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(回答先: 健全な探求者Questersたちへ 投稿者 金十字架 日時 2013 年 2 月 10 日 15:40:46)
一般的にスポーツが"健全である"と見られている事に対し
謂わば動的なものとは対照的な位置関係に在る静的なものとして
屋内に'こもった'"芸術活動に於いてもまったく
"健全である"と言う事が出来る
実のところどちらも"健全な"人の本質ともいえる表現の外部的現れである
本来そう見る事だけが妥当な筈なのである
そう見る事ができないというのは
"健全さ"という言葉に限らず言葉の性質上の問題に足許を掬われて
「健全さとして認識するものの対象には当然"不健全さ"がある」といったものであり
それは安直な思考回路の賜物である
そうした考えに更に正当性を増す為の類似した事柄に眼を奪われる様に
不健全であるものはさらに不健全な働きだけを生むと考えられ
世の中を混乱させるかのような存在として危険視され怖れられてしまう
そうなってしまうと人々は考えもなくそこに反射的に嫌悪だけを繰り返すようになってしまう
だから彼らは根本に目を向ける必要性を否定し
尚もただ多くの問題を野放しにする事は出来ないとだけ感じる
そしてまたそれがそこにひとつの観念体系を産みだし
そこに属す人々を'安全に導く'為の共有された道理として働く様になる
しかしそこにあるのは物事の"理(ことわり)"などではなく
ただの歪みきった事実認識を齎しているに過ぎないのだ
こうした問題は実に多岐に渉って'蔓延'しているように見える
そこから離れない限り人々は健全さや正常さを'最後迄'正しく認識する事は出来ないままだろう
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