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(回答先: 郡司ペギオ-幸夫『群れは意識をもつ』は死ぬかと思うほどおもしろいのである。&(2) (おっさんひとり飯) 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 6 月 20 日 23:55:39)
http://ossanhitorimeshi.net/?p=9240
『群れは意識をもつ』では、これまでは説明できなかった群れの性質について、郡司氏の理論がはっきりと明らかにすることが分かりやすく書かれている。
群れは同調圧力によるのでなく、自由をきちんと担保しながら形作られているのである。
郡司ペギオ−幸夫氏は、ネットを見ると「理学者」となっている。しかしふつうは、理学といっても物理学とか、生理学とか、宇宙物理学とか、もう少し詳しい分野をつけるものだろう。
それがなく、ただ「理学」となっているのは、郡司氏のあつかう領域がそれだけ幅広く、一つには絞れないことを意味している。
実際郡司氏は、生物学はもちろんのこと、物理学、脳生理学、さらには哲学的な領域にまで手をのばし、論文や著書を書いている。それらはいずれも、複雑な数式や論理式が駆使される高度なもので、単に「知っている」などでないのは言うまでもない。
また郡司氏は、ただ理論家にはとどまらない。学生と共同しながら粘菌や昆虫などを使ったさまざまな実験も行なう。
コンピュータを使ったシミュレーションにも長けているし、これだけの知識や技術を一人の人が身につけ、縦横に駆使するのは、どうすれば可能になるのか、全く分からない。
あるとき郡司氏と飲みに行ったら、そのあと当り前のように研究室に戻って行った。
論文や著書の数も多く、学生の指導もしているから、膨大な仕事を日々こなしているのは間違いがないだろう。
その郡司氏だが、これまで一般には、「難しいことを言うわりに成果に乏しい」と見られるところがあった気がする。複雑な数式なども使いながら論理を展開していくのだが、最後に「だから何なのよ?」と聞いたとき、簡潔に答えられる結論を持っていなかったのではないだろうか。
哲学なら、それでいい。哲学は、簡潔な結論などを求めるものではハナからなく、論理が展開されていく、そのあり方そのものに意味があるだろう。
でも郡司氏は、哲学者としてではなく、自然科学者として、「生命とは何か」を明らかにしようとしている。
であれば、自身の考えを何かはっきりとした、分かりやすい形で示す必要性を、ご本人もこれまで重々感じていたのではないかと思う。
しかし郡司氏は、ここ数年の取り組みのなかで、それをはっきりと突破したとぼくは見る。1年前に発行された著書『群れは意識をもつ』は、これまでの郡司氏の著書とくらべて圧倒的にわかりやすい。
一つには、それは編集者の力添えもあっただろう、哲学的な用語が極力減らされ、平明な、日常使われるのと変わらない言葉で書かれているのも理由となる。
でもそれ以上に、郡司氏にその書き方の変化をもたらしたのは、内容そのものの分かりやすさではなかったかと思うのである。
この本の中で郡司氏は、「群れがいかに形作られるのか」について、一つの理論を展開している。
動物の「群れ」を研究するのは、ただ単に動物について明らかにするにとどまらない。「細胞の群れ」である脳や、「人間の群れ」である人間社会を、明らかにするための見通しを与えるものになるだろう。
郡司氏によれば、これまでの理論では、群れは「同調圧力」によって作られるものと考えられていた。鳥や魚がたがいに近くに寄って、速度を合わせる。そうして個々の「自由」を押し殺し、まわりと同じ動きをすることが、群れが成り立つための必要条件とされていた。
ところが近年、コンピュータによる画像解析の技術が進歩して、鳥の群れなどを撮影し、そこから鳥一羽一羽の動きを追いかけられるようになった。群れの中の鳥がどこに、どのような速度で飛んでいるかを、全て明らかにできるようになったのだ。
するとその観測結果から、これまでの同調圧力による理論では説明できない、数々の現象があることが分かってきた。
鳥は群れの中で、ただ同じ動きをしているのではないそうだ。もみくちゃになり、たがいに交錯して、決して速度が揃っているのではないのにもかかわらず、群れ全体として見ると、一つの方向へむかっていく。
そのような、群れの新たに見えてきた性質を、「説明する理論を見つけなければいけない」という機運が急速に高まってきた。
郡司氏は、その理論を、見事に見つけているのである。
自身でカニの群れを観測し、その観測結果を自身の理論がはっきりと説明することを示している。
『群れは意識をもつ』にはそれが分かりやすく書かれていて、説得力はきわめて高い。
郡司氏の理論によれば、群れは同調圧力などによって形作られているのではなかった。
自由がきちんと担保され、むしろその自由こそが、群れを形作る駆動力となっていたのである。
http://ossanhitorimeshi.net/?p=9622#more-9622
個々の自由を、群れに働く強制力が制限するという考え方では、現実の群れを説明できない。
群れは、個々の行動が、すでにまわりの「雰囲気」を踏まえたものだと考えたとき、その行動そのものが原動力となって作られているのである。
郡司ペギオ−幸夫氏は、自らが発見した理論を「ダチョウ倶楽部モデル」と呼んでいる。ダチョウ倶楽部の竜平が、熱湯風呂に入るにいたる、そのプロセスと同じことが、群れをなすカニ同士のあいだで無数にくり返されているというのである。
湯気が立つ熱湯風呂を前にして、ダチョウ倶楽部の3人が立つ。熱湯風呂には、3人のうち誰かが入らなければならない。
まずはリーダーが、
「やはりオレはリーダーなんだから、オレが入るよ」
と手をあげる。するとジモンが、
「いや、リーダーにそんなことはさせられません。ここはリーダーの代わりに、私が入ります」
と手をあげる。そして二人は、手をあげたまま、横にいる竜平を見るのである。
二人が手をあげているのに、自分だけが手をあげないわけには行かない。そこで竜平も、
「それじゃ、私も・・・」
と渋々手をあげる。するとその瞬間、リーダーとジモンは、
「どうぞ」
と役目を竜平に譲り、けっきょく竜平が、熱湯風呂に入ることになるという顛末だ。
このコントでは、「受動」と「能動」が入り混じり、「分けることができなくなっている」と郡司氏は言う。
分けることができない、「未分化」なところから、結果として竜平の、能動的な行動が生まれることこそ、群れができる原動力になっていると言うのである。
リーダーが手をあげるのは、能動的な行動だろうが、実は心のなかで、竜平が手をあげるのを期待してのことだ。だからこれは、受け身でもある、受動的な行動でもあるともいうことができる。
それに対してジモンが手をあげるのは、リーダーに促されてのことなのだから、受動的であるといえる。しかし手をあげること自体は、「熱湯風呂に入りたい」と志願することなのだから、能動的であるともいえる。
この受動的でもあり、能動的でもある行動により、「雰囲気」が作られると郡司氏は言う。その雰囲気にいざなわれ、竜平も受動的に手をあげることになり、結果として竜平は、「熱湯風呂に入る」という能動的な行動をすることになるわけである。
これまでの理論では、受動と能動ははっきりと分かれていた。一匹一匹のカニは、能動的に、行きたい場所へ行くと仮定する。
それと同時に、群れの中では、カニに「まわりのカニと動きを揃えるように」という強制力が働くと仮定される。これはカニにとっては、一方的な、受動的に受け取るしかない圧力だ。
この能動と受動をはっきりと分けた理論によって、以前は群れが説明できるように考えられていたけれど、近年、新たな観測事実が明らかになるなどして、説明できない、たくさんのことがあることが分かってきた。
それに対し、郡司氏の、受動と能動を切り分けないダチョウ倶楽部モデルでは、観測事実をはっきりと説明できることになるのである。
ダチョウ倶楽部モデルをカニに当てはめるには、カニは自分が行きたい場所を、自分のまわりにいくつも候補として持っているとする。その行きたい場所が、まわりのカニと重なったとき、リーダー、ジモン、竜平の3人が手をあげたときのように、「誰かがそこへ行く」という雰囲気が作られる。
そして行きたい場所が重なったカニのうち、誰かがランダムに選ばれ、実際にそこへ行く、ということになる。
これを延々と繰り返していくことを、郡司氏が実際にコンピュータでシミュレーションしたものが、下の動画である。
黒い小さな四角がカニで、それらが初め、バラバラに置かれているところから、徐々に合体し、大きな群れとなりながら、ある方向へ動いている様子が見える。
カニは一匹だけのときには、行きたい候補の中から一つを、ランダムに選ぶようになっている。まわりに他のカニが近づいてくると、行きたい候補が重なった場所の中から、移動先が選ばれることになる。
行きたい候補が重なる場所は、おのずと他のカニと近い場所になるから、カニは、他にとくべつ条件が指定されてないにもかかわらず、自然に近くに寄りあい、群れを作ることになる。
さらにこの動画を見ると、群れの中で、一匹一匹のカニは必ずしも、整然とおなじ方向へ進んでいるわけではないことが見て取れるだろう。入り混じり、錯綜して、それぞれが好き勝手に動いているように見える。
にもかかわらず、群れは全体として、ある方向へ向かって移動している。
このことは、これまでの理論ではどうしても、説明できなかったことの一つなのだ。これまでの理論では、群れが一つの方向へ移動するのは、強制力によってカニが動きを揃えることの結果なのだから、それぞれがバラバラの方向へ動きながらも、群れが全体として一つの方向へ進むことは、あり得ないことである。
ところが現実の群れを観測すると、一匹一匹のカニは決して動きを揃えるわけではないのであり、それを郡司氏のモデルは、見事に説明する。それも「ダチョウ倶楽部モデル」という、実にシンプルな理論によってである。
個々が完全に自由に、能動的に行動し、逆に群れに働く強制力は、完全に受動的に受け取るという、能動と受動をはっきり分けた考えでは、群れを説明することはできない。
個々の能動的な行動は、能動と受動が入り混じった「雰囲気」にいざなわれると考えたとき、何らの強制力も必要なく、個々の行動そのものが、群れを作る原動力になるのである。
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