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万象を「自在」に「観る」
我々は自在に解釈して物事を捉える事ができる
それは必ずしも事実というものが
人々にとって大事なものでは無いと云う事を表しもする
「ありのままを捉える」と云う事は
一般的にはあれこれ解釈を挟まずにそのままを受けとる
と云う事になるだろうが
これも観念的な言葉に過ぎれば途方もなく解釈に幅が生まれる
人々はそうしたことに関心を抱くよりもむしろ
自分の都合に合ったもののみに注目する
そこに利を見る
行動のすべてには利がある訳だから
しかしそれは何も悪い事でも何でもない
それを利用する者がそれに振り回されもしなければ良いものだ
私たちは観念的に「観る」と云う言葉に
すぐに視覚での「目視」を連想するが
盲目の人が足でものを見ると云う事が在る様に
本来「観る」という言葉には
知覚全般に拠って感じると云った事の方が
この場合の「観る」に近いと言える
更に云えば肉体的知覚以外の
所謂「内的知覚」をもって「観る」が正解だといえる
それが本来の「ありのまま」を受け容れるという言葉通りの行為となる
それはつまり
「すべてを信頼する」
「すべては信頼に足る」と云う事を「知る」状態に至る事が
ありのままの状態即ち「自然」なのである
私たちが普段如何にして世界を捉えているかと云う事になれば
健常者と云える者の殆どよりも盲目である者の方がよっぽど
自分及び周囲のものを捉えられているという事が観察から伺えるのである
それは眼に捉えていると考えられているものを
追っていると考えて居るものが実は
それらに追われているからである
捉えている様で逆に捉えられてしまっていると云う事が言える
あなたがただ道を歩くと云う何でもないと思える行為を
実際はどのように捉えているかその認識を
盲人のそれと比較すればよく理解する事が出来る
あなたは目を瞑って路を真っすぐに歩く事さえも困難である事を知る
あなたが足を眼の変わりにする時
如何に自分の身体の芯の働きが
普段は注意が行き届いていないかを知ることにもなるだろう
そのようにあなた方が普段認識していると考えられている常識さえもが
如何に共有された幻想であるかをそこに伺い知る事になる
それらがあなた方一人一人の感性というものを
如何に貶めているかに気付く事が出来れば
そこから抜け出そうとするきっかけとなり
新たな物事を生み出す為のはじまりとなるのである
この凝り固まった観念=信念の
「信」の一字というものは計り知れない「熱」性を帯びている
この「熱」が物事を生み出していく力そのものになるのだと言える
それが他者の眼をして強さと言えるものに映るのである
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