斧というシャコガイから作った特殊な道具を使ってる。

 これはフィリッピン方面との繋がりが指摘されている。(右図参照。貝斧拡大サンプル) 
   
このように南部地域は、考古学的資料からは、10世紀ごろまで南方の文化が卓越していたとみられ、北部、中部と違って、本土の文化の影響は受けなかった。

 また、民族集団としても、縄文人や弥生人との交流がなく、むしろ台湾やフィリピンなど南方との繋がりを感じさせる。

 この南方の文化は、神話の研究で課題として残した、「古栽培民」の文化であろうと思われるが、そうだとしても、本土への伝播はどういう経路を取ったのであろうか。

 この南部地域が、北部・中部の地域と一体化するのは、与那國までグスク が築かれるようになるグスク時代においてである。


  貝輪交易の供給基地として発展

 (この項は、 熊本大学文学部・教授 木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史─発掘調査でわかったこと」 をテキストとし、参照、引用させていただきました。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
   http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/146kai/146kai-1.htm
 
 弥生、古墳時代を通じて、中部地域の沖縄諸島は貴重な貝輪の原料となる、ゴホウラやイモガイなどの産出地であり、供給地であった。
 
 まさに木下尚子(敬称略。以下同様)が言うように 「沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている」。
 
 それは右の図から明らかなように、弥生時代、古墳時代を通じて南海産の貝輪が日本列島を中心にいわば必需品であり、一部は朝鮮南部の王族に届けられるなど、根強い需要が持続したからである。

 弥生時代の北部九州の出土状況を見ると、鏡や武器が副葬され、貴金属や玉類で着飾った人物は、政治的権力者であり、貝輪を嵌めて埋葬されていた少数の人たちは、儀礼にかかわる祭司者、宗教者であったのではないかと考えられている。

 木下によると、さらに弥生末からは本土の台頭してきた地方豪族が、好んでこの南海産の貝輪をつかったことから、古墳時代のヤマト王権もこの風習を継続したと言う。

 問題は、縄文時代を含めれば数千年に及ぶ貝の交易が、琉球人の形成にどう関わったかである。この点に関しても、木下尚子は極めて興味深い指摘をしている。すなわち、貝の交易は、“分業体制”で行われていたと言う。

 弥生時代、需要者は勿論、北部九州の祭祀者層であったが、交易運搬に当たったのは、西北九州弥生人であったという。西北九州人が海上輸送能力に優れていたのか、言語面などで北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背景があったのか、何らかの理由があってのことであろう。


  西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。

 木下は九州や琉球列島の弥生時代の遺跡から、以上のような事が想像できると言う。たとえば、沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。
  
 西北九州弥生人が冬の間、沖縄諸島に留まったり、そこに墓を造ったり、また琉球人と共同作業も考えられるから、当然、遺伝子の交流があったと考えて間違いないだろう。

 その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(上図 黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。

 当然、南九州人と奄美・沖縄諸島人との遺伝子交流も頻繁になったに違いない。

 木下はその後の貝交易を含め、次の表のように纏めている。

   
(第4部08項-HLA遺伝子から見た民族集団の近縁度で、徳永勝士が、 大陸系の新しい遺伝子が沖縄集団に流入したと指摘しているのに対し、筆者は否定的な意見を述べたが、上の表のように7〜9世紀、唐との活発な貝交易があったならば当然、遺伝子の流入もあったであろう。ここに訂正しておきたい。)
 
 以上、考古学的側面や文化・経済の側面から南西諸島について調べてきたが、西北九州人や南九州人が、沖縄諸島まで南下してきたことは確実となり、本土人と琉球人の均質化が進んだものと思われる。

 しかし神話や言語から推測された南方からの、イモ栽培や雑穀栽培の文化の伝播や、大量の語彙をもたらすような文化の流入の痕跡を見出すことは出来ないでいる。

  原アイヌ人が一気に南下した?-不思議なGm遺伝子の分布-

 第1部08項でも検討したGm遺伝子の頻度について、もう一度確認しよう。
   
 台湾の原住民、高砂族は、Gm遺伝子afb1b3を76%も保持している。afb1b3は南方アジア系民族の標識遺伝子であり、高砂族がインドネシア系の言語を使うこととも、きっちりと符合する。

 それに対し、台湾から僅か100kmあまりしか離れていない与那國島をはじめ、宮古、石垣の住人は、ほとんど、その遺伝子を持っていない。

 この信じられないような、断崖絶壁とでもいうような遺伝子頻度の格差の存在を説明するには、上述の考古学的知見から、10世紀ごろまでインドネシア系の言語を使う南方系の集団がいたが、グスク構築期に沖縄本島などから、強力な豪族が南下し、先住民を駆逐した。

 こう説明するほか説明のしようがない。(それでも、afb1b3遺伝子が中部地域の半分に過ぎないという、低さの説明には不十分であるが。)

 あえてそのafb1b3遺伝子の低さを説明する仮説を作るとすれば、4000年前ごろ、南部地域に新石器時代をもたらしたのは、南九州の縄文人か南西諸島北部の縄文人で、彼らが南部地域まで南下して住するようになった。その後も近隣の高砂族などと交流することなく現在に至った、というものだ。(この場合、南九州の縄文人と東日本の縄文人は人類学的には、同一と考えてよいほど縄文人は均一であった、ということでなければならない。一般的なアイヌ・琉球人同系論の立場の人は、そのように考えているのであろうか。)
 
 あるいはもっと大胆に、丁度4000年前ごろに起こったと、以前から筆者が指摘して来た、東日本人の1万人規模での西日本地区への南下、そのうちの一団が南西諸島、それも南部地域まで一気に南下したとする。すなわち、東日本縄文人(原アイヌ人)が南西諸島全域に、且つその最南端まで移動した、そしてその後、その人たちに被さるように、弥生人や古墳人が南西諸島中部地域まで進出した。
 こういう仮説を置けば、Gm遺伝子の不思議な分布も、アイヌ・琉球人同系説も無理なく説明することが出来る。

 しかしこういう仮説で、遺伝子の分布はうまく説明できても、文化面からの知見、すなわちグスク時代以前までは南方の文化が卓越していたと言う事実との整合性がない。


  アイヌ民族と琉球人の系統論-同系説と異系説-

 日本列島の南端と北端に居住する沖縄の人々とアイヌの人々が、形態的に似通っているということは、明治のお雇い外国人医師、東京医学校のベルツも認めていた。この「アイヌ沖縄同系論」は、遺伝子からはどのように考えられるのか。
 人類進化学の斎藤成也は、尾本恵市との共同研究成果として、次のグラフを提示する。

     
     (この近縁図のブーツストラップ法による確率=85%)
 この簡素に纏められた近縁図から、アイヌ人が他の集団から離れているが、沖縄人と結びついて一つのグループを形成していることが分かる。斉藤成也はこれを次のように説明している。

−−アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。さらに本土人の位置そのものが、韓国人を代表とするアジアの人類集団からの影響を強く受けていることを示している。−−と。

 さらに斎藤はアイヌ沖縄同系論の立場に立って、日本列島の集団が、かなり複雑な時間的発展をしたと、次図のような展開を考えている。
        
 筆者の日本人形成の詳細図は、この斎藤の図に啓発されたものである。

 一方、ミトコンドリアDNAの分析からアイヌ沖縄異系論を支持するのは、宝来聡である。

宝来は日本の3集団(本土日本人、アイヌ人、琉球人)と韓国人、中国人の合計293人のmtDNA482塩基(Dループ領域といわれる)の配列を決定し、分析した。

 その結果、293人から207種類のmtDNA配列のタイプが観察された。このうちの189タイプは、それぞれの集団に固有のものであった。つまりタイプの大部分、90%以上が一つの集団でのみ観察され、他の集団ではみられないという結果になった。
(これはmtDNAが、遺伝子の概念からいうと、極めて早い速度で変化し、したがって多様性を持つものだということを示していると、筆者は理解する。)

 残りの18タイプだけが集団間で共通してみられるもので、このうち14タイプは2集団間で共通であり、4タイプは3集団にまたがって共通に見られた。これを図示したのが次の図である。

 この図は宝来の原図から筆者が改変して作成したものである。

 琉球人を例に見てみよう。琉球人と線で結ばれた集団は、本土日本人と韓国人のみである。アイヌ人とは結ばれていない。すなわち、琉球人とアイヌ人とに共通するmtDNAのタイプがない、共通する母親はいなかった、ということになる。
 本土日本人との関係で言うと、3つのタイプで共通し、本土日本人、琉球人それぞれ8%ぐらいの人が共通のmtDNAを持っているということになる。

 これらの結果は、アイヌ沖縄同系論を否定するものである。筆者もこの結果を肯定的に捉えている。

 以上、思った以上に“琉球人”には苦戦を強いられた。しかもいろいろ逍遥したものの、最初に掲げた課題の解決には程遠かった。特に日本語の語彙にオーストロネシア語が80%も混じっている、という崎山理の主張の根拠を見つけ出すことは出来なかった。

 「日本人の源流を探して」と題して研究してきた日本人の起源について、これで一応、草稿を完了したい。沖縄の検討を加えた、筆者の日本人の成立モデル完成図は次のとおりである。

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_06kamigaminosisonn_ryuukyuujinn1.html


05. 2012年10月04日 22:19:00 : HNPlrBDYLM

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 ヽ ゙i_       〉 __ヽ,_    r‐'" ノ
  l、__ `l_,.-'く く_コ `'l ,ヘ、,ヘノ  l~
    l  /ー-、ヽ─‐'"/.__\ /
    `/l ̄V''ーv l_ し'"V   / ヽ
      | l、__/   ゙、__/   l     あなた方は幸運ですね
      |       rニヽ,       |   何故かって?
     |     lニニニl      /     中国が滅びる所を見れたからです
      \           /       
         `ーァ---──'''"ヽ,        ハッピー
        / / l,  i ヽ ` \

尖閣までわざわざ漁に行った沖縄の漁民は存在しなかった

琉球人で尖閣の事を知っていたのは中国と交易していた極一部の商人だけ。

従って尖閣は琉球の領土ではなく台湾の領土であるのは間違いない。

要するに尖閣問題というのは

瀬戸内海の無人島に

『この島には有史以来日本人が住んだ形跡は無い』

と言ってアメリカ人が無断で1年間位居住して、100年後にここはアメリカの領土だと宣言する

というのと同じですね。


千島列島は日本の領土ではなくアイヌ民族の領土

尖閣列島は日本や中国の領土ではなく台湾原住民の領土


というのが正しい答えでしょう。


06. 2012年10月05日 22:07:33 : HNPlrBDYLM


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尖閣はむかしのエンジンのない船では、沖縄から行くのが難しい。
尖閣・沖縄の間を黒潮の激流(時速5kmほど)が流れていて、深い海であり
魚も少なく横断して尖閣まで行って、沖縄に帰って戻りにくい。

ところが台湾からだと順流と逆流を利用して、魚釣島まで魚を取って往復しやすい。
だからむかしから尖閣は台湾圏の漁民の漁場として利用されてきました。

大型船が福州から沖縄に行く時にも、黒潮の流れを利用して台湾北部に出て
魚釣島経由で沖縄に訪問し、逆に沖縄から福州に帰るときには黒潮を横断し
北部に流された形で魚釣島には寄らず、魚山経由で帰ってる(林子平図より)


尖閣と沖縄の間は深くて、黒潮の奔流が流れて横断は難しいが、大陸棚で浅瀬
の多い台湾・尖閣間は順流と逆流が複雑に流れて、どちらかの潮の流れに乗って
移動しますから心配はいりません。黒潮の色が黒いのは尖閣と沖縄の間。
黒潮の奔流といってもだいたい時速5kmくらいの、人間が歩く程度のスピードです。


>>07 貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う

小さなサバニでは尖閣までは行けても、帰るのが大変だったでしょう。
黒潮に流されて那覇の方まで行き、そこから又先島に帰ってくるコースかな。
魚は帰り着く前に腐ってしまうかもな!

>>07 最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。

この前のテレビでは石垣島からマグロ船が出てますが、高級で値の張る
マグロだけを狙っているのでしょう。さもなければ遠くには行かない。
大間の本マグロだったら大きなのは1匹で数百万という。
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/270.html#c5

琉球人は尖閣周辺の海域では石器時代から明治時代まで漁労活動はしていない。

尖閣諸島や西表島・石垣島・宮古島は石器時代から台湾文化圏だった。

西表島・石垣島・宮古島の場合は10世紀に九州人が台湾系の原住民を殺して島を乗っ取ってから琉球の領土になったが、尖閣は人が住めないので放置された。

したがって、尖閣は台湾の領土だという事で間違いない。


07. いしゐのぞむ 2012年10月20日 06:42:56 : 4p8BaJ5oSykqE : YHSrWGYKV2
琉球から福州へ行く時は基本的に尖閣を通りません。
北側から浙江南部あたりに向かひます。中山傳信録の海圖で一目瞭然です。
もちろん琉球人は明國初期から毎年往復してますから、往路も復路も熟知してます。

そんなことより私の尖閣論を是非どうぞ。
八重山日報10月6日
「明國地圖、尖閣は「國外」、中國公式見解を否定、石井准教授「具體的反論を」」
http://tinyurl.com/yaeyamasaga 
八重山日報8月3日至7日
「尖閣前史、無主地の一角に領有史料有り」
http://tinyurl.com/d24rk7x  


08. 中川隆 2012年11月10日 21:05:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


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尖閣の領有権について現時点で確実なのは


西表や石垣島も10世紀までは台湾原住民が住んでいた。

沖縄-尖閣間は波が荒くて明治時代以前の小さな漁船では尖閣に行けない。

沖縄の人間も尖閣の事は殆んど知らなかった。

尖閣は台湾原住民が石器時代からずっと漁場としていた海域だから台湾の領土に決まってる。

中国人はそういう事を知らなかったから何も言わなかっただけ


_______________

尖閣諸島は中華人民共和国の領土では有り得ない


現在中国の支配地域・場所には、古くは夏〜殷、周王朝以来いろんな民族がやってきて興亡した場所であると言うだけで、中国という国家自体に何千年も歴史がある訳ではありません。

中国(中華人民共和国)自体は1949年10月1日に建国したばかりで、まだ建国60年を漸く越えたばかりの世界でも最も歴史の浅い新しい国の1つです。
(私の生まれたときどころか小学校入学時にさえ、まだなかった国です)
それまでの約300年間は異民族である女真族→後金→満州族(と順次呼称が変わります)が清朝として支配していた場所です。

ここでのテーマではありませんがついでに一言書いておきますと、中国と我が国の領土問題となるのは、中華人民共和国成立後の支配地域だけのことであって、中国自身が滅ぼした異民族(満州族)が持っていた領土に関して、征服?した中華人民共和国がとやかく言う権利はありません。

満州族に奪われていた領土の回復かと言うと、その前の明朝では今の東北地方・満州の地を支配したことがないのですから、現東北地方に関しては領土回復ではなく新たな征服者に過ぎません。

チベットにいたっては清朝さえも支配さえしていなかったのに、中華人民共和国成立後侵略支配を始めたものです。

清朝に支配地域に関して中華人民共和国が何らかの権利を持っているでしょうか?
中華人民共和国は清朝から禅譲を受けた国ではなく、中華民国が清朝を滅ぼした後に中華民国を追い出して樹立した国ですから、中華民国に滅ぼされた清朝の旧領域について何らの主張する権限もありません。

モンゴル帝国・元が明朝成立後北辺の故地に撤退した後、モンゴル諸族の領域だった(明朝の領域ではありません・・この諸族の中から後金・女進続が興って明を滅ぼして清朝を樹立するのです)女真族以外の諸族はなおモンゴルの故地に割拠(と言っても遊牧生活で移動しているので確たる領域意識がなかったでしょう)したままでした。

その辺に今のモンゴル人民共和国が成立しているのですが、これも中華人民共和国の論理(一旦中国地域を征服した異民族の本国もみんな自分のもの・・)を使えば、モンゴル族が明朝から追い出されたときにその本国も独立国ではなく明朝の支配下に入るべきだったことになる・・だから今のモンゴルも中華人民共和国領土として併呑しても良いことになります。

秀吉が、もしも明朝を倒して支配していた場合、その後明の支配を諦めて日本に引き上げても中国の領土と言われてしまいかねませんでした。(秀吉が明まで行かないで良かった!良かった!)

我が国は尖閣諸島を中華民国からも清朝からも、尖閣諸島を奪ったものではありませんが、奪った奪わないの議論以前に中華人民共和国が成立後にその国が一旦領土とした部分から何も取っていないのは時間軸から見ても明らかです。

後から出来たアメリカ合衆国が、元はインディアンがこの辺にも住んでいたからと言ってカナダや中米地域までの領有を主張するのはおかしなことです。

尖閣諸島を我が国が領土化したときには中華人民共和国はなかったのですから、何故中華人民共和国の領土から盗めるのか、論理矛盾も甚だしい主張となります。

中華人民共和国による尖閣諸島領有の主張は、仮に日本が実力で奪ったというのが正しいとしても、中華人民共和国がの国が出来る前のことですから、今のイタリアが古代ローマ帝国の版図を基準に今のフランスやギリシャやエジプト、トルコ等に侵略されていると主張しているようなことになります。

領土を返すべきかどうかは第二次世界大戦後秩序以降に限るとしても、そもそも中華人民共和国建国前に遡るならば、彼ら中華人民共和国自身が、今の領土を戦後の1949年に武力で中華民国から奪ったものですから(チベット侵攻=併呑も建国後のことです)中華民国やチベットに返すべきでしょう。

一般には、中国の歴史と言うと、黄河及び長江流域に興亡したいろいろな民族による王朝史をいうのですが、(私も正確で端的な表現が難しい・・上記のようにまどろっこしい表現になりますので、そのように便宜表現してきました)現在のイタリアにはなお法王庁が現存しているにも拘らず古代ローマ帝国と全く別ものである・・イタリアの歴史とは言わないのが世界の常識だと言えば分りよいでしょう。

その地域の歴史とそこにある国の歴史と同一視出来るならば、アメリカ合衆国も何千年も前からインディアンがいたので世界でも古い国の1つになります。

アンデスやアステカの古い歴史を持つ地域の国々は、すべて何千年の歴史があると言えることになります。

ここまで言い出したら、その国の歴史、民族の歴史などという概念自体が無意味になります。

客観的なその地域の歴史・・南アメリカ大陸の歴史、北アメリカ大陸の歴史としては意味がありますが・・・。

北アメリカ大陸の氷河期あるいは500年前からの歴史を知って、今のアメリカ人気質を推測する手がかりが得られるでしょうか?

むしろ今のアメリカ人のルーツ・・人口構成(黒人が何万人、ヒスパニック系、ドイツ系何人、フランス系何万人アジア系等々)を知って、それぞれの気質を研究した方が意味があります。
http://www.inagakilaw.com/asof/wordpress/2012/10/19/



まあ、1945年以降の中華民国は蒋介石が勝手に台湾を占領して作った国ですから、中華民国の版図も台湾原住民の活動圏とは関係有りません。
尖閣は確かに台湾原住民の活動圏だったのですが、中華民国の領土であるとは言えないのですね。

それはサハリンが歴史上ずっとアイヌ民族の活動圏であっても日本の領土ではないとされたのと全く同じ事情です。


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関連投稿


武田邦彦 尖閣、竹島、四島・領土と国
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