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(回答先: Re:矢沢永一はんが、大江はんを麻原彰晃と同じだって断言してた。びっくらこいたのー。 投稿者 藪素人 日時 2012 年 10 月 11 日 19:42:07)
荒筋からはからは省いたが、こん小説にはヒカリ君という知恵おくれの息子を持つK伯父っていう作家(小説家であることを恥じているという触れ込み)が登場して重要な役割を演じる。この片田舎を舞台にした小説を書き続けて来て、コミュニティの運営にも間接的ながら密接にか関わっておる。サッチャンに伊豆の山荘を世話したのみk伯父だ。ヒカリ君作曲の曲が教会で演奏されてもいる。K伯父=大江でんしょ。こう見てくるってえと、大江はん自身がこんコミュニティに強い近親感をもって入れ込んでいる姿が浮かんで来よる。
村上はんの場合は、オーム的なもんに知らず知らずに屈してしもうた感あるが、大江はんの場合は、当初からオーム的なもん(カルト)を求めていたんでねえかと思われてくる。西洋の文学、音楽、宗教書からぎょうさん引用すて延々と宗教談義を繰り広げている動機は何か? ギー兄とサッチャンという二人の主人公ばかりでねく、多くの登場人物に宗教的思弁を語らせておる。この小説はそん部分が圧倒的に多くて、退屈きわまりねえ。
言い換えるど、既存の宗教にあきたらなんで新しい方向を模索している場で、二つの駒(ギー兄、サッチャン)が、ただ大江はんの操り人形として、思考実験の手助けとしてムリヤリ動かされている感じじゃ。
小説の主人公ってえのは、いったん生まれると作者の手を離れて生き生きと自立した行動をとっていくもんだべえ。そこに創造性、飛躍っていうか魅力も生まれてくるもんじゃ。この作中人物たちに新しい生命は吹き込まれず、みな大江はんのロボットになって不自然な行動を強いられ続けておる。
特にもっとも分からんのは、なぜ主人公のひとりに、両性具有者を持ってきておぞましい性行動に走らせにゃならんかったかじゃ。宗教的思弁を加速するための道具立て、補助線ぐらいの位置づけぐらいしか想像できやせんがな。大江はんの宗教的思弁っていう観念劇の駒に使役されておるだけじゃ。
ギー兄は、コミュニティにいる子女奪還にきたグループから石礫(つぶて)の雨を浴びせられて、あえねえ最後を遂げる。とにかく訳が分からん。
大江はんと村上はん、この二人同じ体質(肉声)を持っているんじゃなかろか。村上はん、今回は逃がしたようじゃが、ノーベル文学賞ってえもんも、危ねえねえ〜。
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