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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-101.htmlより転載
東京は水道橋の駅前、そこには筆者の通った高校がある。今から二十年以上むかしの話し…
あまりに近代的な外見に、見た人はまさか高校だとは思うまい。しかしここはれっきとした高校であり、工業高校である。それも伝統工芸を骨子とした工業を学ぶ学校である。
筆者が在学したころはこの新しい建物ではなかった。関東大震災の後に立てられた旧校舎は石造建築を模したコンクリート造といういかにも戦前の香りのするものだった。明治の洋風建築をアールデコ風に再解釈したかのような、ちょいと洒落た建物だった。
「高校」は半端な位置にある。中学までの義務教育と大学という一大事の間に挟まれた緩衝地帯に位置しあまりに主体性がない。「高等学校」なのだから何か高等なことを教えて然るべきなのに大学受験の準備しかしていない。だから高校の選択は将来の大学受験を見越してするものとなり、これが高校の空洞化を加速させている。
(筆者の中学時代の話なので、いまどうなのかは知らない)
「どの高校にいきたいの?」
そんなことを訊かれてもこまる。受験とは名ばかりで、所詮は成績の数字で第一から第三ぐらいの志望校を選ばされ無難なところに着陸するのである。志望などあったものではないことぐらい子供にでもわかる。せめてもの選択基準といえば制服がかわいいとか、部活が充実しているとか、繁華街に近いとか、その程度である。
はっきりいってどうでもよかった。義務教育だからあたりまえに、いわば惰性で中学に通っていたものの、いざその先のことを決めるように言われると決めようのなさにうんざりした。ましてさらにその先の大学のことなどは考えるのも馬鹿馬鹿しい。制服なんてどれも同じようにしか見えなかったし、部活にも熱中するほうではなかった。
将来の夢、漠然とした夢、それだけはあった。絵を書いたり、ものを作ったりして暮らしていきたかった。
先生方と志望校の話になるたびにあーだのうーだの言ってごまかしていたその頃、友人からこの工芸高校のことを聞かされて、飛びついた。
金属工芸科、いくつかある選科のなかでものすごく気になったのはこれだった。(当時の工芸高校には金属工芸かのほかにも機械科、室内工芸(木工)科、印刷科、デザイン科があった。いまはそれぞれ名称がカタカナに変わっている。)金属をいろいろと加工し作品を作ることを学ぶ。主体になる鍛金、彫金、鋳造の工芸技術実習と、ほかに旋盤やフライス盤などの機械工作、溶接、焼入れ、銀めっきなども習うという。しかも都立なので親孝行にもなる。さっそく両親に話し、大事な一人娘をを工業高校になどやれるかとも言われず「あっそう」と許しを得た。出願・入学の手続きも親の手を煩わせることなく全部自分でやったのを覚えている。
そして昭和も終わりに近づいたとある四月に、めでたく工芸高校での学生生活が始まった。
工芸高校の前身は明治四十年創立の「東京府立工芸学校」であり、職人を育てるための学校だった。当時の日本の工業は徒弟制度を頑なに守っていたが、急速に変わる国の事情は古臭い制度を捨てさせ近代化に努めることを推した。しかし明治政府がいかに殖産興業を叫ぼうと、どれだけ官営工場を作ろうと、工業界にとってみれば徒弟制度によって技を伝えることは捨てられなかった。工場生産品は短時間でたくさん出荷できるが、そのことは「よいもの」を作ることとは別だった。「よいもの」を作るためには先人から技を受け継がなければならない。徒弟制度はそのためにあった。日本の工業の先行きを憂う職人たちが政府に建白して作られたのがこの学校、親方たちは教師となり、たくさんの徒弟を生徒として抱え、場所は作業小屋から学校にと変わりはしたものの、かつて自らが教え込まれたことを一心に伝えた。創立当初は築地にあった府立工芸学校は関東大震災で全焼、四年後に水道橋(住所は本郷)に移り再開した。
そんなはなしを先生方からきかされた。
先生方はほとんどがこの高校の卒業生である。先生かつ先輩であり、師匠でもある。であるからして、われわれ生徒たちは激しく可愛がられた。教師である前に職人なのである。気難しいので生徒たちも子供ながらいろいろ気を遣ったりもした。
最初に触るのは「銅」だった。単元素の純金属である銅はやわらかくて一年生にも扱いやすい。ガスバーナーで焼きなめし、水で急冷し軟化したところを金槌で打って鍛えながら少しずつかたちを作る。これを何度も繰り返して蓋つきの小鉢をつくる。
鍛えると硬さが増すが、脆くなる。それが進むと金属疲労をおこし破断する。しかし加熱をすると膨張し、分子の配列がゆるくなるのでまた元のやわらかい性質(展延性)を取り戻す。これは純金属ならではのことで、たとえば合金のように分子構造が複雑になるほどこの性質は失われてゆく。なにやら人間くさい。
つぎは「鋼」。鋼とは鉄と炭素の混合物である。純鉄はやわらかすぎて役に立たないが、大昔の人たちが坩堝の中に砂鉄と木炭をいっしょに放り込んで融解すると硬い鉄が得られることを見出した。炭素は鉄を硬くするだけでなく、酸素との結びつきを鈍らせる。鋼(スチール)が錆びにくいのはこのためである。鋼棒を旋盤で切削加工し、ハンマーをつくった。鋼は焼き入れをするとさらに硬くなる。これも分子構造の変化によるものである。いったん焼入れを施した鋼をもういちど加熱(焼き戻し)し粘り気(靭性)を与える。
それから「黄銅」。真鍮ともいうこの銅と亜鉛の合金は、サクサクとして切りやすいため彫金技法の基礎を学ぶに丁度いい。糸鋸を使った透かし彫り、やすりがけ、ホウの木の炭を使う研磨、銀ろう(銀と亜鉛)を溶かしておこなう溶接、などなど。
ほかにもアルミの砂型鋳造や銀の彫金など、数々の実習をやったが、なによりも手ごたえがあったのが「青銅」の鋳造だった。ブロンズというほうがなじみ易いこの金属は銅と錫の合金であり、いろいろな意味で鋳造に適しているが、やや脆い。世界各地の遺跡から出土する金属器のほとんどはこの青銅製であるのは鉄器に比べると腐食しにくいことと、銅剣のように武器の形はしていても脆いため戦闘用ではなく祭器としてつくられ、畏れ多いので武具や農具のように溶かして再利用されなかったとの予想がある。
原型(雄型)から型(雌型)をとり、そのなかに解けた金属を流し込んで原型と同じ形をしたものを作ることを鋳造という。工程のほとんどが原型作りとそれを雄型に仕舞いこむ(込め)という準備に費やされ金属に触れるのは鋳込みの時と仕上だけと準備にくらべて少ないのが特徴である。雌型が脆ければ鋳物のバリや段差のもとになり、雄型の肉厚が不均衡であれば鋳廻りが悪くなって鋳物に穴が開く。厚すぎても鋳物がその分余計に収縮するので凸凹になる。バリはタガネで切り、穴や亀裂は鋳掛て埋める。その傷跡も自然の鋳肌に近づけるため手作業で仕上げる。雄型と雌型を作るときに誤りが少なければそれだけ仕上げが短くなるということになる。鋳造とは本体になるべく触らないのが真骨頂、という粋な工芸である。
実習だけではなく専門の授業もあった。「銅鐸の作り方」「日本刀の作り方」「奈良の大仏の作り方」、金属工芸史はそのようなことを教わる。同級生たちはみな寝ていたが筆者はよく聴いていた。そんなことを知っていて何の役に立つのか、と考えてはいけない。金属であり、何であり、物の性質や人とのかかわりの歴史をいろんな角度から見る癖をつけておくのは誰にとってもよいことだ。もちろん当時はそんなことを意識していたわけもなくただ興味に導かれてのことだったが。
「機械製図」「材料」「宝飾意匠」、みな必修の専門科目だった。いまではCGやガラス工芸も教わるようだ。国語や数学の普通の授業もあるのに、よくもまあこれだけのことをたった三年で…と今さら思ってしまう。当時、卒業後は製作会社、デザイン会社や宝飾の工房に就職するのが普通だった。大学受験を考える学生はほぼ皆無だったため、普通の授業はえらく気楽だった。科学の時間は金属の化学反応についての実験ばかりしていた。めっき理論もここで詳しく教わった。物理の先生は変わった方で、波動の講義のために愛用のバイオリンでヘタクソなツィゴイネル・ワイゼンを弾いて下さり、波はそっちのけでジプシーの悲哀について延々と話して下さった。高校から大学受験を取り去ればこんな高等な学校になる。
作家の意識の世界で完結できる芸術を純粋芸術といい、絵画や彫刻、文学などがそれに数えられる。しかし「工芸」にはそれを手にして使う者、見る者の意識も加わる。すなわち工芸は純粋芸術から一線を画す。ましてや見た目の格好良さを追いかけ、または奇をてらうことに囚われて使い勝手を損なうようでは工芸とは呼ばなくなる。材料、道具、工程、技法、使われ方が常に意識されなければならないという大前提からはみ出さぬ限り、どんなに簡素でも、どんなに遊んでもよい。それが作家の持ち味になる。そう教わった。
石器時代の石斧にはじまり、煮炊きをする土器、祭祀のための青銅器や埴輪、織物、農具、馬具、家屋、人の暮らしが工芸を生み、工芸も人の暮らしを変えてきた。書画のための筆、舞の扇や装束、茶器、琴、道具としての工芸はさらにすばらしい世界を生み出す。あの法隆寺の造営に使われた刃物は「槍鉋」とよばれる長い枝つきのかんなだけだったという。庶民のための調度品もすべて職人による手仕事の工芸品だった。江戸時代は江戸中職人だらけ、誰にでも手に入る安値の道具たちは便利で、丈夫で、修理に耐えた。
「ものつくり」として身を立てていくであろう卒業生も、先生方もおなじ悩みを抱えている。工芸の精神を突き詰めてゆくと、ちっとも儲からないのである。よいものをつくることと金儲けは次元があわない。採算を考えた瞬間に作家としての手が鈍る。これはどうしようもないことである。しかし今の異常な消費社会の中にあっては、先生方とてかわいい教え子たちに「清貧に甘んじろ」とはいえないのである。
「どうすれば便利になるか考えなさい。人が喜ぶものを作りなさい。そのためには五感を鍛えなさい。精進しなさい。わからないことは先生や先輩にお願いして聞きなさい。」
そして「世の中いろいろ複雑なので、よいものがよく売れるとは限らないんです。逆に君たちがよく儲かるからといって君たちの作品がよいかどうかも別なんです。作家になったらたまに考えなければいけない。儲けだの、何だのと、面倒なことをかんがえずに作品に没頭したければはやく人間国宝になりなさい(笑)。」その先は自分で考えろ、と先生。
三年の高校生活を終える頃、工芸高校の改築工事が始まった。校庭を掘削して新校舎の基礎工事が始まった。昭和が幕をとじ、平成となった年のこと。日本が昭和を脱ぎ捨てた年であった。
筆者は卒業後、二年の浪人を経て美大にすすみ建築を専攻した。やはりこれも純粋芸術に属さない分野である。建築は工芸の延長線上にある。そのときのことはまたいつか書こうと思うが、いまは何とか設計で食べていけるようになった。(但し筆者が日本で設計で食べられたかどうかは極めて怪しい)
今の仕事で役に立つのは大学で学んだことよりも高校時代に身に付けたことのほうがはるかに大きい。工法、手順を考える癖がついているからだ。職人さんたちとの意思の疎通の道義も先生方からいろいろと聞かされていた。ありがたいことだ。
父との電話でそのことを話したとき、いつものごとく「あっそう」という父だがその声は意外さをともなう嬉しそうなものだった。あのとき工業高校に進学することに反対しなかったことを安心してか、それとも単に喜んでくれているのか、両方か。
おしらせ
今週末、水道橋の都立工芸高校において「工芸祭」が催されます。都内・近郊にお住まいの方でお時間がございましたら是非ともお寄りください。
かわいい後輩たち、いえ明日の工芸家たちの作品が所狭しと展示されています。みなさまのお運びを心よりお待ちいたしております。
都立工芸高校 http://www.kogei-tky.ed.jp/
JR総武線水道橋駅より1分、
都営地下鉄三田線水道橋駅より0分
TEL.03-3814-8755
「工芸祭」平成24年10月27日(土)・28日(日)
https://twitter.com/kogeisai/
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