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(回答先: 都立工芸高校 ものつくりの学校 投稿者 あやみ 日時 2012 年 10 月 27 日 11:55:00)
あやみさん、こんにちは。
工芸高校と云えば、私は過去の何年かを高岡工芸出身の方と一緒に仕事をする機会がありましたが、その方も基本となる技術の大半は工芸時代に習得したものだと語っていたことが印象に残っています。しかし、美大(多摩美?)を卒業し大手の制作会社に就職してからは専らデザインマネジメント(主にデザインマーケティング)の方向にシフトして行った模様です。
私は県庁所在地の市内に細工場を兼ねた小さな店舗を構える職方の家庭に育ちましたが、兄弟の誰も家業(建具店)を継ぐことはなく、父親亡き後に廃業し、すでに40年近くになります。
中学時代には据え付けの現場での建具の搬入や襖・障子の搬出をよく手伝わされたものです。時折、祖父の仕事の足跡に触れることがあっても、それが県下にその名を轟かせたような代物なのかどうか、どんなところがそうなのか全く見当がつきませんでした。
しかし、後に父と親しかった技能検定協会の指導員の方に祖父の仕事について伺う機会があり、疑問の幾ばくかが氷解したと感じたことがありました。微かな記憶を辿ってみますと、手早さは謂うに及ばず、例えば骨縛(?)等の下地造りを均質に、建具にたいする建具枠の歪みの割り付けを均等にと、斯く仕上げることだけが祖父の真骨頂であったようです。
けれども、そうした祖父のものづくりの精神と才能を父がそのまま引き継いでいたとしたら、おそらく私を筆頭とする三兄弟が大学に進学することは叶わなかったでしょう。
詳細なデータは手許にありませんが、戦前までは自前で資材を調達して建築業を営む職方の数はここ東京においても僅少であり、大工の棟梁でさえも数多ある手間賃稼ぎ達の頭目に過ぎず、請負主の多くは材木商等の材料問屋であったはずです。
棟梁が自前で資材を購入、所謂工務店を営み商売ができるようになったのは戦後も60年代に入った頃ではないでしょうか。私の実家がそれなりの店構えになったのも、自己の才能を見切った父親が最新鋭の機械を導入したり金属製建具を手掛けるようになってからのことです。さらには、中規模程度の請負仕事を受注するための設備投資資金や運営資金を信金や信組等から借り入れられるようになり、それを一時的に学資に充当することによって、子息達の高校・大学への進学が可能になったと云うのが大方の職人家庭の実態だったのではないかと想われます。
ところで、大学の卒業証書のホワイトカラー社会に参入のパスポート化が喧伝されてからかなりの月日が経ち、ものづくりの現場もデザインの過程の大部分がCAD・CAMに置き換えられ、人間は一介のオペレーターに過ぎぬ存在になりつつあります。
以前、個人的な興味でロンドンのAAスクール[Architectural Association School of Architecture]の学校案内[Prospectus]を取り寄せたことがあるのですが、工芸学校の上級校として相応しいのかも知れないと、そんなことが思い当たったことや、そこにバウハウス[Bauhaus]とは違った躍動感溢れるチャレンジングな姿勢を見たような気がしたものでした。
現在のことは判りませんが、70年代の英国の業界ではゼネコン受注のものと設計事務所受注のものとに、請負領域における棲み分けが旨く出来ていた様子で、能力のある卒業生ならば卒後の早い時期からコンペにエントリーすることもプロジェクトに参画することもできたと謂われます。
相当前の古い記憶を振り絞っての返信ですので、多少の誤差や記憶違いを免れません。どうかご海容のほどを。
Auf Wiedersehen.
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