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(回答先: 「私」という無限のキャンバス 投稿者 金十字架 日時 2013 年 2 月 14 日 21:41:14)
さて今や自由に向けての勃興に湧く少数の者達の熱烈な眼差しに乗って
私もまた微睡みの中に航海の旅支度を整える私の姿を感じている
湯当りしたかのようなめまいの中に
いつのまにか完全に肉体を置き忘れ
私は白んだ中にもうひとり誰かと連れ立って居た
あのまま何処かに行っていただろうか
とても心地良い中に居て何ら恐怖は無かった
肉体に意識がすぐに戻ったのは理解したが
その前後は覚えて居らず心地良さはそのままに
私は意識を肉体に戻す事がすぐ出来ないでいた
そこに'見えていた'影はまだすぐそばに居る様だった
心地の良い経過の中には一般に怖れられている「死」もまた
ただ通過するだけのものであるように感じた
つまらない話かも知れないが
誰もがそれを経過することである
人の確かな存在理由のひとつとして
人は自由をもつことが赦されている
そして自分と云う意識の存在をあらゆる観点から覗き込む事が出来る
それぞれの旅路を行く「私」はひとつの旅路で得た観点をもちより
全体の「私」の場に注ぎ込む
「私」達は常に終わりのない旅路をそれぞれに楽しむ存在でありながら
一つのものを築き上げている
私たちは旅人でありそれぞれの旅の目的に終わりはなく
一つの終わりは次の始まりである
それぞれの始まりも終わりも
それぞれの幕間の観点から全く妥当なものとして映え
それぞれが全体性の中に完結と始まりを齎し"際限なき物語"を"完成"させている
意識の海に浮かぶ波として無限の形態の可能性を「私」はその幕間に確信する
そこにあった振る舞いのすべてが陽を浴びて
ただきらびやかに舞台を確信に満ちて照らしていた事を
すべてが優雅で甘美さに彩られた装飾と言えるものであったことに気づかせてくれる
何も間違ったものはなく正しいと言えるものも又そこにはない
全てがただ優美である事を知る時にはそれ以外のものは消失するだけである
すべては「私」と云う存在の多面的現れでありその表現であるのだから
その数々の表現のおかげで我々は次の表現を意思決定する事が出来ているのだ
あなたはあなたを知る位置に在る
それを知る場にはかつてあなたであった事がない「あなたとしての体験」もまた存在する
より深い全てに対する理解があなたであるものである
「私」と云えるものからだけ「私」は生まれているのだ
すべては一体である
ある種のメッセージに
熱烈に一体感を感じえる事が出来るというのは
我々に忘れられてきたかに思える自己の本質的な部分との繋がりを感じるからである
目覚めの合図に強く呼応しそこに共鳴現象がおきているからである
それぞれが長らくそこから離れていると感じられていなければ
そうまで身を震わせる感動や出会いもまた生まれない
それは絶えず時と場所を変えて繰り返され
「私」の中に格納される
すべては一体性から発生する自己表現の産物である
私は私である事に同調している時だけ私であるものを生み出す
私は私でない事に同調している時だけ私でないものを思い知る
対峙するかに見せる壁が現れても
それも自己の現れである
あなたが壁としての反応を見せなければ
それは単に通り過ぎる景色でしか無い事をあらためて知るのみだ
あらためてこの無限の可能性の中に
人々に「責任」と謳われるものがあるのだとしら
唯一それは「私」の表現として「本当にしたい事」が何かを
突き詰めて知ろうとすることにあるように思う
したい事を押し隠したままに互いにその表現を否定し合うというのは
鏡に向かって応答と反応を繰り返している山びこ現象と何ら変わりがない
単純にその選択如何でが自分というものを"苦しませる"事になるのかについて
よくよく自分の望みを求める事がどう全体に影響するか(しないか)について
深く知ろうとする事は賢明な選択で在ると言う事が出来る
その為の知る事に対する自分への「責任」というものは確かにあるのだと感じられる
あなたが喜びに向かうかそれとも人の狂気なるものに引きつけられ続けるかは
あなたの中にあなたとしての表現に合致を見せる計算の中にだけあるとも言えるだろう
だがすべての場合に於いて"悔やむ"のは
「私」としてとるべき表現が出来ないと感じ
自己と同調していない事によるのである
そこに他者なる存在は関係しない
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