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名張毒ブドウ酒事件
1961年3月29日朝日朝刊の第一報
三重県名張市 ブドウ酒で5人死ぬ
生活改善クラブ 全部女、10人は重態
28日午後6時ごろ名張市葛尾の薦生原(こもおはら)公民館葛尾分館で、同地区と隣接の奈良県山辺郡山添村葛尾の両地区合同の「生活改善クラブ 三奈の会」の男女会員31人が役員改選総会後、折り詰めで酒を飲んだが、“乾杯”でいっせいにブドウ酒を口にした女の会員19人のうち15人が十数分後突然苦しみだして倒れ、29日午前2時現在5人が死に、危篤1人、9人が重態となっている。上野保健所では症状から原因は農薬のような毒物の疑いが濃いとみて調べている。
名張市から医師4人がかけつけ葛尾分館で応急手当てをしているが、現場は屋外、屋内に被害者が折り重なるようにして倒れ、うめき声をあげているなど、文字通りの地獄絵図を描いていた。
問題のブドウ酒はラベルによると、大阪市浪速区西圓手町、西川洋酒醸造所製の三線ポートワインで飲んだ量は約1.8リットル、名張市林商店から買ったもの。阪大および西川醸造所の話ではブドウ酒の製造過程に有毒物がはいったり、発生したりすることは考えられないといわれ、買ってから何かの原因で毒物がはいった過失の線も浮かび名張署でも調べている。ブドウ酒は28日午後、奈良県側の葛尾の伊勢原利一君(20)(1) が会員である母親の頼みで買ったもので、折り詰めには全員手もふれていなかった。
◇死者
▽名張市葛尾、農業 奥西千恵子(33)
▽同 北浦ヤス子(37)
▽同 中島登代子(37)
▽同 新矢好(27)
▽同 奥西文子(30)
3月29日夕刊では、12人の重体患者のうち10人はやや快方に向かったが残りの2人はまだ重体のまま、となっている。
(1) 3月29日夕刊では、葛尾農協職員の石原利一さんとなっている。バタバタしている中で書いたものと思われ事実関係にもいくつか間違いがある。
奥西千恵子は奥西勝の妻、北浦ヤス子は奥西勝の愛人という。奥西文子は役員改選時まで会長であった奥西楢雄の妻である。
この事件では、前代未聞のデタラメが警察により行なわれた。そして検察・司法によってデタラメが行なわれているのは他の冤罪事件と同様である。奥西勝の人権があまりにも踏みにじられているではないか。
1961年4月3日午前4時、奥西勝は妻の千恵子と愛人の北浦ヤス子との三角関係を清算するためブドウ酒に農薬を入れたとして、殺人と殺人未遂の容疑で逮捕された。
そして警察は、奥西勝が犯人であることをマスコミや国民に印象づけるため、同日午後0時半から奥西勝に記者会見をさせた。逮捕された被疑者に記者会見をさせるなど、これ以前にもその後も聞いたことがない。朝日とNHKの2人の記者が代表で会見室に入ったが、事実関係や犯行の動機など事件の核心については触れないよう制限されたという。警察側は担当刑事ら3人が立ち会った。
江川紹子著「六人目の犠牲者」によると、
“担当刑事は刑事部長から、報道関係者が
「奥西に会わせてくれ、記者会見をやってくれ」
と言っている、
「報道陣の方でどうしてもということで要望がある。何とか一つ、わずかな時間でもいいから会見できるようにならんかね」
と言われたという。そこで奥西勝に尋ねたところ、しばらく考え込んでいたが
「今のこういう気持ちを社会の人に知ってもらいたい。自分の謝罪するという気持ちを新聞とかラジオ、テレビなどを通じて一応知ってもらいたいので会います」
と話した。
しかし、奥西勝によれば事実経過はまったく違う。 彼が後に弁護士に出した手紙によると、午前中の取り調べの際、担当刑事から「記者会見に出るように」指示された、という。
「何のためにですか」
「謝罪をするんだ。家族の者が部落の人に謝っているが、お前が謝らないと家族がますます苦しむ」
「記者に会っても話すことはありません」
いったん担当刑事は引き上げたが、戻ってきてから、
「どうしても会見をやれ」
と強硬だった。
「俺が教えてやる通りに話せばいい」
そんなやり取りが交わされた末、奥西勝は渋々応じた。家族の負担を軽くしてやりたい気持ちもあったし、自分はやっていないのだから、いつか真実が明らかになるのだと事態を楽観視してもいた。大勢の記者の前に引っ張り出されるわけではなく、少数の代表者と会うのだからと説き伏せられ、それならば仕方がないという気持ちになったのだという。”
そして記者会見は僅か3分で打ち切られ、奥西勝を犯人とするに都合の良い警察の意図する内容のみがマスコミを通じて流された。会見の内容は4月3日の夕刊にすべて載っているが、“警察に教えられたもの” であり馬鹿馬鹿しいため転載はしない。
このような事実経過が、警察の発表では
「・・・自分の謝罪するという気持ちを新聞とかラジオ、テレビなどを通じて知ってもらいたい・・・」
となって発表されるのである。警察の発表はウソばかりであり、まったく信用してはならないのです。
誰が農薬をブドウ酒に混入したか、混入する機会があったかを考えるうえで時刻が最も重要であったが、 すべての関係者の時刻の証言が4月12日くらいから、事件直後と大きく変わった。事件直後極めて具体的に証言していたにもかかわらず、4月12日くらいから、勘違いしていた、はっきりしない、分からない、覚えていない、時計が狂っていたと思う、などとあやふやになり時刻の証言が変わった。
石原利一 は事件翌日3月29日の取り調べで、
〈当日午後2時頃であったと記憶します。上野市の販購連から(鶏の)資料が小型四輪車で着きましたので、(この飼料を)先に注文のあった分館(=公民館)のすぐ近くにある依頼者方へ送り届けてもらうため、その四輪貨物自動車に同乗して依頼者の家に向かったのでありますが、
その途中林商店の前を通りますので、そこで先に頼まれていた清酒2本とブドウ酒1本、いずれも1.8リットル入りを買い受けて、また小型四輪貨物に乗って依頼者の家の方に向かいますと、
会長の奥西楢雄さんの家の前の道路に奥西さんの奥さんで文子という人がいましたので、私は自動車の助手台から奥さんを呼んで、
「これ晩に飲むやつさかい、預かっておいて」
と言って、先ほど買ってきたばかりの清酒2本とブドウ酒1本を渡したのであります〉
と明確に供述していた。30日には時間経過の自筆メモも作成している。
農協 2時頃 小型四輪車
林酒店 2時5分 清酒2本 ブドウ酒1本
奥西会長 2時15分 清酒2本 ブドウ酒1本を会長の奥さんに渡しました
依頼者 2時17分 飼料13俵をおろす
販購連から(鶏の)資料が着いてそれを依頼者に運ぶのは業務であるから、時刻はほぼ正しいだろう。何月何日何時ごろ、或いは今日(明日)何時ごろそちらの農協に持って行きます、のような連絡があるのは常識である。さもなければ業務が成り立たない。
ところが4月20日の警察官調書では、
〈午後4時30分頃に、上野から四輪車が飼料を積んで来たので、私はその飼料は名張市葛尾の依頼者のとこへ持っていく飼料でしたので、すぐその自動車に私が乗せてもらって林酒店により、清酒2本、ブドウ酒1本をもらって葛尾へ来たのであります。
そうして葛尾の奥西さんのとこの前まで来た時は、午後5時前後でありまして、道端に文子さんがおりますし、入り口の水道のところにもう一人女の人が見えましたが、今考えてみれば、この女の人は・・・〉
と変わった。この女の人は、というのは変更した時間の信憑性を高めるために警察が作り出した証人であることは言うまでもない。
法廷では、裁判官たちから石原に対し次々に質問が飛んだ
「小川裁判長」―あなた、(4月11日に)検事の調べを受けた際には、2時から3時ぐらいの間に酒を買って、奥西さん(会長)の所に届けたと、こういうふうに答えてられますが、記憶がありますか。
「記憶あります。それは勘違いしてました」
―どうして2時から3時の時間が、4時半なんてこう1時間半も狂ってしまうんだろうか。
「それは勘違いしてました」
―どういう点を勘違いしておったの?
「・・・・・・」
―これ、あんた警察で、この事件が起きたらすぐ調べを受けたでしょう。そしてその当時、何時ごろに販購連から小型四輪車が来て、林さんとこに酒を買いに行ったかというようなことを説明したでしょう。そういうこと説明しませんでしたか。
「しました」
―その当時、あなた、何と言っておったの?
「はっきり思い出せません」
―どういうわけで、あんた、2時から3時までと言っておったのを、4時半から5時の間に訂正したんですか。その勘違いしておった根拠を一つ納得いくように説明してくれませんか。
「・・・・・・」
―10分や15分ならそれはあるけどさ、何時間という違いが出てくるもんだから。
「そのとき、あんまりびっくりしまして、何と言ってええか、分かりませんでした」
「高橋裁判官」―あなたが葛尾へ帰られた時間は何時ごろでした?
「調書にはなんと書いてありますか」
「岡田裁判官」―その時間について何か時計を見たわけじゃないようですが、何か根拠らしいものがあるんですか。
「バスが動いていやへんだ。バスが普通4時10分くらいですから」
―それがもう出てしまってなかったんですか。
「はい。それから葛尾へ行って10分かかるし、それからこちら(葛尾公民館)へ来るのも10分かかるし、4時半くらいかなと」
―バスの時間が根拠になっているんですか。そのほかにはどうですか。
「そのほかに全然ありません」
「高橋裁判官」―しかしバスに会わなかったからといって、このバスが通った後だということはいえないでしょう。それはどうですか。
「せやけど、久田亭のバスの停留所も、誰もいなかったんです」
「船越検察官」―あなた4時から5時の間ごろに久田亭の前を通ったこと、この事件までに何回かありますか。
「さあ、覚えませんわ。それはあるかもわかりません」
―久田亭の前をそれまでに通ったことはあるね。
「あります。毎日通ってます」
―それで、バスは来てるけれども、乗り場に誰もお客さんいなかったようなことありましたか。
「バスの時間に通ったことはあまりありません」
検察官は助け舟を出したつもりが、反対に石原の証言のいい加減さを証明することになってしまった。お笑いものではないか。下らない刑事ドラマを見るより余程面白いんじゃないでしょうか。
事実は小説よりも奇なり、と申します。面白くないと言うのはバカ或いはキチガイと検察・警察の威信を守るのが仕事であると考える裁判官及び検察官・警察官以外にありません。
「小川裁判長」―あなたの時間が、こういうふうにガタンと変わってるんだけれども、これはなんか、この問題について大分追求されたと違うんですか。
「お前の言ってる時間、違うんじゃないか、違うんじゃないか」
と言われてこういうような大きな開きが出てきたんと違うの?
「そんな覚えありません」
―それじゃ君は3月23日に中村検事に調べを受けた際に(ブドウ酒到着時間について)答えられなくなっているのはどういうわけだ。初め奥西さん(会長)の所に瓶を届けた時間は、最初は2時半か3時ころと申しておりますがと言って、きみ、時間がピタッと言えないのはどういうわけなんだ。
「・・・・・・」
―私が眼に入れた調書じゃ23日のやつが一番終いなんですが、それにまた2時半、3時ということを問題にしてるんだがね。
「君の時間は違ってるぞ、違ってるぞ」
と言われたのとは違うのかね。そういうことはない?
「言われたこともあります。あんじょう考えてみたら、4時半ぐらいやったと思うんです」
奥西勝を犯人とするに都合の良いよう、検察・警察により時刻を “調整” させられたのである。
つまり石原利一の当初の供述では、女たちが懇親会の料理の準備のために奥西楢雄会長宅にやって来る4時45分くらいまでの2時間半、会長宅の表玄関の小縁に置かれていたことになってしまい、犯人が奥西勝と特定出来なくなってしまう。
奥西楢雄会長宅では嫁姑の関係が険悪で、奥西楢雄会長は事件直後可能性のありそうな者として第一に妻の文子の名を上げていた調書がある。山村の部落では、都会と違い、会長宅にブドウ酒の瓶が置かれていたのを見たものは他にもいるだろう。
“このようなことをする動機のある奴は奥西勝しかいないんだよ。
その時刻じゃ奥西勝と特定できなくなってしまうじゃないか。
お前の言う時刻は間違いでこれが正しいんだよ” と。
そして区長の号令のもと部落としてもその時刻に “調整” した。村八分(部落八分?)を恐れる部落民は証人喚問されても “調整” の経緯を話そうとはしなかった。偽証を問われるよりも村八分の方が恐いのである。偽証を問われるのは自分一人ですむが、村八分は家族にも及ぶ。
裁判所でデタラメを証言し、矛盾をつかれると 「・・・・・・」 と黙りこくってしまった。
証人喚問で矛盾をつかれた場合は下手に弁解せず黙っていれば良い、と検察・警察から知恵を授けられたのであろう。
部落民は裁判所よりも警察の方が上だと考えているのである。
時刻の証言の変更は石原利一だけではない。関係者すべてなのです。
一審判決時毒牙にかかっておらず正しい時刻を明確に証言した、折り詰めを販売した店の女主人はその後毒牙に噛まれ、時計が当てにならなかったなどとして時刻を変更した。
彼女は名古屋高裁では次のように一審での証言を翻した。
「藤本忠雄裁判官」―(約束の時間から)1時間遅れたとかいうようなことは(石原に対して)言った覚えはないのかね。
「はい、そんなことは申したことはありません」
―ありませんというのは、そういうことを言ったような記憶がないという意味か。
「はい、記憶がありません」
―しかしあなた、原審の裁判所の調べでは、その点についてこういうことを言っていますよ。
「奥西楢雄さんから28日の4時に折り詰めをもらいに行くからという電話があったのです。
ところがその日、私方店の時計が5時になっても取りにみえないので、葛尾農協の方でその折り詰めがいらなくなっのかなあと思っていた時、石原さんがみえたのです。
それで私は石原さんに一時間も超過したなあと申し上げた記憶がございます」
と、こういうふうな趣旨のことを言ってるんですが、どうですか。
「申し上げたんだと思います」
―だから石原にそういうことを言った覚えがあるか、ないか。
「・・・・・・」
―今、覚えがないのか。
「はい」
―中略―
―時計が狂っておったということに気がついたのは、いつのことですか。
「それは多分、(一審判決後に)蔵持(派出所)へ行って尋ねられた時 に申し上げたと思います。その時分に、その時計のことで気がついたぐらいのことです」
―あなたの家の前の辺りにバス停があるでしょう。
「あります」
―お客さんが時間なんかを聞くのに、1時間も2時間も狂っているようなことはないでしょう。
「そんなに狂ってないと思いますけど」
―石原利一が折り詰めを取に来たとき、あなたは時計を見たのですか、見ないのですか。
「今になると、何も分かりませんけれども」
―見た記憶ですか、見なかった記憶ですか。
「・・・分かりません」
人間であるから勘違いすることもある。しかしすべての関係者が勘違いすることはない。この事件にかかわった50人を越える裁判官の8割近くが、一審判決で
「かかる時刻の訂正は、ブドウ酒引渡し人側の時刻を受取人側の述べる時刻に合致せしめるための検察官のなみなみならぬ努力の所産であり、このことは各該当の報告書を一読すれば容易にこれを理解し得るところである」
と指摘されていたにもかかわらず、すべての関係者が “勘違い” することをおかしいと考えず、すべて検察・警察に都合よく判断したのである。事件の鍵を握る奥西文子、奥西千恵子は亡くなっており、検察・警察に都合のよい判断をしたとしても、真実が明らかになることはない、と考えたのであろう。
いくら精神構造の異常な裁判官が多いといっても、8割近くの裁判官が異常だとは考えたくない。 裏で裁判所と検察の癒着があるのではないかと考えるのです。健全な常識ではそれ以外に考えられないのです。
庶民であればそのような脳タリンがいても良い。しかし人の命を奪う判断をする者が、このような 低脳・異常な精神構造で良いものであろうか。正義が行なわれないどころか、無実の人を国家権力が殺すというあってはならないことが行なわれることになる。
時刻の調整だけでなく、捜査はすべてデタラメだった。
事件直後石原利一はブドウ酒の栓は自分が開けたとし、具体的に供述していた。
「私が席に着いている時、文子さんから『栓を抜いて』とブドウ酒の瓶が差し出されたので、私が
『よし、抜いてやるわ』
と言って何気なく瓶を受け取りました。瓶の口の方を右に、底の方を斜め左下にして、王冠を口に入れて歯でこじ開けようとしたら、私の側にいた男衆の中の誰であったか、
『それじゃあ抜けない。歯を折るぞ』
と言っておりました。私はその言葉を聞いて、歯を折ってはだめだからと注意しながら、瓶の栓を噛んでテコの原理を応用してやってみましたところ、意外に簡単に一回で栓が開きました。それで瓶を文子さんに返したのです」
会場にいた者たちの証言の大半は石原利一が開けたというもので、一人は次のように証言している。
「男の方が最初の酒を注いでもらう少し前くらいに、文子さんか千恵子さんのどちらかであったと思いますが、私たちの方にコ字型に並んでいた(机の)内側からやってきて、ブドウ酒の絵を描いたレッテルの貼った瓶を持ってきて、
『誰か栓抜いて』
と言ってきましたので、石原利一君が
『抜いたろう』
と言って 口で栓の辺りを噛んでいるのを確かに見ました」
それが4月12日以降、石原利一の供述は次のように変る。
「私は会合の席で奥西文子さんに頼まれて開けたと申しましたが、奥西千恵子さんに頼まれて開けたのか、その点、この2人の中のどちらかに頼まれたことは確かですが、どちらに頼まれたとは断言することが出来ません。
また、ブドウ酒一升瓶入りの王冠を歯で開けたと申しましたが、その一升瓶は清酒であったか、またブドウ酒であったのか、はっきり記憶がありません。とにかく、ギザギザのあった王冠を歯で開けたことは確実であります」
4月16日には更に次のように変る。
「いろいろ考えてみますと、初めから申しているように、歯で開けるときギザギザがありましたし、中栓はなかったと思いますから、私の開けたのは酒の瓶であったと思うのが本当であります」
目撃者の証言も4月21日次のように変る。
「前回申し上げたことの中で、石原利一君が栓を開けていた瓶にブドウ酒のレッテルが貼ってあったのを見たと言いましたが、これは間違いであって、今ようく考えてみますと、そのようなものは見なかったと思いますので、その点で訂正さして貰います」
お笑いものではないか。まさにデタラメ、滅茶苦茶である。
検察・警察はこのようなデタラメが我が国では通ると考え、裁判所はこのデタラメを認めてきたのてある。
当方が右傾化した低脳な者たちを軽蔑する 「国際社会などどうでもよい。日本国内で、日本人だけで論理を構築できればそれでよい」 そのもの、いやそれ以前の問題か。
このような調書が国民の目に触れることはないだろうという前提で、我が国ではデタラメな刑事司法が行なわれてきたと思われる。
予算がないためこの年は、女性たちのためのブドウ酒は出されないことになっていた。
当日になって奥西楢雄会長が自腹を切っても良いとして購入したものである。
従って前日まで懇親会にブドウ酒が出されることを知っている者はいなかった。
にもかかわらず警察は、ブドウ酒に農薬を入れるため、前日の夜に、笹山から切り出してきて8年にもなる古い竹を切って直径2センチ長さ6センチの竹筒を作り、農薬を入れて新聞紙で蓋をして準備したとする “自白” を作ったのである。
猛毒で液体の農薬を古い竹筒に入れて新聞紙で蓋をするようなことを、その毒性を知っている者がするであろうか。義務教育をまともに終了していないような者でもしないだろう。竹筒を横にすれば新聞紙の蓋から農薬が滲み出してくると思われる。細心の注意を払って、立てて保管・移動しなければならない。また新聞紙で強く蓋をすれば古い竹筒ではひび割れる恐れがある。
このような常識では考えられない幼稚なデタラメの “自白” が作られたのである。お笑いものではないか。
当方であれば、王冠の歯の跡がどうのこうのなどという下らないことは考える必要もなく、関係者の時刻の証言の不自然な変更だけで十分であるが、奥西勝の無実を考えるうえで興味深い事実を指摘したい。
虚偽の自白をさせられた奥西勝が農薬の入手先を問われ店名をあげた。この農薬は前年の夏、茶畑の害虫退治のため購入していたものであるが使用していなかった。妻の千恵子には奥西勝の浮気が原因による夫婦喧嘩の際、この農薬が “こわい薬” であることを置き場所とともに話してしまっていた。
しかし店主は彼に農薬は売っていないと証言した。事件に巻き込まれることを恐れ、伝票を焼却してしまったのである。
もし奥西勝が農薬を混入したのであれば、せっかく店主が売っていないと証言してくれているのだから、“良く考えてみたら買っていなかった” と言えば良いのである。それこそ “勘違いしていた” と言えば良いのである。
しかし彼は店主を呼んでもらって買ったではないかと対決した。そして3月6日ぐらいまで自宅にあった(それ以降無くなっているという)と証言した。
奥西勝が犯人であるなら、仮に店主が売ったと証言したとしても、“すぐに害虫退治に使ってしまった” と言えば良かったのである。犯人がこんな馬鹿なことをするわけがないではないか?
知的障害者でも物事が何も分からない余程知能指数の低い者でなければしまい。これが分からない裁判官は知的障害者でも余程知能指数の低い者である。
葛尾部落は当時二十五戸、人口約130、外から嫁いで来たような僅かな人を除き、ほぼすべての人が血縁・親族関係にあったという。これが異常な精神構造の原因なのであろうか。
名張市の隣りは伊賀忍者の里、上野市である。葛尾も忍者の里と言う。頭の指揮のもと一糸乱れず行動し、仲間の結束を何よりも重要と考える・・・精神構造が受け継がれているのであろうか。
1961年4月3日の朝日朝刊には “山村には珍しい美男子” とある。
実際当時の写真を見ると驚くほどの美男子である。しかし調子に乗ってあまり浮気をするとこのような事件に巻き込まれるのです。検察・警察は男(醜男)の敵と考えたことだろう。
江川紹子氏が話を聞こうとある婦人を訪ねた際、婦人の夫から言われた。
「もう勘弁してくれ。どうしてみんな、時間のことばかりしつこく聞くんだ。
事件の時だって、警察にも検察庁にも最初から本当のことを話してきた。
でもいくら話しても信じてもらえず、妻はノイローゼになって入院してしまった。
今でも、あの事件のことを聞かれると血圧が上がって・・・」
_______________
1964年12月23日朝日夕刊
奥西被告は無罪
津地裁 決め手の証拠なし
さる36年3月28日夜、生活改善グループの懇親会の席上、ブドウ酒で乾杯した婦人会員5人が死に、12人が重軽症の中毒にかかった「名張毒ブドウ酒事件」で、死刑を求刑されていた名張市葛尾、農業奥西勝被告(38)の殺人、同未遂事件の判決公判は、23日午前9時半から津地裁第一号法廷で、小川裁判長、岡田、高橋両陪席係り、船越名古屋地検公判部長検事、長井、吉住、杉浦3弁護人立会いで開かれ、「証拠不十分で無罪」の判決言渡しがあった。初公判以来3年半ぶりである。
小川裁判長は判決要旨の中で
「犯行の動機、犯行の機会、方法のいずれについても犯行が被告のものであるという決め手になる物的証拠は見出せなかった」
とのべ、検察側の主張をほぼ全面的にしりぞけた。
36年6月16日の初公判以来、検察、弁護人側とも@動機A毒物投入の機会の有無、について争ってきたが、奥西被告が検察官の最終調書でそれまでの自供をひるがえし、犯行を全面的に否認、弁護人側は被告が事件直前にパラソルを妻の千恵子さんと愛人の北浦やす子さんの2人に買い与えていることから被告の2人に対する愛情は薄らいでおらず、三角関係を清算する必要がなく犯行の動機はないと主張。
また犯行の方法や機会についても状況証拠はそろっているというものの、被告が名張川に捨てたという農薬ビン、公民館のイロリで燃やしたという農薬を入れた竹筒のいずれも発見することができず、物的証拠としては事件の翌々日、現場から発見されたブドウ酒ビンの王冠だけだった。
さる37年5月、弁護人側が「審理不十分」を主張してはじめられた再開弁論では、この王冠につけられたキズが奥西被告の自供通り、ブドウ酒ビンを歯でかんであけたときについたものかどうかという点にしぼられていた。
この王冠のキズについて同地裁は同年8月職権で吉田莞爾名大教授、井上剛金沢大教授、船尾忠孝慶大助教授に鑑定を依頼、昨年7月、まず吉田教授が「王冠のキズは奥西の歯によるもの」と鑑定。はじめて物的証拠による “クロ” が出された。
ところが、ことし10月の公判に提出された井上教授、船尾助教授の鑑定は、いずれも
「キズは奥西被告の歯によってつけられたものとはいえない」鑑定したため、被告の有罪を立証する決め手はないとしたものである。
1969年9月10日
名古屋高裁 無罪を逆転、死刑判決
「名張毒ブドウ酒事件」「原審は事実誤認」
地区の公民館の会合に出されたぶどう酒で主婦5人が死に、12人が中毒になった「名張毒ブドウ酒事件」で殺人、殺人未遂罪に問われた奥西勝被告(43)=現住所四日市市昌栄町、ガソリンスタンド店員=の控訴審判決公判は、10日午前10時から名古屋高裁刑事一部上田孝浩裁判長係りで開かれた。上田裁判長は「証拠不十分で無罪」とした津地裁小川潤裁判長の一審判決を破棄し
「ブドウ酒ビンの王冠の歯型は奥西のものとみられ、さらにその他の証拠を総合すれば、公訴事実の証明は十分であり、この点で原審は事実を誤認した」
として奥西被告に死刑を言渡した。事件発生から8年半ぶりである。
法廷はこれまでの公判と同じ27号法廷。定刻、上田裁判長、斎藤寿、藤本忠雄両陪席判事が出廷。検察側は荒井健吉名古屋高検刑事部長、船越信勝総務部長、弁護側は杉浦酉太郎、吉住信百両弁護人が立ち会った。
控訴審は検察側控訴によって、40年11月20日の初公判以来、15回の公判を重ねた。この間、裁判長は上田裁判長の転勤で一度、坂本収二裁判長に変り、再び上田裁判長に変った。また起訴当時からの長井源主任弁護人は審理途中の41年9月に死亡している。それだけの難事件だった。
検察側は現場検証による克明な足どり調べと新証言をあげ、特に
「ブドウ酒に農薬を混入し得る機会があったのは、公民館で奥西被告が一人になった約10分間だけである。
王冠の歯型については、控訴審で “黒” と判定した松倉(阪大教授)鑑定が信頼できる。
捜査段階での自供内容は具体的でくわしく、体験した者でなければ供述できない」
と主張した。 これに対し弁護側は
「事件の筋書に合わせた無理な供述、証言をそろえたまで。一審の判決は正しい」
と反論していた。また、奥西被告は終始
「自供は、妻が犯人にされるとかわいそうだと思ったのと、警察に強要されたためだ」
と、一審と同じように犯行を全面的に否認してきた。
同裁判長は判決理由の中で
「被告人の自供は任意性のみならず信用性を十分かねそなえたものにもかかわらず、原審が採証法則に違反し、事実を誤認したものである」
と述べた。
http://ww6.tiki.ne.jp/~funabashi/dokubudoushu.html
名張ぶどう酒毒殺事件の真犯人
最高裁が審理を審理を高裁に差し戻した・・
再審が濃厚となった名張毒ぶどう酒事件。 人口100人、 わずか15世帯。そのうち10組が不倫関係だったという夜ばいの村で起った大量殺人。
途中で村人が供述を同時一斉にひっくり返すという過疎の村ならでは、前代未聞の異常事態が起ったこの事件。 奥西死刑囚の声は届くのか。
この大量殺人、村内では決して触れる事が無いが犯人が特定されているという。
事件前日、奥西死刑囚の隣家でトラブルがあった。
事件で死亡した隣家で村の有力者でもある奥西楢雄の妻が、夫奥西楢雄に殴られ逃げてきたという。 奥西楢雄も夜ばいの村の例外ではなく村内に愛人がいた。このトラブルだったという。
「凶器」となったぶどう酒の購入を決め、購入したのはこの奥西楢雄。農協に勤務していた。
ぶどう酒を懇親会に出すことになり、奥西楢雄は農協職員の石原氏に運搬を依頼する。 石原氏は酒店で清酒とぶどう酒を購入し奥西楢雄宅に運ぶ、受け取ったのは事件で死亡した奥西楢雄の妻。 受け取ったのは16時ごろだという。
この前後に石原氏は何人かの村人とすれ違っており それらの証言からもこの時刻ははっきりしていた。 その後、17時すぎに奥西死刑囚が殺戮現場である公民館に運び事件が起こった。
これが事件直後の村内での供述だ。
しかし・・事件から2週間以上経ってから「村人が供述を同時一斉にひっくり返す」 という異常事態が起る。
村人たちが石原氏がぶどう酒が奥西楢雄宅に届けたであろうすれ違った時刻は17時ごろと証言しはじめ、奥西楢雄宅での空白の1時間がなくなってしまう。そして犯行機会があるのは奥西死刑囚だけとなってしまう。
その後、奥西楢雄の妻は事件で死亡したため、すぐに再婚しているがなんと奥西楢雄は奥西死刑囚の愛人でもあり事件で死亡した北浦ヤス子とも愛人関係にあったという。 そして北浦ヤス子は奥西死刑囚と別れるから奥西楢雄も妻と別れるよう迫っていたと言う。 事件前日の痴話げんかはこの別れ話がエスカレートしたものだったという。
奥西死刑囚が犯人でないのなら、毒物を入れたのは空白の1時間、奥西楢雄か奥西楢雄の妻ではないか・・・
村内ではタブーであり、住人全員が奥西死刑囚の死刑を願っているのだ。実際に、奥西死刑囚が否認に転じると奥西死刑囚の墓は住人の手により共同墓地から追い払われ、奥西死刑囚の母を集団リンチという犯罪行為が堂々と行われていたのである。
ぶどう酒を飲んだ懇親会を開いた生活改善グループ「三奈の会」の会長で、妻フミ子さんを亡くした奥西楢雄さん(81)は、自宅のテレビで午前十時すぎ、速報で取り消し決定を知った。
奥西楢雄さんは
「日本の裁判所は正しい判断を下した。事件後、住民が徹底的に調べられ、勝しかいないと確定したから、今回の取り消しは確信していた」
と納得の表情。 さらに
「勝は生きたいために無実を訴えているだけ。 何度やっても同じこと」
と口調を強めた。
事件から50年、再審の行方は。
そして真犯人は○○なのか、○○の妻なのか。
http://sfu9xi.sa.yona.la/630
★役職務め 趣味も達人 名張 奥西さん
奥西さん=名張市葛尾の自宅で
名張市葛尾に住む奥西楢雄さん(80)は、数々の地域の役職を務めながら、趣味も楽しむ達人だ。
定年後、区長から始まった地域の役職は数えきれない。現在も全国乗馬倶楽部東近畿地区会長、昨年8月からは名張地区交通安全協会の会長などを務める一方、趣味は民謡や渓流釣り、書道を20年来続ける。
地元の農協に勤めていた奥西さんは47歳の頃に淡路島を訪れた。そこで初めて馬に乗り「何て楽しいんだ」と即決で5頭の馬を購入し伊賀で初めて同市夏見に「名張乗馬クラブ」をオープン。最初は観光馬のようなものだったそうだ。その後間もなく長男に任せた。
スリムな体型から出るエネルギーは夏限定で飲む“マムシの心臓”のおかげらしく、クラブ周辺の除草作業や馬たちの好物であるニンジン作りは奥西さんの仕事だ。
奥西さんは「動ける間は色々と挑戦したい。今は交通事故を少なくするにはどうしたら良いかを考え中」と話した。
http://www.iga-younet.co.jp/honshi/special/special419/
372 名前:名無しさん@十周年 [2009/12/14(月) 08:49:31 ID:fhwGc3+w0]
奥西楢雄
「あれだけ調べたのだから犯人は(奥西勝で)絶対間違いない。
騒いでいるのはあなたたち(報道陣)だけで、事件は解決済みだと思っている」
http://yomi.mobi/read.cgi/newsplus/tsushima_newsplus_1260378058/l50
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