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(回答先: 観念的狼狽より人類を見つめて 投稿者 金十字架 日時 2012 年 6 月 21 日 23:51:43)
あまりにも本人ですら内容が読み難いので書き直してしまいました。
皆羊以上の存在であるという例えは、なかなか分かりやすい例えであると思います。
私もそうした例えに近い考えであることに異論は在りません。
さて、原発板でのあなたの苦悶に満ちた数々の申し出に、私もまた苦渋に満ちた表情になってしまいました。
私が喜んで参画を申し出したいものとは例えて言えば、
「警察庁の職員が"商売"あがったりになるほどに、人々が一致団結して、各々、周囲の存在を本質的には「善意の固まり」として、「認識しあう」というような大々的な運動」であるでしょう。
さて、万が一そのような申し出が仮にあったとして、そのような突飛な考えを私のような人間のほかに、一体誰に受け入れられると云うのでしょうか(笑)。
大抵そうした事案が掲げられるとなれば多分に、こうなると思われます。
「市民自らが悪事を撲滅追放する為に、"そうした目線"で人々を監視し、パトロールすることにしよう」
と園程度の内容の事で即断されるのではないでしょうか。
もちろんこれは例えの上での話ですが、こうした事実が違和感なく受け入れられると云う自体、実に聞く側にも「観念的な目線」のあることに気付かされる事ではないでしょうか。
しかし大抵こうした"当たり障りのない響き"は、誰にも違和感も異論もなく、受けとられているようです。
それは一体何故だといえるのでしょうか。
そうした考え方は悪く言えば惰性。そしてそれによる無自覚さであります。
良く言っても、「共有された認識の利便性」などとして、受け容れられているといったところでしょう。
私から言わせてみれば観念的なやりとりとは、形骸化した形ばかりのもので、当初の理念とも言える"中身"はからっぽです。
責任的処遇から逃げているように思えるのです。
そうした申し合わせ程度のことは、実際何処ででも行われているものであることを知って、個々で話している事ですが、そのような行為は、結果当初の行動に期待する結果とはまるで正反対の、真逆の効果しか産まないと言えるのです。
人々はけして普段から、人陰や物音に不穏な響きだけを捉えるような存在では無いと云う事です。
周囲から警戒を怠らないようになってしまう事が習慣化すれば、その心に普段と僅かでも違う景色が移れば、それを異質なものとして感知するようになってしまう事でしょう。
そうして神経を擦り減らしつつ向き合うだけの人間関係、は野生の中で育つそれらとなんら変わりなく、そのように反射的に繰り返しつづければ、もっとも厳しい状態になる迄、ただ互いに煽り、捲しあげられるだけの関係に成り果ててしまうものである筈です。外面的にはそう見えてなくとも、内面的な心理的闘いは既に途方もなく激しさを増していると感じられます。
こうしたことは、この日本の文化及び日本人の姿として、人々の相互間の印象の中に定着して久しいものであるのです。
ここからが私の言わんとする点であるのですが、現在の人類から同種である人類へ向けられる目線とは、長らく定着して久しい、人々の中に潜む、とある「観念」から解き放たれています。
そこには「人間とは生まれながらにもともとロクでもない存在である」といった考え方の根本にして柱となる、「性悪説」からなる「観念の構築体」を生み出しているのです。
大概一般的な人々は、こうした観念の囲いからは、"抜け出せない"ように感じてしまっており、自分を苛んでいるだけにしてしまっているのです。
ある時代には、「原罪」としてそれは採用されました。
勿論その目論見は成功して、当初の期待以上の効果を上げる事となったと云えますが、それは何も、すべて不安をもってしてでも、「人々をコントロールしなければならない」とする、"純粋な"考え方があったからです。
私は肯定する訳でもなく、その時代の中心に居たものであれば、それを即座に反対した事でしょう。
人類は現在迄、こうした観念を強化する為に、日頃からニュースや新聞によって、様々な物的証拠としてのものをまざまざと"見せつけられて"います。
勿論それが事実である必要性などは、ハナからどうでもよいことで在るとしながらです。実際はそうした観念によって放たれた目線が、
そうしたものにただただ惹き付けられて行っているからに過ぎません。
新聞やニュースに目を通し、その中から問題視する内容ばかりに目が行くというのは、それに類似した心の中の観念が渦を巻いて働いているからと言えるのです。
勿論そこには自我であるあなた自身がそれを意識的に選んで好きでそうしている訳です。
つまり自身でそうした証拠を探し歩いているのです。
まずはこの話はここ迄にしておきましょう。
さて、何故こうした話を此処でするかと云うと、すべて関係するからです。
これら目にする周囲の人間及び世間全般を「心から信頼し愛する」と云うような事を、「あなた方人類はそれが可能なのかどうか」という、これは、神(全体的な自己)に叩き付けられた"挑戦状"とも言えるものなのです。
(実際上記のような事実は在りませんが
私がもしこの舞台を創作するとしたらまずまずのフレーズでしょう)
そのように提議すると、奮起するものが居る傍ら、全く幻想的かつ現実とはかけ離れた話題であると、ひたすら批判するか、若しくは、批判する価値すら無いと迄云われる方も居られるに違い在りません。
しかし現実とはまさしく夢うつつであり、あなた方はその無差別に抱き込んで、意識に住まわせた観念の所為で、本来一般的に言ってもまったくの自由である筈の夢の中でさえ、責め立てられ追われ、翻弄されつづけており、全く心の休まる自由は何処にも無いと感じているのです。
つまり安らかな姿とは完全な意識の死の状態だけであると。
これを逆になぞらえてみましょう。例えたらこうです。
"必要な観念だけを自分のものとして持ち合わせる事が出来るのであれば、夢だけではなく、現実でさえも自由に作り上げる事が出来る"
つまり希望を持って言うなら、「夢と現実は同じものである」。
これが事実です。
さてここで話をまた戻します。
警察職を破綻させるほどに、法律の撤廃が実現化するほどに、政治家が食い扶持を失う程に、一人一人が実践すべきは、「個々における意識の活用」であると言えます。
まず精神があり、意識の在る場所に物質的要素が産まれるのであって、その逆では在りません。
集団行動を展開するにも、"組織化された心"がなければ、ほぼ不可能であるでしょう。比類なき迄に統率された軍隊のような存在は、統率し維持すべき世界にとって必要なのであり、平和の世に必要在りません。
私とは、もともと性善説を唱える一派と看做されても差し支えの無いほど、自称、その思想に傾倒して来た者として認識している訳ですが、今をもってそれは正しいと考えて憚りません。
今こそ復興すべきなのは、陽明学に於ける「心即理」の、現代語訳的エッセンスをちりばめた「人々へのコンタクト」です。
人々は、「物事を選択する権利」の所有は認めるものの、自己の無力さの方がその権利を上回っていると感じています。
何故そう感じるかも、すべては人々の心理的意識に入り込んで、今や揺るがないように構えているそれらの観念の建て屋を支える「柱」です。
その「柱」を入れ替えなければなりません。
あなた方は潰れるのが怖いからと云って、頑強に見えるこれ迄の柱を握りつぶす必要は無いと考えます。
よって自らの権利はすぐに、権威や司法の前に棚上げしてみせて、すべてをそれらら委ねるのです。
つまり「自身に依存する術」を知らずに
尚も他力にのみ依存し、懇願しつづける事が楽で正しいと考えているのです。
よってますます、そこに被支配的在り方を望んでいるように見えて、実は渋々条件をのんでいると云う"体(てい)"をいつまでも演じ続け、そのような姿勢を見せ続けているにすぎない、と言い張るようにして、食い下がって文句を言う権利をそれなりに獲得しているのです。
当然そこには、支配の必要性や妥当性が要望として生まれる為、腐敗しているとはいえ、既存の古いままの政治的手法は続行して止むなしと云う事も出来ると思います。
人々が互いに信頼しあい、善良で心豊かな生き方など、このようなままで、実現できるものでしょうか。
人々、つまりあなた方は、それを一蹴するや、「まず出来ないだろう」と、盲目的に容易に結論づけるでしょう。
そして、なにかしらの統計や歴史年表といったものを取り出して広げて見せるのでしょうが、そうして決め込んでいるのは、なによりも現在のあなた方で、「行動を起こせる自己」という「現在の意識」は、いつまでも「過去」に在る訳では在りません。
そうした事が何故当たり前として通じて、問題視されないのでしょうか。
あなた方が「今」変われば、過去に消失していくかに見える「その時のあなた」も、変わることになると云えるのですが、そうした事を一笑に付してしまうのが当然だと云う考えもが、観念的なあなたの思考を問題なしと理解して、反射的に発せられているのです。
そうしたことは誠に"盲目的"だと云わざるを得ませんが、そうした考え方をあなた方は自身で「選んでいる」と云う事なのです。
過去のあなたも、又、今現在点に改めて"作っている"若しくは、"維持し続けている"と云える事だけは、「事実」として認識出来るのではないでしょうか。
あなたがどうしたことをも、「何故出来ないのか」と自問する癖を持つとき、あなたはその考えを妨害している、無意識のうちに隅に追いやっていた多くの観念に出くわす事でしょう。
大方の人類はそのようにして、自分達の宿命(と迄は云わなくとも人生)を否定し続け、そして"呪って来た"と云えるのです。
他者なる社会全般の悪を"呪い"、そして望みのままに立ち行かない自分の人生をも、又、そこに"呪って来た"と云えます。
あなた方は自身の選択したルールに沿って、そのような自己の在り方を選択し"続けて"いるのです。
ここまで理解出来るでしょうか。
正直さや正しさとは何をもってそうであると断言出来るのでしょう。
自分に正直であると云う事とは、自分の力を否定する事では在りませんし、自分の力を限界無きものと感じることは、自分に嘘をつくと云う事でも在りません。
物的証拠を誰かに証明しなければなら無いような、どのような義務もあなた方の肩に乗っかってなどないのです。
人々は「恥と云う文化」をネガティヴに捉え過ぎです。
恥を恥と思わずに済む文化もまたあるのです。
西欧人が未開地と呼ぶ場所に侵略しに来て、土着の先住民の裸姿を見て、「恥ずかしい」だとか「野蛮だ」などと思い込むのもまた、恥ずべき行為でしょう。それこそが、程度の知れた姿をさらし、観念的な人の姿である事が理解出来るでしょう。
そこに言えることとは、「ありのままを見る力が失われている」という事です。
それは日本人にも、そしてここでの大方の方々についても同じ事が言えます。
観念的に捉えるものは観念的なものとしてしか紡ぎ出せていないのです。
感情的な音は同質の感情的な人間にしか響かないのです。
まるで工業製品のように、マンネリ化した演出家のセリフ回しのように、単なる惰性での作業が連綿と連なっているようにも見えます。
どのような出来事をもろくに精査もせず、受け入れるままに呑み込んでだけでいては、それを単にまた吐き出そうとする時をまってただそうしているだけのようです。
かつての私もそうで在った事を踏まえて話させて頂いています。
私の意識に在る自我は既に数年前と同じではありません。
つまりその時迄の私から現在は既に変化して、この数ヶ月感は日増しにバージョンを移り変えています。
一定の一貫した流れに沿って、あらゆる考え方が流れるようにして立ち現れては、すぐに新たな考え方に塗り替えられていくように切り替わっています。観念の構築体としての自身を時に自負してまわる事もあったと思いますが、感情的になってただ気勢を上げて行動をしているだけでは、短期間(現在の平均寿命)での意識的進化は期待出来ません。
おおざっぱに言えば、これまで規制が掛けられていた考え方に手が届くようになって来たと云う事です。
人類の進化とは、こうした意識的な進化を経て立ち現れる事であると期待を込めて、言早稲て頂きます。
そのような進化など「期待出来ない」とする考え方から、刹那的な"事なかれ"人生を自ら選びとる為の理由として挙げる者も少なくはないでしょう。
程度の違いこそあれ、自身のコンプレックスというものは、大方どの諸氏もお持ちであり、それは認められる事と思います。
そうした"弱点"を行動へと昇華し、押し上げる力として利用しない手は無いものの、そのコンプレックス自体は、「誠の自身」と相合うことなしに、つまり本来の自己との調和を見せる事は無い為に、(あなた方の言葉で言えば神ということにもなります)いつかそれらを手放さない事には、それらの行動を通してみても、本当に自分の力を"(制限されたものではなしに)「信じきれている」"、と云う事にはなら無いのです。勿論それを利用していると判断出来ている段階に於いては、自然とそれらにも感謝し、手放す事は出来ているでしょう。
人々は自身の担う「責任」という言葉に、酷く畏怖と恐れをもっていると感じられますが、それもまた言葉に被せた観念的なやり取りの中に、いつのまにか定着を見せてしまったものであるでしょう。
つまりそれは出来る事だけでなく、すべきでない事やしたくない事、若しくは、承諾しえない「出来ない事」迄をも、この経済中心の社会観の中では通常、それを半ば"半強制的"に差し迫るものとして、任務の中に認められている、といった"きらい"が有るのです。
故に人々は、「責任」といった言葉に「ネガティヴな音の響き」を聞き取るのです。
組織的な在り方を維持する上では、そうした考え方はとりわけ一般的です。
また、それは組織を統率していく上で「なくてはならないもの」になっています。
ですが、本当にそうしたものが正しいのかといえば、私はまったく誤った考え方の上に成り立っていると言いたいのです。
「行動」には必ずその「責任」が伴うものですが、それは本来の意味では、ただ「出来る事をする権利」とでも云うものです。
それがそのまま本来の行動に付随する「責任」として、自発的な行動、として自然に想いが率先して形として"現れるもの"であるだろうと思います。
誰もがそうした自発的な行動を牽制する意味で、「責任」というものを怖れていたのでは、まったく話にならないでしょう。
そのようにして「抑圧された」不安が基調のこうした世の中では、ある意味、"一定のレベル"の人間は捨てられても何も言えないような、そうした視線を浴び続けて、身動きが取れない運命に在るとでも言われているようなものです。
根本的に人々が動き出せないのを無理を承知で動かそうとするような方策は、私の望む世界の在り方では在りません。
あなた方は全く真逆で正反対の、「二つの対立した観念」の"どちらにも同意している"ことから、普通は何かしらひずみが産まれて障害が発生する筈ですが、何かしら無力であることを認め、選択肢を失うその一方で、"社会に属すもの"としての「手形」を"しつらえて"、あくまで社会道義的遵守者としての道を肯定的に捉えることをもって、相違する観念の融合に成功をみているものであるとも言えます。
しかしながらそこでは、"無理からぬ義務"としての、組織下での制限措置を甘んじて請け負うことになります。
勿論こうした意見を「何をバカな事を」と云うのが、大方の「反応」であるでしょう。長らく続いて来た経済社会の衰退は、私には十数年前から予期されていた事でした。
資本と共産の両方の在り方が必要な時代が来ると、ここでも何度か書いたものです。
今それを言い換えるならば、経済はサービスに特化し、それ以外は経済から切り離された仕事として、芸術や職人文化継承並びに育成の為に、大いに人々のやりたい事をやれる世の中に移行していけるということです。
私たちは力をけして無くしては居ないと云う事です。
ただ自分達に力など無いものだ、と、単に真逆の知恵を授かって、それを信じて居ると云うだけである事を告げたいのです。
まったくそのようにして矛盾した心理状態を維持し続けている間は、決壊を想起させる軋んだ音を、夜な夜な鳴り響かせつづけているだけでしょう。
未だそこでは一方の観念の成就を、他方の信念が妨害していると云った状況が産まれて居るのです。
結果としてその双方が融合し複雑に絡み合った結果として、「出来ない」と云う否定的事実を受け容れながらも静かに燃えている、と云った、「混乱した状態」だけが、現実的な人々の状態とその姿として産まれ続けているだけになのです。
そしてそれが尚も定着を見せ"続け"ているのです。
そのような状態を長らく続かせる間は、そうした観念は継続して次々に呼び寄せられる更なる物的証拠により、望まない状況というものを認識する手段をますます集めて、一方で吐き出し、その観念を肥えさせる為の餌を同時に産み続けているようにして、抑圧された感情を募らせつづけることでしょう。
そしてそれは"そのようにして"「日々」強化されていくのです。
結果として、そうした惰性で産まれる観念的陥穽に身を投じる事とは、「信じたい事があってもなかなかそれを信じられない」とする状態に、自らを追い込み、腰を落ち着かせるだけの自己を獲得していくだけでしょう。
そして、まったくもう一方の抑圧された本能の固まりとしての人格(例えば救世主や破壊神)が、その心に投影されて、大事件などのきっかけを期に、感情的エネルギーとして劇的に生み出される迄、いつまでも地団駄を踏み続けるのでしょう。
どうして個々の可能性を押しやるのでしょうか。
どうして他者を押しやるのでしょうか。
何故自分にそれが不可能だと云えるのか。
何故望ましき事を素直に直視できないとするのか。
何故人の可能性を信じられないままとするのか。
何故自身の可能性を信じるままにしておけないのか。
それは自己の無さや無力感を放置して、迷いをそのままにして、人々がコントロール支配され易くなる為の、根強い「否定的な観念」が潜むからなのです。
権力や権威への強い憧れを示すのは、当然、自分自身が無力だと感じていればこそのものです。それは裏を返せば、大いなる力を持つものへの嫉妬であるともいえます。
自我(自分自身)とは、まさにそのような性格を帯びた意識であるとも言えます。
かといって自己全般を取りまとめするのは自身の仕事なのです。
そうした嫉妬心や嫌悪感を自分以外の他方に強くもてばもつ程、ますますそこには"開き"が産まれてくるのは確かな事と言えるのです。
つまり何かを罵っていては、ただそこに「無力な者」としての信念を、より一艘強化し続けるだけだと云う事です。
それを更に言い換えればこうです。
あなた方すべては、そのような否定的感情の一切を捨ててこそ、大いなる存在そのものとして一体である、という結論に行き着く事でしょう。
そして人々の間には無数の架け橋が在り、そこには可能性を互いに認めあう時に分かちあう事の出来る、可能性の宝庫であると言えるのです。
私は此処に独り言を書き始めてから、およそ10年経ちますが、ようやく物事の本質的な考え方に出会ったと云う感想を持っています。
感謝する事が何故必要なのか、本当の愛とは如何なる心理的状態なのか、諦めると云う事がもたらす力の解放ということが何であるのかということまでもが、手に取るように理解出来るようになりました。
何かを敬遠したり、受け入れられないとする素直な好みのある一方で、全てを受け入れ"なければなら無い"とするものがある訳でもありません。
しかしある"一定"の拒否感情が、成就のすべてを阻害する事は確かな事実である訳です。
言葉とはある意味、極端な発想のもとに、人々の心を縛り付ける事にしかならず、それは時代時代を代表する、有志の人々らにも実証されて来たと考えられますが、
まさしく現在の凝り固まってしまった人々の観念体系を一旦ここで、洗いざらい崩してみせなければならない時期に来たものであると感じてもいます。
今現在の意識の進歩には歯止めをかけられそうも在りません。
私はどのような観念がどのような犯罪を生み出しているものなのか、またどのような観念がどのような価値観を生み出し、どのような人類総出の観念群が事件や事象また事故などを創出しているものなのかをまとめて書籍にでもしたいくらいだと考えています。
それが私に出来る事としては、今もっとも「やりがい」の在る事だろうとも考えています。
私は今後も和をモットーとするものであり、それは変わらず周囲のものに対し調和がすべてであると説き続けていきたいと考えます。
また自身に対しても調和を促す事が大事だと知る者です。
これは日氏だけに当てたメッセージでは在りません。
私が常日頃溜めた想いが、ひとりでにタイピングを走らせているとすら言えるかもしれません。(これは推敲後のものですが)
敬愛なる日氏へ
「収穫」とは、また実にそこに被せた意味合いというものが、観念的に過ぎないもので在る事を感じ取ってしまっています。
それそのように怖れを付与している味付けでの考え方を、私はもうそのように受けとる事が出来ません。そうした言葉に被せたやり取りの中に、どのような存在に対し、どのような対立的感情が浮かび上がるものであるのか、大凡の見当はついていますが、そのような観念的な煩わしさの中に、あなた方はいつまでも自由を束縛されるべきではありません。
結果はもう目に見えています。
あなたの時折、口にする合気の意識とは、そのような観念を越えた所に誠の自己の無限性を見出すと云う事に在ります。
それは次元を越えた立ち居振る舞いとでも申しましょう。
量子論的とも言えるかもしれません。
そうした所に心を留めておく限り、あなた方は常に勝利者であり、何もそのような勝利に酔いしれる為に存在する訳ではないのです。
つまりすべては己に限界を見出さない事にあるのです。
あなた自身を越えるのはあなた以外ないのです。
自身を過小評価されませんよう。
そして何より「性善説」を本気で訴え上げる為の準備は、私に既に出来上がったものとして此処に立っています。
しかしまだ機は熟していないのだとすれば、それはただ自身の由来するものの中にのみそれを赦すものが在るのだと云う事です。
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