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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-104.htmlより転載
去る十二月五日、公示の翌日から三日間は日本の外からの投票が行われた。筆者も一足早く票を投じた一人である。カッパドキアから日本大使館のあるアンカラまで片道五時間のバスの旅。いやな予感はしていたが、ごんごんと雪が降ってきた。
在外投票自体まだ日が浅くこの十数年でやっと確立した制度だが、その不便さには閉口するしかない。海外在住者は「在外選挙人証」というものを前から申請し手元に持っておかなければならず、その申請もすべて日本との往復郵便なので時間がかかる。つまり国会が解散してから申請しても間に合わない場合がおおい。
筆者の住むトルコなどは投票所がアンカラとイスタンブールの二箇所もあるから文句も言えないが、アフリカには国境をふたつもまたがなければ投票所に行き着けない国もある。そのような交通事情が悪い国の日本国民は日本の選挙管理局に直接、郵送で投票できる。しかしその場合は投票用紙を選管つまり日本の役所に請求、そこからまた郵送されてきた投票用紙に記入し返送、という国際郵便の一往復半がある。例の在外選挙人証の請求と受理を含めると二往復半だ。なめているのだろうか。
まさか歩いて行くわけでなし、と不服を飲み込んで一路アンカラを目指し車中の人となる。
ここは旅のしやすい国である。道路網は隅々まで整備され、公共交通の要であるバスが縦横無尽に駆け回っている。バスの中でふるまわれるお茶と軽食がうれしい。数時間に一度は必ず休憩所にとまり、気の利いた食事もとれる。
雪のふる田舎町の休憩所、遠巻きに見たのは若い日本人旅行者たち。いったい本当に日本語を話しているのだろうかと不安になるが、耳を澄ませるとどうやら日本語らしい。最近ますますせわしなく話すようになったような気がする。頷きながら話す癖もみなに共通している。定まらない視線も腰砕けの歩き方も何とも頼りない。それより彼らは帰国後に選挙に行くのだろうか、などと思ったが、もちろん干渉する筋合いではない。しかし選挙というのは個人の好き勝手ではなく日本人全体の問題のはず、道端に空き缶をすてる子供をたしなめるのと同じように選挙に行かない連中を叱り飛ばしてももいいはずだとも思う。厄介な問題だ。
残念だが今の政治は消去法で考えるしかない。絶対にしてはいけないこと、してほしくないことをシラミつぶしに消去して、あっちよりはこっちのほうが少しはましだろうというという選択しかないと思っている。ろくな選択肢しかない選挙区のほうが多いだろう。少なくとも比例は最高裁判事の信任投票のように否定投票に切り替えればもっと正しい結果が出る筈だ。
民主主義などにははなから少しも期待していないし、「真の民主主義」「民主国家のあるべき姿」、こんな馬鹿げた議論に加割る気持ちなど微塵もない。
「民主主義」に実体はない。ぶよぶよした袋のようなものに、自由だの、権利だの、平和だのという甘い言葉を吹き込んで誰もが憧れる姿に仕立てた操り人形でしかない。それを操るのは「資本主義」、その媒体は「経済」である。民主主義に熱い思いを寄せる気持ちはよくわかるが叶わぬ恋とすっぱり思い切るほうがいい。つまり民主主義とは聞こえは良さそうだが所詮は資本主義の隠れ蓑に過ぎない。人種差別や殖民支配、ナチスの恐怖政治という汚物をさんざん見せ付けたあとで民主主義をご開帳すればみなありがたがるに決まっているではないか。
今の世の中は電子レンジとよく似ている。中に食品を入れて強引に暖める箱のことである。食品が冷たいときはその食品を組成する原子の周りをまわる電子の動きは緩慢である。つまり電子の運動エネルギーが小さい。電子レンジに電源をいれるとその中に磁場がつくられ電子がとびかう。電子は食品の中をつきぬける。そのときに食品独自のもっていた電子とのあいだに摩擦がおこり食品電子の運動が加速される。すなわち電子の運動エネルギーが増す。熱エネルギーを与えたわけではなく、電子摩擦を誘発して温度を上昇させるのである。
市場という箱のなかでは必要・不必要に関わらず貨幣が飛び交い、われわれの暮らしのなかを突き抜ける。消費につぐ消費を誘発されてわれわれはそれを追いかけ、おいこそうと奔走する。これこそ経済が活性化された状態である。市場に貨幣を投入し拡大し、雇用を増やし、所得を増やし、発達を加速させ…この世の運動エネルギーが高まることを誘発するための大義名分が資本主義だ。しかしこれはいずれ疲弊と枯渇をもたらす。それが今の日本、そして世界だ。
電子レンジであたためたものが鍋にかけたものより早く冷めることにはお気づきであろう。それは誰とも熱交換を行っていないからである。働きもしないで得たカネが一晩で泡と消えるのとよく似ている。そしてこの電子摩擦には、食品の組織や微生物は耐えられず死滅する。それを口にする我々は食品から受け取ることのできた免疫力を完全に取り逃がすことになる。われわれの中の大切なものがこの飛び交う貨幣に焼かれているのも事実、ならば何故この市場という箱から出ようとしないのか。
資本主義をあげつらって民主主義を否定するのはおかしいとのご意見もあろうかと思うが、先に述べたようにこの両者は人形遣いと人形の間柄にある。外は可憐だが使い手が腐っている。だからこれまでもこの先もまともに機能する筈などない。それを旗印に政策を叫ぶ政治家どもも滑稽でしかない。もし日本の歩むべき道を民主主義という言葉を使わずに説く政治家がいれば耳を貸そう。だが、我が国にその力量と勇気を持つものが現れるとは思えない。
民主主義も共産主義も理論上は実現可能である。ただし人間の生きる「場」をとことん無視すればである。
たとえば羽毛と硬貨は質量が違うが引力は等しく作用する。同じ高さから同時に落とせばそれぞれ自由落下し同時に着地する、はずであるが、普通はそうはならない。「空気の抵抗はないものとする」というお決まりの但し書きがつかない限り決してあり得ない。空気抵抗のない宇宙空間は重力場の外になるので論外、ならばどこかの大学の真空試験室の中にでも行くしかない。いわば恐ろしく限られた「場」でのみ実現する法則であるが、これを一般解としてしまうから矛盾が生まれる。
人はもともと怠惰で強欲、嫉妬深く淫蕩な生き物である。物理空間に空気抵抗や摩擦があるように人の生きる「場」には様々な抵抗が渦巻く。これを「ないもの」としたときにはじめて民主主義や共産主義がなりたつのである。こんないかさまに気づかぬために前に進まない、それが近現代だろう。
ペレストロイカの風を受け東欧の共産主義が崩壊した。その数年後のブルガリアを旅したことがある。首都ソフィアは凍てつく町、ならぶ建物は共産のにおいが強く残る無機質な造りで、駅、地下道、廃墟と処かまわず失業者たちが寒さをしのいでいた。せわしなく働くのはヤミ両替の業者だけだった。生活必需品はキオスクのような売店のみで専売されていた。すり、ひったくり、強盗、警察もそんな軽犯罪にはお構いなし、強盗に遭い所持金もパスポートも全部なくして大使館に保護されているという気の毒な日本人にも会った。一方でトルコ国境に近い東の町は共産党時代から「運び屋」が活躍し裕福層が存在する。人間界で共産主義を貫こうとしてもこうなるだけである。
民主主義を掲げる国々はミサイルを片手に.世界平和を謳い、従わぬ国があれば木っ端微塵の焼け野原にする。その傍らでかつて植民地として支配した国から資源と労働力を搾り取る。人間界においての民主主義とはこれである。主義主張の内容など議論しなくとも結果だけ見れば明白である。
そうこう思いを巡らすうちにバスはアンカラに到着、地下鉄に乗り換え中心街へ。久しぶりに来たアンカラだがやはり好きにはなれぬ町だった。この都市は帝政が打ち倒され新政府が樹立したときに人心を一新するためイスタンブールから遷都されたもので歴史も味もない。西欧化にそぐわないイスラム教色を排除するため左寄りの政策がおかれた近代トルコの新首都の風景はよく見ると共産圏の都市のそれと酷似していた。今でこそ華々しく飾られ物質的な豊かさと賑わいを見せてはいるが町の骨子はブルガリアの首都と同じ臭いがする。
さらに市バスで日本大使館へ。菊の御紋をはりつけた入り口をくぐり館内へ。受付をすませ投票。比例は未来を選んだ。筆者の日本での最後の住所地のある東京一区の候補の中から誰かを選ぶのは不可能、ひどい選挙区もあったものだ。腐ったりんごと虫食いだらけのりんごのどちらでも好きなほうを選べと押し付けられている。選択肢は「該当者なし」。未来の候補だからといってN氏と書くのは踏み絵を踏むこと同然だ。こんな候補をあわてて立てるなら未来もお里が知れる。
職員の方に投票率はいかがですかと訊ねたところ、ぼちぼちです、と気まずい笑顔が返ってきた。留学生も商社や銀行に携わる日本人もこのアンカラには多いはず、民主国家で民主教育を受けて育った優等生たちには原発もTPPもたいした問題ではないのだろう。
勝手にすればいい。
世の中は「変える」ことはできない。何かの結果として「変わる」のである。我々が変わってはじめて世の中も変わる。主権者である国民が今のままではその延長上にある国も今のままだろう。しかし我々はくだらない知恵をつけられすぎたおかげで個々の思考が方向性を欠き、国として共同体として纏まりようがなくなった。そこで民主主義が数の理論で横車を押すことを認めざるを得なくなる。また、鍛えられずに成長してしまった我々の脆弱な思考力は社会生活に忙殺される毎日によってほぼ麻痺してしまった。そこで民意を問われたところで結果はわかりきっている。失意の海に沈みゆく日本。
潮流をよみ、風をも見据えて舵取りをするべきはずの我々は、民主主義という誤った海図を信じたためにに座礁した。
日本丸よ、いつまでそこで立ち往生するつもりか
はやく帆をあげてゆくがいい、潮はとうに満ちている。
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