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中国
政治の「不安定期」に突入した中国 方向を見失った「改革開放」政策
2012.07.30(月)
柯 隆:
1970年代の末、3度目の復権を果たしたケ小平は「改革開放」政策を推し進め、計画経済による経済運営に終止符を打ち、市場経済への制度移行を始めた。経済の自由化を推し進めた結果、中国経済は活性化し、著しい発展を成し遂げた。
しかし、ケ小平は1997年死去するまで、社会主義の看板を下ろさず、共産党の一党独裁を堅持せよと後継者らに指示した。ハーバード大学のエズラ・ボーゲル名誉教授は「ケ小平は正真正銘の共産主義者である」と指摘している。
とはいえ、リアリストのケ小平が、共産党の一党独裁と市場経済への制度移行が折り合わず対立することを知らないはずはない。共産党による統治は短期的にはやむを得ないとしても、民主主義の政治改革を行わなければならないのは自明の理だ。
そもそもマルクスによって提唱された社会主義・共産主義は旧ソビエトや中国などで実験されてきたが、制度設計ができていない。ソビエトでは、レーニンは革命にこそ成功したが、共産党政権樹立後に権力を握ったスターリンは社会主義の信奉者というよりも独裁者となり、ファシストだった。
一方、中国では、農民出身の毛沢東が直面したのは、社会主義の制度設計よりも、2000年以上も続いた封建社会の中国をいかに近代化させるかという難題だった。結局、毛沢東自身も封建社会からの脱皮ができず、中国社会の最後の皇帝となったのである。
ケ小平の「改革開放」政策は社会主義の非現実性を認識しながら、市場経済の要素を取り入れ、経済発展を目指したのである。三十余年にわたる「改革開放」政策は政治改革をタブーとし、経済改革のみ行った。
制度設計はいまだに不完全、社会では格差が深刻化
ソビエト連邦が崩壊したことから、社会主義体制がこのままでは存続できないことは明白である。中国は社会主義体制の看板こそ下ろしていないが、その中身はとっくに変質してしまった。
中国共産党は「改革開放」政策の神髄について、社会主義市場経済の構築を唱えている。だが、社会主義市場経済の定義を明らかにすることができない。少なくとも、今の中国の社会体制は、マルクスが提唱した社会主義体制ではない。
「改革開放」政策以降の制度変更は市場経済のエレメントを部分的に取り入れることだが、国家全体の制度設計はいまだに行われていない。
ケ小平は自らが進めた改革について「渡り石を探りながら川を渡る」ようなものと喩えている。また、国民の働く意欲を喚起するために、一部の人が先に豊かになるのを容認するいわゆる「先富論」が打ち出された。
渡り石を探りながら川を渡るような改革はケ小平のリアリズムの考え方を如実に表しているが、大胆にチャレンジして川を渡る者が犠牲になるのは必至である。
先に豊かになるのを容認する「先富論」にも問題がある。法整備がなされていない中国では、許認可を握る政治家と官僚は、自らがビジネスを行う代わりに、その親戚や友人らが優先的に許認可を得てビジネスを展開することができる。地方政府の幹部は民営企業の社外取締役を兼務するケースが少なくない。
こうした経済の自由化の結果、中国社会では、富が急速に一握りの富裕層に集中するようになった。
おまけに不公平な所得分配制度が富の一極集中をいっそう助長している。富裕層は資産をたくさん保有しているが、固定資産課税と資産相続課税はいまだに行われていない。所得課税も極めて不公平である。賃金について傾斜の激しい累進課税になっているが、賃金以外のその他の所得、例えば、資産所得や移転所得について定率税制になっている。
もはやどの方向にも進めない「改革開放」路線
近年、中国の政治学者は「新自由主義(新右派)」と「新左派」に二分されている。
「新自由主義」者は市場経済メカニズムを信奉し、民主主義政治体制の構築を主張する。それに対して、「新左派」は現在、欧米諸国で起きている信用危機を理由に、資本主義の問題点を指摘する。同時に、現在の中国社会で種々の矛盾や対立が起きているのはマルクス・レーニンが提唱した社会主義体制から逸脱したからと主張する。すなわち、中国は資本主義の民主主義体制を導入すべきではなく、現在の社会体制の問題を是正し、マルクス・レーニンによって提唱された社会主義体制に回帰すべきだという主張である。
だが、マルクス・レーニンによって提唱された社会主義のユートピアに逆戻りすることには、中国では必ずしもコンセンサスが得られない。
実は、中国の研究者および海外の中国ウォッチャーのいずれも、これに関する明確な答えを出せていない。新自由主義も新左派も中国社会の現状について不満を募らせている。
しかし、いきなり資本主義の民主主義に飛躍することは、明らかに非現実的である。同時に、社会主義に逆戻りすることもほとんどありえない。第3の道は現在の制度をこのまま維持することだが、矛盾と対立が激しくなる一方であり、現在の制度はサステナブルなものではない。
結局、中国社会の将来像が見えてこないのである。
胡錦濤国家主席と温家宝首相のいずれも、中国の政治システムと社会構造の問題点については認めている。ここで重要なのは政治制度の改革を断行することだが、それは必然的に共産党一党独裁の制度の終焉を意味するものである。しかし、共産党が一党独裁の地位を放棄することは考えにくい。
アメリカの中国ウォッチャーの中で、中国は将来的にアメリカのような連邦国家になると指摘するものがいる。しかし、共産党への求心力が低下しており、「法の統治」が確立していない中国社会が連邦制へ移行することは考えられない。換言すれば、中国が連邦制へ移行するならば、まず、きちんとした法の統治を確立しなければならない。
「改革開放」政策は三十余年経過した今、方向性が見失われている。
政治の「不安定期」に突入した中国
果たして、中国の将来像はどのようなものになるのだろうか。
ここで中国社会の将来像を大胆に展望すれば、平等かつ公正な社会はおそらく実現しないと思われる。
振り返れば、孫文が起こした辛亥革命(1912年)は清王朝を倒したが、低所得者層、貧困層が約70%を占める歪んだ社会構造を変えることはできなかった。多面的に中国社会を考察すれば、いまだに封建社会の側面が強い。
マルクスの考えでは、資本主義が高度化すれば必ず行き詰まる。その先にあるのは社会主義と共産主義社会である。その意味では、封建社会からの脱皮を終えていない中国で完全な社会主義が実現することはありえない。
封建社会の要素がいまだに色濃い中国社会だからこそ、特定の勢力に権力は集中しやすい。しかし、いまの中国社において、リーダーシップを欠き正当性を説明できない政治勢力が政権の座に就いても持続することは不可能である。
いずれにしろ、中国の政治は不安定期に突入しているということだ。
中国は、今後30年から50年かけて国民の教育レベルをボトムアップしなければならない。それまでの中国社会は、独裁政権の誕生とそれへの抵抗が繰り返されるだろう。
今後5年ないし10年の中国社会を展望すれば、マルコス政権下のフィリピンとスハルト政権下のインドネシアのようになる可能性が出てくる。権力の中枢に近い一握りの有力者が限りなく大金持ちになり、大多数の国民が置き去りにされてしまう状態だ。
喩えて言えば、このままいくと中国社会は、カバの胴体とキリンの首、頭からなるバランスの欠けた怪物のようなものになると思われる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35755
Financial Times
成長鈍る中国、地方政府が景気刺激策に着手
2012.07.30(月)(2012年7月27日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
中国中部に位置するほこりだらけの工業都市、長沙が、1300億ドルの投資計画を発表した。中国経済の成長が鈍化する中で、この計画は、他の地方政府が景気刺激策を打ち出す先鞭となる可能性がある。
中央政府は、債務の急増とインフレを招いた2009〜10年の巨額の景気刺激策は繰り返さないと明言している。だが同時に、景気を支えるために投資を増やすよう求め始めており、成長に飢えた地方政府は野心的な支出目標を公表するようになっている。
中央政府のゴーサイン受け、湖南省・長沙が1300億ドルの包括計画
湖南省の省都である長沙は、包括的な計画を打ち出した最初の都市だ。今回の動きにより、中国の現在の最優先課題が、第2四半期の成長率が7.6%と3年ぶりの低水準となった経済のてこ入れであることがはっきりしたとアナリストたちは言う。
「温家宝首相は最近、投資促進と雇用拡大にゴーサインを出しており、長沙の投資計画は中国の地方政府の財政刺激策の新たな波の始まりだ」とみずほ証券のエコノミスト、沈建光氏は言う。
だが、長沙が投資計画の資金を賄えるのかという疑問や、支出ブームの再来が無駄な投資につながり、中国の長期的な経済見通しに害を与えるのではないかという懸念がある。
「政府がどれくらい景気を刺激すべきかについて意見の相違があるし、金融と財政の両面で制約がある。さもなければ、今頃はもっと多くこうした投資計画が出ていたはずだ」とバークレイズのエコノミスト、チアン・チャン氏は話す。
2008年に世界金融危機が勃発した時、中国は債務に依存した景気刺激策を実施し、これが中国の力強い回復の原動力となったが、中国の銀行に不良債権を背負わせ、不動産バブルを増幅させた。
財源などが不透明で、計画の実行に疑問符
その結果、中央政府は今年、景気減速に直面しても、以前よりはるかに慎重な姿勢を取っている。だが、土地売買が冷え込んだことで歳入が急減した地方政府は、しきりに投資を増やしたがっており、そうした計画を推進するための政治的支援も得ているように見える。
人口700万人の長沙は、空港の拡張から道路建設、ごみ処理場、都市の景観改善に至るまで195のプロジェクトに8290億元(1300億ドル)を支出することを目指している。
「長沙の経済状況は非常に好調に推移しているが、我々は様々な圧力を無視することはできないし、安定的かつ健全な成長を促進しなければならない」。中国新聞社は、共産党の長沙市委員会書紀、陳潤児氏がこう述べたと伝えている。
投資計画が公表されたのは、中国の内閣である国務院が、中央部の省の発展を促す計画を承認したと述べた後のことだ。国務院の決定は地方政府に、機器の製造やハイテク産業のほか、空港などのインフラへの投資に焦点を当てるよう要請している。
公表された計画には肝心の数字が欠けていたため、刺激策の潜在的な効果を評価するのは難しい。例えば、どれくらいの期間にわたって資金が使われるのかについて言及はなかったし、どれくらいの数のプロジェクトが新規プロジェクトなのかも触れていなかった。
投資計画を大きく見せるのはいつものこと?
見出しを飾る目標金額が長沙の昨年の経済規模の147%に相当することから、長沙がどのように支出を賄うのかも不明確だった。また、今回の投資計画は、2008年に中国が打ち出した4兆元の景気刺激策の5分の1を超える規模だ。当時の資金が国全体で使われたのに対して、長沙は単一の自治体であるという事実にもかかわらず、だ。
前出の沈氏は、地方政府は投資計画を実際より大きく見せることがよくあり、最終的な支出金額は当初の目標の3分の1にとどまるかもしれないと言う。
長沙は、政府や地方銀行とともに、「世界的な金融機関」にも投資に参加するよう呼び掛けると話している。
「財源の確保は問題だ」。野村証券のエコノミスト、張智威氏はこう言う。「現実問題として、どの程度までこの計画を実施できるかは、銀行融資を受けられるかどうかに大きくかかっている」
手綱緩める規制当局
銀行は、前回の景気刺激策の間に積み上がった債務を懸念し、過去2年間は事実上、地方政府への融資を絶ってきた。それでも規制当局はここ数週間、手綱を緩め始めており、銀行に対して、優れた投資収益をもたらす可能性の高いプロジェクトには融資しても構わないと話している。
地方政府は政策の緩和に応じて、多額の投資計画を打ち出している。北部の陝西省の省都、西安は先日、同市が建設を計画している地下鉄6路線に加え、新たに9路線を建設すると述べた。一方、南部の貴州省は、省内の観光産業の発展に約3兆元使う方針を表明している。
By Simon Rabinovitch in Beijing
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35770
途上国で働くということ
カンボジアへの工場進出を支えるある男の場合
2012年7月30日(月) 熊野 信一郎
カンボジアの首都プノンペン中心部から、西へ約20km。毎日のように日本企業の関係者の訪問を受ける人物がいる。名前は上松裕士。工業団地、「プノンペン経済特区(PPSEZ)」のマネジング・ディレクター(社長)の肩書きを持つ。事業運営面での最高責任者である。
2008年にオープンしたPPSEZには現在40社近い企業が入居している。縫製や靴、食品から自動車部品、精密機器まで業種は幅広い。PPSEZはもともとは日本企業の誘致を主な目的として開発されたこともあり、ここに工場を構える企業の半数以上が日本企業だ。
加えて最近では、台湾やマレーシア、シンガポール、ベトナム、フィリピンなど多彩な国の企業が次々に進出を決めている。中国などからの生産能力の移転の波は、人口約1500万人のカンボジアにも押し寄せている。PPSEZはこの6月に住友商事と販売面で提携したこともあり、進出する企業はさらに増えそうだ。
多数の日本企業をカンボジアにもたらしたプノンペン経済特区の上松裕士マネジング・ディレクター
上松社長がプノンペンにやってきたのは2007年。その時、PPSEZの敷地は荒野だった。それから5年。今は工場のみならず、従業員宿舎、日本食レストラン、銀行の支店があり、工場ワーカー向けの屋台も出没する。ちょっとした街である。「成功を信じてはいたものの、ここまでのペースとは正直、想像していなかった」と上松社長は話す。
PPSEZの“生い立ち”は一風変わっている。アジア各国にある日系の工業団地は大半が総合商社によって開発されたもの。PPSEZは商社の資本は入っていない。もともとは、中堅マンションデベロッパーのゼファーの海外事業として始まったプロジェクトだった。
カンボジアに渡る前、岐阜県の木工会社で働いていた上松社長は偶然、このPPSEZが運営責任者を募集している人材広告を目にし、応募した。経験はあった。大学卒業後にフィリピンに渡って現地の大学を卒業し、日系の大手ゼネコンの社員として工業団地の管理や顧客対応などに携わった経験もある。
2007年2月。東京での面接を終え採用が決まってから10日後には、上松社長はプノンペンの地に降り立っていた。初めて訪れる国での生活と事業に不安はあった。それでも国民の若さ、不幸な過去から立ち直り、成長へ向かう活力に満ちたカンボジアの将来性への期待が上回っていた。
しかしその出足から、予期せぬ事態が待っていた。2008年7月、ゼファーが民事再生法の適用を申請したのだ。PPSEZはインフラ工事も終わり、第一号の入居企業が生産を始めようとしていた折の寝耳の水のニュースだった。
一時は事業継続も危ぶまれたが、上松社長は諦めなかった。カンボジア側の事業パートナーがゼファーの出資分の株式を買い取ることで、「ここに日本企業を呼ぶ」という当初の目的を貫く。本社との連絡や調整作業などから解放されることで「物事が迅速に決められるようになり、結果的に事業がスムーズにいくようになった」と上松社長は話す。
商社系工業団地のようにコネもなければ、実績も信用もない。最初から大手企業を誘致するのは難しい。中堅企業から始めて一歩ずつ実績を作り、徐々に大手企業にアプローチする。そんなストーリーを描いた。
その目論見通り、最初は革靴や縫製などの企業を集めた。そして2010年に味の素の進出が決定すると、次々に入居申請が舞い込むようになる。2011年に生産を始めたミネベアの小型モーター工場、今年4月にオープンした住友電装のワイヤーハーネス工場など、名だたる企業が次々に敷地を埋めていった。
ミネベアの工場開所式にはフン・セン首相も出席するなど、今ではこのPPSEZはカンボジアの工業化のシンボルだ。上松社長の信念は、少なからずカンボジアという国の産業や企業、そしてそこで働くワーカーなどの生活に影響を与えている。
アジアのどんな国に行っても、さまざまな分野で数多くの日本人が活躍しているのを見つけることができる。もちろんその目的は十人十色だ。ただ発展途上国で働くモチベーションとして共通するのは、事業を通じて「その国の人々の幸福度を高める」ことがストレートに実感できることだろう。惹かれるのは、ただ単にGDP(国内総生産)や市場の成長率だけではないことだけは確かだ。
熊野 信一郎(くまの・しんいちろう)
日経ビジネス香港支局特派員。日経BP社入社後、日経ビジネス編集部に所属。製造業や流通業を担当後、2007年に香港支局に異動。現在は主に中国や東南アジアの経済や企業の動き、並びに各地の料理やアルコール類の評価、さらに広島東洋カープの戦力・試合分析などを担当する。
記者の眼
日経ビジネスに在籍する30人以上の記者が、日々の取材で得た情報を基に、独自の視点で執筆するコラムです。原則平日毎日の公開になります。
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