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(回答先: 自然とは何か? 投稿者 金十字架 日時 2012 年 8 月 27 日 19:07:21)
そもそも心とは
人間がその自然観の中に独自の在り方をして
自然の運営メカニズムとそのシステムを意識的に捉える為のものであり
これからの人類は
地球環境と種全体の為のエネルギーの有効利用を目的として
生命のメカニズムを理解しその枠組みから外れない事を前提に
改めて自然観に沿った社会を基礎から築き上げていこうとすれば良いだけである
「何故こんなことが起きたのか」
「何が原因なのか」とだけ考えて
すぐにその禍いの原因を過去にのみ求め
つまりネガティヴな眼差しをもって過去だけを振り返っていれば
不都合な事実のみだけが浮き彫りとなるのは当然だといえる
何が悪いのか?その原因だけを求めて丹念に自分の過去を精査すれば
あなたの人生の全ては悲惨なもので埋め尽くされた様に見えてしまうのではないか
例えてそれは
不調を訴える来院患者を精密機械に架ける医者のようなものだ
医療に携わるものの誇りに架けて必ず悪い所"だけ"を炙り出していくだろうから
何処かが悪いと云う前提で何かを得ようとするのはそもそもどうなのか
見つかるのはその原因らしきものだけだろう
そして必ず悪いものが見つかる迄それは続けられる
極度なストレスに晒されれば
それ迄健康だったものでもいずれそうした原因を作りだしてしまう
そうした環境の変化によって身体に棲息する害の無いウイルスさえも
害の在るウイルスへと変異する事は在る
そもそも健康な状態とは
健康でない状態が維持しているものである
屋敷で飼われた犬がストレスによって病気を産むのもそれと一緒で
敢えて患部をつくり出す事によって
外側に発散すべき自然なエネルギーを
病気の痛みに向ける事によって健康を維持しているのである
自然な生命とは外側に向けられた自然な感情を
常に発散させることによって
溜め込まれて暴発する事を避けているのである
人間も同じだが人間は不自然な迄に溜め込んでしまう
善悪の概念に煩ってしまっているからだ
恥の概念も在る
罪と罰の概念も在る
どれも自然には無いものだ
何かを良いと決めれば対峙するもう一方を悪と看做す
そうした短絡的な思考は血の通った認識を経ずに判断を下す
自然であればなんら問題は無い他人の仕草をも
気にし出したら殆ど病気に近いほど不自然な感情を溜め込んでしまうだろう
善良であらねばなら無いとだけ考えるようになれば
何が何でも悪と認定される怖れのあるものを自分から遠ざけようとする
排除しなければ気が済まない様に迄なる
自然に発散もできない感情は内々に抑制し溜め込まれ
そうした価値観の前に隠し通さねばならないとさえ感じられてしまう
不自然な振る舞いがそこに目立つ様になる
そして自分の外に自分がそうして我慢してきた感情を
いとも簡単に晒している存在を目にすると
自分をろくに内省もせずに
その溜め込んだ感情をそうした外側に向けて
一気に爆発させる様になるのである
戦争と云うものが産まれる原因にしても
そうして何世代間にも渉って累積されたエネルギーのぶつけあいであるだろう
いじめの問題にしてもそうで在る
被害者と加害者の両方に何が起きているのかをそうした観点から紐解けば
何が原因かはすぐに見つかる事になるだろう
ただし現在の社会はその原因を簡単に受け止める事は出来ないだろうが
当前なことだが自然のままの動物には
善悪の概念や罪と罰などと云った捉え方は無い
自らの身体をも自然の一部としてシェアしているからである
飼われているペットであれば多少飼い主の言いつけを通してそうした概念を解釈している可能性がある
山林を荒らすと言われる動物があったとしても
それは一方的な配慮の無い人間側の決めつけであって
必要な分だけを分け与えさえすれば彼らは食い荒らしていく事も無い
彼らは全体性をきちんと把握しており人口削減問題に悩む事すら無い
動物達は現行の人類より遥かに高等な自然に準じた存在である
意識的な心を取り入れたとされる人類は
今改めてその心で自然な在り方を実現するために既存の社会の枠組みを捉え直し
自然の循環システムを取り入れた新たな概念と枠組みを柱として組み上げるべきである
それが人としての心の筋を通すと云う事であるだろう
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