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FRBが量的緩和(QE)に踏み切った理由
第4回 危機の余波
2012年8月27日(月) ベン・バーナンキ
バーナンキ議長:皆さんこんにちは。いよいよ4回の講義の最終回となりました。今日は「危機の余波」について話したいと思います。
第3回の講義では、2008年後半から2009年初めにかけての危機が最も深刻だった局面の話をしました。米国及びそのほかの先進国も金融パニックに見舞われ、グローバル金融システム全体の安定性が脅かされる中、米連邦準備理事会(FRB)はほか金融当局と協力し、「最後の貸し手」としての役割を果たし、短期資金の供給を行うことによって主要な大手金融機関と市場の安定を図りました。本日の講義では、このことについて見ていきます。
今、歴史を振り返って引き出すことのできる結論の1つは、FRBが今回の危機で行った対応は特別で前例のないものではなく、まさに中央銀行の歴史的な役割にのっとった措置だったということです。中央銀行の歴史的な役割とはすなわち、パニックを終息させるため、「最後の貸し手」としての機能を提供することです。
今回の危機が従来と違った点は、金融システムの構造の在り方が違ったという点です。つまり、問題は「銀行」と「預金者」ではなく、「証券会社」と証券の貸し借りをする「レポ市場」であり、そしてMMF(マネー・マーケット・ファンド)とCP(コマーシャルペーパー)にあったことです。
こうした違いはありましたが、短期資金を提供してパニックを食い止めるという基本的な発想は、英ジャーナリストだったウォルター・バジョットが1873年に書いた著書「ロンバート街」の中で想定した構想と何ら変わりません。
スワップ協定など今も海外の当局と連携を続けている
私はFRBの行動に焦点を置いて話をしてきました。もちろん、これが今回の講義のテーマですが、もちろんFRBだけで問題に取り組んできたわけではありません。FRBは米国のほかの機関及び外国の金融当局とも密接に協力して、事態の解決に当たってきました。
例えば、米財務省は、米議会でいわゆる「TARP(不良債権救済プログラム)」*と呼ばれる法案が成立したのを受けて危機終息に向け対応に取り組みました。財務省は、銀行が資本不足に陥らないよう監視を行い、米国政府は一時的な措置として多くの銀行に資本を注入しました。今では既にこうした状況はほとんど解消しています。
* 2008年10月3日に米議会で成立した修正金融安定化法案。Troubled Assets Relief Programの略で、金融危機対応のために米国の金融機関に公的資金を投入する枠組みを決めた
連邦預金保険公社(FDIC)も重要な役割を果たしました。とりわけ、無利息当座預金に対する預金保険の上限が25万ドル(約1950万円)から事実上無制限に引き上げられました。FDICはまた、最長3年までの社債発行を希望する銀行に保証を与え、市場からの資金調達を助けました。FDICが保証料を取ってこれらの社債を保証したことで、銀行は長めの資金を調達することが可能となったのです。このようにFRBは、ほかの米当局と協力して危機解決を図ったのです。
我々は海外の金融当局とも密に連携を取りました。前回の講義で通貨スワップ協定について話ましたが、このスワップ協定は今も機能しており、FRBはほかの国の中央銀行にドルを提供し、その交換としてその国の通貨を受け取っています。これら海外の中央銀行は自らの責任とリスクにおいて、受け取ったドルをドル資金の調達を必要としている金融機関に貸し出しています。このようにFRBは、今後も世界中の金融担当大臣や規制当局と連携して危機への対応を続けていきます。
FRBがストレステストの結果を公表した理由
危機の最も深刻な局面において消火活動をするだけでは、十分とは言えません。ですから銀行を含めた金融システムの強化に向けて、今も努力を続けています。そうした努力の中で大きな成功を収め、極めて建設的だったと思えるのが、FRBがほかの銀行関連の当局と協力して、2009年春に全米19の大手銀行に対してストレステスト(健全性テスト)*を実施したことです。
*連結ベースで資産規模が1000億ドル以上の米大手銀行持ち株会社19社に対して行われ、査定対象には簿外取引や信用保証、増資余力なども含まれた
ストレステストは、危機の最も深刻な局面からさほど期間が経過していない中で行われました。このストレステストにおいて、FRBはこれら大手銀行の財務状態を市場に公表するという前例のない取り組みを実行したのです。
このストレステストによって、米国の銀行は経済や金融環境が再び厳しくなっても破綻せずに生き残れることが確認され、投資家の間に強い信頼感が生まれました。その結果、銀行は巨額の資本を民間から調達することができるようになりました。
この調達した資金を原資に多くの銀行が、危機の際に政府から提供された資金を返済しました。ストレステストの実施はその後も継続されています。ほんの数週間前にも、FRBは新たなストレステストを実施しました。銀行に極めて厳しい基準を課しましたが、このストレステストの結果は素晴らしいものでした*。
*FRBは3月13日に米大手銀行持ち株会社19社に対するストレステストの結果を発表した。景気悪化など厳しい仮定の下で銀行の健全性を調べたところ、対象19社のうちJPモルガン・チェースなど全体の8割に当たる15社が必要最低限の資本を維持できると判明した。シティグループ、メットライフ、アライ・ファイナンシャル、サントラストの4社はFRBの基準を満たさなかった
米国の銀行は2009年以降、膨大な資本の調達を行い、その結果、多くの点で米国の銀行は資本の基盤を危機前よりも強化してきたと言えます。
つまり、これらの措置は、銀行を正常な貸し出しスタンスに戻すために取ったわけです。そのプロセスはまだ完了していませんが、金融システムの信頼性と有効性を回復することが、経済をより正常な状態に戻すための一環であることは論を待ちません。
「最後の貸し手」としてのFRBは2万1000件の貸し出しを実行
「最後の貸し手」として行った対策について少し付け加えておきます。既に詳しく話したように、この対策は有効だったと思います。各種金融機関で取りつけ騒ぎが起きるのを防ぎ、金融市場の機能を回復させることができたからです。2008年秋に基本的に導入されたこれらの対策の多くは、2010年3月までに2つの異なる形で段階的に停止されました。
1つには、一部の対策は(期限などが来て)自然消滅しました。それとは別に、FRBから借り入れを続けることが経済的にも財務的にも魅力が乏しくなったことがあります。どういうことか説明しましょう。FRBは金融機関に貸し出しを行った際、つまり流動性を提供した時、パニック時に市場が要求する水準より低いとはいえ通常より高い利息を課しました。ですから、金融システムが落ち着きを取り戻し、金利が通常の水準に戻ると、金融機関にとってはFRBから借り入れを続ける意味が薄れ、このため(金融機関はFRBに返済を行い)非常に自然な形で終了することになったのです。つまり、我々が強制的に貸し出しを停止したのではなく、自然消滅したのです。
この「最後の貸し手」の対策においてFRBが取った財務リスクは、小さなものでした。前も話したように、貸し出しは主に短期の貸し出しであり、ほとんどの場合、担保を取ったからです。FRBは2010年12月、危機の最中で実施した2万1000件の貸し出しすべてについて、その詳細を議会に報告しました。これら2万1000件の貸し出しの中で、デフォルトした案件は1つもありませんでした。すべての貸し出しが返済されたのです。
対策の目的は金融システムを安定させることで、金融機関を利したわけではありません。納税者の利益が最も優先されたのです。
以上が「最後の貸し手」としての活動についての説明です。このように「最後の貸し手」としての活動は金融危機という火災を消し止めるための手段だったわけですが、もちろん前回の講義でも話したように、危機の拡大は防げたとしても、米国や世界経済に厳しい影響を及ぼしました。
そこで、景気回復を後押しするための新たな措置が必要でした。中央銀行の2つの基本的な役割が、「最後の貸し手」と「金融政策の担い手」としての役割だったことを思い出してください。
以下、FRBの2つ目の手段、すなわち経済を金融危機のトラウマから救い出す最大の手段となった「金融政策」について見ていきます。
FOMCの仕組み:FF金利はこうして決まる
皆さんは伝統的な「金融政策」についてよく知っていると思います。伝統的な金融政策には、政策金利である「FF(フェデラルファンド)レート」と呼ばれる短期翌日物金利の誘導があります。短期金利の誘導目標を引き上げたり引き下げたりすることによって、FRBは幅広い金利に影響を及ぼすことができます。このことが個人消費や住宅購入、企業の設備投資などに影響を与え、鉱工業生産に対する需要を生み出して、成長基調への復帰を促します。
ここで制度面について少し説明しておきます。金融政策の意思決定は、米連邦公開市場委員会(FOMC)と呼ばれる委員会で実施されます。FOMCは年8回招集され、ワシントンで会議が開かれます。金融危機当時は、ビデオ会議もしばしば開きました。FOMCの会議には19人の委員が出席します。大統領により指名され、上院で承認されたFRBの理事7人(Board of Governors)と、地区連銀総裁12人(presidents of the 12 Reserve Banks)です。
地区連銀総裁は、当該地区の連銀理事会(Board of Directors)により選出・指名され、FRB理事会により承認されます。このように、FOMCは19人の委員により運営されていて、これら19人の委員は全員、金融政策を巡る議論に参加します。
評決に関するシステムはもう少し複雑です。どの会議でも、実際に投票できるのは12人の委員だけです。まず、すべての会議において、7人のFRB理事が投票権を有しています。現在は2人欠員で5人になっていますが、なるべく早く欠員を埋めたいと考えています*。この7人のFRB理事はすべての会議において常に投票する権利を有しています。ニューヨーク連銀総裁も常に投票する権利を有しています。
*5月25日に、ワシントンにある超党派の政策研究所であるBipartisan Policy Centerの客員研究員だったジェローム・パウエル(Jerome H. Powell)氏が、同月30日にハーバード大学経済学部教授だったジェレミー・スタイン(Jeremy C. Stien)氏が空席だった理事に就任した
そもそもニューヨーク連銀がFRBの起源であることや、ニューヨークが今も米国の金融の中心地であることを考えれば、これは当然と言えます。残る11人の地区連銀総裁のうち4人が持ち回りで投票に参加し、毎年年末に交替します。このように、各会議や金融政策の決定に際しては合計12人が投票に参加しますが、議論には委員全員が参加します。
サブプライム問題で2008年12月以降は事実上ゼロ金利に
FRBは金融政策のツールとして通常、さっきも話したFF金利と呼ばれる短期金利を使います。グリーンスパン前FRB議長の任期の終盤、つまり私の任期が始まる2006年は、FF金利を引き上げる過程にありました。この利上げは、2001年の景気後退から景気を浮揚させることを目的に、2000年代初め以降取られてきた緩和政策から、金融政策を正常化させる試みの一環でした(下のグラフ参照)。
FRBはバーナンキ前議長の下、2001年景気後退に対応すべく低金利政策を取っていたが、2004年以降、緩和策を正常化させるべく金利を引き上げていた。だが、2007年9月にサブプライムローン問題の浮上に伴い、利下げを実施、2008年12月16日には政策金利であるFFレートの誘導目標を「0〜0.25%」に引き下げた
しかし、2007年にサブプライムローン市場を中心に問題が浮上したことを受け、FRBは利下げを開始しました。スライドの右側をみると、金利が急低下したことが一目瞭然です。2008年12月までに、FF金利の誘導目標は「0〜25ベーシスポイント」のレンジに引き下げられました。ちなみにベーシスポイント(bp)とは1%の100分の1を表します。したがって25bpとは0.25%に相当します。つまり2008年12月までに、FF金利は実質的にゼロにまで引き下げられたのです。これ以上引き下げ余地がないことは明らかです。
こうして2008年12月の時点で伝統的な金融政策は使い尽くしていました。FF金利をそれ以上引き下げることはできなかったのです。それでも、経済がさらなる下支えを必要としていることは明らかでした。2009年に入っても経済は急ピッチで縮小を続けていました。景気回復を下支えすべく利下げ以外の何らかの手段が必要だったわけです。そこで着目したのが「非伝統的な金融政策」です。
この時に使った主たる手段が、FRB内部で呼ぶところの「大規模資産購入(LSAP:large-scale asset purchases)」です。メディアなどでは「量的緩和(quantitative easing)」、すなわち「QE」として知られています。説明は省きますが、私はLSAPのほうが相応しい呼称だと考えているのですが、一般的な呼称には従わざるを得ません。いずれにせよ、一連の大規模資産購入は景気下支えを目的とする代替金融緩和策であり、これについてこれから詳しく説明します。
バーナンキ議長による第4回の講義の録画は下記にてご覧頂けます。
第4回(3月29日)金融危機の余波(The Aftermath of the Crisis)
なお、動画画面左下にある「Transcript(PDF)」をクリックすると、講義の英文起こしを見ることができます。
ベン・バーナンキ(Benjamin Shalom Bernanke)
薬剤師の父と学校教員の母の長男として、1953年12月13日に米ジョージア州オーガスタで誕生、サウスカロライナ州ディロンで育つ。高校時代、大学進学適性試験SATで1600満点注1590点というその年の州で一番の成績を収め、1972年ハーバード大学に進学、経済学を学ぶ。1979年、年米マサチューセッツ工科大学(MIT)で経済学博士号を取得し、同年以降、米スタンフォード経営大学院で教える一方、ニューヨーク大学で客員教授も務める。1985年プリンストン大学経済学部教授に就任、この時、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究。デフレ史の研究でも知られ、友人でノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマン氏とともにインフレターゲットの研究者としても名声を高める。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に就任、2005年6月に同ブッシュ政権下で、米大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長に就任したのに伴いFRB理事は退任、2006年1月までCEA委員長を務め、同2月1日にFRB議長に就任。2010年1月再任される。
さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!
この連載は、米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が今年3月下旬に、米ジョージワシントン大学ビジネススクール(同大学は学部としてビジネススクールを持つ)の大学生を対象に「米連邦準備理事会(FRB)と金融危機」と題して、4回にわたって行った講義の全文である。中央銀行が誕生した歴史的背景から、その使命、1930年代に恐慌が起きた際のFRBの対応、その後金融政策が発展した経緯、なぜ米住宅バブルが発生し、なぜその崩壊によって2008年秋の金融危機が発生したのか、何が問題だったのか、そして危機に対してバーナンキ議長を筆頭にFRBがいかに対応したのか――その全容を大学生を対象に分かりやすく説明している点がポイントで、金融危機の深層を明らかにしてくれる。。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120816/235647/
http://asyura2.com/12/hasan77/msg/423.html
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